火花散る夜

外交場面において、「全権」(政府代表者)同士が出会った当初から激しい「火花」を散らす場合がある。
有名なシーンは、1961年、中国とソビエトの関係が急速に冷えた頃、中国の周恩来とソビエトのフルシチョフが交わしたヤリトリである。
モスクワを訪問した周恩来首相の歓迎レセプションで、フルシチョフ第一書記がこう挨拶した。
「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」。
周首相は顔色ひとつ変えず、やおら壇上に立ってこう述べた。
「確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それは二人とも自分の出身階級を裏切ったということであります」。
このやりとり、明らかに周恩来に軍配があがった。
外交における、こんな「火花」を散らすやりとりに応じられる「世界標準」の日本人がいるだろうか。
唯一思いつくのが、小村寿太郎。
小村は北京の代理公使であった頃、清国の李鴻章と対面した際、巨漢の李は小村に対して「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか」と背の低さを揶揄された。
小村はそれに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では”大男 総身に智恵が回りかね”などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返した。
「火花」散らす国際舞台に生きた小村寿太郎は、「静謐」という形容詞以外には浮かばない九州の小さな城下町に生をうけた。
宮崎県南部日南市の飫肥(おび)は、飫肥城を中心とした伊東氏飫肥藩5万7000石の旧城下町である。
「九州の小京都」とも称され、多くの観光客が訪れている。
さて、日清戦争で勝利した日本に対して、ロシアはドイツ・フランスとともに「三国干渉」を行って、遼東半島割譲に横やりを入れ、その後、半島南端の旅順・大連の租借に成功する。
1900年には全満洲を占領し、1903年には韓国領の鴨緑江河口を軍事占領し、要塞化を進めた。
朝鮮半島までロシア領にされては、日本の独立維持は不可能と、ついに日本はロシアとの開戦を決断する他はなかった。
しかしロシアとの開戦にあたり、日本は資金調達に行き詰まっていた。日清戦争直後で戦費に余裕はなく、外債で多額を調達しなければならなかったが、開戦とともに日本発行の外債は暴落し、まったく引き受け手が現れなかった。
しかしこのころニコライ2世時のロシアでは、ユダヤ人虐待・虐殺が行われており、一人ののユダヤ人銀行家がロシア政府がこれを黙認していることに激怒していた。それが、米国最大手の投資企業の代表ジェイコブ・H・シフである。
ロシアは歴史を通じて、反ユダヤ主義が最も盛んだった国であった。
この時、日露戦争を戦いために、外債募集の重責を担った当時の副総裁・高橋是清は1904年2月、アメリカに渡った。
戦争に勝って「賠償金」をとってこそ借金を返すことができるのに、日本がロシアに勝つなどということを予測するものなどいなかった。
実際、ロスチャイルド、モルガン財閥などは高橋の申し出を断った。
それでも高橋はロンドンに渡り、偶然パーティで同席したのがシフというユダヤ人だった。
その動機について、高橋是清は自伝の中で、「ジェイコブ・シフは、帝政ロシアのもとで、ユダヤ人は差別を受け、国内を自由に旅行すら出来ず、圧制の極に達していた。
そこで、日本に勝たせ、ロシヤの政治に一大変革を起こし、ユダヤ人がその圧制から救われることを期待していた」と述べている。
シフは1847年生まれでフランクフルトのユダヤ人街区でロスチャイルドと一軒の家を共有していた。
後にシフはニューヨークのクーンローブ商会の共同経営者となり、国債と鉄道債券を取り扱う。
政治と距離を置いていたモルガン商会に対して、シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ロシアの「ユダヤ人迫害」に対して抗議するようにアメリカ政府に嘆願していた。
シフは高橋に日本公債を500万ポンド引き受ける用意があることを伝え、高橋是清とシフが起債できた外債は、4回で8200万ポンドにも達した。
これは1904年当時、日本の国家予算の約2.5倍にあたり、1年半程度の継戦が可能になった。
ただし、アメリカの仲介で、日露戦争で勝利をしたものの、賠償金をとれなかった日本は、第一次世界大戦後までその返済に苦しめることになる。
また、高橋は「天佑」とばかり思っていた「外債募集」の成功も、ロシアを排除して満州鉄道の利権をもくろむシフ側の計算であったともいわれている。
ともあれ、シフの尽力により、日本は勝利に必要な戦費を「調達」することができた。
そして1905年9月、日本は日露戦争に勝利し、翌年シフは明治天皇から旭日章を授与されている。

