ころがる原石

戦った相手チームの選手から「半端ない」と称賛されたサッカーの大迫勇也。
9年前の高校時代、対戦相手チームの主将の「泣きっ面」が大迫選手の応援フラッグになっている。
その顔と「HANPANAI」とプリントしたTシャツが爆発的に売れている。
Tシャツで思い浮かべたのが、アルゼンチン・メッシ選手の伝説の「(仮)契約書」である。なんと紙フキンに書かれている。
メッシが13歳くらいの頃、バルセロナの入団テストを受けた。すると、入団担当者はそのあまりの天才ぶりにすぐにもメッシ選手と契約すると言った。
しかし、契約書は無いので、ともかく近くにあった紙フキンで「代用」したというものである。
あるテレビ番組の検証によって、その「紙フキン」の存在が確認されていて、そこには「いかなる障害があろうとも、メッシと契約する」と書かれていた。
当時メッシは、「低身長症」という奇病にかかっていただけに価値が高い。
メッシや大迫ほどに周囲を慌てさせるほどの煌めきはなくとも、「自分ができるのは何か」と模索したり、夢をおって悪戦苦闘するうちに、次第に光を帯びてくる存在がある。
「転がる石には、苔(こけ)が生えぬ」という言葉があるが、そういう存在を単なる「石」ではなく、「ころがる原石」と呼ぶことにしよう。
まず思い浮かんだのが「アンパンマン」の声優・戸田恵子で、彼女には、知られざる歴史がある。
1974年に、「あゆ朱美」の名で「ギターをひいてよ」という曲で、演歌歌手としてデビューするも、ほとんど注目されることはなかった。
そして、長年の心残りを打ち払うかのように、2007年に、アルバム「アクトレス」で33年ぶりの歌手活動を再開した。
なにしろ、彼女が知りあった才子・三谷幸喜、秋元 康、宇崎竜童、中村中などを「召集」して作った豪華作品であったから、彼女の「人間力」を物語るものといってよい。
戸田は三谷幸喜との出会いをきっかけに、「女優」としても活動したが、実は女優としても前身があった。
戸田は、小学生の頃からNHK名古屋放送児童劇団に在籍し、「中学生日記」で女優デビューもしていたのだ。
以前TV番組「ミューズの神様」で、戸田恵子とシンガーソングライター中村中(あたる)が、素晴らしいコラボレーション作品を生み出したことを知った。
このアルバム「アクトレス」のなかで一際輝いた曲が「強がり」という曲で、「泣ける曲」として評判となった。
歌の冒頭を紹介すると、
「♪急にため息ついたりしたらホラねやっぱり驚くわね。いつからだろう強い女になっていまった。
口先ばかり上手になって本音いうのも楽じゃないわね。どうせみんな見てる事ばかり信じたがるのよ♪」
「強がり」制作に当たっては、戸田恵子と中村中がスタッフも入れずに二人きりで一晩飲み明かし、語り合い、この曲が完成したのだそうだ。
戸田の舞台の中でこの曲が披露されるや、各地で反響を呼び、会場では「号泣」する人が続出したという。
舞台終了後もシングル化の熱烈な要望が多く寄せられ、ついにシングル化が決定した。
「強がり」のカップリングには、自身が声優を務めた名作アニメ「キヤッツ・アイ」のテーマ曲「キャッツ・アイ」を新録音でカバーしている。

元西武ライオンズの野球選手「GG佐藤」も、石ころのように転がりつつ、ついに輝きを放つことになった人である。
個人的印象をいえば、実力があるのかないのか、運がいいのか悪いのか、小心なのか大胆なのか、とらえどころがない選手。
GG佐藤の本名・佐藤隆彦は、名門進学校の桐蔭学園から法政大学にはいったが、「GG佐藤」を登録名にしたのは、見た目がジジくさかったからだという。
名前のユーモアまではイイけれど、なにしろ北京オリンピックという大舞台で、信じがたいエラーを連発。必死度が過ぎたのか、陽のあたる舞台が眩しすぎたのか。
なにしろ甲子園への出場体験はなく、大学時代も控えだったのでドラフトで指名されることもなく、とにかく野球を続けるためアメリカ・チームの入団テストを受けた。
すると「肩がいいから、キャッチャーなら」といわれ、「イエス」というほか前に進めず、契約した。
そしてこの決断は大正解で、たとえフィリーズの1Aつまり3軍ではあったものの、試合の出場機会に恵まれ、結構成長していることを実感できた。
ただ、英語が話せないから、話し相手はおらず、いつも一人ぼっち。タメ息をついて下ばかり見ていたら、地面を走り回っているトカゲに親近感をおぼえたりもした。
ところがある日、上を見ればきれいな星が空いっぱいに輝いていて、自分はアメリカで野球をやっているんだという充実感が湧きあがってきて、つらい時こそ、うつむかないようにしようと心がけたという。
しかし、アメリカでの生活は3年で終わりを告げた。慣れないキャッチャーで肩を痛め、チームから放り出されたのである。
