板付基地の記憶

政治の世界でも、スポーツの世界でも、「指示」の出所が話題になっている。
学校建設をめぐる財務省の森友文書の改竄問題や、アメリカンフットボールの日大の悪質タックルにつき、トップの指示があったかどうか、財務省の佐川前理財局長と日大の内田監督の「指示」がほぼ認定されることとなった。
いずれもトップがそこまでの行為に及んだということになれば、ガバナンス云々の問題を通り越している。
ところで先日、西日本新聞の小さな記事に目がとまった。それは、50年前のある事件の「事後処理」につき、今まで謎とされてきた「指示」の出所が判ったというものだった。
その真相については、驚きの反面、やっぱりかという思いも交叉した。
1972年6月2日は、ベトナム戦争中に米軍板付基地(現福岡空港)へ向かっていた米軍のファントム機が、九州大学箱崎キャンパス内の建設中の大型計算機センターに突っ込み炎上した。
パイロットは墜落直前に脱出し、建設中の現場で人は少なく死者はでなかったものの、墜落場所が少しでもズレていたら多くの死傷者をだした可能性が高く、学生達に衝撃を与えた。
1961年12月には香椎の民家に戦闘機が墜落し3人が焼死しており、地元にはその記憶もまだ生々しく残っていた。
実は、九州大学箱崎キャンパスと板付基地はわずか3キロしか離れておらず、戦闘機の爆音のために、しばしば講義を中断せざるをえなかった。
教員も学生もその鬱積がたまっていたことに加え、世論として「ベトナム戦争反対」に機運も高まっていた。
そのために、ファントム機体の引き渡しの拒否という形で抗議運動が噴出していった。
実は、板付基地は1945年に米軍が接収して以後、板付基地は朝鮮戦争、ベトナム戦争の第一線基地だった。
米軍機の墜落や炎上事故は相次ぎ、それまでに板付基地関連で252件、うち31件が墜落・炎上で死者は20人に上っていた。
また1968年には、空母エンタープライズの佐世保入港が、アメリカ軍への抗議が高まっていたということも背景にあった。
九州大学の水野学長が先頭に立って市内をデモするなど、学内外で抗議の動きが広がり、「板付基地」撤去を求める世論が高まった。
その結果保守も革新も一体となって「オール福岡」の運動の様相を帯びていった。
反米運動は米軍基地の門にまでおよび、滑走路の延長上に住民が陣取った。
米軍は、このままでは日米安保がもたないかもしれないという危機感を募らせた。 そして市民の感情をやわらべようと、板付基地は沖縄の嘉手納基地へと移すことになった。
この点につき、米軍再編の一環との見方もあるが、福岡の反基地運動を米側が注視していたことを示す「米外交文書」がある。
例えば、朝鮮戦争で軍事作戦利用は板付と岩国だけであるとする一方、「政治問題化」を最小限に抑えるために板付を「予備的」基地に変更するなどしている。
そして、70年代を境目に板付ばかりか本土の基地は次々に沖縄に移転し、米軍基地の70%が沖縄に集中するようになる。
そして1972年、板付空港から「福岡国際空港」と名前が変わった。
ところで、ファントム墜落機を「反基地闘争」の象徴としたい学生側は、機体周辺にバリケードを張り撤去に抵抗した。
ところが翌年1月5日未明、「謎の集団」によって重機を使って機体を引き下ろされ撤去された。
それは、墜落から7か月後の早朝のことで、その集団が土木業者だと判明したものの、「誰の指示」であったかは不明。学内に「調査委員会」も組織されたが、判明しなかった。
そして2018年6月、これまで謎とされていた「指示者」について、九大大学院の折田悦郎教授(大学史)が当時の水野高明学長(故人)であったとする研究成果をまとめた。
それを裏付ける関係者の証言が得られたという。
実は、水野学長の関与が当初疑われたものの、記者会見では「引き下ろしは予想外。大学のメンバーは関与していない」と発言している。
直後に学内混乱の責任をとって辞任し、96年に亡くなるまで関与を認めなかった。
関係者への聞き取りなど調査を続けていた折田教授によると、ある教授から「水野学長の研究室関係者」が事に当たり、「当日は、作業状況の確認のためのグループも組織された」などの具体的な証言が得られたという。
折田教授は、水野学長が、学生が抵抗する中、大学の自治を守るため、外部の介入を受けないよう自ら解決を図った。さらには自分の指示で動いた研究室の後輩を守るために口外できなかったのではないかと推測している。
それにしても、ファントム機撤去の指示が、板付基地反対運動の先頭に立っていた人物から出たとは、意外にも思えるが、学内のいち早い正常化をはかりたい学長の立場からすれば致し方ないことだろう。
ちなみに板付基地は完全に返還とまではなく、日米共同使用施設やアメリカ軍の「専用区域」である駐機場もある。
アメリカ軍の許可がないとはそこにはいれないし、それがあるのは民間空港としては福岡だけである。
