bookreader.js

池袋:おとぎの国

最近、東京の電車の中で聞いた高校生の会話によると、池袋は「おとぎの国」なのだそうだ。
「えっと」思いつつ、自分が学生だった1970年代の池袋を思い浮かべた。
なにしろ池袋といえば、戦後まもない闇市、巣鴨プリゾンの跡地といった負のメージを背負っていて、街には金貸し業の広告がやたらと目についた。
ただ当時、画家たちが住んだ「池袋モンパルナス」という言葉が、唯一池袋に文化の香りを感じさせたが、それがどの辺りかは知らなかった。
1978年に、「サンシャイン60」という当時アジア一高いビルができて、池袋のイメージが随分変わった。
特に、早稲田(新宿区)から三ノ輪(台東区)を結ぶ都電が、鬼子母神あたりの住宅街を抜け、前窓にサンシャイン60が表れた時の壮観さに、この町の大きな変貌を予感することはできた。
実際に、JR池袋駅東口からこのサンシャイン60にかけての一帯はすっかり若者の街へと変貌した。
アノ高校生が「おとぎの国」と表現したのは、このあたりの通りを指しているのだろう。
特に、首都高速5号の「サンシャイン前」交差点から、サンシャイン60の西側の通り、東池袋3丁目あたりは、「乙女(おとめ)ロード」と称されている。
池袋駅周辺には1980年代からアニメイトやアニメポリス・ペロといったアニメグッズを扱う店舗が点在しており、アニメグッズの購買層が女性に偏っていることから、秋葉原や中野(中野ブロードウェイ)に比べて女性客を集めやすい環境にあった。
また、池袋の東口玄関に立つのが西武デパートで、西武池袋線は埼玉・所沢へと向かう。
西武の創業者・堤康次郎は、皇族の一等地にビルをたてていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがそれであるが、そうした観点からみると、サンシャインプリンスホテルの立地はとんでもないところにある。
そこは、東京裁判におけるA級戦犯の処刑地でもある巣鴨プリゾンの跡地だからだ。
このサンシャイン60に並立するサンシャインプリンスホテル設立の経緯には、いくつかの興味深いエピソードがあることを知った。
堤康次郎が亡くなって2年後の1966年、長男・堤清二は、井深大(ソニー)、今里広記(日本精工社長)、小林中(後のアラビア石油社長)らの財界人を巻き込んで「新都市開発センター」を設立し、池袋の地に本格的な60階建の超高層ビルの建設を計画した。
特筆すべきことは、このビルが当時すでに劇場・美術館、映画館、水族館などを含んだ総合文化施設と位置づけられていたことだった。
このことが、マスコミに発表されると各方面から反響が起こったが、その中には堤清二が「予想もしない」ところからの反応もあった。
それは、戦後最大の政界フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫からの電話だった。それは堤清二にとって不吉な電話だった。
なぜなら西武百貨店は、天皇の第五皇女をアドバイザーとして雇っていたことから、右翼の執拗な攻撃を受けていたからだ。
連日、右翼の宣伝車が西部百貨店の正面玄関に陣取っては、拡声器のボリュームを一杯にあげて、「皇族を商売に利用する奸商、堤清二に天誅を」と叫び続けていた、そんな最中での児玉誉士夫からの電話だった。
電話の内容は、巣鴨拘置所が取り崩される前に一度中をみたい。そこで清二に案内を乞いたいというものだった。
堤清二といえば東大在学中に共産党にのめりこんだこともあり、左翼ならまだしも右翼の巨頭からそんな電話がかかるとは予想すらできなかったにちがいない。
当日、巣鴨拘置所の正門前で、清二は秘書と二人で児玉の到着を待った。児玉は巨大なキャデラックから線香の束を手に持って降りてきたという。
堤の前で児玉は「今日は面倒をかけます」と頭を下げた。敷地内を歩きながら児玉は、ぼそぼそとつぶやいた。「僕はこの棟にいたんだ」「あっちの棟には東条さんが」「岸はさんは、いつも元気よくこの庭を散歩していた」といったことをつぶやいた。
小一時間も歩き、児玉はある一角に来ると線香に火をつけ、花束をたむけて手をあわせた。 そして堤に「今日はありがとう。長年の胸のつかえがいくらか軽くなった」と、礼を口にした。
この時の堤と児玉との「出会い」を境にして、右翼の街宣車の姿が、西武百貨店の前からピタリとこなくなったという。
しかし堤清二、この新都市計画には、それ以上の大きな試練がやってくる。
1973年のオイルショックで、参加を表明していた多くの企業が撤退し、計画の取りまとめ役であった堤清二の経済人としての信が問われた。
そしてこのとき、清二が頼ったのが異母弟の義明で、清二からすれば凡庸で子供扱いしていた間柄だっただけに、当時39歳の清二がもっとも頭を下げたくなかった相手だったに違いないが、結局、堤義明がこの計画を引き継ぐことになる。
ところで池袋は近年、新しい表情をみせるようになった。アジア系の人々が多く住むようになったことを示すのがが、池袋西口の東京芸術劇場側にある「ショヒド・ビナール」のレプリカである。
