その子孫にして

2018年7月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が新たに世界遺産に登録された。
長崎・熊本両県に点在する12の構成資産は、270年にも及ぶ禁教と迫害の時代を乗り越え、明治から昭和にかけて建造された教会群である。
2001年に結成された「長崎の教会群を世界遺産にする会」の発起人にあたるのが鉄川一級建築士事務所の鉄川進代表である。
鉄川進は、日本におけるキリスト教会堂建築のパイオニア鉄川与助の孫にあたる人物である。
我が地元・福岡県筑後平野の筑前町・大刀洗町あたりに、場違いなくらい巨大な今村カトリック教会をつくった人物こそが鉄川与助である。
さらに、鉄川が手がけた教会堂は、長崎の浦上天主堂以外にも、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など数しれない。
鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは「刀剣」をつくった家であった。
鉄川家がいつ頃から建設業に関わったか正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が「青方得雄寺」を建立した史実が同寺の棟札に記録されている。
明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川は、幼くして父のもとで大工修業を積み、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に「装飾」としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。
原爆によって破壊された「浦上天主堂」を完成させるにあたり、旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川に技術的な飛躍を与えた。
さて、鉄川与助が浦上天主堂を建設する一方、「大浦天主堂」の設計・建築にあたったのが、熊本天草出身の小山秀之進で、兄・織部とともに「異国情緒」の長崎を形づくった最大の功労者といってよい。
小山家の3男として誕生した織部は、幼くして「北野家」へと養子に出され、長崎開港時は、天草郡赤崎村の庄屋職を務めていた。
一方、秀之進は、小山家11人兄弟の末っ子でありながら、勤勉さと才能を認められ、この歴史ある家を継ぐこととなる。
1858年、五ヶ国と修好通商条約が結ばれ、翌年に長崎港も自由貿易港として新たに開港された。
開港にあたって各国より外国人の居留場が要望されていた。
そこで名乗りを上げたのが、天草郡赤崎村の庄屋、当時50歳の北野織部だった。
織部は、専用船の建造を天草御領村大島が誇る船大工達に発注し、300隻を動員させ、はるばる天草から長崎港に「天草石」を運んだ。
工事は当初予定よりも伸び、織部は長崎奉行所に再三に渡って完成期日の延期願書を提出した末、1860年10月についに完成した。
さて、開港後まもない長崎にフランス人宣教師フューレが派遣されたのは、西坂の丘で殉教した26聖人へ捧げる教会堂を建立するという確固たる目的があった。
1864年、当時この町の土木業界きっての実力者である「小山商会」小山秀之進(36歳)に、その教会堂建設の依頼が舞い込んでくる。
北野織部の実弟・小山秀之進は、すでに外国人住宅の施工をいくつも手がけていたが、神父の指導の下、それまでの洋風建築の建設の経験と従来の伝統技術とを結びつけての教会堂建設がはじまった。
外国人から「コーヤマ」あるいは、「ヒーデノシーン」と呼ばれていた小山秀之進だが、彼が請負った仕事は、長崎会所や外国人居留地関連など公的なものばかりではなく、居留する外国人達の私的な建物にまで及んだ。
長崎随一の観光名所として知られるグラバー園内に現存する洋風住宅で、国指定重要文化財の旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅といった幕末洋風建築の建設も小山秀之進が携わっている。
小山は自ら貿易商グラバーにすすめられ、「高島炭鉱」の共同管理経営者となる。
1876年、小山は48歳にして小山家の8代当主の座にすわるが、高島炭鉱開発への関与を境に、小山の輝かしい人生に暗雲が立ち込める。
そしていつしか天草郡御領村大島の小高い丘に建つ小山邸は、借金のカタとなっていた。
その後、天草へと戻った小山は、三角港築港や、熊本三角間鉄道敷設などを手掛け、71歳で他界している。
ところで、熊本のゆるキャラ「くまモン」の生みの親は、放送作家・脚本家 小山薫堂(こやまくんどう)という人物である。
小山は、もともとキャラクターを作る予定はなく、ロゴ作りをお願いしたデザイン会社が、おまけで「くまモン」を作ってくれた。
それを熊本県庁の職員に見せたら、とても可愛いと評判になり、県庁内で大好評になった。
それでは、PRキャラクターにしようということで「くまモン」が生まれたのである。
