言霊と燔祭

人類創生まもなく、シリアのカシオン山において殺人が起きた。旧約聖書は、カインがアベルを殺したことを伝えているが、これが人類最初の殺人事件である。
なにしろアダムとエバの子供が、カインとアベル。「エデンの園」から追放されるや、人類は二代目にして、早々と殺人を犯したことになる。
露わにいえば、人類はその「カインの末裔」ということになる。
今も残る人類最古の都市といえば、シリアの首都ダマスカス。シリアの砂漠地帯の交通の要衝であり、「地上の楽園」とよばれた時代もあった。
そして今、シリア内戦によって、この都市は破壊の限りを尽くされ、数十万の屍(しかばね)が累々と重なる。
シリアのダマスカスと我が地元・福岡は、ほぼ同緯度にあるせいか、つい思い至ったのは、「平和」というものの「もろさ/危うさ」である。
ところで、福岡県庁のある東公園一帯は、鎌倉時代に日本軍とモンゴル軍とが戦った主戦場のひとつ、「千代の松原」である。
ここに、どうして亀山上皇像が立ったのか。
元寇時の上皇が、亀山上皇だったからというのだけでは、設立者の本意がまったく伝わらない。
それは、平和の「危うさ」を伝えるために建てられたものなのだ。
1874年、日本軍の台湾出兵に衝撃を受け、琉球帰属問題に直面した清朝政府は近代的な海軍の創設に乗り出した。そして出来たのが「北洋艦隊」である。
1886年8月1日、その北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が日本政府には何ら予告なく、修理のためと称して長崎に入港した。
特に「定遠」「鎮遠」はドイツが作ったその当時世界第一の排水量7400tの戦艦だった。
日本には、まだそのクラスの軍艦はなく、持っている軍艦はイギリスが作った3000tクラスの「浪速」と「高千穂」だけだった。
その巨大さに、長崎市民が度肝を抜かれてしまったのだが、そればかりか500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。
長崎市内を回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くした。
長崎県警察部の警察官が鎮圧に向かうも、警察官と清国水兵が双方抜刀して市街戦に発展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、水兵は逮捕された。
さらに翌日、300名の水兵が上陸。3人の巡査によってたかって暴行し、1人が死亡した。これを見ていた人力車・車夫らが激昂し、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。死者・負傷者多数を含む大事件となった。
これがいわゆる「長崎事件」で、日清両国は長崎において交渉が行われ、最終的には英独などの斡旋を経て妥結した。
事件の当事者については所属国の法律により処分、また双方より「撫恤料」が支払われた。
事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出たため、1884年の甲申政変と併せて、日清戦争を引き起こす遠因の一つとなった。
長崎事件により日本は海軍力を高めねばならぬと、その後その増強をはかった一方、清国の西太后は、清国の力を過信して増強することなく、北京郊外に彼女の避暑地として頤和園をつくったばかりか、頤和園に石の船を作って軍人たちをよんで饗宴をするばかりであった。
実は、清国は自国では作る技術がなく、イギリスのアームストロング社に巡洋艦二隻、ドイツのフルカン社に戦艦二隻を発注した。
「北洋艦隊」とはいっても、買ってきた船に、訓練していない海軍が乗り込んだ軍艦である。
それなのに、乗り込んだ船員たちは異常に興奮し、こんな状況が、長崎事件を引き起こしたといえる。
当時、福岡の警察署長であった湯地丈雄はその事件の応援に行き、この事件は日本人の平和ボケからきていると思い始めた。
そして、いつ外国が攻めてきてもおかしくないという危機感を持つべきだと、思うようになった。
この、湯地丈雄という人物は、熊本生まれ。1873年熊本県警部となり、翌年の佐賀の乱の鎮定に功があった。
そこで、元軍との戦場ともなった福岡の地に元寇の記念館がないことに着目し、一念発起して元寇の記念碑を建てることを決意した。
なにしろ、元寇は当時唯一日本本土が外国から攻められて火に焼かれた場所あったからだ。
湯地は、警察署長の職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めようとしたが、なかなか集まらず、生活も極貧の中で妻や子供に苦労をかけることになる。
そして20年におよぶ歳月をかけて、東公園に「亀山上皇」像が建立されたのである。
その完成は、奇しくも日露戦争が始まった1904年であった。