1947年、イギリス領インド帝国が崩壊し、イスラム教徒の多い地域が「パキスタン」として独立した。いまのパキスタンと、バングラデシュを合わせたエリアだ。
しかし両国は広大なインドを挟んで距離が離れていたし、同じイスラム教徒とはいえ文化や言語が違う。
やがてバングラデシュは、西側パキスタンの政治的支配下に置かれてしまい「東パキスタン」と呼ばれるようになる。
そして何よりもバングラデシュの人々が憤慨させたのは、土地の母語であるベンガル語が否定されたこと。
1952年、2月212日抗議する人々に対して警官隊が発砲し多くの命が奪われたことをきっかけに、パキスタンからのバングラデシュの独立戦争につながっていく。
今も、バングラデシュ首都ダッカには、ベンガル語を守るシンボルとして、ベンガル言語運動の犠牲者を追悼する国定記念碑である「ショヒド・ミナール」が立っている。
そして世界各地バングラデシュ人が多く住む場所には、そのミニチュアやレプリカが建てられている。
それが、池袋西口にある「ショヒド・ミナール」なのだ。
日本の「チャイナタウン」といえば、横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街の3つは、観光スポットとなっているが、池袋駅北口エリアに突如出現した「池袋チャイナタウン」を知る方はまだ少ないかもしれない。それほど明確な町の「区切り」があるわけではないからだ。
ではなぜ池袋にチャイナタウンが形成されたのか。その要因は大きく3つある。
まず第一に、交通の要所ともいえる池袋駅周辺の家賃が安かったこと。
そして第二に、その家賃の安さと国際情勢も相まって1980年代後半に「新華僑」が急増したこと。
ちなみに、中国の「改革開放政策」以降に出国者を「新華僑」と呼んでいる。
そして第三に1991年、池袋駅北口のすぐ近くに中国食品スーパー「知音中国食品店」が開業したこと。
この「知音」の開業によって、池袋駅北口周辺に新華僑の経営する店舗が集積するようになったといわれている。

池袋が舞台の物語といえば、近年では石田衣良の「池袋ウェストゲートパーク」(19 97年)があるが、最近公開された映画「モリのいる場所」も池袋の西口(豊島区千早)にあたりを舞台としている。
ところで、フランスのモンマルトルは、「印象派」など前の世代の芸術家たちの揺籃の地であったが、観光地か高級住宅街となってしまった。
そこでアーティスト達は次第に家賃の安いモンパルナスに移動した。そこは平地だが絵なる農村風景が残存しているためであった。
さて、東京にもかつて「池袋モンパルナス」とも言われた地域があった。
今なお清々しい鳥のさえずりが聞こえる閑静な住宅街の中、緑豊かな公園や美術館などがある。
ネットには、「西武池袋線・椎名町駅から丘パルテノン跡→熊谷守一美術館→千早公園→峯孝作品展示館→千川彫刻公園→千川駅」というコースがその界隈を示すルートとして紹介されていた。
1930年代アトリエ付き貸家群の中でも大規模だったのが「さくらが丘パルテノン」で、約60戸数あり、画家や彫刻家、詩人といった芸術家達が、苦境の中にも、自由で旺盛な創作活動を送っていたという。
池袋モンパルナスに近く、西武池袋線の「椎名町」あたりを歩くと、戦後の最大の謎の事件である帝銀事件や宮崎龍介・柳原白蓮夫妻が住んだ家もあった。
そして、逃してはならないのが「トキワ荘」跡である。
彼が若き日に東京豊島区椎名町のトキワ荘でに共に暮らした仲間達すなわち、手塚治、石森章太郎・藤子不二男・赤塚不二男らはいずれも漫画世界の「大家」として名を残すことになる。
実は、多くの才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、リーダー的漫画家であった寺田ヒロオの思いがあったからだが、仲間への思いを寄せつつ一切の世俗との交わりを断って1992年に亡くなった。
さて、「池袋モンパルナス」の若手芸術家の中心人物の一人にし寺田武雄という画家がいた。
福岡県八幡市に生まれで八幡製鉄所で働いたこともあった。
日本におけるシュルレアリスムの代表者の一人。その息子が俳優の寺田農だが、農によれば「ぼうふら一匹も殺してはいけない」という慈悲深さを持つ、良い父であったとのこと。
そして、池袋に近い千早にある小さな美術館こそが、画家・熊谷守一の自宅跡で、最近公開された映画「モリのいる場所」の主人公である。
熊谷守一(1880~1977年)は、明るい色彩と単純化された風景、動物や植物の絵で知られ、その容姿や言動から「画壇の仙人」と呼ばれた。
2017年12月から18年3月まで東京国立近代美術館で開催された回顧展「没後40年熊谷守一生きるよろこび」は、入場者数が11万人を突破するなど、その作品は今も多くの人に愛されている。
1985年に次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設し、館長となる。その後、2007年に豊島区に寄贈し区立の美術館となっている。
熊谷守一は、1880年、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎の三男として岐阜県の現・中津川市付知町に生まれた。
