2016年8月8日の「天皇の会見/象徴としての務め」において語られたお言葉。
「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」。
この言葉に幾分意表をつかれたのは、天皇自らの望ましい在りかたを「模索」してこられたということ。
もはや現天皇にとって、過去の「帝王学」は役にたたぬもので、自ら「道なき道を歩む」というのは大変なことであったであろう。「生前退位」の意向にしても、前例のない決断なのだから。
憲法の内実が「判例」で固められていくのを鑑みれば、天皇の意向は「象徴」の意味するところの「実体」を踏み定めていく、相当な決断であるのかもしれない。
さらに天皇は、「いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」と語られた。
天皇の側から国民の期待に応えるということは、天皇が憲法上、国民の「総意」の上に在ることを留意すれば、当然にも思える。
ただ、「象徴的存在」とは、そもそも国民の総意とは関係なくあるものではないか。とするならば「象徴」が、憲法のいう「象徴」を模索してきたことになる。
また、天皇が指す「国民の期待」とは、「現在の国民」だけを指しておられるのだろうか。
日本国憲法は明治憲法の原理とは異なるといっても、手続上は「改正」の上に成り立っており、「天皇」に対する意識も戦前と戦後に本質的な「断絶」があるように思えない。
つまり、明治憲法の皇祖から受け継がれた「天皇の神聖さ」は、「国民の総意」云々とは無関係に受け継がれてきたということだ。
また天皇は、その血脈からいっても日本国全体の継続性の上に立つ存在であることが、我々の意識の基層にあることは否定できない。
その継続性は、宮中における様々な式典によって引き継がれている。例えば、天皇は「新嘗祭」において神と共に食すことによって先祖の霊と一体化されるし、天皇が日本国民の安寧を日々祈られる祭司として「神聖さ」を帯びておられる存在であることだ。
現天皇は「生前退位」の意向を表され、今年4月にその式典がおこなわれる。
「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせるものが天皇の位にあるべき」というお言葉には、高齢によるばかりでなく、災害などの慰問などへのお疲れのこともあったのか、全身全霊をもって務めを果たしていくことに限界を感じられたのだろう。
それ以上に、国民の安寧を祈る「祭司」としての責任の重さをもひしひしと感じておられるかもしれない。
また、現天皇のお言葉には、「在る」ことによってではなく、「行動」(務め)を果たしてこそ「象徴たりうる」という意識が滲んでいるように思う。
したがって、公務を減らしたり、代役を立てたりするのではなく、「務め」が断絶されずに安定的に引き継がれることに最重点が置かれている。
その現天皇が「務め」から退くをことには、天皇が「務め」をいかに重視されているか、その誠実さを表す以外何ものでもない。
戦後、日本国憲法の下で、天皇の神性は否定されたといっても、前述のようにいくら退けても残る面がある。その最も分かり易い例が、崩御と連動した「一世一元の仕掛け」である。
天皇の存在を中国の皇帝のごとき時空を支配する「超越的存在」ととらえるならば、その死をもって退位とするのが自然で、「一世一元制」とはそのことを含意してこそ成立する。
そのことを暗に仄めかすごとく、崩御となれば、特殊な雰囲気の中で醸成された荘厳な儀式が続く。
それは、「人間宣言」をした昭和天皇崩御の時でさえも同様であった。
天皇制の根本には、「血(血統)の原理」ばかりではなく、「霊威(天皇霊)の原理」の二つの原理がある。
そこで、「皇位は神器とともに在る」ものとして、「剣璽等継承の儀」(神器を手放す/新天皇が引き継ぐ)が国事行為としてなされる。
また、天皇の「崩御=退位」となれば、その役務に祭祀職がともなう以上は、その宗教性(霊威)が次に「受け継がれ」なければならない。
天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭つまり「大嘗祭(大嘗祭)」がそれにあたる。
「新嘗祭」は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す。
「大嘗祭」とは、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。
初代内閣総理大臣を初代宮内大臣とを兼任した伊藤博文は、旧皇室典範により天皇の生前退位も認めなかった。
天皇の自由な意思を認めれば、政治が混乱すると考えたからである。
そして、天皇から「私」的なものを徹底的になくし、完全に「公」の存在にしようとした。
1887年、皇室典範の策定議論の際に、宮内省サイドから天皇が重病などの際に、「生前退位」が可能になるように主張した。
