笑える「欺瞞・変装」

アメリカのレストランに行くと、何杯もおかわりができる薄味のアメリカン・コーヒー。
これは文字どおり、アメリカの「国民的飲料」といってよいが、そうなった理由は、「イギリスの紅茶なんか飲んでいられるかい」と、飲み始めたからである。
1620年、イギリス発のピューリタン101名をせたメイフラワー号が新大陸(プリマス)に着いた際北アメリカ大陸に13の植民地が出来た頃、イギリス東インド会社の茶(紅茶)しか植民地での販売を認めないという法律が「茶法」である。
イギリスでは、東インド会社が中国から茶を輸入して以来、お茶がアッという間に国民の間に広がった。
紅茶は、イギリス人にとって、これがなかったら食事もできないというほどの生活必需品なのだ。
だから、「茶法」は植民地の人たちにとって、イギリス本国の強引さのシンボルとなった。
だからこそ植民地人は、この法律にひどく反発したのである。
そこで、本国イギリス政府のやり方に腹を立てた一部の過激な植民地の人々が、インディアンに「変装」してボートに乗り込んだ。
そして、ボストンの港に入港した東インド会社の貿易船に近づいていった。
そして、貿易船に乗り込むや、積み荷の茶を海に次々と投げ捨てたのだ。
そして、9万ドル分の茶がパーになった。これが、世にいう「ボストン茶会事件」である。
これは事件としてはささやかなものだったが、植民地人が本国に対して「実力行使」をしたという点で、画期的な出来事だった。
そして、これが植民地人たちの「反抗心」に火をつけ、アメリカ独立運動への「一歩」を踏み出していくのである。
こうした出来事のせいか、現在のアメリカ人はあまり紅茶を飲まない。紅茶の代用品がコーヒーで、コーヒーは濃すぎては何杯も飲めないため、できるかぎり味を薄めにしたのが、アメリカン・コーヒーである。
これが南米ブラジルのコーヒー栽培に特化したモノカルチュア経済に繋がていく。

世界史のなか東西「似た場面」といものが結構みつかる。幕末、薩摩で起きた出来事は、変装してイギリス艦に乗り込むなど、「ボストン茶会事件」に似た場面が起きている。
1863年6月、イギリス艦隊が鹿児島の錦江湾に姿を現し、「薩英戦争」の火蓋が開こうとしていた。
きっかけは、前年の8月、横浜近郊の生麦村において、日本の大名行列の習慣を知らなかったイギリス人商人のリチャードソン他三名の一行が、薩摩藩主の実父であった島津久光の行列に馬を乗り入れたため、随行していた薩摩藩士によって無礼打ちに合い、殺傷されたためである。
イギリス側は、このいわゆる「生麦事件」の謝罪と賠償金の支払いを要求するため、艦隊を率いて鹿児島にやって来た。
リチャードソンを殺害した下手人の死刑と2万5千ポンドの賠償金を要求する国書を薩摩藩に対し突きつけた。
イギリス側は、軍艦7隻という大艦隊を率いて威圧すれば、薩摩藩が簡単に屈服すると考えていた。
しかしながら、そんなイギリス側の思惑に反して、薩摩藩側では着々と臨戦態勢が整えられていた。
薩摩藩はイギリス側の要求に対し、「是非上陸して頂いて、諸々の交渉を行ないたい」と返答した。
薩摩藩は、代理公使・ニール以下重役連中が上陸したところを捕らえて、人質に取ろうという考えだった。
しかし、イギリス側もその薩摩藩の誘いを警戒し、上陸することを拒否した。
この時、実質的な藩の権力者であった島津久光は、このイギリスとのやり取りに業を煮やし、居室の庭前に奈良原喜左衛門、海江田武次の二人の藩士を呼び出し、藩内から決死の勇士達を選抜し、7隻の軍艦を奪い、薩摩の武威を天下に示せと命じた。
奈良原も海江田も、久光から直々に命令を受けたことを意気に感じ、喜び勇んで軍艦強奪のための決死隊の編成に取りかかった。
すると、たちまち81名の藩士が、決死隊への参加に名乗りを上げた。
