「ユダヤ人亡命」幇助

シャンソンは、フランスの大衆的な歌謡曲である。 恋人である出征兵士を乗せた汽車が出ていく別れの歌とかいったものが多い。
韓国の「釜山港に帰れ」(1972年)の元歌なんかが思い浮かべるが、日本の演歌にも「カスバの女」(1955年)というのがあった。
ただし舞台は北アフリカのアリジェリアの首都カスバ。この街にやってきた白人人兵士との別れを歌ったものだが、日本人の作詞家がイブ・モンタン主演の「望郷」をイメージして書いたものだという。
そんなややこしい背景の歌だったせいか、元歌はヒットしなかったものの、多くの実力派歌手がカバーして知られることとなった。
日本にはシャンソンで知られた「銀巴里」があったが、本場パリの日本人町近くには今でも「オランピア劇場」というシャンソンの殿堂が存在している。
この劇場の名を世に髙からしめたのは、シャンソン界の女王・エディット・ピアフで、この大御所に認められてシャンソンの名曲を歌ったのが、前述のイブ・モンタンとシャルル・アズナブールである。
二人は、歌手であり俳優でもあるという点でも共通点をもつ。
名曲「枯葉」で世界的に知られたイブ・モンタンは、農民の子としてイタリアの島モンスンマーノ・テルメで誕生した。
母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。
マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。
1944年にエディット・ピアフに見出され、彼女はモンタンにとって一番の導き手となった。モンタンは1991年1年に70歳で亡くなった。
先日(2018年10月1日)亡くなったシャルル・アズナブールは、モンタンより3歳年下であるが、94歳没でなので、かなりの長寿であった。
そんなアズナブールの経歴を調べてみると意外な事実を知った。アズナブールはアルメニア系移民の息子としてパリで生まれている。
ピカソの例をあげるまでもなく、フランスには外国からやって来たアーティストを受け入れる文化的風土がある。
そんな多様な背景を持つ人々がフランス文化を豊かにしてきた。
イブ・モンタンはイタリア出身、シャルル・アズナブールはアルメニア出身、それ以外日本で知られた、アダモはイタリアのサルディニア出身、シルヴイ・バルタンはブルガリア出身、ダリダはエジプト出身なのだそうだ。
アズナヴールの父はグルジアで生まれ、祖父はロシアの王室でコックをしていたという。
母はアルメニア系トルコ人の商人の家系である。第一次世界大戦とロシア革命による内戦と混乱を逃れた彼らはアメリカ行きのビザを申請するためパリに滞在している時に知り合い、1922年に結婚している。
アズナヴールの両親は、早くからアズナヴールとその兄弟を彼らがパリに持つレストランや多くの舞台に立たせた。9歳より芸能活動を開始し、アズナヴールの芸名を名乗る。
アズナヴールのシャンソンはそのほとんどが愛を謳い上げており、また60本以上の映画にも出演している。母国語の仏語だけでなく英語等も堪能で、5つの言語で歌うことができた。
ジャズやロックが登場して以降、欧米で国境を超えてポピュラー音楽の主流をなしてきたのは、リズムやビートを強調したサウンドで英語の歌だった。
伝統的に言葉を大事にしてきたフランスのシャンソンも、その潮流と折り合いをつけなければならず、アズナブールは、多言語のバージョンを使って、その壁を越えることができた数少ないフランスのアーティストの一人だった。
その一例が、シルビー・バルタンに提供し日本で大ヒットした「アイドルを探せ」で、英語詞での発表をためらわなかったことも、ソングライターとしての彼の国際的な認知度を高めた。
さて、ユダヤ人を助けたことでは、「6000人のビザ」で杉原千畝が最も有名であるが、それ以外にも様々な民間人が、大小様々な援助の手を差し伸べている。
