「からくり」点と線

今年正月の「書初め」に人形が登場した。福岡県久留米市において、ぜんまい仕掛けの「からくり人形」が、「梅」や「松」の文字を書いた。
あらためて断っておくが、ロボットではなく、人形による「書き初め」である。
この「文字書き人形」は、久留米出身の「からくり儀右衛門」とよばれた初代・田中久重が、1830年代に制作したというから驚くほかはない。
「からくり」という言葉、最近では「不正」のニュアンスを含んで使われるが、江戸時代の終わりごろは、「からくり」ブームが起きるくらいに、前向きといってよい言葉であった。
当時「からくり」は、時計、織機など機械装置全般から、糸や差し金を操って動かすこと、工夫を凝らして物事を仕組むことなど、仕掛け、仕組み、トリックまで広い意味で用いられる。
狭義には、「からくり」人形の略として、見えない所で糸やゼンマイなどを用いて機械的に動作する人形を指す。
したがって、「動力」は、材質の反り返る反動や落下する力以外にはないということである。
日本史を遡って思いつくまま「からくり」を探すと、飛鳥に行った時に出会った中大兄皇子の「漏刻台(水時計)跡」というものが思い浮かんだ。
また、奈良時代に造られた「指南車」があげられるが、学僧智由が9年がかりで製造し、666年に天智天皇に献上したことが「日本書紀」に記載されている。
さらに平安時代には、細工が得意だった高陽親王(かやのみこ)が、旱魃の年の京都で「童子人形」を造り、田に立てた。
人形は両手に器を持ち、その器に水を注ぐと、人形が器を掲げ頭から水をかぶったという。
人々はその人形の仕草を楽しんで次々と水を器に注ぎ、田は水で満たされたという話が紹介されている。
こんなところから灌漑用の「水車」も生まれたのかもしれないし、その逆かもしれない。
多くの日本人がからくり人形を楽しむようになった契機は、初代竹田近江が1662年に旗揚げ公演した「竹田からくり芝居」といわれている。
初代竹田近江は、久留米の田中久重製作の「万年時計」に先んじて、「永代時計」と称す9尺ほどの大きな時計を作ったいわれている。
「竹田からくり芝居」は、四代100年にわたって日本各地で評判を博し、大坂では「人形浄瑠璃・文楽」に、江戸では歌舞伎という芸能に、尾張(名古屋)では、祭礼の山車の上山で「からくり人形」が演技を披露する「山車からくり祭」と3つの線に分かれたのである。
初代近江の次男である竹田出雲は竹本座の座本(興行責任者)となるが、その初代近江以来のからくりの技術と当時の「人形浄瑠璃」へと結びつき、近松門左衛門の作品などで使われている。
つまり、「からくり」と「浄瑠璃」とは、「人形」という一点で結びついたのだ。

江戸時代の「からくり人形」は、たとえ殿様の玩具だったとしても、近代直前の日本人が到達しえたモノつくりの「真髄」を表わしているとはいえまいか。
というのも田中久重は、特別な「科学的原理」や動力を使って人形を動かしたのではなく、ひとつひとつの歯車の動きに工夫に工夫を重ねたうえで、たった「一押し」で弓を射るなどの一連の動作をする人形を作った。
田中久重といえば、今時経営危機にある「東芝」の創業者とも言われるが、実質的には東京に近代的な工場を作ったのは「二代目・田中久重」であり、彼こそ東芝の創業者とするのが適切であろう。
この二代目が1875年に東京新橋につくった電信機工場「田中製造所」が、マツダ・ランプの「東京電気」(白熱舎)と合併して、「東京芝浦電気」となり、1884年、名前を短縮し「東芝」となった。
初代の田中久重の創案した「仕掛け」が、所詮殿様の娯楽のための「からくり人形」でしかないなど侮るべからず。
それは、とても複雑な連立方程式で動いているかのようで、 現代の「匠(たくみ)」とコンピュータ技術者が組んで挑戦しても、そう簡単にできそうなシロモノには見えない。
それどころかソフトバンクのロボット「ペッパー」さえも髣髴とさせる形態と動きなのだ。
江戸時代期以来多くの庶民に親しまれた木製の自動人形であり、「江戸のロボット」である。
人形を動かす「からくり仕掛け」は、現代の機械工学にも通じる原理を具えた"機械そのもの"である。
ロボット好きの日本人を育み、誰にも愛される正義の味方「鉄腕アトム」を生み、稼働台数世界一を続ける産業用ロボットの導入を促進したともいえる。
それは何より、世界で唯一ロボットに対して好意的なイメージを持つ日本人の「ロボット観」を育んだものともいえる。
なぜなら人形は、ぜんまいで動き、歯車などで動きを制御し、その仕組みは、エネルギーを変換してロボットを動かし、プログラミングで動きを制御するという現代のロボット技術と共通している。
最近、バック転をするロボットをテレビでみたが、江戸時代には、人形がとんぼ返りをしながら、階段を下りてくるものさえあった。
