カメラの裏側にて

ある映画の作品の内容よりも、撮影にたずさわった人々の撮影の裏側が、映画の内容に負けず劣らぬ展開をみせるということもある。
この夏の傑作映画「カメラをとめるな」は、ホラー映画の撮影の裏側をコミカルに描き「お笑いゾンビ映画」という斬新さで大ヒット中。
個人的に、そんな「裏ドラマ」のある映画または舞台について思いつくものがいくつかある。
斎藤きちは、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。「唐人お吉」の名で知られる。
ハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、誤解されてしまう。
そこで候補に挙がったのがお吉だった。ハリス帰国後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。
ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉は年中酒の匂いを漂わせるようになり、1890年3月、下田街道沿いの稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自ら命を絶った。満48歳没。
この「唐人お吉」を鬼気迫る演技で演じたのは往年の大女優である大地喜和子である。
1992年10月13日、静岡県伊東市での「唐人お吉」公演期間中の午前2時過ぎ、大地が乗る乗用車が桟橋から海に転落。同乗者の二人は泳いで脱出したものの、太地は泳げなかった上、乗車前に深酒をしていたことから生還できず。
特別な思い入れで「お吉」を演じた大地喜和子は、奇しくもお吉と同じ48歳、場所も下田に近い伊東の海にて水死している。

「007」シリーズの第5作「007は二度死ぬ」(1966年)は、当時、日本の最先端ホテルだった東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニや地下鉄・丸の内線が登場したが、戦闘シーンのロケでは、鹿児島県の秋目海岸で行われた。
ジェームス・ボンド(ショーン・コネリー)が地元の海女(浜美枝)と落ち合うシーンなどが撮影された。
日本人としては最初で最後の、いわゆる「ボンドガール」を演じた浜美枝だったが、映画制作陣の「作品」へのこだわりを肌で知ることになった。
1日の撮影が終わっても、自分の部屋以外ではボンドガールのイメージを保つつように求められ、それにふさわしい洋服が5~6着届いていたという。
ところで秋目海岸は、鹿児島県南さつま市・坊津町にあり、古代から海上交通の要地として栄えた。
奈良時代には、唐の名僧・鑑真が過去5回の失敗にめげず、秋妻屋浦(現・秋目地区)に上陸している。
中世には島津氏の統治下にあり、中国(明)・琉球との貿易により栄え、「倭寇」や遣明船の寄港地でもあった。そして、明治から昭和にかけては、鰹漁業や鰹製造の一大集積地として隆盛を誇った。
昭和初年に枕崎市に港が完成するまでは、今では考えられないほど多くの人々の往来があった。
「鑑真和上の上陸記念碑」と並んで、「007は二度死ぬ ロケ記念碑」が立っているのは、東西の面白い組み合わせだが、それにしても坊津がなぜ映画「007」の戦闘シーンの撮影場所に選ばれたのだろうか。
思い浮かぶのは、1863年の薩英戦争。
幕末、1863年島津久光の行列を4人のイギリス人が横切った生麦事件に端を発した「薩英戦争」は思わぬ展開をみせた。
1863年8月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、講和交渉で英国に留学生を派遣することを提案した。
これには英国側も驚くが、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国は急速に懇親を深める。
薩摩藩はすぐに留学生の選考を始め、4名の視察員と15名の留学生が決定した。
この中には、薩英戦争で捕虜となった後の「大坂の父」五代友厚や後の外務卿・寺島宗則などもいた。
彼らは1865年3月に薩摩を出発し、5月にロンドンに到着。
日本からの留学生たちがロンドン大学(UCL)に集まったのは、当時イングランドでは1826年創立のUCLだけが、信仰や人種の違いを超えて、すべての学徒に門戸を開いていた大学(カレッジ制)だったからである。
オックスフォードとケンブリッジの両大学は、英国国教徒にしか入学を認めていなかった。
1993年にUCLの中庭に建立された記念碑には、長州藩の5名、薩摩藩の19名の名前が刻まれている。
1902年、日英同盟においてイギリスは「光栄ある孤立」を捨てているが、イギリスは日本の教育界においても立教大学をはじめ、九州の鎮西学院・活水女子短期大学などの設立にその痕跡を残している。
