「風よけ」なし

平昌オリンピックにて、日本女子のパシュートは、そのシンクロする動きで見事な「流線型」をつくり、風圧を最小限に抑え金メダルをとった。
「風よけ」の価値にあらためて思い知ったが、この世の中、モノから精神まで「風よけ」とおぼしきものはたくさんある。
1950~60年代に「三等重役」という言葉があった。戦前からの企業幹部が「公職追放」となり、「中間管理職」にあるものが、はからずも企業の重役に昇進したケースで、その新陳代謝が戦後経済の再スタートにとってプラスに働いたようだ。
「風よけ」は失われて始めて「その存在」に気がつくものかもしれない。
例えば、家族において、突然父親や夫が亡くなって、家族を支えるばかりか、会社経営の最前線にたたされる女性もいる。家田荘子のルポルタージュを元に、そんな女性達を描いた映画が「極道の妻達」である。
もちろん、当初から風圧をものともせず前進する人でも、事態が暗転し逆風が増すような時、誰にも自分を守ってくれる「風よけ」的存在が必要だ。
2004年公開の映画「ステップワード・ウィフ」は、主人公がTV局を首になった妻と再起をはかろうとコネチカット州のある町を訪問する。
ここで驚いたのは、美しく不思議なほどに献身的で完璧な奥様方ばかりであること。主人公は、この町には何か秘密があるに違いない、と勘ぐる。
次第にわかってきたことは、彼女達は以前はバリバリのキャリア・ウーマンで、男達をアゴでつかって仕事をしていた女性達あった。
この町の秘密とは、あまりにも輝かしい経歴を築いた女性達に対して、肩身が狭くなった男達によってある「たくらみ」が仕掛けられていたのだ。
さて、この映画は、ニコ-ル・キッドマン演じる女性敏腕TVプロデューサーの大演説にはじまる。その演説は演技とはいえ、当時売りだし中のヒラリー・クリントンの涙の訴えを髣髴とさせるものがある。
さて日本では、今から700年以上も前、女性が男達の前に立つこと自体、さらには話をするだけでも考えにくい時代に、たった一人の女性が多くの武者達を前にはなった歴史に残る演説がある。
平家全盛の時代に、伊豆の豪族北条時政の長女、とはいってもかなりの田舎娘だった政子は罪人として伊豆に流されていた源頼朝に恋をした。親の反対を押し切り、半ば駆け落ち同然にして2人は結ばれることになった。
政子の父・時政は源頼朝の監視役であったのに、よりによって娘・政子が頼朝と恋仲になってしまおうとは苦りきったに違いない。
しかしこの結婚を認めたことは、北条氏の命運をも変えてしまう。北条氏は、以後、源氏方に「鞍替え」して平家方と戦っていくことになるからだ。
1180年、皇族の一人・以仁王が源頼政とともに平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。頼朝もそれに呼応して、緒戦の石橋山の戦いで惨敗し北条時政、義時とともに安房に逃れたものの、再挙し東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じた。
頼朝方は数万騎の大軍に膨れ上がり富士川の戦いでは戦わずして勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧し鎌倉に本拠をかまえた。
1185年には頼朝の弟・義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすが、平氏滅亡後、源頼朝と義経は対立する。
結局、頼朝は東北・衣川で義経を破り、義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼして1192年に鎌倉幕府を開いている。
ところが、「大黒柱」の頼朝が1199年1月、不慮の死でなくなると、長子の頼家が家督を継ぎm政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれた。
だが、苦労しらずの頼家は、自分思い通りの政治を望み、御家人たちからの反発をまねき、頼家の専制を抑制すべく、北条時政、北条義時を含む老臣による十三人の合議制が定められた。
この時、政子は頼家への血肉の愛をとるか、夫・頼朝が敷いた路線を踏襲し守りぬくかという決断が迫られるが、「非情」な決断をする。
頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され、後に暗殺されている。
さらに1219年右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った政子の三男・実朝は甥の公暁に暗殺された。政子はこの悲報に深く嘆き、淵瀬に身を投げようとさえ思ったと述懐している。
夫と息子二人を失い「風よけ」なし状態の政子は、使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願ったが、上皇はこれを拒否し、北条義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えた。
三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになった。
1221年皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は挙兵に踏み切った。
「承久の乱」のはじまりだが、上皇は「義時追討」の宣旨を諸国の守護と地頭に下した。
上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかったのである。
