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間違いも「OK牧場!」

むかし、近江商人の生き方に「三方よし」というのがあった。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」は、近江商人の経営理念として知られているが、究極的には「正直」以上の行き方はないと解釈できる。
最近の行政官庁や企業のデータ改竄、隠ぺいが目につくが、それは組織内での自らの立場を優位にする「一方」にしか向いておらず、それ以外の向きは蔑ろにされている。
その極北が「公文書改竄」で、国会での首相発言と辻褄を合わせるためだとは、寒すぎる。
たぶん一個人としては誠実/真面目な人々に違いないのに、企業人や官僚として「よく働く者ほど、よく裏切る」。
誰を裏切るのかといえば、主権者や消費者をであるが、それは「組織の力学」が働くせいなのだろうか。
ところで「三方よし」の「よし」は英語で「OK」だが、OKは「OLL KOLLECT」からきたのだという。
しかし、こんな分けわからぬ英語なんて存在しない。
正しくは、「ALL Correct」なのだそうだ。
「正しい」という言葉のスペルの「誤り」がまかり通っているのが笑えるが、その誤りの張本人が、アメリカ独立宣言の起草者の一人ジェファーソンというのだから、なお面白い。
ジェファーソンは弁舌に優れてはいたが、ちゃんと文字が書けなかった。そんな人が、この頃のアメリカ移民の中に普通にいて、「OK」がまかり通ったのは、声の大きい方がものを決めるということかもしれない。
この世の中、間違いがそのまま通用するのは、いくらでもある話で、時に間違いや失敗が、予期せぬ成功を生むことだってあるし、人々の「感動」をよぶことさえもある。
近年のニュースで面白かったのは、期間限定で登場した「注文を間違えるレストラン」。
宮沢賢治の「注文の多い料理店」では、ある男が入った料理店だったが、実際は食べられるのは男の方でそのために様々な注文が出されるという逆転の発想が面白かった。
それにもまして、「注文を間違えるレストラン」とは意表をついた店名である。
しかもその場所は、どこよりもブランドを大切にする街・六本木なので、間違えられずはすがない。
実はこの店は、認知症を抱える人がウエイターとして働いていて、席への誘導や注文取りはもちろん、料理の配膳やお皿の片付けも行う。
そこには、そもそも「間違う」ことを受け入れ、楽しむために来店しているというコンセプトで運営されているのだ。
しかしそれだけの店なら、認知症の人を笑いものにしたように思えるが、認知症を抱える人が安心して働けるためにも「間違ってはいけない」ポイントはきちんとサポートする仕組み作っている。
もう一つは、認知症の方がわざと間違える仕掛けにはしないということ。
客の中には、「注文を間違える」ことを期待している人もいるかもしれない。
しかし、認知症の方にとって間違えるのはとてもつらいこと。そこで、間違えないよう最善の対策をしつつ、それでも間違えたら許してください、というスタンスである。
ある日、ハンバーグを注文すると、出てきたのは餃子。通常間違いを指摘したくなるが、それを言うと、この食事が台無しになってしまう気がする。
ハンバーグが餃子になったって別に誰も困らない。
そこで体験することは、日頃我々がこうじゃないといけないという考えにとらわれされ過ぎていること。
それが、介護の現場を窮屈にしていること。
それと対照的に、このレストランでは笑いが絶えず、認知症の親がこんなに元気出るなんて困ってしまうという家族までいるという。

ガッツ石松氏が使う「OK牧場」というのは、アメリカ映画「OK牧場の決斗」(1957年)から来たものだが、意外やこの「OK牧場」は、心理学では有名なキーワードで、「交流分析」という精神療法のなかで使われている。
それは、心の「OK牧場」には4つのゾーンがあるというもの。
(A) 私もあなたもOK。(B) 私はOKじゃない。あなたはOK。(C) 私はOK。あなたはOKじゃない。(D) 私もあなたもOKじゃない。
