繊維と領土と資源

「ああ野麦峠」(1968年刊)というルポルタージュは、長野県諏訪の紡績工場で働く女性(女工)の過酷な労働状況を描いていた。
実際に相当過酷な労働環境で、命を削って国・会社の為に働いていたといってよい。
この状況に危機感を描いた紡績会社側が、 女工の福利厚生・健康維持のために当時日本に入った「バレーボール」が手軽に女性でも出来るスポーツとして導入し、各紡績メーカーに浸透していった。
そして紡績会社の企業チームが結成されて行き、 紡績会社を中心に日本リーグが作られ 「東洋の魔女」が生まれていった。
正確にいうと、「東洋の魔女」は、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督:大松博文)につけられたニックネームである。
1964年東京オリンピックでは、日本対ソビエトの女子バレーボール決勝で、66.8パーセントという驚異のテレビ視聴率を記録し、「東洋の魔女」として一大ムーブメントを巻き起こした。
実は、そのチームは、「日本紡績貝塚工場チーム」のメンバーで固められていた。
この事実をもって、東京オリンピックの頃まで、日本は「繊維産業」(紡績)が主要な産業あったことがわかるが、紡績産業の衰退はあまりにも「突然」にやってきた。
その発端は、1950年代半ば初めに始まった「1ドルブラウス騒動」ある。
日本製の安い綿製品はアメリカ市場で「1ドルブラウス」と呼ばれ、大変な人気を集めた。当時のレートで1ドル=約360円。
いわゆる「1ドル・ブラウス」と呼ばれる「綿製スポーツシャツ・ブラウス類」 の対米輸出は、1954年の約30万ダースから、1955年には約300 万ダースへと急 激に増加し、「1ドル・ブラウス」のアメリカ市場におけるシェアは、1955年に なると、前年の3% から28%に上昇した。
アメリカ繊維業界はしだいに恐慌状態に追い込まれていった。
そこでアメリカ政府は、日本は綿製品の輸出に自主的規制を求めた。それができなければ、議会が日本製品の輸入を制限する法案を成立すると、強く働きかけてきた。
1968年の大統領選挙において、繊維産業が強いアメリカ「南部諸州の票」を獲得できるかが、大きな勝負どころとなったが、共和党のニクソン候補は民主党支持基盤である南部の繊維産業の支持を得るため、繊維製品の輸入の制限を公約した。
そして翌年ニクソンが大統領に就任すると日本に自主規制を迫った。
一方、当時の佐藤栄作内閣には戦後のどの内閣も成しえなかった「沖縄返還」という悲願であり、それを外交交渉により返還させるという公約でもあった。
つまり、日米両国(両政権)の思惑が絡み合った。
1971年7月5日の内閣改造で、時の総理・佐藤栄作は、通産大臣(現経産大臣)に自民党幹事長の田中角栄を抜擢する。
というのも、日米繊維交渉には、佐藤首相は通産大臣に大平正芳、宮沢喜一という自らが信じる有力者を配したが一向に解決しなかった。
時あたかも自身の後継をめぐって、福田赳夫と田中角栄が問題解決を競い火花を散らしていた。
大平も宮沢も日米繊維交渉を「外交交渉」と見ていたが、田中は「国内問題」というようにとらえていた。
最終的には、日本は米側の要求をほぼ受け入れ、日本国内の産地では、2000億円という補償金を見返りにして織機の「打ち壊し」などが行われた。
それは官僚的発想では出そうもない、大胆且つユニークなものであった。
忘れてはならないことは、日本の繊維業界に対して行われたこと。それは補償金との見返りにで織機を買い入れて潰すというものであった。
結果からすれば、沖縄返還と引き換えに日本の繊維業界が大打撃を受けることとなったのだが、その代わり日本の業者の救済をする。
日米貿易の今後の発展を考えたとき、理不尽ではあっても、ある程度アメリカの要求は飲まなければならぬ。
繊維問題でこれ以上こじれるのは得策ではないというのが田中の判断であった。
当然、多方面からの様々な批判があった。大屋晋三日本繊維産業連盟会長は、「糸(繊維)を売って、縄(沖縄)を買うのか!」と怒り、「かかる暴挙に対して、あらゆる手段を尽くして、あくまでも政府の責任を追及する」という抗議声明を発した。
衆議院に田中角栄通産大臣不信任案が、参議院で問責決議案が提出された。
この時、田中は日米関係の長期的視野にたって、これくらいの批判は覚悟していたといえる。
だが、繊維業界に対して2000億円の補償をすることにつき、大蔵省からこれを引き出すことは、実際には並大抵のことではなかった。
そこで、予ねてから子飼いにしてきた大蔵官僚(相沢英之など)と密かに話をつけ、問題をあっという間に解決してしまった。
田中は就任3ヶ月目の10月15日には米大統領のケネディー特使と日米繊維協定の了解覚書に仮調印するという電光石火の早業だった。