ここで政子は、御家人たちを前に歴史に残る涙ながらの名演説をする。「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と。
これで御家人の動揺は収まった。そればかりか、 幕府軍は最終的に19万騎の大軍に膨れ上がった。
後鳥羽上皇は、幕府の大軍の前に各地で敗退して後鳥羽上皇は「義時追討の宣旨」を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。

父親や夫の厚い庇護の下に生きてきた女性が、はからずも一国や一族をひきいることになる例は、外国にもある。
オ-ストリア・ハプスブルグ家の女帝・マリア・テレジアも北条政子と似たような境遇の中、窮地から脱出すべく「名演説」を行っている。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世には3人いたが、長女マリア以下すべて娘であった。
当然にして、皇位継承問題がおきるであろうという不安があった。
過去スペインへと分かれたスペイン系ハプスブルク家が、1700年に断絶したために、跡目争いのために「スペイン継承戦争」がおきている。
同様な事態を心配したカ-ル6世は、1713年「国事詔書」を出して、女系の継承も可能であるようにしていた。 しかし1740年10月、カ-ル6世は狩猟に出かけた際に、突然体調を崩し帰らぬ人になった。
そしてカール6世の後に、長女のマリア・テレジアが大公女を継承した。マリアはその時に23歳であったが、4年前に結婚しており、すでに2人の子供があった。
しかしカール6世在世当時は「国事詔書」を認めていたが、王が死ぬと手のひらをかえしたようにマリアの継承を認めないという動きがおこった。
フランス、バイエルン、ザクセンが決起し、特にプロイセンは強行だった。
マリア即位後の2ヵ月後には、その王フル-ドリヒ2世が、2万の軍隊を組織しオ-ストリアへ進入した。ほとんど奇襲というべきものであった。1740年から48年まで続く「オ-ストリア継承戦争」の勃発である。
ウイ-ンにいる家臣たちは狼狽するばかりであったが、若きマリアは毅然として行動にでた。そこには小娘と馬鹿にされた面影はなく、もって生まれた芯の強さと才を遺憾なく発揮した。
マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
さらに、国境を接し足元を見られ反旗を翻されるおそれさえあったンガリーへ乗り込み五か月にもおよぶ熱論を展開した。
そして、ハンガリー議会で「演説」を行って軍資金と兵力を獲得し、プロイセン・フリ-ドリヒ2世の軍隊に応戦し、自らが継承した領土のほぼ全体を守りとおす。
マリア・テレジアがハンガリー議会で行った演説は、ようやく生まれた息子のヨ-ゼフを胸に抱き、時として嗚咽さえ漏らしながらの「訴え」だったという。

旧約聖書「士師記」の時代は、イスラエルとペリシテ人との陰惨で凄惨な戦いが連続した時代であった。
そんな中、あたかも林の中に林檎を見つけたかのようなエピソードが折りこまれている。
それは、わずか5章ばかりの「ルツ記」だが、この書の中に「聖書的世界観」が凝縮されているといって過言ではない。
さて、ユダヤ法の中には、様々な「恤救制度」(弱者保護)がある。例えば「安息日」は、奴隷や牛馬の消耗を防ぐ意味合いもあったし、7年目ごとに「安息年」をもうけて畑の耕作を休んだりする。
また、50年めごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する「ヨベルの年」とかもあった。
さらには、収穫のすんだ畑に残っている「落穂を拾う」のは寡婦や孤児の権利で、誰もそれを邪魔してはいけないことになっていた。
そのほか、外国人(異邦人)労働者にも一定の保護が与えられていたのである。
ちなみに、西洋絵画の傑作「晩鐘」には、落葉拾いをする女性が描かれているが、この「ルツ記」がモチーフになっているのであろう。
さらに「ユダヤ法」では、夫を無くした寡婦を夫の一族のうちの誰かが娶る権利を有するという「レビート婚」の慣習があったことや、跡継ぎがいなければ「その土地」を夫一族の誰かが「買い戻す」権利があった。
いずれも一族の血と土地を存続させるための法であることはいうまでもない。
ところで聖書におけるキーワードのひとつとしてあげられる言葉が「寄留」。「寄留」は飢饉や捕囚などによっておきたが、新約聖書では、神の子にとってこの世は「寄留地」(へブル人11章13節)という位置づけさえなされている。
さて、イスラエルの地に飢饉があり、ベツレヘムからモアブの地に「寄留」したエリメレクの家族がいた。
モアブは、アブラハムの系図にはない「異邦人」である。詳らかに言うと、この世から滅び去ったソドム・ゴモラの町から脱出したアブラハムの甥・ロトの子孫にあたる。
エリメレクの妻はナオミといったが、モアブの地で夫が亡くなり寡婦となった。
また二人のの息子は、モアブ人の女性を嫁として迎えたが、十年の歳月を過ごした後、ナオミは、二人の息子にも先立たれてしまう。
残された姑ナオミと二人の嫁の心境はどのようなものであっただろう。
夫も子どもをも失う、ナオミは涙も涸れはて、「風よけ」のない境涯に立ちすくんだにちがない。
そんな折り、故郷ベツレヘムから「豊作」の知らせが届き、食べることだけには困らない故郷ベツレヘムに戻る決意をする。
だがナオミにとって気がかりなのは、モアブ人の二人の嫁のことであった。
