一流アスリートの条件

素直にして頑固、それに文章を書く習慣~これが超一流のアスリートの条件。
そこまではいわないにせよ、少なくともフィギュアスケートの羽生結弦と二刀流の大谷翔平との間に見つけた共通点である。
 二人は、素直に人の話を聞くが、様々な人の助言や知見の中で、自分に合う手法を取捨選択する。
「自分に合う」ということだから、自分という芯(基準)があるのは確かで、その意味では頑固である。
頑固というのは、見方を変えれば、「内なる声」に素直であるともいえる。
 そして、その芯の形成と関わっているのが、日ごろから「文章を書く」という習慣のようだ。
羽生は、言葉にして整理することの強さを、あらためて示したアスリートではなかろうか。
 羽生は、小学校低学年のころからコーチに勧められてノートに思いを書き留めてきた。
それが、時々の感覚を自分なりの言葉にすることに習慣化するようになった。
 ソチ五輪前には、寝る直前に布団でイメージトレーニングをし、ヒラメキがあれば起き上がって記録すると語った。
 平昌五輪では右足首のけがを抱えていたが、練習できない分、ケガからの回復と復帰について書かれた記事や論文を読んで勉強したという。
 羽生は、国民栄誉賞受賞決定のコメントで、まだ続く道を一つ一つ丁寧に感じながら、修練を怠ることなく、日々前に進んでいくと表した。
競技によって選手生命の違いはあっても、大リーグのイチローが積み重ねた記録の数々を想起したが、  イチローのように、積み重ねた貴重な経験を独自の言葉にして、いつしか「羽生語録」が生まれるのかもしれない。
 また大リーグで旋風を起こしている大谷翔平は、奇しくも羽生と同じ23歳。
大谷の身体能力はケタ違いだが、大谷をよく知る人は、彼の素晴らしさの根源を「内面」に見ている。
身体能力は両親から受け継いだ要素が強いとしたら、彼の思考力や向上心といった内面的な特徴は「後天的」に身にけたといってよい。
 日本ハムスカウト顧問は、大谷と出会った印象につき次のようなコメントをしている。 この道が好きで、自らやっている。それを一番感じるのは、他者の助言を自分なりにアレンジしているということ。
 また他のスポーツライターは、大谷の「言葉を書き、頭に入力する習慣」を力の原点にあげている。
 多くの選手は、周りからいろいろ助言を受け、かえって混乱して調子を崩すことが多い。
ところが大谷は、自ら助言を求めそれを素直に聞くけれど、そのまま実行するのはせいぜい3割。残りの7割は今の自分に必要な方法にアレンジしているみたいなのだという。
大谷は誰に何を聞いても、自分の頭で「良い/悪い」をふるい分けている。
大谷は、素直だけれど実はとても頑固、謙虚だけれど大変な自信家。そして常に、黙って一人でじっと考え、道を切り拓いていく。  北海道日本ハムのGMは、入団交渉を重ねたとき、同席する本人は質問もしない。本当に聞いているのだろうか、と思った。
ところが最後に急に「お世話になります」といってきて、キツネにつままれた気分だったという。
 そして記者会見で、大谷がちゃんと説明できるのか心配していたら、球団と何を話しどう考えて結論を出したかを理路整然と話した。その時日ハムGMは、大谷が自分の話をじっくり聞いていたことに初めて気づいたという。
 ところで日本プロ野球の世界で、「二刀流」で成功した例はない。栗山英樹監督がそれを決定し、大谷は「大丈夫か?」とかいう不安をもらしたことはない。
 当初大リーグ入団を希望していたが、栗山監督から「二刀流」をやらせるというから興味を持ったと語っている。
 また、栗山監督からシーズン後に大リーグ行きに問われると「今年、行きます」と言う。2年後のほうが格段に年俸も上がるし、条件もいいのではと聞いても、「いえ、もう行きます」と応えた。
大谷は、球団関係者の誰にも全く相談することなく、自分で決めた。両親は大谷が幼少の頃より、本人の好きなように任せ、おおらかに育てた。
 ただ、野球の監督だった父は小学校5年ごろまで息子に「野球ノート」をつけさせている。
毎日試合での反省や課題を書かせ、父親がそれに返答するので、父子の「交換日記」のようなものだ。
 父は「書くこと」を重視し頭に入力する習慣をつけさせた。それが大谷の「内面形成」につながっている。
大谷はその内面形成の中で、物事を効率よく処理するとか、リスクとメリットを比較・計算するとかいった能力を身につけたわけではない。
 むしろその逆で、「~したい」という自分の中でわいた「内なる声」にシンプルに従うという、凡人がなかなかできないことをあっさりと実行する能力。
したがって2年待てば大型契約を結べるといった計算はしない。
 大谷は、その意味でこの世離れしていて、世間一般の物差しや価値観からは離れたところで生きているといえる。それは、「書く習慣」により自らを掘り下げることによってはじめて形成された「芯の強さ」から来るのではなかろうか。

 王貞治といえば、野球への並み外れた執念の持ち主だったというのが定説である。
