むかし、近江商人の生き方に「三方よし」というのがあった。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」は、近江商人の経営理念として知られているが、究極的には「正直」以上の行き方はないと解釈できる。
最近の行政官庁や企業のデータ改竄、隠ぺいが目につくが、それは組織内での自らの立場を優位にする「一方」にしか向いておらず、それ以外の向きは蔑ろにされている。
その極北が「公文書改竄」で、国会での首相発言と辻褄を合わせるためだとは、寒すぎる。
たぶん一個人としては誠実/真面目な人々に違いないのに、企業人や官僚として「よく働く者ほど、よく裏切る」。
誰を裏切るのかといえば、主権者や消費者をであるが、それは「組織の力学」が働くせいなのだろうか。
ところで「三方よし」の「よし」は英語で「OK」だが、OKは「OLL KOLLECT」からきたのだという。
しかし、こんな分けわからぬ英語なんて存在しない。
正しくは、「ALL Correct」なのだそうだ。
「正しい」という言葉のスペルの「誤り」がまかり通っているのが笑えるが、その誤りの張本人が、アメリカ独立宣言の起草者の一人ジェファーソンというのだから、なお面白い。
ジェファーソンは弁舌に優れてはいたが、ちゃんと文字が書けなかった。そんな人が、この頃のアメリカ移民の中に普通にいて、「OK」がまかり通ったのは、声の大きい方がものを決めるということかもしれない。
この世の中、間違いがそのまま通用するのは、いくらでもある話で、時に間違いや失敗が、予期せぬ成功を生むことだってあるし、人々の「感動」をよぶことさえもある。
近年のニュースで面白かったのは、期間限定で登場した「注文を間違えるレストラン」。
宮沢賢治の「注文の多い料理店」では、ある男が入った料理店だったが、実際は食べられるのは男の方でそのために様々な注文が出されるという逆転の発想が面白かった。
それにもまして、「注文を間違えるレストラン」とは意表をついた店名である。
しかもその場所は、どこよりもブランドを大切にする街・六本木なので、間違えられずはすがない。
実はこの店は、認知症を抱える人がウエイターとして働いていて、席への誘導や注文取りはもちろん、料理の配膳やお皿の片付けも行う。
そこには、そもそも「間違う」ことを受け入れ、楽しむために来店しているというコンセプトで運営されているのだ。
しかしそれだけの店なら、認知症の人を笑いものにしたように思えるが、認知症を抱える人が安心して働けるためにも「間違ってはいけない」ポイントはきちんとサポートする仕組み作っている。
もう一つは、認知症の方がわざと間違える仕掛けにはしないということ。
客の中には、「注文を間違える」ことを期待している人もいるかもしれない。
しかし、認知症の方にとって間違えるのはとてもつらいこと。そこで、間違えないよう最善の対策をしつつ、それでも間違えたら許してください、というスタンスである。
ある日、ハンバーグを注文すると、出てきたのは餃子。通常間違いを指摘したくなるが、それを言うと、この食事が台無しになってしまう気がする。
ハンバーグが餃子になったって別に誰も困らない。
そこで体験することは、日頃我々がこうじゃないといけないという考えにとらわれされ過ぎていること。
それが、介護の現場を窮屈にしていること。
それと対照的に、このレストランでは笑いが絶えず、認知症の親がこんなに元気出るなんて困ってしまうという家族までいるという。
ガッツ石松氏が使う「OK牧場」というのは、アメリカ映画「OK牧場の決斗」(1957年)から来たものだが、意外やこの「OK牧場」は、心理学では有名なキーワードで、「交流分析」という精神療法のなかで使われている。
それは、心の「OK牧場」には4つのゾーンがあるというもの。
(A) 私もあなたもOK。(B) 私はOKじゃない。あなたはOK。(C) 私はOK。あなたはOKじゃない。(D) 私もあなたもOKじゃない。
いつも、(A)「私もあなたもOK」という気持ちでいられればいいが、そんな理想的な人なんてなかなかいない。
環境や状況によって、(B)のように自分を卑下して他人をうらやんだり、(C)のように高慢になって他人を見下したり、(D)のように「何もかもダメ」と虚無的になることもある。
ちょうど、牧場の中の牛の群れが一定ではないように、我々の気持ちもこの「OK牧場」の中をさまよい続け、そのたびに一喜一憂したり、自信を持ったり絶望したりしている。
とはいえ、人にはそれぞれ考え方の傾向があり、気がつけばいつも、(B)や(C)や(D)の考え方から抜けられない人も多い。
そうした基本的な人生観は、実は幼少期に、主に母親との関係の中で決定づけられると考えられている。