そして、救済対策費1270億円が補正予算で計上され、日米繊維交渉は決着した。
こうして、火中のクリを拾い、自分の責任において結論を出し、見事に裁く好例を見せつけた。
そして佐藤の後継争いにおいても、田中は優位に立つことにもなり、実際次期内閣総理大臣に田中が就任することになる。
日本は繊維製品の輸出自主規制を行うことを受け入れ、沖縄返還がされることとなった。

実は沖縄返還に際して、近年話題の尖閣諸島の領有権が繊維交渉が絡んでいた。
この尖閣列島の開拓者として、名を刻むのが古賀辰四郎である。
古賀は、1856年に福岡県八女郡山内村に生まれ、実家は代々茶の栽培と製造をしていた農家だった。
古賀は、1879年に24歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の「古賀商店」を開いた。
古賀が沖縄で見出したのは、八女茶とは関係のない新商売であった。それは沖縄特産の夜光貝の採集と加工業である。
そして、1884年ごろから東シナ海の無人島、尖閣諸島、大東島、沖の神島などの探検を行い、政府へ開拓の申請をした。
政府は古賀に尖閣諸島の「30年間無償貸与」を認可した。古賀は約4平方キロメートルの魚釣島を中心にして、カツオ節製造工場、アホウドリの羽根加工場、鳥フン石採掘場などを設け最盛期には284人の島民が定住し一時は「古賀村」とも称されていた。
そして、日清戦争後の1895年、日本政府は無地先占として尖閣諸島の「領有」を決定している。この件に関して国際的な抗議を受けることはなかった。
しかしながら、尖閣諸島周縁に石油の存在が確認されるや様相は一変した。
尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に「沖縄県の一部」として日本に施政権が返還されたが、これに台湾政府が強く反発、米国政府に働きかけた結果、米国政府内にも「沖縄との一括返還」に否定的な意見が一部にでていたとが、公開された米国政府の外交文書から明らかになっている。
つまりアメリカは、尖閣を沖縄の一部とみなしていたということだ。
さらには、北方領土返還問題と沖縄返還という二つの領土問題がリンクしていたことを示すのが、「ダラスの恫喝」というものである。
それは、昨年12月15日の山口県長門市で行われた安倍晋三首相とロシアのウラジミール・プーチン大統領の首脳会談の中でプーチンの発言の中にも登場した。
プーチン大統領は「共同経済活動をどのように平和条約締結に結びつけていくのか」などと聞かれた際に、歴史的経緯を話す中で、「日ソ共同宣言に署名したとき、この地域に関心のある米国のダレス国務長官が日本を恫喝した」と述べた。
1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。この際、北方領土をめぐってソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は国後島と択捉島を含む「四島返還」での継続協議を要求して交渉が折り合わなかった。
そのため「共同宣言」では「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記されることになった。
日本側は「二島返還」を受け入れる意向だったが、「四島返還」を主張した背景には、 アメリカからの圧力があったといわれている。
いわゆる「ダレスの恫喝」といわれるもので、アメリカのダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力をかけたのである。
米ソ冷戦下、アメリカは日本とソ連との間に友好関係が生じるのを警戒し、「平和条約」締結を阻んだというのが真相である。
平和条約が結ばれない日ロは、厳密にいうと「戦争継続中」ということだ。

最近、石原慎太郎の「天才」をはじめ、田中角栄論が再燃した感がある。再燃というのは、ロッキード事件の頃、田中の金脈や越山会の問題が盛んだったこと記憶がある。
しかし最近の議論は、田中が役人とは異なる発想で現実と向かい合っていたかを示すものが多い。
田中角栄は新潟の牛馬商の息子であり学歴といえば高等小学校卒である。上京し夜間学校で建築を学び資格を取り、土木建築会社を設立して成功した。
その後政界に入り、史上最年少の若さで総理大臣になった。
東大卒だらけの大蔵省で、大蔵大臣になった時の田中の挨拶は次のとうりであった。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」。
田中は、高学歴の役人の優秀性も限界もよく知っていた。
優秀性というのは、明治の太政官布告以来積み重ねられ、事案ごとに整理されてきた情報、ノウハウの蓄積であり、限界というのは、役人は自分達の視線の高さでシカものを考えられないということ。