いつも、(A)「私もあなたもOK」という気持ちでいられればいいが、そんな理想的な人なんてなかなかいない。
環境や状況によって、(B)のように自分を卑下して他人をうらやんだり、(C)のように高慢になって他人を見下したり、(D)のように「何もかもダメ」と虚無的になることもある。
ちょうど、牧場の中の牛の群れが一定ではないように、我々の気持ちもこの「OK牧場」の中をさまよい続け、そのたびに一喜一憂したり、自信を持ったり絶望したりしている。
とはいえ、人にはそれぞれ考え方の傾向があり、気がつけばいつも、(B)や(C)や(D)の考え方から抜けられない人も多い。
そうした基本的な人生観は、実は幼少期に、主に母親との関係の中で決定づけられると考えられている。
「三つ子の魂、百までも」ということわざどうりである。
幼少期に「私も私自身でOKだし、あなたもあなた自身でOKなんだ」という思いを持てた子は、大人になっても無意識のうちに、自分と他人への基本的信頼の感覚を持ち続けられる、というわけである。
ガッツ石松は、映画『太陽の帝国』(1987年)で、アジア人初の全米映画俳優協会・最優秀外国人俳優賞を受賞する。
ガッツは、その授賞式で母親の思い出をたどたどしい英語でスピーチしたことが話題となった。
そのスピーチによると、幼少時代のガッツは、ゴミを漁って小金を稼ぐアジアの貧困層の子どもたちと、まったく同じ生活レベルだったそう。
ただ一つ違うのは、母がいつも「お前を信じている」と全面的に信頼してくれたこと。そんなふうに誰かに信じてもらえれば、子どもも自分を信じて努力していけるという。
心の「OK牧場」で、気がつけば(B)や(C)や(D)に動いてしまうのは、ひょっとしたら幼少期に「私もあなたもOK」と思えなかった要因があったのかもしれない。
とはいえ、そんな過去の自分もマルごと受け入れ、そして「私もあなたもOK」と思える人は、心の「OK牧場」の優等生といえるかもしれない。
そんな優等生をもう一人見出した。
プロとしては致命的といってよい、「失敗」を露わにして芸風をきずいたのが、マギー司郎である。
飄々としてとぼけた味のマギー司郎は、茨城訛りのトークで「縦ジマのハンカチを横にして横ジマのハンカチにする」などの「インチキマジック」を行いつつ笑いを取り、終盤には必ず正統派のマジックを見せる。
そのマギー司郎が出演したNHK「課外授業ようこそ先輩」は大反響をよんだ。
自分の弱点は武器になる。弱点をさらけ出せば人は強くなれる。人間って、ダメになろうとしている人は、1人もいない。
すぐに幸せになれなくても、ゆっくり幸せになればいいんだよ。あんまり無理しないで、ダラダラやってんのも芸のうちかなと思ってね。
普通に生きているだけで、100点だよ~っていってんの、といった名言(迷言)が次々と飛び出す。
司郎の家庭は父は数々の事業に失敗しとびきりの貧乏だった。9人兄弟の7番目、体が小さくて、なぜかいつもころんでしまう。右目が斜視で、ほとんど視力がなかったことによる。
学校で黒板の字が見えないから勉強がえきるはずもなく、友人からもいじめられた。それは母親は動物が子供を守るように、本能のままに司郎を守ってくれたという。
小学校4年の時に母親がメガネを買ってくれた。メガネは家庭にとって高価なもので二升のコメをかついでいって手に入れたものだった。
ある時眼鏡をこわして米粒で張り合わせてなんとか直したが、母に怒られるよりも申し訳なくてうつむいてご飯を食べた。
母親はそれに気づいても何もいわなかった。
母親は自分を不憫に思ったようだが、司郎は自分を不憫だと思ったことは一度もなかった。
小さい体でも歩いたり走ったり出来たし、皆と同じように階段ののぼり降りができたからである。
友人から「この前すれちがった」といわれても、片方が視力がないので気づかないことが多かった。無視していると思われたくなから、いつもニコニコしていようと思ったという。
自分の食うくらいは自分でしようと思いつつ、16歳の時に布団背負って東京にでた。 中学を出てバーテンなどをして働いた。食べるものがない辛さは小さい頃から馴れていた。