しかし、荒川コーチは、意外にも「王は怠け者だった」というのだ。
むしろ長嶋は隠れた努力家だった。
 1962年、当時の川上哲治監督に王を育ててほしいと呼ばれて巨人のコーチになった。
その前の3年間、王のホームランは「7本、17本、13本」で、打率も2割5分前後である。
 川上監督の注文は「ホームラン25本、打率2割7分を打てるバッターに育ててくれ」というもので、荒川は大変な仕事を引き受けてしまったと思ったという。
 なにしろ、キャンプで王を見ていると、トス・バッティングでも空振りするほどだった。
巨人に入ってバット・スイングをしたことがあるかと聞くと、グラウンド以外では滅多にやらないという。
 その時、荒川氏は「銀座通い」を欠かしたことがないという王の噂は本当だったと知ったという。
だが、荒川が見たところの王の最大の長所は、習う際の「素直さ」。その点で水泳の荻野公介に似ているのかもしれない。
 普通の選手は少し上達すると、自分でやっていけると考えるようになるが、王はそうならなかった。
1965年、3年間の修業の後、55本という最多本塁打の記録を作った。 荒川が王に「もう何をしてもいい。解放するから俺のところに来なくていい」と言うと、  王は正座し直して「今まで以上にしごいてください」と応じた。その規格外の素直さに、荒川は二人三脚で「ホームランの世界記録」をつくってやろうと思ったのだという。
 結局、荒川は、怠け者だった王を鼓舞したというより、「努力の仕方」を教えたということである。
 さて個人的に、大谷翔平と「この世離れ」している点で似ていると思う選手が落合博光である。
日米の野球文化を比較したホワィティングの著「和をもって尊しとなす」という本の中に、若き日の落合博満のことがとても印象的に書いてある。
 落合は小学校の頃、長嶋茂雄や王貞治に憧れて野球を始めた。1969年に秋田県立秋田工業高校に進学し、一応野球部に在籍していた。しかし野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かったという。
 特に「マイ・フェア・レディ」は、英語の歌詞を覚えたほどだったという。物語は、言語学専門のヒギンズ教授はヒョンなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣いの花売り娘イライザをお嬢様に仕立て上げることになった。
 まだまだ階級社会の文化が色濃く残るイギリス社会を舞台に繰り広げられるロマンティック・コメディ。この映画を7回も見に行ったという落合だから、まともに練習に打ち込めるはずがない。
ついに、先輩による「理不尽」なシゴキに耐えかねて野球部を退部した。  
しかし投打共に落合ほどの実力を持った選手は他にはおらず、試合が近づくと部員たちに説得されて復帰した。
 落合は野球部を7回「退部→復帰」を繰り返しているので、落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していたことになる。
 1972年、東洋大学に進学するも、「体育会系」の慣習に馴染めず、わずか半年で野球部を退部して大学までも中退してしまった。
 秋田に帰ってボウリング場でアルバイトをしつつ、プロボウラーを志すようになった。 ところがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まり、反則金を支払ったことで受験料が払えず、これも挫折してしまった。
 1974年、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めで、東京芝浦電気の府中工場に「臨時工」として入社した。
同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わり、ここでの在籍5年間でようやく頭角を表した。
 1978年にアマチュア野球全日本代表に選出され、同年ドラフト会議で25歳にしてロッテオリオンズに3位指名されて入団した。
というわけで、プロ野球選手としては遅いスタートとなった。
 あるテレビ番組で見た、落合がバッテイング・センターでマシーンの「正面」に立ちはだかってボールを打ち返すミートの確実さに驚嘆したが、それが別の番組に登場した落合の幼馴染の証言と重なった。
 落合が少年時代に友人達と川べりで棒切れに石ころをあてて飛ばす遊びをしていた。
幼馴染によれば、その落合の姿で印象に残っていることは、皆が力まかせに棒切れをふって石ころをたたいていたのに、落合はやわらかく棒の芯に当てていて、しかもその石ころは誰よりも飛んだという。
 落合には誰からも教わらない天性のバッテイングセンスが備わっていたことを示す証言である。
その落合が「師」とあおぐ人物が、意外にも投手であった稲尾和久である。  1984年、稲尾和久がロッテ監督になった年、落合はすでに、ロッテの主砲で、不動の4番打者。その2年前には、最初の三冠王にも輝いていた。