帰国後、ジャニーズ事務所の警備係などのアルバイトをしながら、腕試しまたは運試しに西武ライオンズの入団テストを受けた。
当時の西武は、不動のレギュラーだった伊東勤が監督に就任し、キャッチャーに「空き」があったことが幸いして合格できた。
アメリカでプレイするために無理してキャッチャーになったことが、日本のプロ野球への門を開いてくれたわけだ。
念願のプロ野球選手になり、「キャッチャー」登録ながら外野手としてプレイした。
するとバッティング力が開花し、オールスターにも出場し、北京オリンピックの日本代表にも選ばれた。
その野球人生の絶頂であったオリンピックという大舞台で、2試合つづけて、敗戦につながるエラーをしてしまう。
ドン底まで落ちこんで、大失敗を挽回しようと張りつめた思いで臨んだ次のシーズンでは首位打者を争うほどの活躍をみせた。
ところが、あのエラーから3年、しかもケガから復活しようと必死に練習したオーバーワークがたたった。
深夜まで筋肉トレーニングをして、そのあとは明け方まで素振りという生活を続け、ついに限界がきてしまった。
朝、起きると、胸の動悸がおさまらず、救急車で病院へ担ぎこまれた。それから体を動かすのが怖くなり、完全に気力を失ってしまった。
そして36年の人生で4度目のリストラをうけ、西武を離れ新天地イタリアへ向かった。
陽気なラテンの国で野球をやれば、また野球が好きになれるかもしれない。野球よ、ありがとう、最高だったという思いで引退したかったのだという。
ところがサッカーが中心のイタリアで、野球がすべてではないと、人間として多くを学び、世界観が広がった。
イタリアから帰国して、千葉ロッテの入団テストを受けてみると、肩の力が抜けていたのが幸いしたのか合格することができた。そして野球人生最後の1年間を日本のプロ球団で締めくくることができた。
今、佐藤は、スーツを着てネクタイをしめ、新たな取引先を求めて歩き回る毎日を送っている。
人生を野球の試合にたとえると、まだ中盤にも達していない。
プロ野球選手だったことは、回り道だったかもしれないけれど、最後はいいカタチで終わりたいという思いのようだ。

俳優の藤本隆宏は、もともと水泳選手、岩崎恭子が金メダルをとったソウル・オリンピックに出場している。
マスメディアは岩崎恭子の金メダルに殺到し、藤本についての報道はほとんどなかった。
福岡久留米の西日本短期大学高等学校時代、競泳選手として数々の好記録を出して早稲田に進学し、オリンピックに出場するもメダルを取れなかったことへのワダカマリは残った。
6歳から水泳を始め、練習量の多い時は、1日に2万5千メートル以上も泳ぐほどの「水泳漬け」の日々だった。
1988年に18歳でソウル五輪に出場し、次のバルセロナ五輪(92年)では400m個人メドレーで8位入賞した。
この種目で日本人初の決勝進出を果たしたのだが、五輪でのメダルがすべてであったため、同競技における日本史上最高位であったにもかかわらず、少しも嬉しくなかったという。
そこで、もう一度メダルを目指そうと大学卒業後にオーストラリアに水泳留学したが、記録は伸び悩み、結局アトランタ五輪の代表選考会を兼ねた日本選手権で惨敗し、1996年4月引退した。
藤本が、オーストラリアに水泳留学をした頃、初めて観たミュージカルが「レ・ミゼラブル」であった。
その時の舞台と客との一体感が、五輪会場の雰囲気と重なったように興奮と衝撃が身体を巡った。
その瞬間に、これこそが自分にとっての水泳に代わるもの。いや、それ以上のものという感触をえた。
大学卒業後すぐに、劇団四季の研究員として、俳優稼業をスタートさせたものの、歌やせりふができないばかりか、ダンスもできない。
スポーツやってきているのに、手足が伸びないし、リズムにも乗れない。水泳時代には経験したことのない「落ちこぼれ」体験だった。
下積みの劇団時代に、元水泳選手・木原光知子と出会い、彼女のスイミングスクールで教えることもあった。
そして早稲田大学人間科学部卒業後の1995年、劇団四季のオーディションを受験し合格、研究生として俳優をスタートし、初舞台は1997年のシェイクスピアの「ヴェニスの商人」であった。
しかし俳優へと転身する道は険しかった。
1996年、母校西日本短期大学付属高校を訪れた。後輩たちの姿を見て、体育館でバレーボール部が練習している姿を見て、自分の「原点」を思い出した。
水泳とて最初から速かったわけではない。自分が水泳でやってきたように努力をすれば絶対にできるようになる。
もう一回コツコツ努力することの大切さを思い出し、頑張ろうと立ち返ることができた。
俳優・藤本には、ゼロから努力して今を掴んだだけあって、名言といえる言葉がある。
例えば北島康介のように、五輪で2連覇した選手なら、「自分のため」だけでは3連覇に向けてのモチベーションを維持するのは難しい。