さて、板付基地があった時代に、忘れがたい事件が起こった。
板付空港が日本初のハイジャック大事件の舞台のひとつとなったのだ。
1970年3月31日、羽田空港発板付空港行きの日本航空351便(愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。
離陸からおよそ12分後の7時33分頃、「赤軍派」リーダ田宮高麿ら9人が日本刀などで乗員を脅し「平壌(ピョンヤン)へ行け」とハイジャックした。
石田機長は「この機は国内線専用だから、北朝鮮に行くには燃料補給が必要だ」と犯人側と交渉し午前8時59分、福岡空港へ着陸した。
乗客121人、乗員は7人であったが、犯人達は、乗員・乗客が機外へ出ることを禁じ燃料補給をした。
警察との交渉で、女性・老人・子供の23人を降ろして、午後1時58分、福岡空港を離陸し朝鮮半島へ向かった。
グループは北朝鮮へと亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。
石田機長は、地上当局と連絡をとってピョンヤンではなくソウルの金浦空港に着陸したものの、米軍機見えるなどして「偽装」が見破られた。
乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放され、その後の交渉で運輸政務次官の山村新治郎が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した。その後に平和裏に帰国し、英雄視された。

2017年11月の1週間、春日市岡本の「市奴国(なこく)の丘歴史資料館」で、「遺産の大切さ気付いて」というテーマで特別展が開催された。奴国といえば、志賀島で発見された「金印」を授かった奴国王の王墓であるため、そのための特別展かと思ったら、全然違っていた。
実はこの「遺産」の中身とは、特別展の副題によってすぐに判明した。~「米軍ハウスの世界~あのころ、春日のまちにアメリカがあった」。
戦後、占領軍が福岡にも進駐、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍板付基地などの人員も急増した。
「米軍ハウス」とは50~60年代に基地外に建てられた将校向けの住宅のことで、春日原、白木原地区と福岡市の西戸崎地区とで約1200戸が建設されたという。
現在、春日原・白木原地区に約50戸残り、住宅やカフェとして活用されたりしている。
マンションの建設で米軍ハウスは消えつつあるが、今回の展示で地域の歴史的遺産としての大切さに気付いてほしいという趣旨で開催されたものである。
さて、この「奴国(なこく)の丘歴史資料館」のある岡本のすぐ前は、米軍ハウスがあったあたりで、現在は陸上自衛隊の春日駐屯基地となっている。
ここからJR南福岡駅には徒歩で20分ほどでつく。この駅のあるあたりは、「雑餉隈(ざっしょのくま)」という名の街で、西鉄電車の駅は「雑餉隈」で、基地とセットのように歓楽街が広がっている。
町の名前にも似て、この町には武田鉄矢や千葉真一など雑草のように逞しい人々を生み出している。
また、今や世界企業の「ソフトバンク」や地場のスーパー「マルキョー」などの創業の地である。
また、この地がモノ作りやにおいても、優良工場や達人を生み出したが、それは進駐軍が駐屯していたという歴史と関係がある。
雑餉隈の町工場の経営者・吉村秀雄は、マフラーやカムシャフトなど奇跡の部品を生み出し、その手は「ゴッドハンド」とも言われた。
吉村秀雄は、雑餉隈で製材所を営む家庭に生まれ、横須賀の追浜基地にあった予科練に14歳で入隊し、霞ヶ浦航空隊での訓練中に落下傘事故で入院し、海軍を除隊となった。
太平洋戦争では、現シンガポール支部に転任となったが、1945年の終戦間近には胃潰瘍で実家のある雑餉隈で療養中に終戦を迎えた。
雑餉隈は板付飛行場に近いためアメリカの進駐軍が駐屯していた。終戦後に吉村の実家は鉄工所をはじめたが、商売の足として使用していたオートバイに興味を覚えるようになり、オートバイ屋「ヨシムラモータース」を創業した。
シンガポール赴任で英語を覚えた吉村のもとには、オートバイ好きの米兵が出入りし、米兵はいつしか吉村のことを「POP」(親父)と呼ぶようになる。
そんな吉村に運命の転機が訪れる。1954年進駐軍の兵士からレース用にと「バイクの改造」を依頼されたのだ。そして板付基地で行われたドラッグレースに出場した吉村は、オートバイの加速に飛行機の離陸に通じる魅力を感じた。
そして勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がった。あの本田荘一郎でさえも「ヨシムラ」が生み出す部品に脱帽するほどであった。