そして小山のアイデアをベースとして、「くまモン」自ら名刺を配ったり、関西でいろいろなイベントに出たりして知名度をあげていった。
誕生から3年半、「ゆるキャラグランプリ」では日本一を獲得し、海外進出までも果たしている。
その人気について小山は、計算されてスキのないものよりも、欠点があって人々がそこを「埋め」たくなるようなキャラに人気が集まるのではないかと語っている。
小山薫堂は1964年、熊本県天草市生まれ。日本大在学中にテレビ番組「11PM」の放送作家としてデビューした。
「料理の鉄人」「カノッサの屈辱」などを手がけ、脚本を担当した映画「おくりびと」は米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
小山は、大学1年生の時に大学の先輩に誘われてラジオ局でアルバイトをすることになり、ひとりの放送作家と出会って人生が動き始める。
その放送作家にニューヨーク取材に誘われ、その旅行で三宅祐司と親しくなったところ、プロデューサーから「君は誰?」と聞かれて、ある放送作家が「放送作家なんです。今度、三宅の番組(つまり11PM)を書かせようと思っています」と言ってくれた。
台本の書き方もわからなかったが、その時本当に放送作家なろうと思ったという。本人によれば先輩がつい教えたくなるような「スキがある」ことがチャンスを引き寄せたのだそうだ。
それにしても、大浦天主堂の建築家・小山秀之進の直系の子孫が「くまモン」を生み出すとは。

福岡県の南部筑後地方柳川は、有明の海に面する水郷の街として全国的に知られている。
ゆれる柳を映す水面を船頭の巧みな櫂捌きに揺られながら、赤レンガや白壁を眺めながらの川下りは、今なお優しく人々の心を包んでくれるようだ。
その川くだりの途中で、船頭さんが、「ここがオノ・ヨーコさんのご先祖の家です」という声が聞こえ、ハットとして目をあげると「黒い門構え」が見えた。
ジョン・レノン夫人のルーツは、こんな古くて穏やかな風景の中に隠れてあったのかと驚いた。
自宅に帰って、オノ・ヨコの家系を辿ると柳川生まれの小野英二郎という明治の著名な財界人を見つけた。
彼の先祖は、戦国時代柳川藩・立花宗茂の家老で、小野鎮幸という人物である。
関ヶ原後は加藤清正に仕え、「日本七槍」・立花四天王の一人に数えられる勇猛な武士であった。
小野英二郎の長男である小野俊一は東京帝大中退後ロシアの大学に留学し動物学を学んだ。
そこで知り合った帝政ロシア貴族の血を引くアンナ・ブブノアという女性と結婚する。
そして二人は駆け落ち同然にして日本にやってきた。
この小野俊一の三男が小野英輔で、オノ・ヨーコの父にあたる。小野英輔は横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取などした銀行家である。
しかし小野英輔は俊一とアンナとの間にできた子供ではないので、オノ・ヨーコにロシア人貴族の血が流れているわけではない。
オノ・ヨーコの父・小野英輔はいつも海外出張で、母は色々な交際で多忙のため、母の里にある別荘で育ったという。
その別荘の庭はとてつもなく広大で、お手伝いさんと「遠足」と称して庭を歩きまわったと自伝に書いている。
小さい頃から人がやらない変わったことばかりをやっていて、作文を書くと学校の先生からはこういうものはいけないといわれ、それがますます彼女の芸術を常識的枠からハミダサせる結果となったという。
既成概念を彼女の感性の「ヤリ」で突き崩してきたわけだが、その感性のトンガリ具合が個展の会場にジョン・レノンという音楽界のヒーローを呼び寄せることになる(1966年11月9日ロンドン)。
ちなみにジョン・レノンの方も、教師から成績簿に「絶望的」という評価をもらったぐらいだから、そのトンガリ具合が想像できる。
また、オノ・ヨーコほど世界中からたたかれた日本女性はいないのではないかと思う。
オノ・ヨーコの人生と自伝「何とかなるわよ」で知られる立花花子に多少重なり合うものを感じる。
立花さんは、柳川立花伯爵家の一人娘として生れ、テニス日本チャンピオンに耀き、最初に「テニスの柳川」を全国にアピールした人といえるかもしれない。
三男三女を育て、戦後を料亭「御花」の女将として逞しく時代を生き抜いた最後の「お姫さま」である。
自伝を読んで思ったことは、かつて人々からかしずかれる立場から、人様にサービスをする立場への転換は本人の中でも様々の葛藤をよびおこした。
その反面、「お姫様に何ができるか」といわれて反発する、幾分とんがった「お姫様」あった。

井深大(いぶか まさる)は、盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人である。
栃木県日光町(現・日光市)に生まれたが、先祖に飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎がいる。
井深大は、幼少の頃、青銅技師であった父親の死去に伴い、愛知県安城市の祖父もとに引き取られ、そこで育った。
愛知県といえば、相方の盛田昭夫は名古屋市の造り酒家で生まれている。
ところで井深茂太郎は会津藩内における青年文士の名を挙げれば、必ずその筆頭に数えられた秀才。