しかし「誰かのため」「何かのため」であれば頑張れる。そして、自分のためではなく周り、お世話になった人のために頑張りたいと思うのが、一流のスポーツ選手に共通のものであることを知る。
ドラマ「坂の上の雲」でも明治期の若者たちが、国のために勉強をし、両親や兄弟のため、恩師のため、つまり誰かのために頑張ろうと立派な仕事を成し遂げたこととも通じるものがある。
藤本は、芸能界という所は、元プロスポーツ選手や誰かの二世といった人たちであれば、経験が浅くても比較的チャンスが与えられる世界だと思っていた。
しかし藤本の「俳優転身」は、メダルが取れずに逃げるように入った世界とみられても仕方がない。
だから「元オリンピック選手」の肩書きを使うのはやめ、「違う藤本」で勝負しようと、水泳の元五輪選手という経歴は「封印」してきたという。
芸能界は努力そのままに答えが出るほど甘くはないが、水泳を一生懸命やってきたからこそ、演劇の世界でも頑張れた。
その藤本は、NHK「坂の上の雲」で主人公の親友、広瀬武夫中佐を好演し、一躍世間の注目を浴びた。
たまたま「坂の上の雲」のエグゼクティブ・プロデューサーが事務所の社長と旧知の間柄であったことから、幾度も藤本の出演舞台に足を運んで演技を見て「広瀬役」に声がかったという。
藤本の実家は福岡県宗像市で、宗像沖は日本海海戦の舞台となったところでもあるので、役柄にも縁があったわけだ。
藤本自身、ドラマの中で演じた明治人のように、「誰かの為」があったからこそ、無骨でひたむきな努力が出来た人であったにちがいない。

演出家の蜷川幸雄には次のよう言葉がある。
「光がいったときには、普通の人の屈折率よりも違う ふうに光が入って、演劇が立ち上がるんだ」。
世の習いにうまく合わせられない人、生き方がこじれている人のほうが、演出に対し複雑に反射するので、演技に独特の綾が生まれるからだという。
おのずから時代の陰を背負ったような演技になって、それだけ厚みを増すのかもしれない。
これは、「俳優」について語っているのだが、それはその人が生み出す「表現全般」についても同じことが言えそうだ。
近年、”SEKAI NO OWARI”のステージなどに登場する「パラパラ動画」が人々の感動を呼んだ。
制作者は「鉄拳」という人物だが、プロレスのマスクをしているのが謎である。
元々漫画家志望で、初期の作品があるコンクールで入選したものの、次が出ず漫画家の夢を断念した。
高校卒業後は二番目の夢であったプロレスの世界を目指して、FMW(超戦闘プロレス)に入団がかなうが、「レフェリー」としての採用だったことにガッカリ。まもなく退団する。
次いで俳優の世界に挑戦。1995年に劇団東俳に入団するものの、「滑舌」の悪さははなかな修正できず、こちらも退団する。
そこで、自分の挫折の繰り返しを「逆手」にとって、「滑舌の悪いレスラーの格好をしたゴツイ男が得意の絵を活かして芸をしたらどうだろう」と考え、「芸人」の世界に飛び込んだ。
独特の風体のお笑い芸人「鉄拳」として活動を始め、ある程度人気を得ることができた。
その後、個人事務所「鉄拳社」に籍を移すが、唯一のマネージャーの退社で、全ての仕事を一人ですることになってしまう。
そのうち、体を壊して8か月間休養することになった。
そこで、「マネージャー不在」を解消するために吉本興業へ移籍するが、周りのスゴサに圧倒され、芸人としての自信を失い、2011年夏に芸人を辞めることにした。
芸人引退を覚悟の上、しばらく仕事をこなしていたら、芸人がカラオケ・ビデオに「パラパラ漫画」を描くという企画があった。
他の芸人がドタキャンし、急遽絵の描ける芸人としてオファーが入り、これを受けた。
ところが、これがテレビのプロデューサーなどの目に留まり、「パラパラ漫画家」としてテレビ出演が増え、芸人廃業を撤回するに至ったという。
芸人の「鉄拳」が世に広く知られたきっかけは、イギリスのロックバンドMUSEの楽曲「エクソジェネシス(脱出創世記):交響曲第3部(あがない)」をバックに、左右に揺れる振り子の中に夫婦の半生をマジックペンで描いた「振り子」であった。
それが、日本国内のみならず海外を含めて一躍注目を集めることになり、逆に「振り子」の映像が「エクソジェネシス(脱出創世記):交響曲第3部(あがない)」の公式プロモーションビデオに採用されるに至り、全米・ヨーロッパなど世界各地で配信された。
そして、鉄拳のペーソスあふれる「パラパラ動画」は、多くの人々の心をとらえた。
その感動は、演出家・蜷川幸雄のいうところの「光の屈折」によるものかもしれない。
また「鉄拳」氏のような人生は、目の前にある出来そうことならとにかくやってみるという生き方。
ころがった分だけ、光に対し「複雑な屈折率」を生むのが「原石」とよぶにふさわしい。