その中の一人こそが、シャルル・アズナブールである。
それは、アズナブールがアルメニア系ということと無関係ではないだろう。
アルメニアは、オスマン帝国における大虐殺が起きているが、その民族の悲劇と、ユダヤ人の運命が重なり合うのを感じたにちがいない。
第2次世界大戦中、彼の一家はユダヤ人をかくまって亡命の手助けをした。
ジルベール・ベコーと1950年代に共作した「メケ・メケ」はカリブ海の黒人青年の恋を好意的に描いた先駆的作品だった。彼は異邦人や性差別を受けた人々や被災者に対する支援も忘れなかった。

太平洋戦争中の日本の首相・近衛文麿の名は知っていても、その異母弟・近衛秀麿の名、ましてその活動はあまり知られていない。
公爵家に生まれ、音楽を志し単身ドイツへ渡り、留学生の身でありながら「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」を指揮する快挙を成し遂げる。
帰国後は新交響楽団(現NHK交響楽団)を設立、日本のオーケストラの礎を築いた。
というわけで、日本のクラシック音楽の大功労者といってよい。
秀麿はその後 再びドイツへ渡り、ベルリン・フィルをはじめとする数多くの交響楽団を指揮。
ところが歴史はヒトラー率いるナチス・ドイツによって動乱の時代を迎える。
大日本帝国の宰相近衛文麿の弟として「日独親善」の先頭に立つ一方で、身の危険を顧みずユダヤ人音楽家の国外亡命を援助し、秀麿の存在はいつしかユダヤ人音楽家達にとって「希望の光」となっていく。
二次世界大戦が勃発した後も、秀麿はそれでもドイツに留まり、戦乱に傷つく欧州各地でタクトを振り続ける。
そしてなお、窮地に陥ったユダヤ人音楽家の逃亡を陰で手助けするのであった。
戦局は枢軸陣営にとって絶望的な状況となるに及び、秀麿は兄文麿の密命を受けて対米和平交渉の糸口を掴もうとするも失敗し、失意のまま敗戦後の焼野原と化した東京へ戻る。
既にA級戦犯に指名された兄文麿と再会を果たすも、兄はその直後に服毒自殺を遂げるのである。
NHK BS1スペシャル(平成27年7月27日放送)「玉木宏 音楽サスペンス紀行~亡命オーケストラの謎~」では、ナチによって破壊され尽くしたワルシャワでコンサートを開く場面がある。
曲目はシューベルト・交響曲第8番「未完成」は廃墟となった街の雰囲気とよく調和していた。
ナチ占領下のワルシャワにおける楽員は、ドイツ人ではなく、メンバーの多くはポーランド系ユダヤ人であった。
生死の境をさまよいつつ、演奏に打ち込む楽団員達、そこから奏でられる音楽がどれほど魂を揺さぶられるものだったのだろうか。
当時の大島浩駐独大使は、公然と反ナチの言動をとっていた秀麿を心底憎んでいた。大使より自宅謹慎を言い渡されていたにもかかわらず、秀麿は欧州各地を演奏して回った。
それを可能にしたのは、ドイツ国防軍内に強力な支援者がいたからだ。
その人は、秀麿を陰で支えた凄腕プロデューサーのカール・レーマンであった。
国防軍の威厳ある制服に身を包みながら、ほほえみを絶やさない。
身に着けた牛乳瓶眼鏡は朴訥にもみえるが、実は鉄の意思を持つ男であった。
カール・レーマンは、秀麿がドイツで活動を始めた頃から支援した。
「業界人」として駆け出しだったカールは、秀麿のプロデュースを実績作りのために利用したということもあろうが、とにもかくにも、以来二人は親交を続ける。
戦争が始まり、カールは国防軍に参加し、ドイツ占領各地の慰問公演を手掛ける担当者となるが、その際、秀麿に行動の自由を与えるよう便宜を図ったりした。
1944年4月に、カール・レーマンと秀麿の協力の下「オルケストル・グラーフ・コノエ」をパリで組織している。