19歳の時ににマジックに出会い、不器用な自分に出来るはずはないと思いつつ何とか練習し、劇場の余興を仕事を得ることができた。
客は余興を見に来ているわけでないので、モタモタしていると早く消えろといわんばかりの罵声ばかりあびせられた。
そのうち、はからずもホンネがでた。「ゴメンネ~。実は僕、マジック下手なんですよ~」。
このひと言が大うけ。ようやくコレダと思った。
自分から下手だというマジシャンはいない。
これが32歳の時、マジックをはじめて10年以上がたっていたが、この時「マギー司郎」が誕生したといえる。
茨城訛りの田舎臭い話し方と正直な言葉がむすびついてそれが観客の心をつかんだ。
マギー司郎氏は、1日4回のマジックを15年間続けたというから、それだけでも大したものだ。
その間に、アパートも3畳一間から板間つきの4畳半に変わった。
うまくないマジックが売りの司郎はそれほど練習はせず、いつもこれで十分だと思った。
それよりも踊り子さんたちから色んなものを学んだという。皆、何らかの事情を抱えて必死で生きていたからだ。
踊り子さんの出産に二度ほど立ち会ったし、馬小屋のような状況ではあってもけして悲しいものではなく、本当に人間的な美しさに感動したという。
NHKの番組では、さらに司郎の名言が続いた。せっかく神様がこの世にうみだしてくれたんだから、幸せにならないと申し訳ないよ。
今、僕は幸せ。六十を過ぎた今も、仕事の依頼があって、舞台ではお客さん笑ってくれて、そして九人の 弟子がいて。何も無いところから始まって、ここまでいかしてくれたことに本当に感謝しているの。
子供の頃、僕はまったく勉強できなかったのね。家が貧しくて栄養が足りなかったせいか、片方の目がほとんどみえなかった。
早々と低学年で落ちこぼれドッジボールもすぐにあてられて早々と退場していったりして、臆病でいつも端っこにいたという。
劇場での前座もウケなかったが投げ出さずに続けてこられたのは、子供の頃、母親から生きていく本能を教えてくれたからだという。
「アタマがよくなかった僕は、本能を信じる他はなかった。できないことばっかりで、人と比較したら負けてばかりだった。人と比べたりあせったりして欲張るとろくなことはないとわかるようになった。
ムダに頑張りすぎると誰かに迷惑をかけるので、自分の呼吸や自分のリズムを大切にした」と語った。

日本のプロジェクト「はやぶさ」の挑戦は、世界に先駆けたものであった。
何しろ、この広い宇宙のなかで芥子粒ほどの小惑星イトカワから物質を集めて、「地球創生」または「宇宙創生」の秘密をさぐろうというのだ。
仮に、地球外物質を採取できたとしても、地球に戻ってこれるかは、「発射台から地球の裏側のブラジルのサンパウロのてんとう虫に当てる」ぐらいの難しさなのだそうだ。
ところで、この「はやぶさ」の成功をより感動的にしたことは、幾度か「ダメか」という窮地においこまれつつも、「自動復元」したからである。
特に、「はやぶさ」からの電波が数ヵ月も届かずに、その行方は「絶望視」されたこともあった。
約30名ほどからなるスタッフは、「はやぶさ」から電波が届く限りにおいて、そのデータを解析したり、修正したりして、日々充実した仕事にあふれていた。
しかし、電波が届かなくなった途端に、何もすることもなくなり、管制室にブラリとやってくる程度だった。
そんな時、リーダーである川口氏の役割は、皆の気持ちを「繋ぐ」ということだった。
メンバーが立寄ったときに、管制室に熱いお茶が置いてあるとか、ゴミがチャント捨ててあるということが、このプロジェクトが依然「死んでいない」(アクティブ)というメッセージだった。
川口氏は、「はやぶさ」からのデータが途絶したあとでもスタッフに、「もしもこういう場合にはどうする?」という形の宿題を出し続けたという。
それは宿題の内容そのものよりも、スタッフの「気持ち」を繋ぐコトが主な目的であったという。
しかし、川口氏「繋ぎ」とめるべき重大なものが、もうひとつあった。国の「予算」である。
データ途絶により、文科省のなかでも「予算打ち切り」の話がもちあがっていた。