 球界を代表するスラッガーとして勢いに乗っていたものの、稲尾は監督就任した年、落合はこれまで経験したことのない「大不振」に陥っていた。
シーズン序盤、打率はなんと1割8分台にとどまっていたのだ。
 ある日稲尾が、いつものように試合から1時間以上もたって球場を後にしようとした時、掃除のおばさんが「まだ残ってる選手がいて掃除ができない」とボヤいているのを耳にした。こんな遅くまで、誰が残っているのだろうとロッカールームに行くと、そこでは落合が大鏡に向かってひたすら素振りをしていた。
 稲尾は人目を避けて黙々と練習する落合の苦悩を見てとり、落合に「お前が4番を外してくださいと言わない限り、俺は外さない」と声をかけた。
 落合の不振はその後も続き、コーチからも落合を4番から外すよう進言されたものの、稲尾は落合を4番で使い続けた。
落合自身も、ついに最後まで「外してください」とは言わなかったという。
 ところが落合はシーズン後半から復調して打ちに打ちまくり、オールスター以降の打率は4割をマークし、シーズン打率も最終的には3割台に乗せている。
 稲尾は落合の練習をずっと見守り、落合もそれに応えるように「俺流」を完成していく。落合によれば、野球のことを教えてくれたのは何といっても稲尾であったという。
稲尾は西鉄時代らも含め、監督としては大した実績を残してはいない。
 しかしロッテ監督時代の「稲尾イズム」は、落合監督に受け継がれ「オレ流采配」に生かされたのかもしれない。
 また、当時二人は監督・選手という立場を越えて、二人で飲みに行って「野球談義」に花を咲かせたという。
時には17歳の年齢差を越えて激論となったことも多くあったし、その席で監督の采配批判もした。
その中で、落合が稲尾から一番学んだことは、打者視点では分からない「投手心理」だった。
 1986年オフ、稲尾監督の解任が発表されると、「もうオレがロッテに残ってる理由はなくなった」と言い残し、伝説の大トレード(1対4)で中日へと移籍した。  稲尾は2007年、落合監督が「日本一」になったのを見届けるかのように亡くなっている。

 随分前にNHKの番組で見た「ハンマー投げ」の室伏父子二人だけの「練習風景」には、いまだに忘れ難いものがある。
森の中に設置された投擲場で室伏広治が黙々とハンマー投げに励み、その姿をじっと見つめる父・重信選手がある。
 実は室伏は、幼少よりハンマー投げの英才教育をうけ、高校時代には次々と記録を塗り替えていったが、大学時代にナゼカ記録が伸びず、高校時代の記録にさえ届かなかったのだという。
 記録は必ず伸びるものだと信じていた室伏氏にとって初めて味わう挫折感だった。
そしてその時の練習風景は、順調元気な練習風景ではなく、そういう「焦燥」の中での練習風景だった。  そこで、自ら「フォーム」や「力のバランス」を修正する必要があるのだが、どこに問題点があるのかなかなか掴めないようであった。
そのカンどころはけして人に教えられるものではなく、自ら「掴み取る」他はないのだということなのだろう。
 そして父子は技術的な話は一切することなく、ハンマーを投げる息子とそれを見つめる父だけの、森の中の時間が過ぎていくだけであった。
同じ状況が何週間も続くのだが、室伏選手が「聞ける状態」にある時を見計らって、父は言葉が溢れるようにアドバイスをするのが印象的であった。
 これは、けして室伏選手が父親のアドバイスを聞かないという意味ではない。
室伏選手が「聞ける状態」になるというのは、広治選手が父が語るアドバイスが一番「心に届く」時をひたすら待つのだという。
 室伏は4才の時からハンマー投げの大会に出場しているが、様々な競技で優勝をさらっている。100メートル走でも10秒10をきる「瞬発力」の持ち主なのだそうだ。
室伏は高校3年生時、「べにばな国体」の「やり投げ」で2位になり、槍投の千葉県高校記録をつくった。
 実はこの大会に出るまで、槍投の経験はほとんどなくなく、友人の照英にコツを教えてもらい、当日駐車場で小石を投げて練習をした程度だった。
この時、昭栄は室伏選手の記録にあまりのショックをうけ方向転換し、その後に芸能人となった。
 父親の室伏重信は、オリンピック代表4回・日本選手権10連覇・アジア大会5連覇などの数々の「金字塔」を打ち立てた。
 「アジアの鉄人」と称されるが、指導者としても卓越した手腕を発揮し、息子以外にもたくさんの名選手を世に送り出している。
 1984年にマークした75m96の日本記録は1998年。 その記録は息子の室伏広治に破られたものの、今でも日本歴代2位にあたる。
 この父親がすごいのは、日本記録を最後に更新したのが39歳の時で、体力の衰えをカバーするかのように技術改良を行い、次々に記録を塗り替え続けた点である。
 ここまできて、一流アスリートの条件がみえてきた。
自分の鋳型を崩すことなく、他の意見を自分ナリに流しこむことができる能力、それを「キャパ」というのだろう。