「コンセール・コノエ」は、ナチに弾圧される危険のある芸術家の逃げ場でもあり、当局の御用楽団を装って占領各地を巡演し、喝采を浴びた。
秀麿の回想によれば、ヨーロッパ各国の仕事がなくなった楽員やユダヤ系の楽員などをかき集め、主にフランドルを巡演して回ったオーケストラであったという。
さて秀麿の兄・近衛文麿といえば、「輝くばかり」の栄誉に包まれた超名門の出である。
生まれは、五摂家(・近衛家・九条家・二条家・一条家・高司家)筆頭の近衛家の第30代目当主で、生まれながらに栄達を約束された家系に生を受けた。
衆望を担って、内閣総理大臣を三期(第34・38・39代)つとめた。
第一次近衛内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。
また、国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して、大政翼賛会を設立し総裁となった。
外交政策では、八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げて、日独伊三国軍事同盟や、日ソ中立条約を締結した。
こうみると、日本が軍国主義一色となる時期に首相を務めたということになる。
ちなみに「八紘一宇」とは「天地四方八方の果てに至るまで、この地上に生存する全ての民族が、まるで一軒の家に住むように仲良く暮らすこと」という意味である。
近衞は生来優柔不断な面があり、自ら軍部の独走を阻止できなかったことは否定できない。
その一方、支那事変の泥沼化と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかったといった責任転嫁が見られる。
そして、巣鴨拘置所に出頭を命じられた日の未明に、荻窪の自宅で近衛文麿は青酸カリを服毒して自殺した。
ある日、総理となった文麿から国際電話があり「ドイツ大使館からお前のことで文句を言われている。総理の面子を保つため、ナチスの言うことを聞いてくれないか」と言ってきた。
秀麿は兄の弱気ぶりに憤慨して「弟が自分の信念を貫くために苦しんでいるのに、そんな言い方はないだろう!」と言い返したという。
以後、終戦になるまで文麿と秀麿は音信不通になってしまった。
戦後、兄弟が再会を果たしたときに、文麿は「お前は自分の気持ちを貫いて立派だったよ。お前に比べたら自分は何も残せなかった」と、かつてのことを繰り返し詫びたという。
また、「お前は音楽家になって良かったなぁ」というようなことも言ったようである。
こう見てくると、兄と弟が入れ替わっていたら、歴史は変わっていたかもしれないと思わぬではない。

美人画で有名な竹久夢二の生涯をみると、意外と我が地元・福岡との接点が多い。
まずは竹久の生まれ故郷である岡山県邑久郡であるが、この地は一遍上人の絵巻で有名な「福岡の市」で知られ、黒田氏が博多に転封となった際に、この岡山の地名から「福岡」の地名をとっている。
竹久夢二は、1900年2月、岡山から北九州の枝光に転居し、創業時の八幡製鐵所で「図工」として働いていた。
竹久はわずか1年あまりで単身上京するが、家族はその後もなお1924年(大正13年)頃までこの地に住んでいたという。
JRの枝光駅から出てスペースワールドの裏側には、「竹久夢二通り」があり、その道沿いに10点あまりの竹久作品のレリーフが埋め込まれた一角があった。
そして山王の三叉路近くの病院あたりに「竹久夢二旧宅」の石碑があり、その近所の諏訪第一公園に「竹久夢二の歌碑」が立っている。
竹久は上京し早稲田実業で学ぶが、生活のために画を提供した絵葉書店で出会ったのが最初の妻たまきである。実は夢二式美人画の原点は色白、めもとぱっちりの「たまき」なのである。
竹久は、はじめは油絵を志したが、そのうち生活のために描いた「美人画絵葉書」が売れて大正ロマンを代表する芸術家となった。
