太宰治は、中学校にならった英文"He is not what he was."という文章が忘れがたかったらしく、「彼は昔の彼ならず」という短編を書いている。
同じ意味で、"He is not what he used to be."といってもよい。
個人的思い出だが、アメリカ のサンフランシスコのアダルト・スクール(移民の語学習得を主たる目的とした学校)の授業中、”used to”を使った例文を書けといわれ、"He used to be a man,but now he is an woman."と書いたら、大学院生と思しき女性の先生の爆笑をかって、皆の前で発表させられた。
その際、先生は、"Naohiro(我が名) is now hero."と負けずに笑いをとっていた。
今、振り返れば人権への配慮欠けていたかも。
さて今一番感じていること。それは「経済は昔の経済ならず」ということである。
日本は、バブル崩壊以来「長期停滞」(失われた20年)に陥ったが、土地の無制限の売買など、諸外国からは政府当局の「無策」によるものとみられてきた。
ところが、今やこうした「長期停滞」は世界各国に共通に見られる現象であり、それは「資本主義経済そのもの」の変化によるもので、日本は「第一患者」と捉えるべきものなのかもしれない。
この「長期停滞」の原因については、二つのことが思いうかぶ。
一つは、多くの資本主義国が採用している「民主主義」の変化(例えばポピュリズム)によって、「痛み」を伴う改革がますます難しくなっているということ。
もう一つは、人・モノ・カネが自由に動くグローバル化の進行で、従来は国家内の分業体制が「世界的な分業体制」が出来上がりつつあり経済格差が進行し、富がますます一か所に集まるようになったこと。
そして富が一か所に集中すればするほど、全体としてモノが売れなくなるのは、当然のことだ。
さて、民主主義の問題に戻ると、偉大なリーダーとは、たとえ有権者に人気のない政策でも、正しい政策を選択しうる人であろう。その点、はやくから「消費税導入」を唱えて不人気だった大平正義を思い浮かべる。
1970年代後半、大平正芳内閣当時、ア~ウ~と答弁する首相の下での政局の混乱ばかりが目についた。
ただ、大平氏が在任中に何を言いい、何を構想したのかという「中身」については、全く知らなかったといっていい。
その不明を恥じるが、今日の日本社会にあって「大平構想」がいかに先見性にとみ、その方向性が正しかったか、今更ながら知ることになったのである。
逆に言うと、もしあの時「大平構想」のひとつでも実現していたら、今日のような日本の姿にはなっていなかったとかもしれないいうことである。
大平氏の首相在任中、福田赳夫氏との政権抗争、60日間抗争やら国会の空転、増税などで散々タタカレまくり、良い材料はほとんど見当たらなかった。
1981年、与党内造反による「不信任」可決によるハプニング解散で「衆参同時選挙」が行われ、その選挙期間中に大平氏は急逝した。
その「弔い」ムードが自民党の追い風となり、自民党は当初の劣性を大挽回し、なんとか勝利することができたのである。
さて、大平正芳が首相になったのは1978年、第二次石油ショックが起きた時代で、なんとか「第一次石油ショックを乗り越えた時期だった。
大平首相は、「財政再建」を第一の使命とした戦後最初の首相といってよい。
その中で大平首相は、「一般消費税」の導入をうちだし、国民は大反発した。「天下り」などを放置しておいて、なんで国民に負担を押し付けるのかという雰囲気であった。
ただ大平首相はこの時「増税」を、様々な措置のうちの一つの可能性として取り上げたにすぎないのだが、マスコミと野党はこの部分を大きく取り上げ、大平首相の意図は「歪曲」されて伝えられた感がある。
そこで与党の候補者ですら「一般消費税の反対/増税反対」を訴え、野党提出の内閣不信任案の議決に際して「造反欠席」しての、ハプニング的解散・総選挙となった。
今の時代から見て、大平首相の先見性は、遡る蔵相時代に官僚たちによる赤字国債発行の「恒久化」への要望を退け、毎年毎年しっかり議論すべきこととして、1年限りの「特例法」にしたことである。
もしそれがなければ事態はさらに悪化していたにちがいない。
日本は1973年の第一次オイルショックで戦後はじめての「マイナス成長」を記録するが、1975年度の予算編成で、三木内閣の蔵相であった大平正芳氏は連日の省議の末、やむなく2兆円の「赤字国債」(特例国債)発行を決断した。
大平氏は、もともと「小さな政府」論者であったが、これをひどく無念として「万死に値する」とまでいい、さらには大平氏は「一生かけて償う」とまで周囲に語ったという。
今から思えば大平氏は官僚出身だけに、赤字国債発行が「パンドラのふた」であることに気づいていたのだ。
最近の行政改革で、「内閣人事局」というものができて、官邸が役所の人事を握るようになった。
