鄙が抱く「前衛」

全国的に見て、鄙(ひな)びた地域には有力企業もなく、若者たちにとって「役所」や「信用組合」こそ、もっとも望ましい進路先なのかもしれない。
そうした地味な職場から、才能が大きく花開いて「大舞台」で光を浴びる人が稀にいる。その分、多くは遅咲きではあるが。
例えば、広島カープの元エース・大野豊投手は、「セリーグ左腕のエース的存在」といってもよい。
大野の実家は島根県で海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。
母子家庭であり、母の苦労を見て育ったので「中学を卒業したら、就職する」と胸に秘めていたが、せめて高校だけはという家族の希望で、すぐに働くために出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、高校3年の夏には島根県でも注目されるようになる。
強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウトもマークしていたものの、当時の大野は体力的に自信がなく、苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある「出雲市信用組合」へ就職した。
3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けた。
1976年に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と練習試合をするために硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられるという感触を得た。
そこで、母親を楽にさせたいという思いからプロへ挑戦したという。
そしてもう一人は、鄙から脚光を浴びた例としては、2010年1月に訃報に接して、個人的になつかしい思いが蘇った女性ミュージシャンである。
高校時代に級友が、半ば強制的に貸してくれたのが、「浅川マキ」のアルバムであっった。
ビートルズやロ-リング・ストーンズをさしおいて、しばらくそのアルバムの魅力にはまった。
浅川マキの代表曲「かもめ」や「ちっちゃやなころから」などののアンニュィの世界は、異文化体験に近いものがあった。
当時淺川は、「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱していた。
その浅川マキの経歴を見ると意外なことがわかった。
石川県の町役場で「国民年金窓口係」の仕事をしていたのだ。
役場で仕事に就くが、ほどなく上京し、マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。
その浅川を見出したのが寺山修司で、新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を行い、クチコミでその名前が広がっていった。
そういえば浅川マキの「ふしあわせという名の猫」は、寺山修司作詞のヒット曲「時には母のない子のように」の曲想を思わせるものがある。
浅川の独自性は、外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し「新たに」詩作を行ったという。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見。搬送された病院で死亡が確認された。享年68。
あの歌姫が、日本海に面した小さな役場から出現したことは、とても意外にも思える一方で、今思い返せばどこかその歌声に「鄙」が宿っているように感じられる。それは、浅川を見出した青森県三沢市で育った寺山修司とも共通している。
ところで、「鄙(ひな)」という言葉が一般に流布したのは、1991年に出た熊本県知事・細川護煕(ほそかわ もりひろ)および島根県知事・岩圀哲人の共著「鄙からの論理」が大きかったように思う。
「鄙」とは、周代の制度で、県の一つ下の単位。五鄙で県になる。
そこから、辺境にあるむら。 ひなびた。いなかくさいといった意味として使われるようになった。
岩國哲人は、大阪府大阪市生まれだが、母の故郷である島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現出雲市)に転居し、母を助けて、高校3年の春まで畑仕事に従事した。ここまでは、同じ出雲で母を助けて生活していた大野豊に似ている。
岩圀は、島根県立出雲高等学校を経て1959年、東京大学法学部へ進学し、ニューヨーク支店、ロンドン支店などを経て、1973年からパリ支店長。パリ支店長時代はベイルート駐在員事務所長を兼務し、中近東およびアフリカを統括していた。
1977に、同社を退社し、同年、米国の投資銀行モルガン・スタンレー社の日本法人に勤務し、1984年、メリルリンチ社日本法人の社長・会長。1987年、メリル・リンチ・キャピタルマーケット米国本社上席副社長に就任した。
1989年に、出雲市長選挙に出馬し、初当選し、市長在任中、「行政は最大のサービス産業」「小さな役所、大きなサービス」という持論をもとに、ショッピングセンター内の行政の土・日サービスコーナーや樹医制度の創設、総合福祉カードの導入、日本最大の木ドームの建設など次々と新施策を実現し注目される。