そして、81名の決死隊を各々8艘の小舟に約10名ずつ分乗させ、8艘の小舟の内の1艘には、イギリスへの国書に対する藩の「答書」を持った使節団を編成することにした。
また、他の7艘に乗る藩士達は、それぞれ帯びている刀を外し、短い着物と袴を着て、いかにも百姓や商人という装いに変装することにした。
商売人の一団に扮した7艘の小舟には、季節のスイカや野菜、果物などをたくさん積み込んで、イギリス艦隊への贈答品を運んでいる商船として偽装することにしたのである。
偽装使節団が軍艦に乗り込み、イギリス側と談判している間に、偽装商売人の一団が、それぞれ担当の軍艦内にスイカなどの物資を運び込む。
そうして、軍艦に乗り込んだ後、陸からの一発の大砲の音を合図に、船内のイギリス人に斬り込みをかけ、軍艦を奪い取るという企てであった。
そして「スイカ売り決死隊」の一行は、各々海に漕ぎ出して、湾内に停泊するイギリス艦隊へと向かった。
まず、偽装使節団の一団とスイカを載せた一艘の小舟がイギリスの旗艦船ユライアラス号へと近づき、軍艦内に藩士を乗り込ませようとした。
他の軍艦の下から大きな声で、「スイカはいらないか」と叫んで、何とか軍艦に乗り込もうと企んでいたが、イギリス仕官は、「What?」と言うばかりで、彼らをまったく相手にしない。
ユライアラス号では、使節団の3名が乗り込んで藩の答書を代理公使のニールに手渡し、談判を繰り広げていった。
3人は、談判中もずっと陸からの斬り込みの合図の号砲が鳴るのを、今か今かと待ちわびていたの一向に大砲が鳴る気配がなく、時間を伸ばし伸ばし交渉を続けていた。
すると、計画の無謀さを悟ったのか、陸から一艘の小舟が旗を振りながらユライアラス号に近づいて来て、「計画は中止。一先ず引き上げよ」という君命が伝えられた。
そそくさとユライアラス号から退去しようとしたがが、あろうことか、先程イギリス側に渡していた藩の「答書」までも、間違って持って帰ってしまった。
また、一方の「スイカ売り決死隊」も、突然の中止命令に驚き、慌てて舟を陸へと漕ぎ戻した。
かくして薩摩藩の「スイカ売り決死隊」の軍艦奪取作戦は、ものの見事に失敗に終わったのだが、薩英戦争の中の一つの「笑い話」として、今でも語り継がれている。

天下の副将軍・水戸光圀が「変装」して庶民に成りすまし、助さん・角さんを従えて諸国を遍歴した。
一応、水戸黄門の変装の動機は、副将軍による国情視察ということだが、世界史に目をやると、国王による国情視察を兼ねた「笑い」をさそうエピソードがある。
ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)で、彼の時代から「ロシア帝国」とよばれる。
ピョートルは「大帝」とよばれるほどの人物なのだが、そのイメージにふさわしくない「変装」をおこないバレてしまっている。
ピョートル1世は、真摯にロシアを近代化し、ヨーロッパ風の国に仕立てあげたいと考えた。
そこで世界の趨勢にしたがい、ロシアのとるべき進路は重商主義と考え、そのためには海外貿易を活発化しなければならない。
大帝はその手始めに、ヨーロッパ風の国造りのためにはヨーロッパ諸国の研究をしなければいけないと考えて、1697年、総勢250名の「大使節団」をヨーロッパ諸国に派遣した。
この時、生来じっとしていられないタチのピョートル1世は、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、「身分を隠して」使節団に加わっている。
各国を視察する中、ピョートル1世はオランダで「造船所」がすっかり気に入ってしまう。
そして、大帝自身が「造船マニア」となってしまい、なんと「一職工」として就職してしまったのである。