父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県議会議員となる。
私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物である。
17歳で上京し、芝公園内にある私立校正則尋常中学に転校するが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、1897年に慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入し、1学期間だけ通って中退している。
1956年76歳の時 軽い脳卒中で倒れ、以降長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。
晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送る。洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。
墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された。
1967年87歳にして、「これ以上人が来てくれては困る」文化勲章の内示を辞退し1972年の勲三 写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式を生み出した。
極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイルを確立した。
子煩悩で大変に子供をかわいがったが、生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。
4歳で死んだ息子・陽(よう)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いた「陽の死んだ日」、結核を患い2年も寝込んでいた長女・萬(まん)の病床の顔を描いた作品、その萬が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品「ヤキバノカエリ」、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子なども絵に残している。
熊谷は日本経済新聞の「私の履歴書」において二科の研究所の書生に「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれた時、熊谷は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えた。
そればかりか、下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と素っ気なくいってのけた。
結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだから、自分にないものを、無理になんとかしようとしても、結局ロクな画にはならないとことを伝えたかったのだろう。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。
熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。
晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。
同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。
面と線だけで構成された独特な画風による作品は、現在も高い評価を得ている。
1977年8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。
2004年には長男・黄(こう)が『熊谷守一の猫』の画文集を刊行し、守一の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈。2015年に中津川市に「熊谷守一記念館」が設立される。
最近公開中された映画「モリのいる場所]では、山崎努と樹木希林が熊谷夫妻を演じる。
この映画の監督は、「南極料理人」で知られる愛知生まれの沖田修一監督(41)で、自身で脚本も執筆したという。
映画は「これは何歳の子どもの描いた絵ですか?」。二科展で熊谷守一の作品「伸餅」を見た昭和天皇が尋ねたという有名なエピソードで始まる。
沖田監督が熊谷守一を知ったのは、11年に岐阜県で映画「キツツキと雨」を撮影していた時のこと。
出演していた山崎努さんから、同県中津川市にあった熊谷守一記念館に行くことを勧められたものの、その時は時間がなく足を運べなかったという。
監督が後で調べたところ、30年間、家から出ないとはどういうことなのだろう。どんなことを考えていたのだろうと、その生き方にも興味を持った。