出雲市はわずか2年で、トヨタ自動車、ソニーなどと並び日本で最も優れた「企業」として、JMA(日本能率協会)マーケティング最優秀賞を受賞している。
岩國は、大学を地方に分散させ、消費税を地方税として地方の居住環境整備を優先して行い、若者の定着を計り中央に対するコンプレックスを払拭しろと論じた。
また細川は、人間の営み、生活の型こそ文化であり、それはローカルなオンリーワンの存在であるとして、ユニークな小国ドーム、球磨川森林館の計画を支援し、「環境基本条例」を全国に先がけ制定している。
二人の発想の共通性は、官僚制や縦割り行政で身動きがとれない中央政治に対して、「国がやらなきゃ地方がやる」という発想で改革に臨んだことである。
それは後の石原都政や橋本「大阪維新の会」などにも大きな影響を与えたに違いない。

鄙びた地にもっとも「先進的/前衛的」なものが生まれ出ずる。そんな想いが湧きおこる。
それは、明治最大の啓蒙思想家・福沢諭吉が大分県・中津出身であったり、もっとも先進的な「憲法試案」が、東京あきる野市五日市の山林地主の蔵でみつかったりするなど、他にも枚挙にいとまがないことであろう。
その理由は多様だが、地理的にほとんど「鄙」といってもよい場所でありつつも、常に「先進性」を孕んだ場所と、個人的に意識している地域がある。
それは、最近ようやく旅した岡山県の山間の盆地にある「津山」である。
江戸時代の初めごろにオランダ人がコーヒーを出島に持ち込み、出島に出入りする通詞(通訳)や役人も示しコーヒーを飲んでいたことが記録にある。
このコーヒーに強い興味を示したのが津山藩(岡山)の洋学者・宇田川榕菴である。榕菴はわずか19歳で「哥非乙説」という論文を書いている。
「哥非乙説」をまとめる2年前、榕菴は養父の玄真とともに、将軍に拝謁するために江戸へやって来たオランダ商館長と面談をしている。
こうした江戸参府の時にお土産としてコーヒーを贈ることがあったようで、この時榕菴もコーヒーを口にするチャンスに恵まれたと推測できる。
ちなみに「珈琲」の当て字は、榕菴が考えたものといわれている。
宇田川榕菴が生まれたのは、岡山県の山間の地の津山。宇田川榕菴こそが、この鄙(ひな)びた盆地に「洋学の種」を蒔いた人物であった。
岡山から1時間半ほど島根方面に上ると「JR津山駅」に着くと、駅前広場に立って最初に飛び込んでくるのは、右側に見える黒々とした「蒸気機関車」。
その前に、箕作阮甫(みつくりげんば)の銅像が立っている。
蒸気機関車は、1948年に津山機関区に配属され、津山線がディーゼル化される71年まで親しまれたが、駅構内の「津山まなびの鉄道館」の開館をきっかけに、2011年に設置されたものだという。
箕作阮甫は、津山藩医の家に生まれ城東・西新町に住み開業した。
1782年、自身も藩医に取り立てられる。1816年は京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ後、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研鑚を重ねた。
幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。
「蕃書調所」の首席教授に任ぜられたが、「蕃書調所」が後の東京大学になることを鑑みれば、日本の「大学教授一号」といえよう。
ところで津山最初の領主は、織田信長の小姓をつとめた森蘭丸の弟の森忠生で、森蘭丸は、織田信長の小姓として仕え、本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死している。したがって、津山に入城したのは、同じ母親から生まれた弟(六男)であった。
美男の森蘭丸の血筋とは無関係ではあっても、この津山はアナウンサーの押坂忍や俳優のオダギリジョー、ミュージシャンの稲葉浩志など、イケメンが数多く輩出する土地柄のようだ。
2018年2月半ば、小雪まう津山城の天守閣跡地から、四方見事なまでの全貌を望むことができた。
向かい側の高台には「作陽学園」と書いた赤レンガ色の校舎も見える。
卒業生を調べたところ、オダギリジョー、その他多くのプロサッカー選手を生んでいる。
春は桜舞う城址がある鶴山(かくざん)公園だけに、この市街地の景色はなお美しく映えるだろうが、それ以上に引き付けられたのは、城下に広がる「景観保存地区」である。
津山城を降りて宮川にかかる材木町の大橋を渡るとと美しく保存が行き届いた「城東」といわれる地区があり、「男はつらいよ/紅の花」(後藤久美子助演)のロケ地示す石碑が点在している。
この城東地区をとおる「出雲街道」には、瀟洒なカフェや蕎麦屋、和蘭堂(土産物屋)や酒造、豆腐茶屋が実に心地よく並んでいる一方、道沿いに「津山洋学資料館」がある。
この記念館の広場には、この地に洋学を根づかせた5人の学者の胸像が向かい合うように並んでいる。
建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川 玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されたとされる。