鹿児島(薩摩)の地が007映画の舞台となったのか。その理由を、薩英戦争とかロンドン大学への留学生19人の存在などからくる両地の歴史的関係に求めるならば、一笑にふされるかもしれない。なにしろアメリカ・ハリウッド映画なので。
とはいえ、映画の中で「タイガー田中(丹波哲郎)の別荘」として使われたのが、島津家(分家)の「島津重富邸(現在は結婚式場)」であることなど、「007」のカメラの裏側には、日英両国の数奇な交叉点を見つけることができる。

映画撮影の背後をドラマ化して最も面白く仕上がりそうなのが、「ローマの休日」である。
ヨーロッパ中世は「魔女裁判」などがあり暗黒時代ともいわれる。
フランスの救国のヒロインであるジャンヌ・ダンルクが魔女として火刑に処せられている。
ところが、自由と民主主義を標榜した現代アメリカで、それが突然に蘇ったような事態が生じていった。
これが現代の「魔女狩り」と言われた所以は、思想調査の公聴会に出席した際に、共産主義者ではナイというだけでなく、仲間の名前を言わなければ、なかなか身の潔白を証明することができなかったからだ。
共産主義者の友達がいるだろうといわれ、仲間を裏切り、密告、偽証する者さえ現れた。
そして「マッカーシー旋風」の最初のターゲットとなったのが、ハリウッドの映画界であった。
あのウォルト・ディズニーでさえも「自由の国アメリカから共産主義をあぶり出すべきだ」と先頭をきった。
共産主義者のブラックリスト「ハリウッド・テン」が作られ、そして300人以上の映画人が追放された。
1947年9月トランボは非米活動委員会に召喚され、翌月に非米活動委員会「公聴会」が開始された。
いわゆる思想調査がはじまる。その中に、後に「ローマの休日」の脚本を書いたダルトン・トランボがいた。
トランボは、1905年コロラド州の靴屋の息子として生れ、南カリフォルニア大学でジャーナリズム作家をめざした。
1935年(30歳)アシスタント・ライターとして映画界に入った。
トランボは、1940年代初期「反フアシズム」で米・英・ソが共同戦線(人民戦線)をハッテいた時期に、アメリカ共産党に入党している。
共産主義者でないという身の証を立てたり、自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げてしまう風潮の中、トランボたちは「証言しない」ことで「赤狩り」に抵抗した。
1950年6月、アメリカ最高裁はトランボに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄されたものの、トランボは投獄が決まってからも、「架空の名前」で脚本を執筆し続けた。
嵐が吹き荒れる中で、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」であった。
トランボは、「ローマの休日」で親友の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を借りているが、それがトランボの脚本だとわかれば、二人の関係が疑われハンターも職を失いかねない危ない橋だった。
ウイリアム・ワイラー監督は「ローマの休日」の制作で、映画会社に譲歩して予算の関係でモノクロ映画となったが、ローマ行きにはこだわった。
ウィリアム・ワイラー自身は共産主義とは距離を置いていたが、当時の有名監督やグレゴリー・ペックなどスターたちと抗議団体を設立して「赤狩り」に反対し、ブラックリストにあがった「ハリウッド・テン」をまっさきに応援した一人であった。
ハリウッドが行き詰まっていた時に、ローマが自由な映画活動ができる所だったからだ。
ローマでなら、内容について注文がついても、「知らなかった」で済まされるし、ワイラーの意のままに撮影できたのである。
アメリカではなくローマだから、「赤狩り」で追われた人間とも仕事ができるし、自由に新人俳優も入れて、オールロケーションで映画を撮れる。
ワイラーは信頼できる人物だけをローマに連れて行き、1952年夏 ローマで撮影が開始された。
そしてワイラーは、ハリウッドから追放された人達とともに仕事をすることを望み、それが「ローマの休日」として結実したのである。
「ローマの休日」はよくよく考えると、主人公が二人とも「ウソ」をつきあっている。
ワイラー監督は、トランボの脚本にはなかった嘘つきが手を入れると手を失うという伝説がある「真実の口」のシーンをとりいれた。
しかしそのシーンは、意図しない二人のアドリブだったという。
となると、「真実の口」の微笑ましいシーンは、「赤狩りの舞台」となった公聴会がまるで「踏み絵」の場と化していたことと、どこかで関連しているのかもしれないと思えてくる。
このようにみてくると、「ローマの休日」のラスト・シーンは、「何か違った」メッセージが込められているようにも思えてくる。