イスラエル人は排他的なところがあって異邦人(モアブ人)である嫁までも連れて行くことに気がひき、ナオミは、二人の嫁にそれぞれ自分の実家に帰り、再婚して新たなスタートをきるようにすすめた。
そこで弟の嫁のオルパは、この勧めに従ったが、兄の嫁のルツは、ナオミの勧めを受け入れず、あくまでもナオミについて行くことにこだわった。
その時、異邦人ルツの言葉は心に心に響く。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1章16節)と。
「風よけ」のないように見られた姑と嫁の心の内は、信仰の光で照らされていたのだ。
そして、姑ナオミは、堅く離れようとしないルツを受け入れ、二人はナオミの故郷ベツレヘムへとむかったのである。
そして、そこには「はかりしれない」神の恩寵が待っていたのである。
二人がベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃であり、ナオミの旧知の人々はナオミに「お帰り」と声をかけた。
しかし、ナオミは、「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれることを拒み、苦しみを意味する「マラ」と呼ぶようにと答えるほどだった。
それまですべてを失ったナオミだが、「主の御手が私に下った」「全能者が私をひどい苦しみに会わせたからだ」と語り、一言も神をのろうことを発していない。
ところで亡くなった夫エリメレクは土地を所有していたが、「跡継ぎ」がいないままであり、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。
しかしユダヤ法には夫がなくなるとその兄弟が優先的に土地を買い取る権利を有するという規定があった。
ベツレヘムには、エリメレク一族に属する遠縁にボアズという金持ちがいた。ボアズもその土地を買い戻す権利を持つ一人だったのである。
また前述のとおり、ユダヤでは、貧しい者と寄留者には、収穫後の「落ち穂」拾いの権利が与えられていたのだが、「何の導き」によるのものか、ルツは「はからずも」ボアズの畑へと導かれていたのである。
ボアズは、働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいように、畑の若い者たちに邪魔をすることがないように命じた。
ボアズのルツに対する好意を知った姑ナオミは、前述の「レビラート婚」の権利に訴えた。
「レビラート婚」は死んだ男性の兄弟が寡婦を自分の妻としてめとるものだが、ナオミは自分と遠縁の親戚ボアズとの結婚に訴えたのではなく、ルツの結婚に訴えた。
これは「レビラート婚」の規定からすれば、明らかに拡大解釈だが、それだけに異郷から来たルツの将来を保証しようという思いがあったに違いない。
そこには、神がそのように導いておられるという確信めいたものがあったように感じられる。
そしてナオミは、ルツに具体的な指示を与えた。からだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることである。
これは、当時のユダヤの「求婚の習慣」に従ったものであり、大胆でも、はしたないことでもなんでもない。ルツはただその指示に素直に従った。
ボアズは、そんなルツの姿を見て、「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっている」と語った。
「先の真実」というのは、ルツが夫の死後、故郷をすててナオミに従い、ナオミの生活を支え仕えたこと。
「あとからの真実」というのは、土地の買戻しによりイスラエル人の夫(マフロン)の名を残すために、年長のボアズを夫として選んだことを指している。
ユダヤ法では、「レビラート婚」にせよ「土地の買戻し」の権利にせよ、それらの権利を持つ者は他にいた。ボアズは遠縁なので、それを行使しようという優先度が高い者が一族にいれば、ナオミの「願い」は実現しない。
そこで、ナオミはルツに言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」。
ここで、確固たる「信仰の言葉」を発している。ナオミは貧しいどころか、信仰に富んでいた。
ボアズは、他の買い戻しの権利を優先的に持つ者全員に確認の上、ボアズはその権利を譲りうけ、ナオミとルツの幸せのために、ある部分では「犠牲」の大きい結婚を承諾したのである。
ところが、ボアズとルツから出た系図は、その後、オベデからエッサイへ。そこからなんとイスラエルの王ダビデと続き、さらにはダビデの系図から「イエス・キリスト」が誕生する。
全てを失ったかに見えたナオミと嫁ルツは、神が仕組んだかのようなボアズとの出会いにより、「風よけ」となる有力者との出会いどころか、とてつもない祝福のただ中に取り込まれたということになる。

ちなみに、土地を「買い戻す」という言葉と「贖う」という言葉には、ヘブライ語では同じ言葉が使われている。
ところで、エリメレクの家族もそうであったが、イスラエルの民は各地を寄留者として歩んだ。
一世紀には国を完全に失い世界に「散った」(ディアスポラ)ために、彼らは世界中を「寄留者」として歩むことになる。
ところで旧約聖書の出来事は、「新約」と独立してよむべきではなく、新約聖書の「影」または「型」として読むとその「奥行き」の深さがわかる。
イエスの十字架と復活後に、弟子達特にペテロ、およびパウロらは、その「福音」(罪の贖いと復活)を異邦人に伝えていくが、新約聖書ではそうしてキリストを信じた者を、世界における「寄留者」と位置づけている。