この街を通る「出雲街道」は、播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、出雲国松江(島根県松江市)に至る街道である。
出雲街道の保存地区の終点から進んで国道53号線川崎町交差点から少しはいった場所にB’Sのボーカル・稲葉浩志の実家「稲葉化粧品」がある。
あまりにもこじんまりとしていて目立たないが、店頭にB‘Sの公演を示すポスターが貼ってある。
稲葉浩志は、岡山県立津山高校から横浜大学教育学部中学部(数学科)に進学し、「中学校」教員免許状をもつが、津山高校時代の文化祭でライブをやった快感が忘れられずに、ミュージシャンの道を進むことになる。
B’Sのコンサートを見た音楽評論家が語った言葉が今でも印象的だった。「ステージ全体が何か数学的に出来ている」という言葉だったが、一番の驚きは、ロックミュージックと日本語の馴染み方であった。
津山の幕末以来の「蘭学」と洋楽志向や合理的思考、少しは関係しているのかもしれない。
津山という町には、岡山から島根に向かう山間の地だけに、「鄙(ひな)」といっていい立地だが、この地に育った人々が、時代の先端を行くような人々が多く、そういう認識はすっかり吹っ飛んでしまった。
津山を代表する人物といえば、明治初期における最も開明的で自由民権運動などに大きな影響を与えた「明六社」のメンバーの一人である津田正道がいる。
津山城下の城東地区の稲荷橋すぐ近くに「津田正道生誕地」跡の石碑がたっている。
津田正道は、明治法制の確立に大きな功績を残している。
ところで、津山の街を通る出雲街道のルートは、「松江-米子-溝口-根雨-坂井原-(四十曲峠)-新庄-美甘-勝山-津山-佐用-姫路」である。
都(大和)と出雲を結ぶ官道で、国造[くにのみやつこ]が都へのぼったり、国司が中央から赴任するこの道は、松江、広瀬、勝山、津山などの各藩主が参勤交代道として利用したという。
出雲の阿国(おくに)やラフカディオ=ハーンも通った道、阿国は出雲大社の巫女又は遊女といわれ、1603年に上洛して「歌舞伎踊」を上演した。女歌舞伎の創始者とされる。
ラフカディオ・ハーンは特派記者として来日したギリシア系英国人だが、帰化して小泉八雲として有名。
松江中学(現、松江北高)の英語教師として赴任した時の道である。
意外に松江での生活は短く(1年3ヵ月)その後、熊本(五高)・神戸・東京(東大・早大)などに転住した。
この出雲街道の宿場町として発達した津山は、地理的には岡山の山奥の盆地にある鄙びた土地といったイメージをもっていたが、実際に行ってみると「鄙」というより岡山の「奥座敷」といってもよく、どこか先進性さえも感じさせる場所であった。
そのことは、蘭学者達の合理性精神ががこの町に「エッジー」(先鋭)な雰囲気を付与しているかもしれない。
前述のように津山市を中心とする美作地方(岡山県北東部)は、江戸時代後期から明治初期にかけて、宇田川家や箕作家をはじめとした日本の近代化に貢献した優秀な洋学者を輩出している。
宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、玄随のとき蘭方医に転向した。玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕菴へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていった。この三代を特に「宇田川三代」といい、その功績は明治以降の近代科学の発展に大きな影響を与えた。
そして初代の宇田川玄随は、初めは漢方医として蘭学を嫌っていたが、25歳のとき幕府医官・桂川甫周や仙台藩医・大槻玄沢から西洋医学の正確さを教わり蘭方医に転向、大槻玄沢や杉田玄白らについて蘭学を修めた。
宇田川玄随は、津山に蘭学をもたらした先駆者といってよい。その科学的精神は、今でもこの山間の地に根付いているように思われる。
というのも、津山地域には長い歴史を持つ産業と、高い技術の企業群がたくさん存在している。
製造業については、先述の通り中国縦貫自動車道の開通が起点となり、繊維工業、撚糸業、木製品製造業、食品製造業等の地場産業から、企業立地による電子部品・デバイス・電子回路といった業種によって雇用が生み出されてきた。
津山地域の最大の特徴は、ステンレス加工で、メーカーをはじめ、主々の加工工程を有するステンレス加工企業が存在し、企業、そして学・官も含め産官学でネットワークを形成し、津山地域の産業振興を推進している。
1960年代半ばより、大阪よりステンレス鋳造製バルブ、継手メーカーである2つの企業が誘致されました。その後、津山地域の加工企業を育て、今日では60数社の集積を持つステンレス加工地域に成長してきた。
さらに、県北地域は、古くから子牛の生産が盛んで、日本各地のブランド牛の素牛として取り引きされてきた歴史を持っている。
この特性を活かして、津山市では、津山生まれ津山育ちで、小麦のふすまなど津山産のエサをたくさん食べて育った黒毛和牛を「つやま和牛」としてブランド化を目指している。
ちなみに、岡山県の津山と我が地元・福岡の関連をいうと、津山城は小倉城の天守を模して造られたといわれている。小倉城の天守の評判を聞いた森忠政が築城にあたって小倉に家臣を送り込み、調査の上に図面までもらいうけたという。