日本人は、古典文学にみるとおり、もののあわれ(はかなさ)を知る国民性をもつ。そのことゆえに「連(つらなり)」の文化を生んだとはいえまいか。
しばしば、日本人の精神的特性を一言で表せば「和」といわれる。しかし、よくよく考えると「和」は「輪」にも「環」にも通じるような言葉である。
「逆転の日本史」の井沢元彦によれば、古代に環状集落というものがあった。
環状の「環」は、日本人の特質「和」に通じる言葉だと指摘している。
そして「和の心」とは、「輪」になって話し合い、智恵を出し合う。
良い行いがいつか自分にまわってくるとかいった「気」の循環のような意識もうまれたのかもしれない。
また、人々の連なりが環になり縁ともなることを、お寺などでカタチとしての表現するうちに「円(環)」への傾倒を生んだのはなかろうか。
つまり、日本人には「連なる」意識の強さが環状(または円状)への志向を生んだということだ。
「環状」に連なるのがもっとも効率的であり、美的にも見栄えもする。
実際に円は、国旗の「日の丸」の意匠ともなっているし、「通貨」の単位にもなっている。
思い起こせば幼き日、腰をひねって回したフラフープや「知恵の環」がはやったり、黒い「抱っこちゃん人形」が、手足が絡むように連なって、商店街(新天町)に飾ってあったのを思い起こす。
また日本人は、古来より災難除けに「環」をくぐる儀式が現代においても各地で行われている。
現代の「環」といえば都市を走る「環状線」というものがある。
世界の都市交通システムを調べたわけではないが、日本の大都市で、道路も「環状線」が多いのは、日本人は「環」になることに強い傾向をもつ国民性ではなかろうか。
鎌倉時代から室町時代にかけて日本の農村社会は大きく変わる。郷村が出現し、荘園領主の支配とは無関係に、耕作農民は独自の地縁集団を作る。
郷村の農民も都市の商工業者も座を作って団結し、この団結を「一揆」という。
「一揆」とは本来、一致協力する団結を意味するもので、飲み会も「一気飲み」ではなく、「一揆飲み」的な気分で音頭をとれば、盛り上がろう。
また「から傘連判」の中にこもった「一味同心」の寄せ書きを、学校では首謀者がわからないように書いたと教わったかもしれないが、それはあくまで結果であって、「環」に書くこと自体に神仏の力が宿るという信仰が大きいのではなかろうか。
それは、外国にもみるように「ストーン・サークル」などに共通して、円状に「連なる」ことへの特別な信仰が存するのかもしれない。
歴史をみると、日本人「連なる」を重視し、それを「文化の形式」にまで高めるに至った。
その深層には、桜がはらはらと散るはかなさに美を感じ取る美意識と、裏表の関係があるのではなかろうか。
「連なる文化」の形式で思い浮かぶのが、外国の文学では考えにくい「連歌」という文化があることに気がつく。
欧米では、詩人や作家は、しばしば孤独で天才的な隠遁者である。欧米で芸術とは、啓示を受けた個人が作るという発想である。
芸術は、神の啓示を受けて作られるので、詩人や作家があまり人付き合いをしない隠遁者であっても全然かまわない。
「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーや、女流詩人のディキンソンは、今でいう「ひきこもり」といってよく、ショーン・コネリー主演の映画「小説家をみつけたら」の主人公も、隠遁者的作家であった。
ところが、日本の伝統では、和歌や俳句は歌会や句会といった他者との「関わり」の場でつくられるというのが、基本的な考え方である。
その時々の「場」の雰囲気や感情を共有し、お互いに関わり「触発」しあう中で、よりよき詩歌が生まれる。
つまり社交の場にあってこそ、芸術が生まれるとしたのである。それは、「連」の文化の最も分かり易い事例である。
こういう「芸術観」は、労働や仕事の場おける「協調性」とも無関係ではないように思う。
つまり日本人は、歴史の諸相において「相互連帯」をもって自らを育んでいく「草の根」精神をそれなりに保有してきたといえる。
これは「個」が確立とは異なる性格をもつが、こうした不可視のインフラが急速な近代化を可能にした一因ではなかろうか。
また、「古今伝授」はどうであろう。師匠がこれぞと思う弟子にのみ古今和歌集の解釈を伝えていく。
へたな弟子に教えると解釈がまちまちになるのを防ぐ一方、そこに師匠から弟子への心の伝授のようなものを感じる。
それは解釈上の、亜流や分派を許さないということか。
また、技術の継承にしろ、伊勢神宮における20年に一度の「式年遷宮」により、宮大工の技術の伝承が「連綿」と行われている。
連歌と茶会(飲茶・茶道)は典型的な日本の文化で、両者に共通する特徴は、「集団」で行う遊び、文学芸能であることにある。
連歌も茶会も淵源は平安時代にまで遡ることができる。