映画の舞台は1974年の夏のある1日。94歳の画家“モリ”は、結婚して52年目の妻・秀子と彼女を手伝うめいの美恵の3人で暮らしている。
午前中は草木生い茂る庭を“探検”して虫や草木を観察し、深夜に絵を描く生活。
数年前に池袋モンパルナスの一帯を歩いていて、たまたま熊谷守一の小さな美術館に足を踏みいれたのが、個人的にこの画家を知るきっかけとなった。
なにより、対象をやたらに上手く描こうとはしないが、本質は逃さないという姿勢が心に残った。
映画でも「下手でいい。上手は先が見えちまいますから。下手も絵のうちです」などの言葉があった。
それでも、その絶妙な筆さばきで、猫や昆虫がとても愛おしい存在にみえてくるのが不思議だった。
「モリのいる場所」とは、池袋にある小さな「おとぎの国」だったのかもしれない。

寺田ヒロオは、「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。
また「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている。
なお、トキワ荘への入居と「仲間入り」に際しては、条件があった。
『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で優秀な成績を収めていること。
本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていて協調性があること。
最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量には達していること。
こうした基準で厳格な「事前審査」が行われていたのである。
こうした背景を考えると、トキワ荘に居住した(できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート達であり、トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは偶然ではなく「必然」だったのだ。
また、1955年5月に結成された新漫画党のメンバー、すなわち寺田ヒロオ(総裁)、藤子不二雄(藤子不二雄A、藤子・F・不二雄)、鈴木伸一、森安なおや、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二は、トキワ荘に当時かかっていたカーテンに結成を祝って漫画を描いている。
現在そのカーテンは、ひとりのコレクター・鑑定士の所有となっており、漫画界の「釈迦の衣」と呼ばれているという。
ところがトキワ荘には意外な展開がまっていた。リーダー寺田ヒロオが漫画の一線から退くのである。
それは「少年漫画は健全明朗であるべきだ」というスタンスを絶対に譲らず、そういう風潮の雑誌には自ら「距離」を置いていたが故だという。
そして寺田は壮絶に彼自身の信念に殉じることになる。
1990年、すなわち61才で他界する2年前に、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一)を自宅に呼んで宴会をし、終了後に去ってゆく仲間達にいつまでも手を振り続けた。
そして家族には「もう思い残すことは無い」と話していたという。
次の日、藤子Aはお礼をしようと寺田宅に電話をかけたが、寺田は会話を拒否、夫人を通じて「一切世俗とは関わらない」という旨を伝えている。
のだから、それは生半可の覚悟ではなかったことが推測できる。
晩年は一人離れに住み、母屋に住む家族とも顔を合わせることはなかった。
朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、朝食が手つかずで置かれたままになっているのを不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。
しかし、それにしてもナゼこれほどの漫画家が集まったのだろうか。偶然にしては出来すぎである。
さて、西武池袋線・椎名町駅の「トキワ荘の壁画」を降りていくと斜め前に見える大きな「散策マップ」がある。そこには「漫画界の偉人」たちの絵が一枚におさまっている。
そしてこの一帯も、近年の水木しげるの調布同様に、トキワ荘関連で街を売り出している感じもある。
大江戸線落合南長崎駅方面から歩いて数分、トキワ荘通りの入口にある南長崎花咲公園にはトキワ荘のブロンズ像がたっている。

昔からカネはないけど夢だけは大きい芸術家たちが住む街というのがある。
安価な家賃とできたら広いスペース。しかも、アーチストの創造力を刺激する何かがある場所。
もしも「夢の分布図」があるなら、ハングリーさにあふれていた分、夢の濃度が高い場所ともいえる。
1970年代半ば「グリニッジビレッジの青春」というアメリカ映画があった。
とはいっても舞台は1950年代のニューヨーク。
主人公ラリーと同じく俳優や画家などを夢見る若者たちで溢れていた。
そんなグリニッジ・ビレッジは今や高級化がすすみ、芸術家志望の若いアーティストたちはソーホーやトライベッカへと流出した。