JR東海道線における東京駅の次は「有楽町」。そしてその次の「新橋駅」は、日本鉄道の基点としての名を残している。
駅前広場にはそれを記念する「蒸気機関車」の巨体が置いてある。
1905年新橋駅が目撃したのは、当時の外務大臣・小村寿太郎が二人の男に抱きかかえられるようにして駅の階段を降りていく場面である。
小村寿太郎は、日露戦争後ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。
ポーツマス会議での交渉は難しく、日本とロシアの要求の折り合いがつかず難航を極めた。
なにしろ、日本の勝利にはロシア国内の革命があり、日本もこれ以上戦いを続ける余力を残してはいなかった。
アメリカの仲介と、小村の粘り強い努力と交渉術で、なんとか「ポーツマス講和条約」に持ち込んだものの、日本政府は、勝者であったにもかかわらず、多くのものを譲歩せざるをえなかった。
ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から「泣き声」が聞こえてきたという。
不審に思った警備の者が小村寿太郎の部屋を訪ねると小村が大泣きしていたという。
国民は、日露戦争勝利の事情をよく知らされておらず、多くの戦死者を出し貧窮化していたため、勝利を謳いながらも、「賠償金」さえも取れない外交交渉に対して不満をもつことになった。
そんな雰囲気のなか帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えたのが、当時の内閣総理大臣・桂太郎と海相・山本権兵衛であった。
二人は、もし爆弾等を投げつけられた時に、小村と共に死ぬ覚悟を固めていたという。
マスコミは、「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」と報道し、このポーツマスでの交渉を酷評した。
そして1905年9月5日、首相官邸にに近い日比谷において「火花」が立ち上がる事態が生じた。
いわゆる「日比谷焼き討ち事件」で首都に戒厳令が出され、軍隊が出動する大暴動にまで発展することになる。戒厳令は11月29日まで続いた。
9月5日その碑、東京・日比谷公園でも右翼や野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出し、丸太と警察官350人で公園入り口を封鎖した。
しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、国民新聞社を襲撃した。すぐあとには内務大臣官邸を抜刀した5人組が襲撃し、東京市各所の交番、警察署などが破壊され、市内13か所以上から火の手が上がった。
この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になりあわや焼かれる寸前であったが、「近衛兵」などの護衛により難を逃れた。
また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。
これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を布き、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めたのである。
この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。
このうち裁判にかけられた者は104名、有罪となったのは87名であった。
収拾後も人々の反発は収まらず、桂首相は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。
この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職して代わりに第1次西園寺内閣が成立した。
西園寺や新内務大臣・原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図ったのである。
この事件の後、大正政変やシーメンス事件に際して起こった民衆騒擾は、政府指導層に民衆の力を思い知らせるとともに、「大正デモクラシー」の推進力にもなった。

時として、歴史は思わぬ展開を見せる。
日比谷で立ち上がった火花は、小村寿太郎の政治生命を奪うかに思えたが、意外にも小村の政治生命を保つことになる。
「前門の虎」ロシアとポーツマスで渡り合って帰国した小村を待っていたのは、「後門の狼」アメリカからの圧力だった。
アメリカはハワイを併合し、フィリピンを支配し始めていた。
しかし中国大陸への進出には決定的に立ち遅れていた。
そこへ、日露戦争が勃発した。
日本海海戦の日本のパーフェクトな勝利は、ローズベルト大統領にさえも衝撃ですらあった。
即座に、ローズベルトは、ハリマンを日本に派遣した。
ハリマンはアメリカの鉄道王で、5百万ポンドの日本国債を買っていた人物だった。
日露戦争の際、日本が公債をアメリカに求むるや、前述の王シフと共に、数100万ドルを引き受け、日本の為に尽力した。