しかし、憲法制定の中核・伊藤博文は、そうした条文を不要だと一喝した。後に、伊藤は「権臣の強迫」による「南北朝の乱」などの政治的混乱の歴史を挙げて生前退位の欠点を示した。
天皇が権力者の言いなりになり、実権は政治家や軍人側にあれば、退位は無用の混乱を招くだけだという思いもあったのだろう。
そもそも「皇室典範」に生前退位の定めがないのは、そんな事態を避けたいがゆえにあえて明記しなかったということであろう。
現在の皇室典範では天皇が崩御した時のみ、皇太子が世襲で即位することが定められており、それ以外の方法で退位や譲位が行われることは想定されていない。
天皇は公務を拒否することもできないし、そもそも憲法で天皇は世襲と定められている以上、即位を拒むこともできない。
職業選択の自由など何もない。しかも、一度即位してしまえば、退位もできず、亡くなるまで天皇としての役割を全うすることを義務付けられる。
これが象徴天皇制と呼んでいる制度の実態で、これが「日本国憲法」の精神と整合的かどうか。
現天皇にはその意図があったとは思えぬが、「生前退位」の意向がつきつけたものは、天皇には人権はないのか、それが国民の総意かという問題意識への喚起ともなった。
昭和天皇は、戦前からの「帝王学」を学んでおられるからか、「立憲君主的」な像を保ち、自らの権威によって国民は統合されるという感覚をが持ち続けていた。
戦後の巡幸にしても、自分が行くことで国民が励まされるという発想だったように思う。
対照的に、現平成天皇は、「統合のシンボル」よりも、「国民とともにある」という意識が前面にでているように感じる。
被災地の訪問にしても、国民を「励ます」というより、夫妻そろって一緒に「苦楽を分かち合う」という感覚がみられる。
結局、天皇の「生前退位」は、「特例法」によって認めらることとなった。
天皇が象徴を「模索されている」ということならば、生前退位はあくまでも平成天皇カラーのひとつでもあり、特例なのだということにもなる。
しかしこのたびの特例法という措置は、国のかたちに関わるようなこの問題を「先送りした」というのが実態なのではなかろうか。
現天皇が模索した「象徴」ならば、その象徴はある意味平成天皇のカラーでもありうる。
個人的に、天皇の「カラー」が感じられたのは、次のような場面である。
第一に震災後に、被災者に対して膝を屈して話を聞かれた場面。かつて昭和天皇は、地方巡幸は「ひとり」でされたし、膝をかがめて話すということまではされなかった。
しかし、平成天皇は、福島被災地と訪問された際、「皇后とともに」被災地などを訪問されて、膝をかがめて目線を等しくして語られた。
また、天皇夫妻が自ら希望された南洋パラオ訪問は、日本人戦没者への慰霊と同時に、そこで亡くなった外国人を含めて慰霊をなされたことであった。それは、「世界平和」への祈りでもあることがよく伝わった。
また、天皇は古墳はコンパクトにする希望など、御自身を日本国民から「突出」した存在であることを極力抑えようとしておられるということを感じた。
そこで宮内庁は、江戸時代から続いてきた「土葬」での埋葬を見直し、400年ぶりに「火葬」にすることを決めたと発表した。
この歴史的な転換の背景には、両陛下が望んでおられる「御陵の縮小」がある。また、この春にある退位の式においても簡素なものを望んでおられる。
平成天皇のそうした態度は、終戦直後の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」により近づいた感がある。
それは、「朕(ちん)ト爾(なんじ)等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」という内容であった。
また天皇会見での、「社会に内在し」というお言葉の中にも、天皇の超越性を否定され、あくまでも国民と近くあろうという天皇の「象徴感」の表れであると感じられた。
古代神話の神勅による結びつきよりも、天皇と日本国民の信頼による結びつきが重んじる立場は、超越的権威としてあることを極力抑えようとしているように思える。
むしろ、古来からの本来の天皇像に近づいたということがいえるかもしれない。
しかも、相互の信頼と敬愛は、自然にできる感情ではなく、具体的な行為で作るものだ。
歴代の天皇は、今でも「田植え」をされるということを思い浮かべた。
といっても皇居内の苗代で種籾を手まきされ、皇居内の水田で稲を手植えになるのだが、 世界中の王室の中で君主自らが「農作業」される国は日本だけといってよい。
古代の「万葉集」において、天皇(大君)の歌が、防人や農民の歌とともに、苦楽を共にしているように、戦争や災害の犠牲者を慰霊し、苦難にある人々を慰撫(いぶ)し、国民生活の平安を祈るという表に現れることをなされている。
皇太子時代の1984年に記者会見で語られた次の言葉がある。
「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています」。