しかし川口氏は次年度の予算を確保するために、つまりプロジェクトの「継続」をはかるために、通信が復活する可能性をバックアップ用のバッテリーの残存量などからはじき出して提出し、どうにか予算を確保できた。
アメリカのスペースシャトル・チャレンジャーで、低温でおきる装置の不具合が予測されたが、そのリスクが客観的な数値としてハジキ出せなかったために、そのリスクを見過ごされたのを思い起こす。
しかし、川口氏のリーダーシップの中で最も注目すべきことは、「不都合な真実」を公開したことであった。
実は、イトカワの表面はとてもゴツゴツしていて、探査機が着地できる状況ではなかった。
そこでその担当でもないスタッフのアイデアで、シャトルから弾丸をはなち、そこからマキ上がる物質を採取するという方法がとられた。
そして「弾丸」が発射されたという「信号」が地球におくられ、管制室の「はやぶさ」スタッフはこの成功に、湧きに沸いた。
また「世界初の快挙」というニュースが世界にも伝えられた。
ところがわずかその一週間後に、プログラムミスがみつかり、「弾丸が発せられていなかった」可能性があること が判明した。
川口氏自身が「知らないほうがよかった」ともらした情報で、内部で隠しておけば当面は隠せるものであった。
しばらくは、口もきけないほど消沈していた川口氏であったが、その事実をあえて世界に公表した。
しかし川口氏は後に、この「不都合な真実」を公表したことが逆に「はやぶさ」プロジェクトの信用性を高めた面もあったと証言している。
ところが、迷子になって数か月後に、突然「はやぶさ」の電波が管制室の画面に確認された。
そして、イトカワの物資を採取した「はやぶさ」は見事にオーストラリアに着地し、地球帰還に成功したのである。
プロジェクトの成功はは、誰も口に出しはしなかったものの、アキラメムード漂う中で、少しの可能性を捨てず、スタッフの気持ちと文科省の気持ちを繋ぎとめていたことにある。
「はやぶさ」の成功が今日に突きつけるのは、技術的問題というより、リーダーや組織の在り方といってよい。

その為にはプロジェクトが「アクティブである」というメッセージを出し続けたといってよい。
また間違いを認め、隠ぺいや改竄などしないで、訂正すれば良いという単純なこと。 育った家の「家業」というものは「意外な形」で人生を導くものかもしれない。
そう強く感じるのはiPS細胞の発見でノーベル賞をうけた山中伸弥・京都大学教授である。
山中教授は、コンピュータを駆使して「ある条件」にカナウ遺伝子をさがした。
なにしろ60超組の遺伝子からそうした遺伝子を「絞りこむ」ことは不可能といわれてきた。
iPSの技術は、そうして探しだされた「4つ」(または3つ)の遺伝子によって可能になった技術といって過言ではない。
山中氏は自分が柔道やラグビーで10回以上骨折したので、スポーツ選手を助けようと神戸大学で整形外科医になった。
しかしインターン時代に手術の手際が悪いので、「邪魔中(じゃまか)」と呼ばれて、やむなく「臨床」から「病理」に移ったという経歴を持つ。
山中教授の実家は、大阪のミシン工場であるが、大坂市立大学の学生時代に、実家の工場の「在庫管理」を手伝った折に、膨大な部品を整理したことが、こうした遺伝子発見に繋がったという。
人間、何が「幸い」するかわからない。
iPS細胞の開発以前に、万能細胞ともいわれたES細胞というのがあったが、山中教授はES細胞で働くものの「分化」していない伝子が24種類あることをつきとめた。
こうした遺伝子を「転写因子」とよんでいる。
山中教授は、この24種類の遺伝子についてマウスの皮膚細胞を使った導入実験を行い、4種類の遺伝子を体細胞に導入するだけで、ES細胞とほぼ同じ性質のiPS細胞をつくれることを世界で始めて発見した。
さらに翌年にはヒトのiPS細胞の作成にも成功して世界を驚かせた。
ではそもそも、iPS細胞とはどんな細胞なのか。「誘導多能性幹細胞」の略であるが、その胚を育てると、色んな「臓器」になるというスゴイものなのだ。
人間は、約270種類、60兆もの多種多様な細胞からなりたっている。
脳の細胞は長く伸びて糸のようになっており、電気信号をある場所から別の場所へ伝える仕事だけを行う。