「三つ子の魂、百までも」ということわざどうりである。
幼少期に「私も私自身でOKだし、あなたもあなた自身でOKなんだ」という思いを持てた子は、大人になっても無意識のうちに、自分と他人への基本的信頼の感覚を持ち続けられる、というわけである。
ガッツ石松は、映画『太陽の帝国』(1987年)で、アジア人初の全米映画俳優協会・最優秀外国人俳優賞を受賞する。
ガッツは、その授賞式で母親の思い出をたどたどしい英語でスピーチしたことが話題となった。
そのスピーチによると、幼少時代のガッツは、ゴミを漁って小金を稼ぐアジアの貧困層の子どもたちと、まったく同じ生活レベルだったそう。
ただ一つ違うのは、母がいつも「お前を信じている」と全面的に信頼してくれたこと。そんなふうに誰かに信じてもらえれば、子どもも自分を信じて努力していけるという。
心の「OK牧場」で、気がつけば(B)や(C)や(D)に動いてしまうのは、ひょっとしたら幼少期に「私もあなたもOK」と思えなかった要因があったのかもしれない。
とはいえ、そんな過去の自分もマルごと受け入れ、そして「私もあなたもOK」と思える人は、心の「OK牧場」の優等生といえるかもしれない。
そんな優等生をもう一人見出した。
プロとしては致命的といってよい、「失敗」を露わにして芸風をきずいたのが、マギー司郎である。
飄々としてとぼけた味のマギー司郎は、茨城訛りのトークで「縦ジマのハンカチを横にして横ジマのハンカチにする」などの「インチキマジック」を行いつつ笑いを取り、終盤には必ず正統派のマジックを見せる。
そのマギー司郎が出演したNHK「課外授業ようこそ先輩」は大反響をよんだ。
自分の弱点は武器になる。弱点をさらけ出せば人は強くなれる。人間って、ダメになろうとしている人は、1人もいない。
すぐに幸せになれなくても、ゆっくり幸せになればいいんだよ。あんまり無理しないで、ダラダラやってんのも芸のうちかなと思ってね。
普通に生きているだけで、100点だよ~っていってんの、といった名言(迷言)が次々と飛び出す。
司郎の家庭は父は数々の事業に失敗しとびきりの貧乏だった。9人兄弟の7番目、体が小さくて、なぜかいつもころんでしまう。右目が斜視で、ほとんど視力がなかったことによる。
学校で黒板の字が見えないから勉強がえきるはずもなく、友人からもいじめられた。それは母親は動物が子供を守るように、本能のままに司郎を守ってくれたという。
小学校4年の時に母親がメガネを買ってくれた。メガネは家庭にとって高価なもので二升のコメをかついでいって手に入れたものだった。
ある時眼鏡をこわして米粒で張り合わせてなんとか直したが、母に怒られるよりも申し訳なくてうつむいてご飯を食べた。
母親はそれに気づいても何もいわなかった。
母親は自分を不憫に思ったようだが、司郎は自分を不憫だと思ったことは一度もなかった。
小さい体でも歩いたり走ったり出来たし、皆と同じように階段ののぼり降りができたからである。
友人から「この前すれちがった」といわれても、片方が視力がないので気づかないことが多かった。無視していると思われたくなから、いつもニコニコしていようと思ったという。
自分の食うくらいは自分でしようと思いつつ、16歳の時に布団背負って東京にでた。
中学を出てバーテンなどをして働いた。食べるものがない辛さは小さい頃から馴れていた。
19歳の時ににマジックに出会い、不器用な自分に出来るはずはないと思いつつ何とか練習し、劇場の余興を仕事を得ることができた。
客は余興を見に来ているわけでないので、モタモタしていると早く消えろといわんばかりの罵声ばかりあびせられた。
そのうち、はからずもホンネがでた。「ゴメンネ~。実は僕、マジック下手なんですよ~」。
このひと言が大うけ。ようやくコレダと思った。
自分から下手だというマジシャンはいない。
これが32歳の時、マジックをはじめて10年以上がたっていたが、この時「マギー司郎」が誕生したといえる。
茨城訛りの田舎臭い話し方と正直な言葉がむすびついてそれが観客の心をつかんだ。
マギー司郎氏は、1日4回のマジックを15年間続けたというから、それだけでも大したものだ。
その間に、アパートも3畳一間から板間つきの4畳半に変わった。
うまくないマジックが売りの司郎はそれほど練習はせず、いつもこれで十分だと思った。
それよりも踊り子さんたちから色んなものを学んだという。皆、何らかの事情を抱えて必死で生きていたからだ。
踊り子さんの出産に二度ほど立ち会ったし、馬小屋のような状況ではあってもけして悲しいものではなく、本当に人間的な美しさに感動したという。
NHKの番組では、さらに司郎の名言が続いた。せっかく神様がこの世にうみだしてくれたんだから、幸せにならないと申し訳ないよ。