連歌が始めて登場するのは白川法皇の命で編纂された「金葉和歌集」である。
茶は成尋(の弟子達)や栄西など、僧侶によって宋国から日本に招来された。
連歌も茶会も盛大になったのは室町そして戦国時代で、連歌は大衆の生活文化で、鎌倉時代既に庶民が春の花見時、和歌を作りあってお遊び半分に「連歌」が催されていた。
大衆的な連歌を文学にまで仕上げた人物が二条良基で、彼は準勅撰といえる連歌集「筑波集」を作成し連歌の規則を定める。
連歌は和歌の「5-7-5-7-7」の語のつながりを上の句の「5-7-5」と下の句の「7-7」に分断する。
まず上の句を歌い、それに他者が下の句を付ける。
さらに第三者がその下の句に新たな上の句を付け,こうして句あるいは歌が連ってゆく。
だから連歌といい、会衆は三人以上である。
二条良基は連歌に関しては極めて大衆的な人で、連歌作成には「身分」は関係しないと断言した。
連歌自体が花の下でのがやがや連歌から始まっている。二条良基は五摂家の当主、一流の歌人、有職故実の家元、同時に北朝の有力な廷臣である最高の貴族である。
連歌はさらに一条兼良や心敬をへて宗祇に引き継がれる。我が地元・福岡の大宰府には、「連歌屋」という地名がある。実は宗祇がここで連歌会を催したためである。
一条兼良は最後の勅撰集「新続古今集」の編纂者で、良基、兼良そして三条西実隆の三人は上層公卿の出身であり、室町戦国時代を通じての貴族文化の保持者であり、そしてこれらの文化を江戸時代の庶民文化に仲介する役割を果たした人達である。
単なる仲介ではなく、彼ら公卿達は江戸時代に貴族文化を家職として受けつぐ。
同時にこの家職としての古典文化は江戸時代の庶民文化の背景基軸として重要な役割を果たす。
朝廷公卿は武家政治全盛の時代にあっても文化の護持者として生き残っていく。
一方、茶の世界における画期は東山文化、八代将軍義政が主宰する銀閣寺を中心として展開された文化の時代である。
義政が建てた銀閣寺の東求堂は書院造りの第一号で、「書院造」と言えば畳の間、書院、床の間がある。
それれまでの「茶会」は、今でいう「茶話会」のレベルであった。
ところが村田珠光という人物が出現する。珠光は京都大徳寺に入り一休宗純のもとで参禅し、茶湯の中にも仏道があると悟り、従来の茶席を著しく精神化する。
いわゆる「茶禅一味」で、唐物礼賛を抑え、床には唐絵に代り墨蹟をかけ、茶席は四畳半の小座敷で行った。
そして、重要なのは、「飲茶」を通じて亭主と客人の精神的交流をはかるべく務める。
そこでなされた「草庵風」、や「山里風」の仕掛けが、「わびさび」の世界へと開かれていく。
珠光の事跡はやがて堺の商人武野紹鴎に引き継がれ、紹鴎の弟子が千利休である。
利休から和製の陶磁器も名物として尊重されるようになった。
それでは、「茶の心」とは何かといえば、しばしば「一期一会」の言葉で表される。その出会いの「即座性/一過性」であるがゆえにこそ、「連」ということが意識される。
当座性(座興)、雑談の連鎖そして振舞いになる。
茶会を催すに際して重要なことは会話である。
茶と料理などを楽しみつつ、自由な会話をするもの。
肝要なことはこの雑談がとぎれない事です。そのために一定の形式を定める。
最近テレビで紹介された、「未来食堂」にも、「連(つらなり)」のコンセプトを感じた。
「未来食堂」は、「ただ飯」さえも食べられる夢のような食堂で、東京都千代田区一ツ橋に実在する。
「未来食堂」のメニューはカンタンで、「カンブリア宮殿」で取材されたころのシステムは、定食は、毎日1種類だけで、ごはんは自分でおひつから盛り、おかわりも自由。
「まかない」というものがあり、お店の手伝いを50分することで、定食が1回ただで頂くことができる。
店の清掃をしたり、客の注文聞きとか様々あり、「マニュアル」あって、誰でもできるようになっている。
そして、働いたけれども、食べないという人は、その定食券(権利権)を入り口に貼って帰る。
すると来店した人は、その「まかない券」でタダで飯を食べることさえできる。
働くけど食べない人結構いて、それが権利を譲ることで「繋がり」を生み出す。
「あつらえ」というものがあり、本来の意味は、特別に注文して作ってもらうと言う意味だが、「未来食堂」では、用意してある食材の中から2種類を選んで、店主に「あたたかいもの」とか「しょっぱいもの」とかリクエストできるもののことである。
ただ、これは、夜のみのサービスで、定食プラス「あつらえ」で1300円となる。
店主の小林せかいさんは、1984年まれの32歳で、大阪府出身。高校生の時に、家出をして2カ月間、親とも連絡を取ることをせずに都会で暮らしていた。
その間、「人といっしょにごはんと食べること」をとても大切だと思ったという。
東京工業大学数学科に進学し1年生の時から、学祭で喫茶店をやっていて、3年連続人気度1位となって気をよくし、将来は飲食店を出そうと思うようになった。