亀山上皇は、モンゴル襲来の際、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された故事を記念し、台座には宸筆の「敵国降伏」の文字が刻まれている。
高さ約6メ一トルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は筥崎宮の奉安殿に安置されている。
なぜ、元寇の時に筥崎宮に掲げられた「敵国降伏」の文字も亀山上皇によるものと言われている。
この亀山上皇像の台座には、この石造をつくった石工の名前が刻まれ、その中には福岡天神の石工の家に生まれた広田弘毅の父親の名前「廣田徳右衛門」の名もある。
しかし、そこに湯地の名はなく、湯地が苦労をかけた妻と子の名前を書いた石板が、亀山上皇像下に埋められたのだという。

ものごとには「前兆」というものがある。それを来たるべきクライシスの「前兆」と捉え、いかに対応するかが、為政者の能力というものである。
元寇から遡る約100年、現在の福岡県糸島市や福岡市西区・早良区を襲った「刀伊の入寇」という出来事が起きた。
それに対応した人物は、当時の大宰権師(ごんのそつ)藤原隆家であった。
平安時代の中頃の1019年,日本が16日間だけ,異民族の侵略を受けた。これを「刀伊の入寇」(といのにゅうこう)という。
この侵略は,現地九州太宰府の役人の「超法規的」行動によって,撃退した。
刀伊の襲来は3月末に賊船50隻による対馬・壱岐の襲撃にはじまった。被害は甚大で,壱岐守理忠は死に,対馬守遠晴は難を逃れたが,対馬からの急報は4月7日に太宰府に到着。
その日,賊船は筑前国怡土(いと)の郡(現在の福岡県糸島郡)に襲来し,志摩郡・早良郡などを掠め,あばれまわった。
上陸した際して百人ばかりで一隊をなし、手当たりしだいに人を捕まえて、老人・子供はすべて斬殺し、壮年男女はすべて船に追い込み、穀物を奪い、民家を焼くという悪鬼のような乱暴を働いた。
「刀伊」の主流は満洲民族の前身である女真族であったと考えられている。
当時の女真は農耕の習慣を持っておらず、代わりに農耕民族を拉致して自己の勢力圏内で農耕に従事させて食糧を確保していたともいわれている。
このため、入寇の目的としては単なる海賊行為の他にこうした農耕民族住民の確保があったとも言われている。
この刀伊の入寇に応戦した藤原隆家は、叔父道長との朝廷を舞台にしての権力争いに嫌気がさし、武道に優れた面もあって、大宰府へ赴いている。
「外寇」さえも予想していたともいわれている。
一方、平安貴族政治は、藤原隆家の奮戦をまったく評価せず、「恩賞」を与えていない。
福岡の作家・葉室麟は、小説「刀伊の入寇」の中で、藤原隆家をして次のように言わしめる。
「刀伊が参った時、戦をいたす許しの伺いを京の朝廷に出す暇はあるまい。されば、われらは京の許しなく敵と戦うことになるであろう。それゆえ、朝廷は恩賞を出し渋るはずだ。京はさようなところだ」。
「逆転の日本史」の著者・井沢元彦は、平安時代の為政者、とりわけ藤原公任と藤原行成が共にこの時代を代表する歌人であったことを取り上げ、「言霊」で外敵を追い払えるという考えの危なさを説く。
一旦は、中央政府から、戦功抜群の者には褒賞を与える旨が太宰府に伝えられ,その後太宰府から12名の戦功を記して上申した。
太宰府からの急報の書状の形式が整っていないことを公家たちは、問題にしていた。
なにしろ桓武帝は、軍団を廃止していたため、今回の防衛は藤原隆家が召集した地元豪族の「私兵」であり、これが後の武士の原型となる。
とにかく「国民を守るのが国の義務」どころか「そのための軍隊」すらなかった。ゆえに危機管理どころの騒ぎではない。
上記の恩賞問題で、恩賞をあたえることに反対したのは、藤原公任で「三十六歌仙」を選定し、「和歌朗詠集」を編纂した人物。そしてもう一人は、 中納言・藤原行成も当時、有能な官僚として定評があった。
大半の中央貴族には,国政担当者としての意識はみられず、「有職故実」が盛んになったように、儀式そのものが政治であった。
この平安摂関政府は、侵略者を撃退したっ功労者(藤原隆家)に、まったく恩賞を与えていない。
というのも、当時の公家らは、藤原隆家らは朝廷の命令がとどく以前に戦ったので、勝手に戦ったのだから「私闘」と判じたのである。
朝廷の公卿が凡庸な人々ではなく、藤原公任、藤原行成など、屈指の賢人といわれた人々で、三船才(和歌・漢詩・管弦すべてに通ずること)と言われた公任であった。
当時の公家らは、和歌など言霊世界に浸かりすぎたせいか、政治の現実を知らぬまま、権力だけは手離すまいと汲々としていた実態がよくわかる。

作家の井沢元彦は、日本が「言霊の国」であることが、平和を唱えれば平和が来るということが、危機意識が欠如していることを指摘していた。
2007年、癌で亡くなった哲学エッセイストの池田晶子はもっと激越で、北朝鮮のミサイルが届くまでに、「辞世の句」ぐらいは作れると為政者の無策を皮肉っていた。