今、僕は幸せ。六十を過ぎた今も、仕事の依頼があって、舞台ではお客さん笑ってくれて、そして九人の
弟子がいて。何も無いところから始まって、ここまでいかしてくれたことに本当に感謝しているの。
子供の頃、僕はまったく勉強できなかったのね。家が貧しくて栄養が足りなかったせいか、片方の目がほとんどみえなかった。
早々と低学年で落ちこぼれドッジボールもすぐにあてられて早々と退場していったりして、臆病でいつも端っこにいたという。
劇場での前座もウケなかったが投げ出さずに続けてこられたのは、子供の頃、母親から生きていく本能を教えてくれたからだという。
「アタマがよくなかった僕は、本能を信じる他はなかった。できないことばっかりで、人と比較したら負けてばかりだった。人と比べたりあせったりして欲張るとろくなことはないとわかるようになった。
ムダに頑張りすぎると誰かに迷惑をかけるので、自分の呼吸や自分のリズムを大切にした」と語った。
日本のプロジェクト「はやぶさ」の挑戦は、世界に先駆けたものであった。
何しろ、この広い宇宙のなかで芥子粒ほどの小惑星イトカワから物質を集めて、「地球創生」または「宇宙創生」の秘密をさぐろうというのだ。
仮に、地球外物質を採取できたとしても、地球に戻ってこれるかは、「発射台から地球の裏側のブラジルのサンパウロのてんとう虫に当てる」ぐらいの難しさなのだそうだ。
ところで、この「はやぶさ」の成功をより感動的にしたことは、幾度か「ダメか」という窮地においこまれつつも、「自動復元」したからである。
特に、「はやぶさ」からの電波が数ヵ月も届かずに、その行方は「絶望視」されたこともあった。
約30名ほどからなるスタッフは、「はやぶさ」から電波が届く限りにおいて、そのデータを解析したり、修正したりして、日々充実した仕事にあふれていた。
しかし、電波が届かなくなった途端に、何もすることもなくなり、管制室にブラリとやってくる程度だった。
そんな時、リーダーである川口氏の役割は、皆の気持ちを「繋ぐ」ということだった。
メンバーが立寄ったときに、管制室に熱いお茶が置いてあるとか、ゴミがチャント捨ててあるということが、このプロジェクトが依然「死んでいない」(アクティブ)というメッセージだった。
川口氏は、「はやぶさ」からのデータが途絶したあとでもスタッフに、「もしもこういう場合にはどうする?」という形の宿題を出し続けたという。
それは宿題の内容そのものよりも、スタッフの「気持ち」を繋ぐコトが主な目的であったという。
しかし、川口氏「繋ぎ」とめるべき重大なものが、もうひとつあった。国の「予算」である。
データ途絶により、文科省のなかでも「予算打ち切り」の話がもちあがっていた。
しかし川口氏は次年度の予算を確保するために、つまりプロジェクトの「継続」をはかるために、通信が復活する可能性をバックアップ用のバッテリーの残存量などからはじき出して提出し、どうにか予算を確保できた。
アメリカのスペースシャトル・チャレンジャーで、低温でおきる装置の不具合が予測されたが、そのリスクが客観的な数値としてハジキ出せなかったために、そのリスクを見過ごされたのを思い起こす。
しかし、川口氏のリーダーシップの中で最も注目すべきことは、「不都合な真実」を公開したことであった。
実は、イトカワの表面はとてもゴツゴツしていて、探査機が着地できる状況ではなかった。
そこでその担当でもないスタッフのアイデアで、シャトルから弾丸をはなち、そこからマキ上がる物質を採取するという方法がとられた。
そして「弾丸」が発射されたという「信号」が地球におくられ、管制室の「はやぶさ」スタッフはこの成功に、湧きに沸いた。
また「世界初の快挙」というニュースが世界にも伝えられた。
ところがわずかその一週間後に、プログラムミスがみつかり、「弾丸が発せられていなかった」可能性があること
が判明した。
川口氏自身が「知らないほうがよかった」ともらした情報で、内部で隠しておけば当面は隠せるものであった。
しばらくは、口もきけないほど消沈していた川口氏であったが、その事実をあえて世界に公表した。
しかし川口氏は後に、この「不都合な真実」を公表したことが逆に「はやぶさ」プロジェクトの信用性を高めた面もあったと証言している。
ところが、迷子になって数か月後に、突然「はやぶさ」の電波が管制室の画面に確認された。
そして、イトカワの物資を採取した「はやぶさ」は見事にオーストラリアに着地し、地球帰還に成功したのである。
プロジェクトの成功はは、誰も口に出しはしなかったものの、アキラメムード漂う中で、少しの可能性を捨てず、スタッフの気持ちと文科省の気持ちを繋ぎとめていたことにある。
「はやぶさ」の成功が今日に突きつけるのは、技術的問題というより、リーダーや組織の在り方といってよい。