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夫の正体

♪名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ♪の歌い出しの「椰子の実」は、 島崎藤村が、1898年に柳田國男の話をもとに作詞したもの。
今から約80年前、名も知らぬ遠き国より、日本に立ち寄ったタイムールという初老の男がいた。
「名もしらぬ」とは失礼ながら、彼の国は、アラビア半島の東端に位置するオマーン。人口わずか280万人程の国で、「椰子」で知られる国である。
神戸港に降り立ったタイムールは、日本文化に触れる一方、ある日のこと、ダンスホールを訪れた。
そんなタイムールの目に、仕事帰りに職場の仲間とダンスホールに遊びに来ていた、ひとりの女性に目に留まった。
神戸税関で働く大山清子、当時19歳で すらりとした長身。兵庫県の山間の村で、厳格な大工職人の長女として生まれた。
細面でいかにも日本的な美しさを持った清子に、タイムールは大いに惹かれていった。
タイムールは毎晩のようにダンスホールを訪れ、 言葉の壁はあってもその優しさは清子に伝わっていた。
そんなある日、タイムールは清子に交際を申し込んだが、タイムールと清子の年齢差は、なんと47歳。
清子は、さすがに躊躇したものの、タイムールは猛アプローチを続け、その熱意と真剣さに、いつしか清子の方も心惹かれていく。
そして、出会って3ヶ月、2人は結婚を誓いあう。
しかし、清子の両親は、当然のように2人の結婚を認めようとはしなかった。
当時、国際結婚は珍しかったし、 聞きなれぬ中東のオマーン。しかも、「一夫多妻」の国で、タイムールには、すでに3人の夫人が母国にいるという。
しかしタイムールも諦めず、その真剣な姿に、清子の父親は「結婚するなら日本に住むこと」という「結婚の条件」を出した。
ところがこの時、タイムールには清子にさえ打ち明けていなかったある「秘密」があった。
その「秘密」のせいで、清子の両親の出した条件に即答することが出来なかった。そして「もう少し待ってくれ」といい残し、日本を去って行った。
それから半年が過ぎたある日、 彼は忽然と清子の家族の前に姿を現した。
タイムールは清子と結婚するためにオマーンを離れ、日本で一緒に暮らすことを決意したのだという。
その覚悟の姿に、両親は結婚を認めざるをえず、出会ってからおよそ1年後、2人はついに結婚した。
お金には不自由しなかったタイムールは、神戸市内に洋館を構え、清子と優雅な生活をスタートさせた。
戦前の日本では考えられない、舶来の電化製品。 給仕やメイドも3人いた。
だが、タイムールはなぜ、これほどまでに裕福な生活を送ることができるのか。 しかも彼は日本に移り住んでから、仕事をしている様子もない。
清子が聞いても、自分はオマーンの資産家であり、蓄えが十分にあると言うだけ。 何不自由ない暮らしをさせてくれる夫に不満はなかったため、清子や両親はそれ以上詮索しなかったという。
1年後、2人の間に愛娘「節子」が誕生する。この日、ある一団の人々がタイムールと清子の家を訪れた。
そこに立っていたのは、アラブの民族衣装に身を包んだ男たちだった。
なんと男性はオマーン国王・サイード王だという。しかもタイムールは彼の父親。つまり、タイムールは「第12代オマーン国王」、 その人だったのである。
国王の座はすでに5年前、息子に譲っていたものの、王室にいたタイムールだけに「結婚の条件」に即答できる立場にはなかった。
タイムールが国を離れ、日本に住むということは、必然的に王室を離脱することを意味する。
あの時、オマーンに一時帰国したタイムールは、宮殿に親族をはじめとする多くの関係者を集め、 運命的な出会いを果たした清子のことから、 互いに愛し合い、結婚を誓ったこと、その結婚を両親に反対されたことまで、包み隠さず語った。
そして、オマーンにいた3人の夫人にも理解を得て、 少しの資産とその身一つで、清子との結婚のために日本へと戻ってきたのだった。
そして、父の「娘の誕生」を聞きつけたサイード国王がお祝いにかけつけたのだった。
タイムールは自分の身分を明かさなかった理由を「権威とか身分で飾った自分ではなく、裸の自分を愛してくれる人と結ばれたかった」と語った。
しかし、二人の幸せは長くは続かなかった。清子は結婚からわずか3年後腎臓を患い、23歳という若さでこの世を去った。
タイムールは、清子の死後、娘の節子が将来、王族の相続権を得られるよう、彼女を連れオマーンへと帰国した。
節子は新たに「ブサイナ」と名付けられ、王族の身分を与えられた。タイムールは、その後、第二次世界大戦の影響などもあり、日本に戻ることなく、1965年に亡くなった。
兵庫県加古郡稲美町にある墓石には、「清子アルサイド 享年23」と刻まれている。2015年、ブサイナ節子さんが母親の墓参りに訪れた。
未曾有の被害をもたらした東日本大震災において、アメリカ、台湾、タイに次いで4番目に多額の支援をしてくれたのが、オマーンだった。