若松城(鶴ヶ城)の落城とみて飯盛山上に自刃したが、この時茂太郎16歳であった。
この井深茂太郎を先祖にもつ井深大は、大学時代(早稲田大理工)から奇抜な発明で知られていた。
井深大はソニー創業者という実業家以前に、優れた電子技術者であったが、白虎隊には後に電気技師となる飯沼貞吉という人物がいた。
井深茂太郎は白虎隊の「記録役」を命じられて戦いにおける行動を記録したが、「白虎隊」の出来事の多くは、こうした記録よりもこの飯沼貞吉が「唯一」命をとりとめることにより、「口伝」によって伝えられたのである。
ところで、この東北・会津の戊辰戦争に、「土佐勤皇党」(反幕府/反藩政)の人々が加わっている。
作家の安岡章太郎は、自ら翻訳したアレックス・ヘイリーの「ルーツ」が刺激になったのか、「流離譚」(りゅうりたん/1981年)を書いている。
安岡は、土佐高知の地にあって一族の中に親戚に東北ナマリの言葉を話す家があるのを不思議に思い、自らのルーツ探しをして、歴史小説「流離譚」を書いた。
安岡家は、土佐藩主・山内容堂の「下士(郷士)」であり、土佐藩・山内家の藩体制を支持し、その門閥の末端にでも結びつきたいと願っていたはずだ。
最大の疑問は、そんな安岡家の人々が、どうして幕藩体制に反抗する「土佐勤王党」の旗上げに、一家こぞって参加したかという点である。
特に、安岡嘉助という人物が、藩参政の吉田東洋暗殺の「刺客」を志願したというのには、何か「宿怨」めいたものさえ感じられる。
土佐藩には、「上士」と「下士」との激しい抗争がおきていて、静岡、掛川あたりに祖先をもつ地元民の「下士」に宇賀喜久馬という人物がいた。これが安岡章太郎の祖父の母の実弟にあたる人物である。
そして 井口村において起こった上士と下士の抗争の場で、宇賀喜久馬がたまたまその場に居合わせという理由だけで、何の罪咎もないのに腹を切らせられるということがおきている。しかもその切腹の介錯をしたのが、喜久馬の実兄だった。
当時は普通のことだが、安岡一族は「家名断絶」を防ぎ生活収入と身分保証の基盤たる「土地」を守ることが最大のテーマで、親族間結婚が非常に多い。
とはいえ、宇賀喜久馬の切腹でトドメをさす「介錯」したのが実兄の宇賀利正というのは、単なる偶然で済まされそうもない。
当時19歳の宇賀喜久馬の「非業の死」が、その親戚筋にあたる安岡一族間でも「悲憤慷慨」の出来事であったことは容易に想像できる。
この時に蒔かれた「悲憤」の感情こそが、安岡家をして「土佐勤皇党」参加の引き金となったという推測が成り立つ。
「流離譚」では、土佐藩の内部抗争に絡んで、安岡家と寺田家の関係など「驚くべき事実」が明かされている。
宇賀喜久馬の切腹を介錯した宇賀利正の長男こそが、後に夏目漱石の弟子となる物理学者にして随筆家の寺田寅彦なのである。
また、土佐藩の関連で思い起こすのは、福岡出身のシンガーソングライターの「井上陽水」の家と幸徳秋水にまつわる話である。
「井上陽水」は1948年福岡県で生まれたが、井上家はもともと高知県は土佐の出身で、「井上陽水」の祖父が幸徳秋水と親交があったという。
幸徳秋水は1871年、高知県幡多郡中村町で生まれた。彼は中江兆民の門弟で、「秋水」の名は兆民から与えられた。
幸徳秋水は当時の社会主義思想家で、明治20年に同郷の中江兆民の門弟となり、自由新聞の記者となった。後に「萬朝報」の記者となり、ゴシップ誌のさきがけとなった。
後に幸徳秋水は無政府主義に傾き、社会革命党を結成するが、1910年6月に「大逆事件」で逮捕され、翌年1月24日に処刑された。
彼の罪状は「天皇暗殺計画」で、この大逆事件では多くの社会主義思想家が逮捕され、24名が処刑された。
直接に計画に関わったのは4名で、幸徳はまったく関わっていないものの「秘密裁判」で死刑の判決が下った。
その幸徳の信奉者に、「井上陽水」の祖父がいて子供の名前に、「秋水」にちなんで水のつく名をつけた。
「井上陽水」の父は「若水」というが、同じようなケースに、世界的指揮者「小沢征爾」の名が、日本陸軍参謀・板垣「征」四郎と、石原完「爾」からつけられている。
ちなみに、「小沢征爾」の父・小沢開作は満州の地で歯医者の仕事をしながらも、この地を「理想郷」とすべく若い日本人移民団のリーダー格として、現地の満州人とも運命を共にしようとした。
また帰国してからも、歯医者復活している。
一方、井上の父は、当時赴任していた京城(現ソウル)で女性と知り合い結婚している。
父は引き揚げ後は炭鉱で働いていたが、陽水が生まれてまもなく福岡県田川郡糸田町で歯科医を開業しているのは、奇しくも小沢開作と同じである。
土佐において、井上家と幸徳家の両家は親しく、井上家と姻戚関係にあった某家に秋水の妹が嫁いでいるから、血の繋がりは多少あるやもしれない。
井上陽水のようなインスピレーションあふれる「表現者」には、ひとりの資質や才能には収まりきれない「何か」があるように感じる。
井上陽水の「心もよう」「傘がない」「少年時代」などの曲に、「大逆事件」で処刑された人々の「無念」を重ねると、まったく違った曲相を帯びてくるのは、その「何か」のせいでしょうか。