 1965年、吉村は九州から横田基地のある東京都西多摩郡福生町(現・福生市)に移り「ヨシムラ・コンペティション・モータース」を設立する。
やがて、ホンダから部品を提供してもらいマシーンを改造するという契約を結んだ。
しかし、自らレース専門会社を設立したホンダは、態度を一転させて吉村との契約を断ち、部品の提供をストップした。
そこでアメリカの市場に飛び込んだが、共同経営者に会社を乗っ取られ、再起をかけた新工場も火事で焼失する。
この時、吉村自身も両手が動かぬほどの瀕死の重傷を負った。そんな絶体絶命の吉村の前に現われたのは、「レースで勝ちたい」と願うバイクメーカーの技術者達であった。
そして吉村は家族と共に、一発逆転をかけ1978年「第一回鈴鹿8時間耐久レース」にうって出る。そして並み居る大メーカーを退けて優勝をさらった。
そしてその後の優勝を含め、通算4度の優勝を果たしている。
ところで、雑餉隈とその近辺には、西鉄「雑餉隈」駅と、JR「南福岡駅」が存在し、「南福岡駅」に近い相生町あたりには「渡辺鉄工所」がある。
この「渡辺鉄工所」は現在、鋼材を切るスリッターラインの技術において日本でトップクラスといわれる技術を擁しており、バスの車体や潜水艦の船体などを製作している。
実は、この工場もともとは軍事工場で、かつて「九州飛行機工場」とよばれていた。
太平洋戦争末期、敗戦色濃厚な日本の「起死回生の切り札」として、戦闘機「震電」がこの工場で開発された。
「震電」は、制作図面30万枚、2万工程という苦闘の果てに完成し1945年8月3日に初飛行を行った。しかし皮肉なことに、初飛行から約10日後、日本は終戦をむかえたのである。
終戦後、米軍はこの「震電」の開発に早くから目をつけており、米軍はこの九州飛行機工場のすぐ近くに駐留して、いちはやく「震電」を接収しアメリカに運んだ。
現在、アメリカ軍が駐留していた場所は、自衛隊春日駐屯地となっているが、その正門はほとんど渡辺鉄工所(旧九州飛行機工場)と向かい合うように立っている。
アメリカに移送された「震電」はスミソニン博物館に保管されることになった。
雑餉隈で開発された幻の名機「震電」は、日本に原爆を落とし、日本を敗戦へと導いた飛行機「エノラゲイ」と共に、今もスミソニアンの地で静かに眠っている。

背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この背振山は「世界的」といってよい業績を生む実験場であった。
さて、大リーグでその独特の投球フォームから「トルネード投法」(竜巻投法)と呼ばれた投手・野茂英雄が近鉄バッツファローズに入団した1990年、アメリカ・シカゴ大学では、もう一人の「ミスター・トルネード」が定年の日を迎えていた。
「竜巻研究」の権威として世界にその名を残した藤田哲也である。
藤田は、1920年、福岡県企救郡(現・北九州市小倉南区)生まれた。旧制小倉中学(現小倉高等学校)に学び、旧制明治専門学校(現九州工業大学)機械科に進んだ。
1947年、脊振山の測候所で気象観測を続けていた藤田は、解析したデータから雷雲の下に「下降気流」が発生していることを発見した。
実はこの脊振山は、1925年フランスの空の英雄「ジャッピー」を山肌にたたきつけた場所として世界でも名を知られている。
瀕死のジャッピーは背振の住民に救出され、九大病院に入院後に帰国している。
ところで藤田がアメリカに向かい竜巻の研究にむかう契機となったのが、背振山における研究を「論文」にまとめてアメリカ・シカゴ大学のバイヤース博士に送ったことである。
藤田をアメリカに招待したいという返事がきたのである。そして藤田の名を高からしめたのが、アメリカ・ケネディ国際空港における事故だった。
1975年6月24日 ニューヨーク市のケネディ国際空港で死者125人を出す大事故が起きた。
当初は、事故の原因はパイロットのミスとされたが、航空会社に依頼されて藤田博士が調査した結果、強い「下降気流」が原因だと判明し、藤田はこれを「ダウンバースト」と名付けた。
藤田は、自ら考案した「ドップラーレーダー」でダウンバーストを探知することに成功したのだ。
そのデータを地図上にプロットした博士は、同じ下降気流のダウンバーストにもスケールの違いがあることに気づき、マクロバーストとマイクロバーストの二種類に分類している。
そしてケネディ国際空港の事故は、マイクロバーストが原因であったことを指摘した。
この藤田の功績により、アメリカをはじめ各国で「ドップラーレーダー」の設置がすすんでいった。
日本でも、主要空港9ケ所に設置されており、福岡国際空港にもドップラーレーダーが設置されている。
1998年11月、藤田はシカゴでの78歳で亡くなり、故郷・小倉の曽根の地に眠っている。
そして、藤田の「ダウンバースト」の実験場となった脊振山を遠く仰ぎ見ながら、ドップラーレーダーは、福岡国際空港の飛行機の離発着を見守っている。