名もなき日本人が歴史的な出来事に遭遇し、「山」をも動かす働きをした。
ここで「山を動かす」日本人とは、南米の古代遺跡を観光地にしたり、アジア初のオリンピックを東京に招致したり、ベルリンの壁崩壊のきっかけをつくるなど、不可能を可能にした市井の人々のこと。
さて、南米の世界遺産といえばペルーのマチュピチュ遺跡。その遺跡の麓にあるマチュピチュ村にひとりの日本人、野内与吉がいた。
福島県出身の農内は、裕福な農家に生まれるも海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡った。
農園で働いたが契約内容と実際
の違いから1年で辞め、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪した。
1923年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線に勤務し、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わった。
1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路が完成し、その後与吉は、前年結婚した現地の女性とマチュピチュ村に住むことなり、2人の娘と2人の息子に恵まれる。
与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り、村に電気をもたらした。
そして1935年には、この村で初の本格的木造建築である「ホテル・ノウチ」を建てた。
建物の一部には線路のレールが利用され、床は当時では高価だった木材を用い、3階建てで21部屋を持つ立派なホテルであった。
与吉は自分のホテルを村のために提供し、1階は村の郵便局や交番として無償で貸していた。
また、後には2階も村長室や裁判所として使用されていた。
つまり、公共施設も兼ねた「ホテル・ノウチ」が村の中心となってマチュピチュ村は発展していった。
与吉は、先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語やスペイン語も喋り、現地のガイドもしていた。
村人に信頼されていた与吉は人望を集め、1940年頃にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官をつとめた。
1947年に、マチュピチュ村の川が氾濫し、村は大きな土砂災害に見舞われた。
そこで与吉は住人達とともに、地方政府あてに緊急支援を依頼した。
そして地方政府からの命令で、復興のため翌年に与吉はマチュピチュ村村長に任命された。
1950年頃、与吉はペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ鉄道で再度働くために、再婚した現地女性とクスコ市へ移り住む。定年まで勤めたのち、与吉はこの仕事を息子に引継いだ。
1958年に三笠宮殿下がペルーを訪れ、マチュピチュ遺跡を見学した際に、与吉の長女オルガ野内が三笠宮殿下に花束を贈呈した。
日本にいる家族がその新聞記事を目にし、与吉の消息をはじめて知ることになったという。
そして故郷の人々が日本大使館を通じて与吉と連絡をとり、旅費を集めたおかげで、1968年与吉は故郷である福島県大玉村に52年ぶりに帰郷する。
与吉の両親はすでに他界していたが、兄弟や親戚が与吉を歓迎した。
滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会を開くなど、村人にペルーの魅力を伝えていたようである。
日本に戻るよう家族は説得したが、ペルーには11人の子供たちが待っているからと日本の家族と別れ、クスコに戻ってわずか2ヶ月後の1969年8月に息を引き取った。
アメリカ・ラスベガスに最初のホテルを作った人物ベンジャミン・シーゲルが映画「バグジー」(1991年)に描かれている。
そこからラスベガスのホテルが次々と作られていくが、マチュピチュ観光の発展のはじまりが「ホテル・ノウチ」。それを建てたのは、福島県出身の名もなきペルー移民であった。
「アジア初」そして「南米初」のオリンピック開催という「山」をも動かしたのは、和歌山県から北米へ移民した夫婦の子だった。
1892年に和田善兵衛は、和歌山県からカナダのバンクーバーへ「出稼ぎ漁師」として移住した。ここで有名な野球チーム「バンクーバー朝日」が結成される。
同郷の女性と結婚し、1907年に和田勇が生まれた時、カナダ国近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。
子の和田勇は17歳の時、サンフランシスコの農作物チェーン店に移り、1年後にはその仕事ぶりが評価されて店長に抜擢された。
当時アメリカの青果店では様々な種類の野菜を普通に並べるだけだったが、和田の店は陳列を工夫して野菜を種類別に見栄えのするように店頭に並べた。
そしてこの青果店は大繁盛し、和田はオークランドの「日系人社会」で一躍注目される。日本流「おもてなし」の初期の発揮例といえる。
そして和田は、1933年26歳の時に正子と結婚し、二人の子をさずかった。
そして和田は、34歳の若さにして25人の従業員と3軒の店を持ち、日系食料品約70店からなる協同組合の理事長になっていた。