皮膚の細胞は丈夫で弾力を持ち、体を外から包む役割をする。
骨の細胞は内部にりん酸カルシウムをため込んで、体をガッチリ支えられるほど硬くなっている。
一般に「胚形成」とは、ただ一個の細胞(受精卵)が、それがなるように運命づけられた複雑な多細胞の生体へ変わっていくことである。
もしも、一個の細菌細胞を食物のはいった皿の中におくと、細菌は分裂して2個の細胞になる。
4個、8個、16個と分裂していきこうしてただ一個の細胞から生まれた子孫の細胞が集まったものを「クローン」と呼んでいる。
この皿から細胞を取り出して違うサラにおけば、同様なクローンがつくられる。
神秘的ではあるが、細菌にとってこのように分裂を繰り返すことは、それほど難しいことではない。
高等動物でははるかに複雑なことであるが、細胞には完全な新しい個体になるためのすべての情報を含んでいるので、元と完全に同じ固体をつくりだすことは理論的には不可能ではない。
しかし生物は完全な一個の個体になることはできるが、生物がすでに分化した細胞を元に戻してそして受精卵に生まれ変わったように、自分自身のコピーを加えるなどという「野心」まではない。
例えば、皮膚の細胞が元の「胚」にもどって筋肉の細胞になるということはしない。自然はそういうことに統制を加えているといっていい。
ところがちょっとした「人為」で、そういうことが可能であることを証明したのが山中教授である。
山中教授は皮膚細胞に4種類の遺伝子を加えてみたとろ、その皮膚細胞が変化して筋肉や神経・血液なといった体の様々な組織の細胞ができる「新しい細胞」となったという。
この「新しい」の意味は、「初期化」された(元に戻った)細胞ということである。
ところで、細胞の核に潜んでいるDNAは、細胞の設計図を提供することがわかっている。
実はすべての細胞は分裂する際に、すべてのDNA(情報)をもう一つの細胞にコピーする。
DNAがソックリ同じであるにもかかわらず、別の器官に「分化」してくというのならば、DNAの情報により必要な物(タンパク)質の発現が「促進」されるものと、「抑制」されるものがあるということである。
だからDNAを文字に例えると、「読み取られていく部分」に応じて器官が分化し、「特殊化」していくといってよい。
だから読み取られない情報は、「黒塗り」の情報をたくさんもっているということである。
つまりスイッチが入ったり切れたりすることによって「分化」と「特殊化」が起こっているということだ。
しかし問題は、どの細胞がどんな器官になるかをどうやってその指示を与えるのか、ということだ。
胚形成の過程で生じる細胞の「差異」について、自分達は皮膚の細胞になる、あるいは筋肉の細胞になる、あるいは神経の細胞になることをどのように決定しているのか、すなわちスイッチの「入る」「切る」の判断がどうなされているかについては、いまだに「未知の領域」である。
つまり生体のグランドデザインは、いまだに未知といってよい。
iPS細胞において、皮膚細胞に入れる4種類の遺伝子の中には「発ガン」との関連が指摘される遺伝子を使わないと作製効率が大幅に落ちるという課題があった。
しかし、山中教授らは、「発ガン」との関連がない「グリスワン」という遺伝子を使えば従来よりも効率がよくなり、マウスなど100%がiPS細胞になったと発表した。
またiPS細胞は、本人の細胞から作製されるために、「拒絶反応」はないといわれ、まさに「夢の技術」が実現しようとしているのである。

人間は遅咲き、早咲きがありますから、遅く咲く人間のことをじっくり見守ってあげる事が大事である。
だって、種まいてすぐには花は咲かないでしょ?「これでよかったのかな」と不安になることもなく、挫折したこともない。だって将来の計画など立てないから。
早咲きの花もあれば、遅咲きの花もある。
もしかしたら、ずっと咲かないものだっているだろう。でも、それでもいいじゃない。皆が綺麗に咲くわけじゃない。 中には咲かない花があっても、それもまた花なんだから。