人間とロボットの共存は、21世紀の科学技術の重要課題の一つであり、この課題を解く鍵はからくり人形にある。
実は、「からくり人形」のコンセプトは、決して人間そっくりの動作を実現することを目的として製作されてはいない。
からくり人形は人間の意志に反して、自ら暴走することはなく、観客や周りの人々を最優先して働くものである。

日本は、機械技術の面で立ち遅れていたにもかかわらず、西欧にも存在しなかった「木製ロボット」を作る精密機械技術が完成され実用化されていた。
その「からくり」の製作こそが近代日本のものづくりの「跳躍台」となったのではないか。
そんな個人的な直感の具体的な裏付けがないかと思っていたら、昨年のNHK番組「ぶらタモリ」の中のエピソードに思わぬことが語られていた。
それは、名古屋のモノ作りの伝統に「からくり」が深く関わっているという話であった。
名古屋において、「からくり/織機/トヨタ自動車」の3点が線でつながる。
トヨタ自動車が、「豊田織機」から出発したことを想起すれば、「からくり」こそが世界トップの「TOYOTA」の原点にあったということだ。
トヨタの創業者・豊田佐吉は、1867年、遠江国敷知郡(現在の静岡県湖西市)に生まれる。父伊吉は、農業の傍ら、生活のために大工として働き、腕のいい職人として信頼を集めていた。
1885年、佐吉は18歳にして「専売特許条例」を知り、自らの知恵により新しいものを創造する発明に一生を捧げようと決意した。
石炭に変わる原動力を案出しようと考えた佐吉は、永久または無限動力の発明に取リかかり、いろいろ試行錯誤を重ねる。
1890、佐吉は、東京・上野で行われた「第三回内国勧業博覧会」で最新機械に衝撃を受け、その年の秋、佐吉の最初の発明となる「豊田式木製人力織機」を完成する。
「豊田式木製人力織機」は、これまで両手で織っていたものを片手で織れるように改良したもので、織りムラがなく品質は向上し、能率も4~5割向上した。
しかし、基本的に人間が手で織る織機であったため、「動力」で織る織機の発明に向かう。
1892年、佐吉は、自ら発明した豊田式木製人力織機数台の小さな織布工場を現動力織機の発明に一心不乱に取り組み、1896年、日本で最初の動力織機である木鉄混製の豊田式汽力織機(豊田式木鉄混製動力織機)を完成する。
開口、杼入(ひい)れ、筬打(おさう)ちを人力から動力に替え、よこ糸が切れたら杼が止まり自動で停止する装置や、布の巻き取り装置などを備え、安価な上に、生産性や品質も大幅に向上した。
佐吉が織機の研究を進めるにつれ、従来の動力織機では木管のよこ糸がなくなるたびに、その補充のため運転を停止しなければならず、このため能率が著しく阻害されていることが明らかになった。
そこで佐吉はこの点を改良するため、よこ糸を自動的に補充する装置の開発に心血を注ぎ始めた。
1903年、機械を止めずによこ糸を自動的に補充する最初の自働杼換(ひがえ)装置を発明し、それを装備した世界初の無停止杼換式自動織機(豊田式鉄製自動織機(T式))を製作した。
佐吉は、たて糸の送り出し装置を備えた織機や、究極の目標と定めていた動力を空費しない理想的な円運動を用いた「環状織機」を発明する。
それまで織機とは平面運動でありよこ糸の往復運動で布を織るものと考えられていた。
それを、杼の動きを回転運動に変え、よこ糸の挿入も打ち込みも静かに間断なく行うといういまだかつてない発明だった。
1907年、三井物産の勧めにより、東京・大阪・名古屋の有力財界人が資金提供し、豊田商会の工場と従業員を受け継ぐ豊田式織機株式会社(現、豊和工業株式会社)が設立された。
その後、欧米視察から帰国した佐吉は、苦心の末、資金調達を行い、1911年、現在の名古屋市西区則武新町に、自動織機の発明完成の足場を築くために、独立自営の「豊田自動織布工場」を設立した。
豊田佐吉は1930年に逝去するが豊田系会社は当社を含めて8社を数え、従業員は1万3000人を超えている。
さて、「からくり」は新しい動力の登場で廃れていっていると思いきや、豊田自動織機がモーターや空圧などの動力に頼らない「からくり」を用いた自動化改善に力を入れていという。
工場のエネルギー使用量を抑えられ、社員が知恵を使って改善の方法を考えるための人材育成にもつながるなどの利点から、トヨタ自動車グループ全体で「からくり改善」に力を入れている。
工場内で1つの製造ラインの終点から、次の製造ラインへ製品を搬送する車の駆動力と空の台車を元の位置へ戻すバネエネルギーを始点から終点までの製品の位置エネルギー(重力)から得ている。
この無動力搬送車は、さまざまな形態に進化し、現在では30カ所以上で稼働している。
背景には少子高齢化や女性の活躍推進があり、トヨタ自動車グループ各社も同様の取り組みを進めている。
工場レイアウトの効率化や労働災害の危険性低減に大きく役立ちそうなからくりもある。