「椰子の実」の奇遇のように出会った二人は、日本とオマーンの「架け橋」となった。

1930年代、日本政府中枢にまで接近し最高国家機密漏洩を行った人物リヒヤルト・ゾルゲとはいかなる人物だったのか。
ゾルゲは若き日に第一次世界大戦に参加し自ら負傷している。
平等で平和のない世界を夢見て、共産主義が説く世界革命の思想に共感し、モスクワに本部をおくコミンテルン(国際共産党)のメンバ-となった。
ゾルゲはドイツの新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員という肩書きの元当時列強の情報が飛び交っていた上海に渡った。
そこですでに「大地の娘」で世に知られた女性アグネス・スメドレーと出会い日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実と出会う。
尾崎もコミンテルンのメンバーでゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
ゾルゲが日本の最高国家機密にアクセスできたがこの尾崎と通じてなのであるが、この尾崎はなんと当時の近衛首相のブレーン集団であった「昭和史研究会」のメンバーなのであった。
社会主義に傾倒する尾崎が近衛のブレーンであったことは、「運命のいたずら」というほかはない。
何しろ近衛首相は日本における最高の名族である藤原氏の子孫で、行き詰まりつつあった中国や米国との関係の打開のために多くの国民の期待を担っての「首相就任」であった。
ただ近衛首相は若き日、当時社会主義者で「貧乏物語」で世にしられた河上肇に学ぼうと東大ではなく京大で学んだという経歴がある。
ところで、 近衛首相のブレーンであった尾崎がゾルゲに流した情報の中に、「独ソ戦」の命運を握るようなものがあった。
中国との戦闘が長期化する中、日本は、同盟国ドイツがソビエトと優位に戦えば北に進出しようという意見と、多くの資源がある南方に進撃しようという二つの考えがあった。
政府の最終決定は「南方進撃」であるが、実はゾルゲはこのことをモスクワに打電していたのだ。
結果的にソビエトは、日本の北進はないとすべての兵力を満州からヨーロッパへと振り向けることができたのである。
ところでゾルゲがモスクワにその情報を流したのはドイツ大使館からでであったが、ゾルゲはこの大使館に勤める武官オットーとすでに上海で出会っており、オットーの紹介でドイツ大使の私設情報担当として出入りするようになった。
オットーがドイツ本国へ送るべき日本に関する報告や分析もゾルゲが書いたとされている。
まさか日本の友好国のドイツ大使館から、敵対するソビエトのモスクワに国家機密が送られていようとは誰が想像しようか。
個人的な「ゾルゲ像」は得体のしれない怪人物といった感じだが、ゾルゲという人物の本当の姿は、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」や日本人妻であった石井花子さんが書いた書物「人間ゾルゲ」を読むとかなり違う。
ゾルゲはオートナバイに乗った快活な好青年というイメージさえ湧いてくるのだ。それこそが人々の懐に入ることができた理由かもしれない。
ゾルゲの日本人妻・石井さんは銀座のラインゴールドというカフェでゾルゲと知り合い、1941年に逮捕されるまで共に暮らした。
実は日本の官憲は調査により情報がロシアに打電されていることを知っていた。ただその「発信源」がなかなかわからなかった。
多くの外国人を調べ、「夫の正体」をまったく知らない石井さんにゾルゲに変わったところがないか尋ねると時々釣りに出かけることがわかった。
特高は行楽を装い富士のふもとにある湖を張り込んだ。湖上に浮かぶ、魚の跳ねる音しか聞こえぬ静寂が覆う湖上のボ-ト上の二つの黒い影。
ひとつの影が湖に何かを投げたようだ。二人が去った後、特高は湖上にちぎられたメモを見つけた。紙面をつぎ合わせてみると、そこには暗号が書かれていた。
ゾルゲはついにコミンテルンのスパイであることが発覚したのである。
ゾルゲは尾崎とともに巣鴨刑務所で1944年11月7日ロシア革命記念日に処刑された。最後に「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返した。
石井花子さんは後にゾルゲの墓を見つけ出し、2000年に亡くなるまで花を手向け続けた。

日本における特攻作戦の始まりは、「桜花作戦」というものだった。太平洋戦争末期、日本が劣勢に立つ戦局を一気に挽回するために、特攻兵器「桜花」を導入する作戦だった。
この「有人誘導爆弾」を思いついたのは、ひとりの海軍少尉だったが、間もなく正式な「試作命令」が空技廠に下ったのである。
実際の設計は当初、提案に猛反対していた三木忠直技術少佐が担当した。
風洞実験結果など「基礎資料」を基にわずか1週間で基礎図面を書き上げ、さらにその1週間後には「1号機」を完成させた。
戦闘員の「人命」を考慮にいれなければ「飛行機」とは案外と簡単につくれるものなのだ。