しかし、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると状況は一変した。
日系人の太平洋沿岸3州での居住が禁止されてしまったことから、「強制収容所行き」をヨシとしなかった和田はユタ州の農園が人手不足で困っていることを聞きつけ、翌年3月にユタ州に移り大規模な農園を開設した。
しかし農園の経営は非常に苦しく、ユタ州の別の農地に移り家族で農業を営んだ。
1945年8月15日、和田は日本の敗戦を知った。和田夫妻は空襲で焼け野原になったと聞く祖国のことを思うと、涙が止まらなかった。
戦後、子供達が喘息持ちとなったという事情から、湿気の少ないロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開いた。
このスーパーも非常に繁盛し、カリフォルニア州内で17店舗を構えるまでに成長させた。
そうした中、1949年8月、選手8名からなる日本「水泳チー ム」がロサンゼルスに到着した。
全米水泳大会に出場するスポーツ界「戦後初」の海外遠征である。
前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、日本は参加できず、日本選手権を同時期に開催して「記録の上」で競うことにした。
1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速い世界新記録だったが、「公認」されなかった。
当時日本はいまだ占領下にあり、GHQのマッカーサーに「出国許可」を得て遠征したが、「旧敵国」としてジャップと言われたり、唾を吐きかけたり、ホテル宿泊を拒否されたりした。
それだけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。
そして和田夫妻は、選手たちの宿泊から食事まですべて自費で面倒見ようと申し出たのである。
妻正子は、おいしく栄養のつく日本食でもてなした。
日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。また和田は、練習のためのオリンピック・プールへの「送り迎え」を担当した。
そしていよいよ全米選手権が始まった。
結局、日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも圧倒的な得点で優勝を飾った。
古橋と橋爪をたちまち50人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。
和田夫妻もバンザイをしながら、とめどなく涙があふれた。内輪の祝賀パーティーで、古橋選手らの活躍によって、「ジャップ」と呼ばれていたのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになったと挨拶した。
そして実際、日系人の「入店拒否」がなくなっていったのである。
また和田はコレをきっかけに、当時日本水泳連盟会長の田畑政治や東京大学総長だった南原繁、後に東京都知事となる東龍太郎らと親交が生まれた。
1958年には東京オリンピック招致に向けた準備委員会が設立されるが、和田も田畑・東らに懇願される形で委員に就任した。
和田は東京でオリンピックを開催すれば日本人に勇気と自信を持たせることができ、日本は大きくジャンプできるにちがいないと、その仕事に燃えた。
しかし、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなどもオリンピックに「立候補する」という情報が入ってきて、もはや店のことなど二の次となった。
和田は中南米諸国の票がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと考えた。
しかし、スーパーの客として知り合った1人のメキシコ人以外には、南米にはなんのツテもなかった。
そのメキシコ人の農園を訪問し、誰でもいいから「有力者」を1人紹介して欲しいと説得し、ようやく1人のIOC委員との面会にまで辿りつくことができた。
そして和田はその人物に、オリンピックはいままで欧米でしか開催されたことがない、東京で開くことに投票してもらえないかと懇願した。
しかし委員は、南米の国々はアメリカの開催を何より望んでいる、アメリカの意向を無視することはできないと拒否した。
そこで和田は委員に、オリンピックを一緒に実現しないかと意外な提案をした。
もしも「アジア初」の東京開催が実現したら、次は「中南米初」のメキシコシティー開催を支援しようと訴えたのである。
この言葉に、メキシコ人のIOC委員の心が動いた。
1959年、外務大臣の手配で和田は「特命移動大使」権限を与えられ、首相からの「親書」をもってプロペラ機に乗り込んで、南米10カ国を1ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。
そしてIOC総会では、事前のデトロイト、ウィーンが有利という予想を覆し、東京が過半数を制し、1964年「東京オリンピックの開催」が決定したのである。
和田は、開催決定後は日本オリンピック委員会(JOC)の名誉委員となり、東京の次に開催される「メキシコオリンピック」の誘致活動にも尽力した。