身分を隠して働きはじめるが、2メートルを超える長身の男はロシアの皇帝にちがいないと噂が広まり、見物人が増えてだんだん仕事にならなくなって辞めざるをえなくなった。
大帝は「船造り」が大好きで、毎日が夢のように楽しく、毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会を繰り広げ、宿屋から損害賠償を請求されることもあったという。
さて、ピョートル大帝は、オランダの造船所に変装して「侵入」したが、現代史には、生死のかかった緊迫した場面で変装によって「脱出」が企てられたケースがある。
それは2012年の映画「アルゴ」で描かれたので、映画の内容にそって説明したい。
イラン革命の真最中の1979年、イスラム過激派グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人外交官が人質に取られた。
だが占拠される直前、6人のアメリカ人外交官は大使館から脱出し、カナダ大使公邸に匿われる。
脱出者がイラン側に見つかれば「公開処刑」の可能性が高く、知らせを受けたアメリカ政府は、すぐに彼らの「国外救出作戦」を検討し始める。
6人のパスポートを「偽造」したものの、アメリカ大使館でシュレッダーにかけた6人の写真は、イラン側の「人海戦術」で復元することに成功しつつあった。
また、彼らをカナダ人としてイランから安全に出国する「理由」を仕立て上げるのが問題だった。
英語教師に仕立てようか、農業の調査官にしようか、など様々な検討がなされた後、CIAの「人質奪還のプロ」トニー・メンデスが考えたアイデアは、まるで映画のような奇想天外なものだった。
6人にSF映画のロケハンに来たハリウッドの撮影スタッフのフリをさせるという作戦。
そしてメンデスは敵を騙すためには、まず味方を騙すことが必要であると考えた。
さっそくハリウッドへと飛び、「猿の惑星」などで活躍する特殊メイク界のジョン・チェンバースの力を借りて「ニセ映画」をでっち上げる。
メンデス、チェンバース、そして映画界の面々はこのデッテ上げに「真実味」をもたせるため、脚本の権利を取得、「スタジオ・シックス」というニセの製作会社を設立、雑誌に広告を掲載、製作発表パーティを開催してニセ映画「アルゴ」を世界に向けて宣伝した。
さらに、メンデスはテヘランへと向かい、6人の館員にカナダ人「映画スタッフ」にみせかける特訓を行った。
カナダの大統領は誰かとか、都市の名前とか基本知識から徹底的に叩き込んだ。
そして数日の特訓ののち、一行は空港へと向かう。
まずは、ニセの書類で税関をくぐり抜ける緊迫の手順を踏んで、ついにチューリッヒ行きの飛行機に乗り込むことに成功した。
そして、飛行機がイランの領空を抜けて脱出を成し遂げた時、安堵感から彼らはブラッディ・メアリー(カクテル)で祝杯を挙げるのである。

第二次世界大戦において、ノルマンディー上陸作戦は「史上最大の作戦」といわれる。
そうよばれる理由は、連合軍がドイツに対して行った戦闘作戦ばかりではなく、背後で進められた大がかりな「欺瞞作戦」のゆえである。
この「欺瞞作戦」のコードネームは、「フォーティテュード作戦」(意味は “堅忍不抜”)。
この作戦は両面作戦で、連合軍のノルウェー侵攻を装った「フォーティテュード・ノース」で、もうひとつはフランス上陸作戦の目的地がノルマンディーではなくパ・ド・カレーであるとドイツ軍に信じさせることを狙った「フォーティテュード・サウス」であった。
「フォーティテュード・サウス」は第二次世界大戦の中で最も成功した、そして恐らく最も重要な「欺瞞作戦」のひとつだった。
ドイツはヨーロッパを占領し、連合軍によるヨーロッパ上陸は時間の問題で、ドイツは沿岸に要塞を作り、それを防ごうとした。