大学卒業後、日本IBM、クックパッドでエンジニアとして働いた後に、サイゼリヤや、大戸屋、オリジン弁当などで働いた経験と、ITの知識を生かして、「未来食堂」を始めた。
行動のコンセプト:あなたの”ふつう”をあつらえます。
思想のコンセプト:誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ります。
信念:人は一人一人が特別であり、同時に平凡な存在である。
ただ飯さえも食べようと思えばできる「未来食堂」。大切なことはどんなに貧しくとも「繋がれる」こと。匿名での繋がりも、このケースではいい。
とはいえ小林さんの弁によれば、このモデルよほど緻密な計画がなければ成功しないという。
最近また、「ビットコイン」という言葉を頻繁に耳にするようになった。
背景にある思想は、昔からコンピューターの世界の底流にある、リバタリアン的な自由主義であろう。
技術によって、権力からのあらゆる規制を乗り越え、真に自由な世界を実現しようという理想主義的な考え方だ。
情報技術を先導してきたキーパーソンの多くは、程度の差はあれ、この種の理念を共有してきたように思う。ビットコインは、通貨の世界でそのような理想を実現しようとする企て、という側面も指摘できる。
実際の使い道としては、紙幣や硬貨より送金コストが低く、預金の管理費用も低くなった。
電子情報の世界におけるデータはなんであれ、本質的にコピーが可能である。それを防ぐためにさまざまな工夫がなされてきたが、ビットコインが一定の成功を収めたのは、「ブロックチェーン」という、一種の「共有の取引台帳」の仕組みが実装されたことによる。
誰かが全体を管理しなくても不正な取引が起こらず、秘密は保持されるような仕組みは作れないか。これを暗号技術などによって実現したのが、「ブロックチェーン」である。
「デジタル通貨にとって課題だった偽造や二重払いの防止を、ブロックチェーンと呼ばれる革新的な技術でクリアしており、機能的には貨幣に求められるものをすべて備えている。
具体的には、「A氏からB氏にコインを渡す」といった取引内容が、鎖のように連なる台帳データの「末尾」に、定期的にまとめて追記される。また参加者全員が同じデータを共有するので、不正送金は非常に困難である。
重要なのは、どれが正しい台帳であるかが、常に明確になっていることで、そこが担保されなければ、このシステムは成り立たない。
そのために、台帳の信頼性を確認・維持するための作業に、基本的に誰でも参加することができ、しかも新たなビットコインがその報酬として得られるように設計されているという。
これがインセンティブとなって、中心的な管理者がいなくても、このシステムは自動的に維持されるようにな、同時に、新たなコインが持続的に供給されるわけだ。
さらにビットコインは、その総量が設計上、定められている。したがって希少性という点では、中央銀行がその気になればいくらでも印刷できる「銀行券」よりも、かつて通貨の役割を果たしていた金属の「金」に近いので、中央政府が借金帳消しのために意図的に行うハイパー・インフレなどからの安全をはかることもできる。
ビットコインの始まりは「サトシ・ナカモト」という人物が約10年前に発表したとされる論文だ。彼のアイデアは画期的ではあるが、その要素となっている技術の多くは、必ずしも新しいものではない。その「組み合わせ方」が非常に巧妙だった。
ただし、発明者の「ナカモト」氏は、本当に日本人なのか個人なのか、不明のまま開発コミュニティーから姿を消してしまった。
だが彼のコンセプトは受け継がれ、世界中の人々の協力によって、この技術は分散的に発展を続けている。
の、中央銀行を不要とすることを目的とした仮想通貨だが、2017年初の「コイン・チエック」でNEM580億円相当の流出のようなことがあれば、一気にその信用は低下する。
ブロックチエーンのおかげで、そのお金が「別の財布」に流出したことまでは確認できるが、それが誰の財布かまでは分からないし、犯人側もその財布から持ち出すまでには至らず、いわば「塩漬け」状態である。
ところで「貨幣」は、だれもが他人も貨幣として受け取ってくれると予想するから貨幣として流通できる。従って、その予想が危うくなるとだれも受け取ろうとしなくなり、その時、貨幣は貨幣でなくなる。
これでは、通常貨幣における「ハイパーインフレ」と同じ事態に直面することになる。
これは兌換性を喪失した貨幣の不安定性であり、その宿命的な「はかなさ」をおぎない補強するのが、公的機関によるコントロールである。
「中央」を排除するために生まれたビットコインは、そのはかなさゆえに、「連なる」ことにその存否をかけた。その発想および利便性は打ち消しがたい魅力をもつものの、現状における価値の乱高下では、「通貨」たりえないことは明白である。