それは、先の天皇会見における「同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」の言葉と一貫したものとなっている。
また最近の天皇は、離島への訪問の意向を示されているが、そのことにつき「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と語られている。
平成天皇の「共に歩む」という象徴観はどこから生まれたのだろうか。そこに、キリスト教の影響が無視できないように思う。
1905年2月2日、八幡(はちまん)商業高等学校のウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカ人青年が英語教師として着任した。
生徒の中には「フォークの神様」とよばれた岡林信康の父親もいて、ヴォーリズに心酔して牧師となっている。
しかし、地域の人々のバイブルクラスへの反発もあって、ヴォーリズは来日してわずか2年で教師を解任されてしまう。
ヴォーリズはそのまま日本に留まり、キリスト教の伝道をしながら、「近江兄弟社」を設立しメンソレータムを日本で広め、その資金を元に東京御茶ノ水の「山の上ホテル」を立てている。
1931年、日米関係は最悪の状況になり、暗雲が立ちはじめたが、ヴォーリズは日本への帰化することを選び、「一柳米来留」(ひとつやなぎ・めれる)と改名したが、「スパイ容疑」をかけられ、日本人の夫人とともに軽井沢でひっそりと暮らしていた。
1945年8月30日、厚木基地に降り立ったマッカーサーは、天皇を「戦犯とすべき」第一人者と考えていた。
そんな緊迫したなか、元首相の近衛文麿の「密使」が軽井沢のヴォーリズのもとへ向かった。
そして少佐から、マッカーサーが「戦争犯罪者」としての天皇の処遇を思案中であることを聞き出した。
そしてヴォーリズは何とか天皇を守らなければならないと「ある案」を考えついたのである。
それが、天皇自身が神ではなく人間であることを認め、天皇を神秘的世界から解放し、日本国民とともに歩んでいただく、ということであった。
この考え方ならば、キリスト教を神とする連合国側の宗教観と対峙することなく、「妥協点」を見出すことが出来ると考えたからである。
さらに9月12日、ヴォーリズは近衛に会い、天皇が「日本の象徴」として「人間宣言」をするというアイデアを提案をすると、近衛はその提案に満足げに受け入れたという。
それから約2週間後の9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問した。
「回顧録」によれば、マッカーサーは、天皇の国民を思う真摯な態度に打たれ、天皇の戦争責任を不問にすることを決意した。
それどころか「日本国の統治において天皇の存在は必要不可欠」と考えるようになったと言われている。
1946年正月、陛下はいわゆる「人間宣言」をしたが、この裏にはヴォーリズの存在を抜きに考えることはできない。
天皇の「象徴観」につき、1946年、学習院中等科に英語教師として招かれ、皇太子時代の家庭教師ともなったヴァイニング夫人の影響を軽んじることはできない。
また、皇后・美智子様は、カトリックの聖心女子大学卒業であり、天皇の象徴観に救明からぬ影響をあたえたのではなかろうか。
米国ペンシルベニア州生まれのエリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニングは、敬虔なクエーカー教徒だった。クエーカー教はキリスト教の一派で「質素・誠実・平等」を旨とし、平和主義を掲げる。
1950年10月、帰国するヴァイニング夫人は学習院最後の授業で黒板にこう書いた。
「Think for yourself!(自分で考えよ!)」。
「統合の象徴」というニュアンスには、日本の伝統や文化の共有という前提が必要であろう。
古代の天皇の周囲には渡来人が多く、日本生え抜きの氏族との抗争が続いた。
その典型が、蘇我氏(渡来系)と物部氏(大和系)の争いに象徴されるが、聖徳太子は「仏教(三宝)」をもって「和」を実現しようとした。
今日の日本にも少し似た状況があり、スポーツの有力選手にみるごとく、外国にルーツをもって「日の丸」を背負う選手にとって天皇とは何なのだろうか。
このグローバル化の時代、天皇が日本と日本文化の「統合の象徴」としての万世一系や神聖さを前面にうち出す時、かえって他国排斥やヘイスト的風潮をあおることにはならないだろうか。
天皇が自らを低くし国民と目線を等しくし「和の象徴」として、さらに外国の戦没者を慰霊する姿などは、より「普遍的な和」をも祈願しておられるようだ。
「和」の象徴にとって、どれほど「神聖さ」をまとうことに意味があろうか。
むしろ平成天皇の中に、神が自ら低くして人となってこの世にあらわれたというキリスト教の神観念が何らかの影響を与えているようにも思えますが。