日本本国憲法「前文」では「われらは平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、この憲法を制定した」とある。
戦後の猛反省の上に立つとはいえ、これからも平和が破られる可能性には露ほどにもふれられず、「言霊」の書といってもよい。
実際に素直に読めば、「自衛隊」が入り込む隙間さえも見いだせないなのだ。
現在、日本国憲法の改正論議で、憲法に一言「自衛隊」を書き込むかかが問題になっているが、もし「自衛隊」を書きこんだら、海外までいって同盟国の為に戦えるまでになった自衛隊が、どうして憲法9条が禁じる「戦力」にあたらないか、奇妙に浮き出てしまう結果になるからだ。
また、日本人の意識には「善悪の相克」という発想はなく、善意や理想でさえも逆手にとる「悪」の存在があることに意識が及ばない。
日本人にとって、悪しきことは、不吉のことは言葉にださず、悪しきこと(けがれ)があっても、せいぜい「歪み/不浄」であって、水やお祓いで清められるという発想である。
この件に関して、旧約聖書3章に、「カインとアベル」のエピソードがある。
カインが捧げたものは、田畑の成り出でもの、アベルが捧げたものは、子羊などの燔祭。
ところが、神はカインの捧げものを喜び、アベルの捧げものを退けた。
アベルの捧げモノが気に入られ、カインの捧げモノが気にいられなかった理由は、聖書の記述からは読みとれない。
ただ違いをいうと、カインは地の産物を持ってそのまま「供え物」としたのに対して、 アベルは群れのういごと肥えたものの命を「供え物」とした点である。
人類のエデンからの追放後、地は呪われるとあるし、ユダヤ社会では捧げものとは「いけにえ」を意味する。つまり、それは命の犠牲を伴う捧げものなのだ。
新約聖書(ヘブル人への手紙12章)には、「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」とある。
そうして、カインはアベルを妬み、アベルを野に連れ出して殺してしまう。
そして神がカインに「お前の弟のアベルはどこにいるか」と問うと、カインは「知らない、わたしが弟の番人でしょうか」とシラをきる。
それに対して神は、「お前は何をしたのか。お前の弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」と問い詰め、カインはアベル殺害を認める。
ではここで、アベルの血は何を訴えたのか。そのことのヒントは新約聖書にある。
「新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも立派に語るそそがれた血である」(ヘブル人への手紙12章)と。
この言葉を素直によめば、イエスの血とアベルの血が一脈通じるものがあるということであり、アベルの血は神に復讐どころか、カインの罪の許しをさえ訴えているフシがある。
なんと、「カインの命」を狙うものからカインを守る「印」が与えられたというのだ。
つまり、アベルの血は何を語るのか。それは一言でいえば、復讐ではなく許し、つまり「平和」なのである。
それを訴えるのが、死してモノ言う犠牲者「アベルの血」というのだから、その重さたるや、「言霊世界」とはかけはなれている。
日本のような農耕民族にとって「生けるものの血」つまり燔祭は、縁遠いのも確かである。
話は少しそれるが、旧約聖書には、「エデンの園」から追放の段階で、早くも救世主登場が預言されている。
それは、アダムとイブをだました蛇に対して、「女から生まれるものがあなたの頭を踏み砕くであろう」(創世記3章15)と、救世主のマリアからの誕生が預言されている。
一見、国際貢献とは結びつきそうもない「カインとアベル」の物語だが、スタインベック「エデンの東」のインスピレーションを与えて、ジェームス・ディーン主演で映画化されるほど、西欧世界では人口に膾炙している物語で、西欧の「価値観」の形成に深く関わったものである。
1990年湾岸戦争において、多国籍軍が日本に求めたものは、命の犠牲さえもともなうもの、つまり「アベルの捧げもの」だった。
しかし、日本の貢献は、「カインの捧げもの」としかみなされなかった。
この状況下で、石油依存度が高い日本に、「兵」の提供が求められたのは、むしろ自然なことといえる。
日本は「憲法的制約」があるにせよ、欧米の価値観からして、大金をだしたにせよ、兵をださずに我々は十分貢献しましたなんてことは、ありえないことなのだ。
金で済ました日本への国際社会の批判対して、外務省は内閣法制局と協力して、憲法整合的(?)な「五原則」に基づく、自衛隊の海外派遣を可能とする法案を作成し なんとか国会で可決された。
「言霊」で平和が実現すると信じる民と、「犠牲(燔祭)」をもってはじめて平和は築かれるとする民の開きは相当大きく、憲法の制約以前の「国際貢献」への意識の違いを生んでいるのかもしれない。