ローマを去る最後の日の記者会見で、写真を見せられたアン王女はここで初めて、ジョー・ブラッドレー(新聞記者)が「スクープ記事」をネラッテいた事を知る。
しかし、二人は信頼を確かめ合う言葉を密かに交わす。
(アン王女)「永遠を信じます」
「人と人の間の友情を信じるように」
(ジョー)「王女のご信念が裏切られぬ事を信じます」
(アン王女)「それで安心しました」
このラストシーンの言葉は、この映画を作った者達の互いの「約束」の言葉のようにも聞こえてくる。
1954年の「ローマの休日」公開の翌年マッカーシーは失脚し、「赤狩り」の嵐も収まっていった。
トランボは1979年9月10日亡くなっているが、1993年、ダルトン・トランボはスデに他界していたが、「映画公開40周年」を記念して、アカデミー選考委員会によりトランボにオリジナル・ストーリー賞が授与された。
その授賞式では、トランボ婦人が亡き夫に代わってオスカーを手にした。
そして、2003年、映画公開50周年を記念して、「ローマの休日」のカメラの裏側からようやくトランボの名前がスクリーン上に流れたのである。

1973年に亡くなったノーベル文学賞のパブロ・ネルーダ。その人物像はよく知らないが、ネルーダについては、映画「イルポステリーノ」(1994年)でその一端を知ることができた。
映画「イルポステリーノ」は、第二次大戦直後の南イタリアの港町ナポリの沖合いの小さな島カプリを舞台とした「実話」を元にした映画である。
実在した詩人パブロ・ネルーダに材を取ったA・スカルメタの原作を基に、イタリアの喜劇俳優が病をおして撮影に臨み、映画化にこぎつけた執念の作品となった。
1950年代のナポリの沖合いに浮かぶ小さな島、そこへチリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダが滞在する事になった。
パブロ・ネルーダは南米チリを代表する20世紀最大の詩人である。チリ大学在学中に「二十の愛の詩と一つの絶望の歌」を出版し、中南米の有望な詩人として認められた。
そのナポリ沖合いの小島に一人鬱々と暮らす漁師の青年がいた。
青年マリオは漁師の父親とふたりで暮らしているが、海が嫌いなマリオには仕事がなかった。
パブロネーダには世界中から手紙が届けられ、マリオはこの詩人に手紙を届けるだけのために、郵便局の「臨時配達人」となる。
丘の上の別荘に毎日郵便を届けるうちにネルーダとマリオとの間には年の差を越えた友情が芽生えた。
ネルーダは美しい砂浜で自作の詩をマリオに語って聞かせ、詩の「隠喩」について語り、マリオは次第に詩に興味を覚えるようになった。
ある日カフェで働く美しい娘ベアトリーチェに心を奪われたマリオは、ネルーダに彼女に贈る詩を書いてくれるように頼んだ。そしてネルーダ自身が妻のマチルダに贈った詩を捧げた。
それをきっかけに、物事を直接的に語ることしか知らなかった朴訥な青年は、詩人からメタファー(隠喩)で語ることを教わる。
ところで、ネルーダの「愛の詩」の日本語訳をネットで探すと次のような詩が掲載されていた。
//君より背の高い女性はいるかもしれない、君より清らかな女性はいるかもしれない、君より美しい女性はいるかもしれない、でも君は女王様なんだ。
君が通りを歩くとき誰も君に気がつかない、君のガラスの冠に気がつかない、 赤と金の絨毯の上を君が歩いてもその絨毯に誰も気がつかない、その存在しない絨毯に君が姿を表わすと私の体の中のすべての河が騒ぎだし、空には鐘が鳴り響き、世界は賛美歌に満ちる ぼくと君だけ、いとしい人よ、ぼくと君だけがそれを聞く。//
この詩人を師匠としたマリオは思いを寄せるベアトリーチェに、「君のほほ笑みは蝶のように広がる」といった表現で手紙を書くようになり、少女の心を射止める。
しばらくして、国外追放令が解かれたネルーダ夫妻はチリに帰国してしまうが、またマリオはネルーダの詩の創作のために、様々な「音」を集めて送っている。
実は、漁師の倅マリオの青年が住む島には水道もなく、水道をひくという選挙公約もいつも反故にされてきた。こうした島の人々の不満や苦しみを青年は、詩人が教えたメタファーをもって世に訴えていく。
そして、島を代表してイタリアの共産党の大会に参加し、自ら作った詩で放置された「島の窮状」を訴えるのである。
この映画の主題は、恋愛をきっかけに「言葉の力」に目覚めた人間が、社会的問題の「本質」をつかんで自らの言葉で表現することで、人々を動かしていく姿にある。
一方ネルーダは1927年外交官となり、34年赴任したスペインの内戦では「人民戦線」を支援した。
1948年独裁色を強める大統領を非難し、地下に潜伏し、アメリカ大陸の文化、地理、歴史、世界の階級闘争を包含する一大叙事詩「おおいなる歌」を執筆した。