しかし、日本の「援助者」だけでは収まらない抜け目のない男であった。
果然、ハリマンは1905年8月、ボーツマス講和会議が始まったばかりの時機に、アメリカを出発した。
彼は常に、アメリカをして太平洋上における通商上の覇者たらしめんと志し、南満州鉄道、次に東清鉄道を買収するという方策をたてたのである。
ハリマンの働きかけに対して日本政府は天皇の内諾を得て、10月12日に桂太郎首相は南満州鉄道の共同経営を基礎とする「桂・ハリマン協定」(仮協定)を成立させた。
その2日後の14日に小村寿太郎はポーツマスから帰国する。
この「仮協定」の存在を知った小村は激怒し、仮協定「破棄」のために「大車輪」の活動を開始する。
小村が反対したのは、鉄道権益などをロシアから引き継ぐには清国の同意が必要であるという法律があったが、これは、ロシアの示唆があるものだった。
さらに、10万人の戦死者と莫大な戦費を費やした「戦果」たる南満州鉄道の鉄道権を、アメリカに提供することは国民の怒りを免れず、ひいては国家への忠誠心を損なうものだという点であった。
一方、政府は南満州鉄道を日米の「共同管理」にしておけば、それは日露の緩衝地帯になるばかりでなく、万一ロシアが数年後に立ち直ったとしても、日本とアメリカを相手に戦争は出来ないから安心というヨミもあった。
しかし、ハリマンとの共同経営は、疲弊した日本には不利であり、それは資金力を比較してみれば明白というのが小村の主張だった。
それは、せっかく得たものをアメリカにみすみす渡すに等しいと見たからだった。
実は、小村はポーツマスの労苦を骨に刻み、抱きかかえられるほどの病気がちな体を鞭打ち、国民の喧罵を浴びつつ故国の土を踏んだばかりだった。
しかしいち早く桂首相を訪ね、帰朝の挨拶もそこそこに、「桂ハリマン協定」の無謀をモーレツに順番に説破しまくった。
休養の瑕もなく忘れて奔走して関係閣僚を説得し、ついに「廟議」を転覆することに成功したのである。
当時の逓信大臣は往時を追懐して「あの時の小村さんの態度は神のごとくであった」と語っている。
ハリマンは日本側の「違約」を最も不快なりとし、始終、知人に日本の「不信」を語っているにもかかわらずである。
強気のハリマンならば、もう少し「抗議」とかしてもよさそうなのに、ハリマンはサンフランシスコにおいて、日本側の「協定破棄」の電報を手にしたものの、その後に異議は唱えず、最後の日まで沈黙し続けたのか。
ハリマンを慄然たらしめしは、日本人が9月5日の夜に日比谷で目撃したような暴徒化をせぬだろうかという恐怖であったという。
暴徒は、桂首相の三田の邸、外相及び首相の官舎にも、夥しく押寄せた。
この夜はハリマンに思い出の深い愉快な時でなければならぬ。
内閣総理大臣官舎においてハリマンか歓待せられているとき、警官が高圧的に解散を命じたがために、日比谷公園に集まった群衆を不必要に激昂せしめた。
群衆は夥しく押寄せた。そして罵言を浴せ、投石し、放火しようと狂うのであった。
警官の囲みを突破しようとする群衆の為に、官舎にいた元老、閣僚その他の大官は身辺における不安を感ずるのであったが、殊にハリマンを如何にして安全地帯に移すべきかが問題であった。
彼の宿泊している帝国ホテルは、群衆の本源地たる日比谷公園に近いので危険があり、首相官邸はいつ襲われるか予測できない状況にあった。
関係者によれば、ハリマンはあの「9月5日の夜」を回想し、亡霊にでも追われるように悄然とし、毎日沈黙せざるを得なかったのだという。そして1909年、悶々の裡に逝去している。
「日比谷焼き討ち」事件は、ポーツマス条約で成果をえられなかった桂太郎首相や小村寿太郎にも向けられたものだったが、結果的にハリマンの報復の企図を挫き、小村寿太郎に味方したことになる。
小村の政治生命をも断ち切るかに思えた日比谷に立ち上った火花によって、小村は「南満州鉄道」を守った恩人として国民に認識されるにようになる。
ところで日比谷といえば、日比谷公園であるが、1903年、ドイツ帰りの本多静六博士の設計で作られ開園している。
翌年には、現在も営業中の「松本楼」が開店するが、このレストランに入ってすぐに意外なものが置いてある。それは「宋慶齢のピアノ」で、入店して初めて知ったことは松本楼の代表取締は、「日本映画の父」ともいわれた日活創業者のである梅屋庄吉である。
梅屋庄吉は、孫文の支援者の一人だが、孫文夫人の宋慶齢が梅屋邸で弾いていたピアノが松本楼に寄贈されたものだという。
日露戦争の日本勝利によって中国が近代化に目覚め、孫文らの留学生を日本に送ったことを鑑みれば、このピアノが日比谷公園にあることも、ひとまとまりの歴史の証言である。
一方、日比谷焼打ちに救われた小村はその後ニ度目の外相となり、幕末以来の宿願の「関税自主権」の回復に成功したのを機に職を辞した。
その3カ月後の1911年11月、療養先の葉山で静かに逝った。享年56。
時に「小村がおれば」と惜しんだ明治天皇も、その8カ月後に崩御されている。