ヨーロッパ本土への大規模な侵攻を開始するためには、積み込み地点から一番近い上陸するであろう地域を囲むように部隊を設定する以外にほとんど選択肢が無かった。
大規模な連合軍上陸には、車両の移動などの為に「橋頭堡」を作らなければならないが、上陸地点に向かうドイツ軍予備戦力の動きを遅らせ、大損害を与える可能性のある逆襲を妨げることが必要だった。
そこで「フォーティテュード・サウス」は、連合軍のフランス上陸がパ・ド・カレーで行われるであろうことをドイツ軍に信じさせ、ノルマンディーに橋頭堡を作る時間的余裕を生み出すことを狙ったものだった。
これにより、侵攻作戦実施時ノルマンディー地域に駐屯するドイツ兵の数を可能な限り減らす事ができる。そこで連合軍は、パ・ド・カレーへの海峡横断のために、イギリス南西部に配置されたと思わせることが重要視された。
アイゼンハワー大将の指揮の下、連合国遠征軍最高司令部の下、多方面から「欺瞞作戦」を行った。
この欺瞞により現実味を持たせるために周辺の地域には多くの偽の建物が建設され、ダミーの自動車と上陸用舟艇が積み込み地点になりそうな場所の周辺に置かれ、その兵力の大きさに見合った莫大な量の偽の無線交信が交わされた。
また、FUSAG(米第1軍集団)のような架空の集団と関連付けた人事を公表し、最も有名なのは著名な戦車指揮官であるジョージ・パットンを第1軍集団の司令官に任命したことであった。
さらには、木製の戦車あるいは上陸用舟艇のような偽物の施設や道路、それに装備等を用いてパ・ド・カレー周辺に配置した。
ところが木造の戦車や飛行機は移動するに重く木材が不足しため、街中に上がるバルーンにヒントをえて、浮き袋のように空気をいれて戦車や装甲車を作った。
この作戦のなかで「笑える」場面は、一人の人間が軽々と戦車や飛行機を移動させたりひっくり返す映像である。
そして、こうした欺瞞が見事に成功し、ドイツ軍首脳部はパ・ド・カレーに対する攻撃に備えて、その地域の部隊を動かすことはなかった。
ところが、パ・ド・カレーへの攻撃がなされる事はなく、ドイツ軍が時間を空費している間に、連合軍はノルマンディーの貧弱な橋頭堡を維持し増強する事ができたのである。
しかしこの欺瞞作戦の成功は、巨大なスパイ網が作られ、そこかららもたらされた情報が貴重であった。
さらには、英国が転向させたドイツのスパイを使って、ドイツの諜報局に「偽情報」を送る事が行われた。
また、事前に「エニグマ暗号」を解読しており、「アブヴェール(国防軍情報部)」とドイツの最高司令部の間で交わされる内容を把握し、「欺瞞作戦の効果」を速やかに確かめる事ができたことも大きい。
ところで、英国側に転向させたドイツのスパイがフアン・プホル・ガルシアで、コードネームは「ガルポ」。
実は、ガルポはスペイン人だが、フランコ独裁を目の当りにして、ヒットラーのような独裁者を非常に嫌悪していた。
そのためガルポは、もともとイギリスのスパイを志望していたが、門前払いをくらったため、ドイツのスパイとして実績をあげ、その極秘情報をイギリスに流すことによってイギリス側の信頼を獲得する道を選んだ。
なんといっても、ガルポは「ドイツ諜報組織」のために英国内に於いて最大27人にもなる巨大なスパイ網を作りあげたが、実際は彼以外のスパイは全員架空の人物で「実在」しなかった。
皮肉な事に彼は「Dデイ」(侵攻開始日)の後にドイツから鉄十字章を与えられた上、スパイとしての働きを英国からも認められ大英帝国勲章も受章した。つまり、二重スパイをした「両国」から勲章を授与されている。
こうして、国家を手玉にとったガルポの「欺瞞」は、お見事というほかはない。

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