帰還を考える必要のない兵器であることから、戦略物資である各種金属を消費しないように材料は木材と鋼材を多用し、車輪はなかった。
この新兵器に対して実戦のパイロットから、現実を直視していないtという批判も出た。
母機が敵艦隊に接近するためには「制空権」の確保が前提となるのだが、制空権を握っているくらいなら、もともと「特攻」ないというなど必要根本的な矛盾をはらんでいた。
さて「桜花」の発案者は、大田正一という海軍少尉だが、息子の大屋隆司氏(63)は、戦争中の父を知る元桜花搭乗員を訪ねながら、知られざる「大田正一」の過去と向きあうことになる。
隆司氏は父親の名が「偽名」で、隆司氏は母方の「大屋」姓を名乗ったが、その事情を聞くことはできなかった。
その後息子は、父親が「有人誘導爆弾」の提案者であることを知るが、子煩悩でやさしかった父と、そういう兵器を考え出せる非情さとが、どうしても結びつかなかった。
父親の真実と背負い続けたものとは何だったのか、それが知りたかった。
大田正一は、1928年15歳の時に海軍を志願し、日中戦争にも参加した叩き上げの軍人だった。
魚雷や爆弾を投下する攻撃機の搭乗員で、行く先を指示する偵察員として戦火をくぐり抜けてきた。
しかし1942年、ミッドウェー海戦に敗北以降、各地で消耗戦が続き戦況は悪化する一方であった。
そんな中、大田は戦局を挽回する秘策として思いついのが「有人誘導爆弾」であった。
桜花の構想は海軍に採用され、1944年秋には茨城県神ノ池に訓練基地ができた。
そして、各地から搭乗員が集められ「神雷部隊」が誕生する。
大田正一は発案者としてこの部隊へ特別待遇で迎え入れられ、一人表札を掲げられた個室が与えられた。
しかし1945年3月21日、初めての桜花攻撃を行ったが、2トンを超える桜花をつり下げその重みで動きが鈍くなった母機は桜花もろとも撃ち落され、1機も敵艦に到達することさえできなかった。
結局、神雷部隊は期待された戦果を上げることができず、敗戦までに829人が戦死している。
大田正一が桜花を発案した1944年、不利な戦況を前に政府はどうにかして国民の士気を高め、もう一度戦局を打開できないかと模索していた。
軍や政府は命と引き換えに大きな戦火をあげる新兵器の登場が戦意を高揚させる切り札になると考えてきた。
そこで大田正一の新兵器に飛びついたのだった。
息子の調査では、父・大田正一は、自分が「有人誘導爆弾」に乗って戦局を挽回したいという一心から提案したにすぎなかったのだ。しかも「自分が率先して乗っていく」という提案だった。
大田正一は、たかだか海軍少尉であり、上層部は簡単にその提案を一蹴できたはずである。
だが、軍上層部の口から敵の艦船に体当たりするなど言い出しにくいが、現場のパイロットからの提案であれば抵抗も少なく、「我も彼も」と後に続く戦闘員が現れることも期待できる。
結局、大田正一は飛行機に乗ることなく「英雄視」され、各地の部隊で「桜花作戦」の必要を説く講演に引っ張り出された。
「桜花作戦」に参加する若者たちは、大田の講演を聞いた後に、この作戦に参加することを呼びかけたところ、次から次へと「自分も」と名乗りを上げていった。
大田正一は新聞に「英雄」として登場し、このことがさらに隊員たちの気持ちを逆撫でした。
結局、多くの戦死者を出して終わった特攻作戦だったが、発案者である大田正一は自ら桜花に乗ることはなく終戦をむかえた。
そして、大田正一は終戦の3日後、零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたとされていた。
その時の様子を目撃した隊員は、「戦闘機が古いミシンが縫うように、するすると空に舞い上がったと思ったら、いつのまにか見えなくなった。ところが後に、漁船に助けられたという連絡がはいった」と語った。そして同僚たちの中に、大田の目撃情報が寄せられるようになった。
実際、大田正一は生きていた。「横山」という偽名を使い、1951年頃から大阪でひっそりと暮らし大屋義子さんと出会い素性を隠して家庭を築いた。
義子さんは、初めて大田正一を見たとき、かっこよく頼りがいがあると思ったという。
しかし、まもなく騙されたと思うようになった。すぐに仕事をやめてしまうからである。
しかし真相は、戸籍を抹消した大田は働こうにも、必要な書類が出せなかったのである。
婚姻届は出せず、仕事はいつも不安定で20以上の職を転々とし、家計は義子さんが支えた。
義子さんは夫になぜ「偽名」なのか、「戸籍」がないのか、その理由を聞いたことがあった。
しかし、肝心なことは教えてくれず、義子さんも、子供たちのこともあり、それ以上深入りすることをためらった。
大田は、近所の人ともあいさつ程度で友人と呼べる人はおらず、一人椅子に座りずっと空を眺めていることが多かったという。大田正一は1994年12月7日に亡くなったが、義子さんはいまもなお健在である。
ここまで3件の話を紹介したが、長年一緒にいながら、伴侶の正体(核心)を知らぬままというのは、それほど珍しいことではないのかもしれない。