田中は鳥瞰図、つまり高い空から全体をみるような視点を提供するのだと、常日頃から秘書に語っていたという。
そして、それは役人の発想ではできない数々の田中による「議員提出法案」に表れている。
さて、「決断と実行」をかかげて登場した田中角栄だが、田中の決断は「モナリザ」招致や「ウエストサイド物語」公演にも関わるものである。
劇作家の飯沢匡には、田中角栄の金脈事件をモチーフとして「多すぎた札束」などの作品があるが、しかし、日本における「ウエストサイド物語」の公演には、田中角栄が深く関わっている。
それは田中と「劇団四季」を主宰している浅利慶太との出会いがきっかけであった。
1960年代はじめの日本には、外貨規制というのがあって、外貨を使うにも一つの団体で使える枠というものがあった。
その枠を一つ一つ定めている大蔵省であり、その時の大蔵大臣が田中角栄である。
日生劇場に所属する浅利慶太らが中心になり、「ウエストサイド物語」の日本公演を実現しようという動きがおこった。
ところが日生劇場は後発の劇場であり、そんな外貨枠などあるはずもなかった。
しかしこのハードルを越えなければ、せっかくまとまりかけた「ウエストサイド物語」招致の話も、スタッフや役者への支払いが出来ないということになる。
困り果てた浅利は、ある新聞社の政治部次長だった人物に相談すると、その人物は自民党の担当デスクであったがために、田中に電話でかけあってくれることになった。
浅利は、定例記者会見が終わスタスタと大臣室に戻った田中を訪ねると、田中は「座りたまえ 用件はなんだっけ」と聞いてきた。
浅利は手短に「ウエストサイド物語」の紹介をして、これを招きたいので日生劇場に外貨の特別枠を認めていただけないか、と頼んだ。
それに対して田中は、そんな「不良の話」をやったら、逆に日米関係を悪くしないのかと尋ねた。
浅利が、戦後アメリカの文化はこういう形ではいってきたことはない、日本人もアメリカ人の芸術的感性に打たれるはずだと説明すると、田中は、わかったなんとかしようと答えた。
そして田中は浅利に、お前さんたちの道楽のために外貨が減ったんではしょうがない、ほどほどにしてくれたまえ、とクギをさした。
そして田中はすぐに電話をとり、当時の大蔵省為替局資金局長を呼んだ。
局長が1分後に現れるや、「ここにいらっしゃるのは、日生劇場の浅利慶太さんだ。今度アメリカから”ウエストサイド物語”を招かれるという。この作品は傑作で、日本人が見るとアメリカ文化への理解が深まるだろう。新しい文化交流のあり方として重要なケースだから、10万ドル外貨の特別枠をつくってあげてくれたまえ」と語った。
浅利から見て、田中はすべて知っていたのかと思わせるほど明快な指示であったという。
ともあれ、これで話はついたので浅利が深々と頭を下げると、田中は「よっしゃ じゃあな!」といって右手をあげて別れた。
この間、わずか5分間であり、 これ以後浅利は田中と会ったことはない。
浅利が、前述の新聞社の政治次長に聞くところによると、田中は陳情があっても即刻物事を決したりはしない。かならず事前に何がしかの情報をえているのだという。
となると、「ウェストサイド物語」の情報源は一体何だったのか。当時、田中角栄には20歳の娘がいた。その娘は、演劇好きで1968年から1年間、福田恆存の劇団「現代演劇協会・雲」の研究所に入って女優修業をしていた。
田中の「ウエストサイド物語」日本公演の協力の背景には、この女優修業の娘の存在があったのかもしれない。この娘とは、田中真紀子である。
実は、日本に「モナリザ」という世界の名画がやってきたのも、田中外交と関係している。
田中角栄は強いリーダーシップの下で「自主資源外交」を展開し、フランスと濃縮ウランの委託加工を決定した。
田中首相と当時のポンピドー大統領はパリで会談し、大統領は「モナリザ」の日本貸し出しを申し出て、田中首相を喜ばせた。
1974年に、日本にやってきた「モナリザ」は日本各地で公開され、我が地元・福岡県立美術館で「モナリザ」を拝観することができた。
ただ日本がフランスに濃縮ウランの委託加工をすることは、フランスの原子力政策を進することになる一方、米国の「核支配」をくつがえすことにもつながる。そこで降って湧いたように起きたのが、ロッキード事件である。
航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂が渡ったという事件だが、1976年の田中角栄の逮捕につながっていく。
その発信源はアメリカ側からであり、田中の「資源自主外交」が、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイル・メジャーの逆鱗に触れたことが背景にあったと推測できる。