2010年6月2日に開催された野球のメジャーリーグベースボール公式戦、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトのコメリカ・パークで行われたデトロイト・タイガース対クリーブランド・インディアンスの一戦。
前日から、タイガースは本拠地コメリカ・パークにインディアンスを迎えての3連戦。第1戦はインディアンスが3-2で勝利し、2日の第2戦を迎えた。
両チームともアメリカンリーグ中地区に属し、この日の先発投手は、タイガースがガララーガ、インディアンスはファウスト・カーモナ。
観客の拍手のなか9回のマウンドへ向かったガララーガは、二つアウトをとって、MLB史上21人目の完全試合まであと1人となり、27人目の打者ジェイソン・ドナルドが打席に立った。
ガララーガは3球目の外角低目へののスライダーをドナルドが右方向へ打ち返した。
一・二塁間への打球を一塁手カブレラが捕球し、ベースカバーに入ったガララーガへ送球。ガララーガがそれを受け、ドナルドより早く右足で一塁を踏む。
これを見届けたカブレラは完全試合達成を確信し、右手を振り下ろしながら雄叫びをあげた。
しかし塁審のジョイスが下した判定はセーフだった。
ジョイスは「直感的に、ただ直感的にドナルドはセーフだと思った」という。
この判定にガララーガは苦笑いの表情を浮かべ、カブレラは両手で頭を抱えた。
監督のジム・リーランドがベンチから出てきて抗議するが、判定は変わらず。記録は内野安打となり、完全試合だけでなくノーヒットノーランも消えた。
最後はクロウが三塁ゴロとなり試合終了。ガララーガはメジャー初完投・初完封勝利を挙げ、この日バッテリーを組んだアレックス・アビラと肩を抱き合った。
その一方で、ベンチから出てきたリーランドらは改めて主審のジョイスのもとへ行って抗議し、観客もジョイスにブーイングを浴びせた。
ジョイス自身、映像でその場面確認すると、怒り狂って叫び声をあげた。そしてそれが落ち着くと、報道陣をロッカールームへ招き入れて取材に応じ「あの若者の完全試合を自分が潰してしまった。ドナルドが送球より早く一塁に達したと思った。判定には自信があったんだ、リプレイを観るまでは」と、自らの誤審を認めた。
ガララーガとジョイスが抱擁を交わすと、ジョイスは泣きながら英語とスペイン語で謝罪し、その場を後にした。
ガララーガは「たぶん僕よりも彼のほうが辛い思いをしているだろう」と気遣い、さらに「完璧な人間なんていやしないさ」とジョイスをかばうコメントを出した。
また「僕は完全試合を成し遂げたものだと思っている。息子にもこの試合の映像を見せてあげるつもりだ。レコードブックには載らないだろうけど、息子には『お父さんは完全試合をやったんだよ』と教えようと思う」とも話している。
母国ベネズエラの大統領ウゴ・チャベスは「アーマンドが完全試合を成し遂げたことはみんなわかっている。我々はベネズエラから彼に敬意を表する」と語り、ジョイスが謝罪したことに関しても「彼は高潔だった」と賞賛した。
2日の試合で使用された一塁ベースとボール、ガララーガのスパイクは、歴史的瞬間の一部としてニューヨーク州クーパーズタウンの野球殿堂に寄贈された。
この試合では、タイガースの先発投手アーマンド・ガララーガが9回二死まで1人の走者も出さない投球を続けていた。
27人目の完全試合を逃した。
抗議せずに判定を受け入れ、試合後にはジョイスを気遣うなど気品ある態度を示したガララーガと、自らのミスを正直に認めて謝罪したジョイスは、ともに賞賛を集めた。
ちなみにMLBにおいて完全試合は、1876年から2009年までの134年間で計18回記録されていた。単純計算すれば、およそ「7年半に1試合」という割合になる。
ガララーガのコメント「完璧な人間なんていやしないさ」が出版された。お互いの生い立ちや挫折した経験などを語りながら、あの日の試合のことを交互に振り返る内容になっているという。

1955年三重県四日市市に生まれ、6歳のときに父親の仕事の都合で愛知県名古屋市に引っ越した。
名古屋市立田代小学校、名古屋市立城山中学校、私立愛知高等学校と進学し、高校を卒業する18歳まで名古屋で過ごした。