「からくり人形」とえば、久留米の田中久重。彼が創業した東芝は家電のから「原発」主体となって「からくり」の原点を見失ったかにみえる。
東芝の「からくり」の行方は、モノ作りの方向ではなく、「粉飾決算」の方向に向かった。 西鉄久留米駅近くの五穀神社境内にある田中久重の表情も、曇りがちなのではなかろうか。
さて田中は「からくり興行」を各地おこなっているが、「からくり」の勃興と普及が同時多発的「点」なのか、「線」でつながるかはよく知らない。
愛知の「からくり」精神は、トヨタ自動車という現在の世界トップ企業の中に生かされている。
その愛知の「からくり」を現代に受けついだ現在の9代めの玉屋庄兵衛は、1954年生まれで、本名は高科庄次。
25歳で7代目に弟子入りし、1995年に「玉屋庄兵衛」を襲名する。
1998年に 江戸末期田中久重が製作した「弓曳童子」完全復元し、2003年には日本の江戸からくりの代表作として、自身で製作した「茶運人形」を東京上野の国立科学博物館に寄贈している。
その後、2005年7月、ロンドンの大英博物館に「茶運人形」を寄贈、大英博物館所蔵の「機匠図彙」とともに、日本文化常設館に展示されることとなった。
あわせて2011年には、のポルトガル、チェコなど欧州歴訪のように、各国への日本伝統文化ミッション としてからくり人形の実演など海外での活動を行ってきた。
さて、からくり人形は、演じられる場所によって、「座敷からくり」「舞台からくり」「山車からくり」に分類される。
「からくり祭り」によって「からくり」は名古屋で親しみが強いのか、現在の名古屋地方に「自動車」はいうにおよばず「産業用ロボット」などの企業が多く、工業製品の出荷高が常にトップクラスにある。
また、ヨーロッパからはいってきた新しい機械技術の受け皿となり、この地方での時計産業や自動車産業の発展を促し、今日の産業基盤形成の礎になっているといわれている。
実は、愛知の「山車からくり」は、京都で生れた人形制作の技術と大阪で始まった大衆人形芝居と名古屋で開花した和時計の技術の出会いから誕生した。
和時計製作と同様に一輌の山車をつくるには、縫師、彫師、大工、指物師など、多くの専門性を持つ職人の技術が必要で、広い裾野を持つ分業体制と現在の「トヨタのカンバン方式」ともいえるシステムが存在していた。
ところで最近、ある発明によって社長になった中学生少女が新聞にでていた。
発明の内容から愛知県出身ではないかと直感したが、本当に「愛知県安城市」とあった。
彼女は小学校6年の時、磁石の力を利用してスチール缶とアルミ缶を自動分別するゴミ箱を開発し、特許を取得した。小学生が特許を取得した例は全国で3例目で、大変珍しい。
ごみ箱は高さ約90センチの直方体。缶の投入口のすぐ下に磁石を設置。鉄が磁石にくっつく性質を利用して、自動分別できるようにしたというシンプルなもので、ホームセンターで手に入る安価な材料で制作したという。
一番のこだわりは、投入口につけたプラスチック製の薄い板。これがないと、スチール缶が磁石にくっついてしまい、下に落ちなくなってしまう。
板の大きさは1〜5センチで実験を行い、一番分別の確率の高かった3センチ幅のものを使用したという。
開発のきっかけは、少女のおじいさんが自宅前の自動販売機の空き缶を、苦労して仕分ける姿を目にしてきたことだったという。
簡単に分別できないかと考えて、2014年の夏休みの自由研究で取り組んだのが出発点だった。
少女の言葉「おじいちゃんに使ってもらいたい」と、からくり精神の原点を語っているかのようだ。
ところで、2015年10月7日の新聞によれば、名古屋と富山を結ぶ国道41号線沿いに、日本人ノーベル賞受賞者の研究施設あるいは住居が存在していることを報じたもので「ノーベル街道」と見出しがついていた。
当時の日本人の名古屋ノーベル受賞者は24名、そのうち12名が該当するという。
ノーベル賞と「からくり」とがどう関係するか。理論の実証には、その理論を支援する技術者および技能者の協力が不可欠である。
例えば、国道41号線の岐阜県飛田に作られた「スーパーカミオカンデ」。神岡鉱山の地下1000mに実験施設をもつが、あの壮大にして繊細な共同実験施設を作るに際して、愛知「からくり」の伝統が無関係とは思われない。
そういえば、国道41号線の起点となる名古屋では、「みずいろの雨」で知られるシンガー・ソング・ライターの八神純子の実家である「八神製作所」も医療機器メーカーとして名を馳せ、岐阜工専出身の小塚忠は、技術者として企業を渡り歩き、JYUKIで世界最高峰のミンシを開発した。
「山車からくり祭」が盛んな中部地域、つまり愛知県の知多半島から犬山、岐阜県美濃、高山を結んで富山県城端、高岡までをいつしか「からくり街道」と呼ぶようになった。
「からくり街道」と、「ノーベル街道」は驚くほど重なっている。