1968年、南米初のオリンピックの実現を見ることにより、メキシコへの恩返しを果たした。
ベルリンの壁は、東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁で、1961年から東ドイツ側によって建設された。
この壁は、東西冷戦の象徴で1989年に崩壊するが、ベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったのは、名もなき一人の日本人である。
佐藤勲(いさお)は、1910年生まれで秋田県大曲(おおまがり)市出身である。
大曲といえば日本一の花火大会で知られるが、佐藤はもともとは映画監督志望だが、花火師の道を歩きはじめる。
ところが昭和30年代には、テレビなどの普及により花火が飽きられ始めていた。
そこで大曲市は大曲の花火大会の主催権を大曲商工会に任せることにし、その時の商工会実行副委員長兼企画員として活動していたのが佐藤勲であった。
この花火師の佐藤勲がはるかドイツのベルリンの壁崩壊へのきっかけをつくるなど、どうして想像できるだろうか。
そこには、ちょっとした行き違いがあったようだ。
1978年、大曲市長の最上源之助が、西ドイツのボン市を農業視察の目的で訪れた。
その際に最上源之助市長はボン市長に対し、「大曲は日本一の花火大会で有名です。ライン川の古城を背景に打ち上げたら楽しいでしょう」と述べた。
最上市長はこの時、社交辞令的な意味合いで発言したそうだが、ボン市長は「それはいいアイディアだ」と真に受けて日本の花火を打ち上げようという事になって、翌日の現地新聞で「大曲から花火を呼ぶことになった」という風に報じられた。
そして冗談ごとではなくなって、実際にドイツでの日本花火打ち上げが実施されることとなり、この時に指揮をとったのが佐藤勲である。
1979年に、ボン市での花火打ち上げを成功させると、今度は西ベルリンから「市政750年の記念打ち上げ」を依頼される。
佐藤勲は再び、西ベルリンで花火の打ち上げを成功させる。
佐藤はその時の記者会見で、「ベルリンの地上には壁がありますが空には壁はありません」。「日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西の方も東の方も楽しんでください」と、人々の心に響く言葉を残している。
そして、この佐藤勲の言葉が翌日の新聞の1面を飾ったことから、東西ドイツの合併のための動きが活発になったのである。
その動きの一つが「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、西ドイツと東ドイツの市民が一緒にピクニックをしようというものであった。
そして1989年月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた「汎ヨーロッパ・ピクニック」は、ベルリンの壁崩壊へと直接に繋がっていく。
もともとハンガリーは、東社会主義圏の中では、最も開放的な国で、夏に避暑のためにやってきた東ドイツ市民と西ドイツ市民が再会し、旧交をあたためる場所となっていた。
この事実に注目した民主化グループによって、東ドイツから西ドイツへの「脱走計画」が隠密裏に進められていたのである。
その「脱走計画」とは、ハプスブルク家で一つになっていたハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショブロンに集まってきた東ドイツ市民を、一挙に大量に西ドイツ(西側)へ逃がし亡命させてしまう策略である。
NHKの番組では、この時におきたある「感動的な場面」が放映されていた。
国境のゲートを走りぬけようとする多数の東独市民の中に、一人、赤ちゃんを抱いた女性がいた。
彼女はあわてるあまり、ゲートの直前で赤ちゃんを落としてしまう。
そこに国境警備兵が近づいてくる。「もうおしまい」と思った瞬間、警備兵は赤ちゃんを抱き上げて、優しくその女性に手渡したのである。
このワン・アクションが、はからずも東ドイツを脱出しようとする市民へのメッセージとなった。
実は、ハンガリーの国境警備兵は、隠密裏に東独市民の逃亡を見逃すように命令をうけていたのだ。
この「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、一度に国境を渡った東ドイツ市民は、およそ1000人といわれている。
しかし、その後続々とハンガリーに集まってきた堰をきったような約6万人の東ドイツ市民の流れを、東ドイツ政府は、もはやどうすることもできなかった。
実は、その陰には、ハンガリーのネートメ首相の決断があった。
ネーメト首相は密かに西ドイツのコール首相を訪問し、ハンガリーに不法滞在する東ドイツの人々を、何の見返りもなしに、西ドイツに出国さえるつもりであることを語った。コール首相は、この勇気ある決断に感謝し、泣き崩れたという。
他方、ネートメ首相は、東ドイツ市民の「強制送還」を要請してきた東ドイツ政府に対して、同じことを通達した。
これによって、東ドイツ国内では民主化(つまり移動の自由)を求める大規模な街頭デモが繰り返され、「壁の開放」を容認する他はなかった。
2009年11月9日「ベルリンの壁」崩壊20年記念式典では、盛大な花火が夜空を飾った。