高校時代からロックに傾倒し、はっぴいえんどに憧れて上京を希望し、法政大学社会学部社会学科へ進学する。
大学在学中は当時の学生運動にも参加したが、3年の頃にそれが終わり、拠りどころを失くした堤は大きな挫折感を味わい、大学を中退する。
そのころ、偶然見つけた東放学園専門学校の新聞記事をきっかけに同校放送芸術科に入学し、放送業界に入る。
アシスタントディレクター時代は、当時の業界の常で先輩スタッフに怒られ、理不尽な暴力を振るわれることが日常茶飯事で、仕事ができず立っているだけだったので「電信柱」というあだ名をつけられる日々だった。
面白いのは、1988年オムニバス作品『バカヤロー! 私、怒ってます』の第4話「英語がなんだ」で劇場映画デビュー。
1989年に、アメリカ合衆国・ニューヨークに渡り、1年半滞在する間にオノ・ヨーコの映画(『Homeless』)を撮っている。
この人って誰といいたいが、堤幸彦。堤幸彦の名を一躍世間に知らしめたのは、『金田一少年の事件簿』(堂本剛版)。その後、『ケイゾク』、『池袋ウエストゲートパーク』、『TRICK』、『SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜』シリーズ等のヒット作を通し、“堤色”というべき世界を確立し、若者たちの支持を得た。
大作映画を多く手掛けるものの長らく日本の主要映画賞とは無縁であったが、2015年に『天空の蜂』『イニシエーション・ラブ』の異なるタイプのエンタメ作品2作を手がけた手腕が評価され第40回報知映画賞監督賞を受賞した。
2010年に愛知工業大学客員教授に就任する。2017年11月30日に開館した「あいち航空ミュージアム」(愛知県豊山町・県営名古屋空港内)の名誉館長に就任。
あるテレビ番組、高校時代の担任が、堤監督があの「堤君」とは知らなかったという存在。
映画とテレビドラマの世界の双方に新しいシステムを取り入れたとされている。映画の撮影においては、監督はカメラの横で指示を出すのが常であるが、堤は別の場所にテントを設置し、その中でモニターを通して撮影の指示を出し、その場で映像を編集して俳優にも見せる。
こういったやり方は旧来の映画の現場からは「伝統」に反し失礼にあたる行為と捉えられることもあるが、撮影が合理的に進み、プロデューサーや俳優とイメージを伝えあいやすくコミュニケーションが取りやすくなるという。
他方、テレビドラマの現場では、それまでのテレビ局のスタジオ収録を中心とした撮影から一転して、オールロケの撮影にこだわっている。
予算が増大するためカメラを手持ち1台に抑え、カメラ数が少ないことによる画面の単調さをカバーするためアングルに変化をつけた斬新な演出を生みだした。
また、ドラマの演出にバラエティ番組のような効果音を取り入れた。この変化は以後の日本のテレビドラマ全体に大きな影響を与え、「堤以前・堤以後」と言われている。 都合の悪いことは隠す。間違いや誤ったことに対しては辻褄合わせの証言を求める。そういうことが実業界や行政において、あまりにも多すぎる。
また、昨今起きた実業界のデータの改ざんや不正は、この1年間一流企業や役所で頻発している。
日産自動車が無資格検査を組織的に行っていたことが判明し、スバルでも無資格検査を行っていたことが判明。
神戸製鋼所がアルミ製品の一部の性能データを改ざんして納入していたことを発表し、三菱マテリアルの子会社3社で品質データ改ざんを行っていたことを発表し、東洋ゴム工業が船舶などに使う産業用ゴム製品でデータの偽装があったと発表。
または、森友学園への国有地格安売却と財務省文書改ざんから、裁量労働制データや過労死事案をめぐる厚生労働省の対応、自衛隊の日報がみつかているのに報告しない。
政権による隠蔽、改ざん、捏造など不適切な行為があったことは、もはや明白な事実である。
また、契約に反する年金機構のデータ入力の民間委託など、我々は何を信じていいのかわからぬ状況にはまりつつある。
人は間違ったり、誤りがあったとしても、そこが何に由来しどうしたら繰り返されないのかというリカバリーがあれば、人々は納得するものの、指示の出所さえも明らかにされない状況。