東京では渋谷で暮らしていたが、福岡と再び接点をもつようになる。
明治の炭鉱王伊藤伝右衛門と柳原白蓮の「銅御殿」(あかがね御殿)が天神の福岡銀行あたりにあったが、白蓮の詩集の装丁を担当していた竹久夢二は、1918年(大正7)8月に天神町の「赤銅御殿」に白蓮を訪ねているのである。
ところで、岡山生まれの竹久夢二は福岡生まれのの北原白秋には驚くほど共通点がある。
竹久は1884年に岡山で生まれ、北原は翌年福岡県柳川に生まれている。ともに造り酒屋に生まれ、家出して上京し早稲田に学びともに中退している。
また恋愛においても北原は姦通罪により告訴され未決監に拘置された体験があり、竹久は刃物を突きつけられるほどのシリアスな体験をしている。
北原の実家は1901年の大火によって酒倉が全焼し破産し、竹久の廻船問屋も破産している。竹久は実家の破産後、神戸で1年に充たない中学生活を送り、北九州の枝光へと移り八幡製鉄所の下働きをしたというわけである。 また竹久が異国の文化に興味をもち九州旅行を敢行したのも、北原白秋が長崎を訪れキリスト教文化にふれ、自らの処女詩集を「邪宗門」と名づけたのも似通っている。
そして何よりも二人は大正ロマンを飾るトップランナーであったのだ。その二人が交わらないのは逆に謎である。
その謎を解明したのが、福岡で竹久夢二を研究する安達敏昭である。安達は、竹久の九州行きを調査するうちに、「作詞家北原白秋と作曲家中山晋平らが、画家竹久夢二と岸他丑を著作権侵害で訴えた」という記事を見つけたのである。
竹久の元妻たまきの兄・岸他丑が絵葉書店を営んでおり、絵葉書を作成した際にその中に北原が作詞、中山が作曲したものを無断で採録印刷し発表したというのである。
北原はそれが著作権侵害にあたるとして、竹久らを提訴したのであったが、両者の仲立ちをしたのが野口雨情であった。
さて竹久は、人間関係がもつれたり絵の題材に行き詰まったりするとしばし東京を離れて旅にでることが多かった。
ある映画人が竹久を題材にドキュメンタリー映画を作ろうとしたところ、ある一人の老人が竹久のあるエピソードを語った。
その老人は、べルリンのプロテスタント教会の日本人牧師で、竹久が10カ月ほどヨーロッパに滞在した時期に出合ったという。
第二次世界大戦中に500人あまりの日本人がヒットラー政権下ドイツ・ベルリンに住んでいたのであるが、その中には「反ナチ運動」に関わってユダヤ人救出に手を貸す一握りの人々がいて、竹久がそういう人々の連絡役をしていたというのだ。
実際のところ竹久がユダヤ人とか「反ナチ」にどれほど関わったかはまったく不明であるが、さすらいの民ユダヤ人に、故郷を失った竹久が親近感を覚えたとしても不思議ではない。
しかし竹久がベルリンで飛び込みでユダヤ人の連絡をかってでたというのは考えにくい。
しかも日独同盟を背景にして、ヨーロッパ各地のユダヤ人を救う組織と関わる仕事というのは、リスクを伴う仕事である。ベルリン行きの前に、日本で必ずや何らかのコネがあったに違いない。
妹尾河童の「少年H」の中に、明治以来神戸に住んで活躍するユダヤ人が少なからずいてコミュニティがあったことが書いてある。
またヨーロッパから満州や上海そして日本経由でアメリカに逃れようとしたユダヤ人達は神戸を経由していたのである。竹久の実家は、岡山の廻船問屋(酒造)であったことを思い出していただきたい。
また竹久は神戸で中学時代を送っているが、一家との間にユダヤ人との繋がりは生まれなかったかだろうか。後に本の装丁や挿絵の仕事をするうち、ユダヤ人との関わりを持つことにはならなかったか。
竹久は生涯50年の間をほとんど旅の連続で過ごしたが、そこには我々の知らない別の「顔」があったのかもしれない。
べルリンで、近衛秀麿と竹久夢二が「接触」していたことなどを想像すると、サスペンスめいてくる。