1971年ノーベル文学賞受賞し、73年9月クーデター勃発し、まもなく癌により死去している。
ところで映画「イルポステリーノ」に描かれた世界的詩人パブロ・ネルーダと小島の漁師マリオとの関係に勝るとも劣らぬ絆が、カメラの裏に隠されていた。
この映画は1993年3月に撮影をスタートしているが、この映画の主役となったイタリア人喜劇俳優トロイージはその時心臓の病におかされていた。
しかし映画製作を優先し手術を延期し、治療を続けながら撮影を続けた。
トロイージの体は日増しに弱っていったが、ネルーダ役であるイタリアの名優フィリップ・ノワレの励ましを受けつつ、撮影は続けられ、6月3日にはすべてを撮り終えた。
そして撮影終了後わずか12時間後、トロイージは41歳の若さで世を去る。
イタリアの名優フィリップ・ノワレと喜劇俳優マッシモ・トロイージによって演じられた「イル・ポステリーノ」はアカデミー賞5部門にノミネートされた。
この映画が「黄金の魂をもつ作品」と評される由縁である。

幕末、1863年島津久光の行列を4人のイギリス人が横切った生麦事件に端を発した「薩英戦争」は思わぬ展開をみせた。
1863年8月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、講和交渉で英国に留学生を派遣することを提案した。
これには英国側も驚くが、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国は急速に懇親を深める。
薩摩藩はすぐに留学生の選考を始め、4名の視察員と15名の留学生が決定した。
この中には、薩英戦争で捕虜となった「後の大坂の父」五代友厚や「後の外務卿」寺島宗則などもいた。
彼らは1865年3月に薩摩を出発し、5月にロンドンに到着。
日本からの留学生たちがUCLに集まったのは、当時イングランドでは1826年創立のロンドン大学(UCL)だけが、信仰や人種の違いを超えて、すべての学徒に門戸を開いていた大学(カレッジ制)だったからである。
オックスフォードとケンブリッジの両大学は、英国国教徒にしか入学を認めていなかった。
UCLの自由な学風と進取の精神は、異国の地で学ぼうとする日本人留学生たちにも大きな影響を与えた。
彼らを迎え入れてくれたアレクサンダー・ウィリアムソン教授は、弱冠39歳にしてロンドン化学協会の会長を務めた気鋭の化学者であった。
ウィリアムソン教授の薫陶を受けつつ、勉学の合間にお互い交歓を重ね、さらに山尾庸三が「造船」を学ぶためにスコットランドのグラスゴーへ赴くときには、薩摩藩の留学生たちが1ポンドずつ出し合って貸し与えたとか。
かつて戦火さえ交えていた長州藩と薩摩藩だが、「薩長同盟」が結ばれるより前に遠く離れたロンドンでは、既に藩の枠を超えて日本人という一つの国家の国民としての意識に目覚めていたのである。
1993年にUCLの中庭に建立された記念碑には、長州藩の5名、薩摩藩の19名の名前が刻まれている。
さて、1902年、日英同盟においてイギリスは「光栄ある孤立」を捨てているが、イギリスは日本の教育界においても立教大学をはじめ、九州の鎮西学院・活水女子短期大学などの設立に「その痕跡」を残している。
さらに九州といえば、鹿児島県坊津・秋目海岸は、ジェームスボンド「007は二度死ぬ」の舞台となったところである。
ボンドが日本人海女と「偽装結婚」して暮らした家が今も残っているが、この海女を演じたのが、日本人初のボンドガール浜美枝である。
秋目海岸で「鑑真和上上陸記念碑」近くの駐車場入り口に行くと、そこには立派な「007は二度死ぬ」の記念碑がそびえ立っている。
そこには制作者の故アルバート・ブロッコリ、故丹波哲郎、ショーン・コネリーのサインがある。
この記念碑は、秋目の青年たちでつくる「青風会」によって1990年に建立された。
ロケ当時は、スタッフや出演者が通うヘリコプターが出入りし、海女に扮した水着姿の若い女性エキストラや全国からのたくさんの007ファンで、普段静かな秋目の漁村が大騒ぎとなったそうだ。
ちなみ「007作品」原作者のイアン・フレミングは、芭蕉の句「人生は二度しかない。生まれた時と、死に直面した時と」から、これが映画のタイトル「原題:You Only Live Twice」とつけたという。
それではなぜ、鹿児島(薩摩)の地が007映画の舞台となったのか。
その理由を、薩英戦争とかロンドン大学への留学生19人の存在などからくる両地の「歴史的関係」に求めるならば、一笑にふされるかもしれない。
なにしろアメリカ映画なので。
とはいえ、映画の中で「タイガー田中(丹波哲郎)の別荘」として使われたのが、島津家(分家)の「島津重富邸(現在は結婚式場)」であることなどにも、日英両国の「数奇な交叉点」を見る思いがする。
「わが心のスペイン」出版し、45年上院議員に選出され、