森友関連の公文書の改ざんなど、そこに忖度が働いたかは脇におくとしても、民主政治の根幹を揺るがすような事態であることに変わりはない。
そして人事といえば、政府の日銀人事への影響力がめにつく。
一般の会社なら、辞任してしかるべき黒田総裁の続投。すなわち日銀の「出口なき」異次元緩和の継続である。
財政政策と違って金融政策に対しては国民の主権は一切及ばない。
金利を上げるかどうかは当局がきめ、専門家に判断を任せるしかない。しかし、素人目にも「2パーセント物価上昇」にいつまでこだわっているのかと、不信感の方が増している。
「日本銀行」の独立は、戦後の超インフレなどの反省から生まれた歴史の知恵である。それを踏みにじっ、「出口」なき緩和を続けて、いくところまでいくのでは、戦時中の日本軍を思わせる。
バブルと戦争は、政策当局の無能さを顕すものでしかないともいわれている。
そして「経済は昔の経済ならず」を一番痛感させるのが、「株価コンシャス」。政府当局が、株価に妙に気を使って経済が運営されていること。
本来、株価は実体経済の反映のはずだが、政府が株価を操作する「官制相場」となっていて、景気がよいのか悪いのかさえわかりにくい。
安倍内閣は、「株価連動内閣」とも呼ばれているが、国民の年金の積立金など「準公的資金」の運用を債権から株へとシフトさせ株高を演出してきた。
「株価コンシャス」のひとつの理由は、大量の株を保有している富裕層の政治的影響力が働いているともみなされる。
または、株高こそは政権の失政を「帳消し」にできる万能薬のようなものかもしれない。
アメリカの1990年代、IT業界の好調に基づく株高が、スキャンダルで辞任してもおかしくはないクリントン大統領の政権を全うさせたということを思い浮かべる。
しかし「株価コンシャス」の根本的理由は、「バランス・シート(貸借対照表)調整」なのではなかろうか。
バランスシート調整とは、資産価格の変動などによって資産が目減りしてしまった際に、負債を圧縮するためや利益率の改善を図ろうと、投資などを抑制する事である。
成長よりも損失の穴埋めの方向で「利益率」の改善が優先すると、社会全体で一斉に投資の抑制を行われる。
その結果、さらに景気が悪くなり、土地や株の目減りが加速化していくという悪循環が生じる。
これを「バランシシートの悪化」を防ぐためには、「株価」を常に吊り上げておく必要がある。
こうして生まれた株高が、実物経済の活発さと期待を表しているはずもなく、会社の業績はそこまで好調なはずはないのだ。
最近では投資や賃金アップの障害として「内部留保」という言葉が頻繁にとりあげられている。会社が利益を「内部留保」としてため込んでいるため、企業収益が投資や賃上げに十分に回っていかないからだといわれている。
「内部留保」とは、企業の税引後利益から配当や役員賞与などの形で「社外流出分」を除いた額を表す。
この内部留保は、返済不要な企業の純資産として、企業内の様々な資産(土地・建物・機械等)に形を変えて存在している。つまり、次期の利益調達の手段に変化する内部留保の蓄積は、本来は企業活動の更なる拡大を担う源泉なのだ。
したがって「内部留保」は本来阿、長くため込むべき性質のものではないのだ。
その背景に、「国際会計基準」の導入があり、全世界がひとつの会計基準を持つならば、国際的な取引のなかで、相手企業の経営実態を容易に読み取れるようになるのは確か。
従来、日本の会計基準においては、「純利益」つまり収益から費用を差し引いて算出した値つまり「フロー」に重きを置いている。
一方、国際会計基準では「純資産」つまりストックを重視しており、その値は資産から負債を差し引いて算出する。
ところで会計学の世界では、「原価会計が優れている」ということがあり、原価会計の基礎になっている「複式簿記」の考え方は、人類が生んだ三代発明のひとつとも言われている。
しかし、これを「時価会計」と比較した場合、「粉飾しやすい」という弱点がある。
「含み益」のある債券を売って利益を高上げしたり、含み損を抱えた株式の損失をアエテ認識せずにいたりすることによって、「損益」をゴマカスことができるのである。
こうした「粉飾」を防ぐには、簿価会計の枠組みのなかで、その方法に研究・実戦する手立てを考えることはできる。
ところが、アメリカは会長の業績評価を含めて業績評価はすべて「時価会計」で、「簿価会計」(原価会計)などというものは存在しないという。
さらに、アメリカは、エンロンやワールドコムといった会社が「粉飾決済」で破綻したこともあり、アメリカの政治力をもってしかできない「域外適用」をおこなった。つまりアメリカに関係のある企業は、すべからくアメリカのルールを守るべしということである。
この国際会計基準導入が、日本の不況を長引かせた主因といっても過言ではない。
松本清張の「渡された場面」という小説がある。佐賀の旅館に勤める女中が、宿泊した老小説家の捨てた原稿を手に入れる。
女中は、文学好きの恋人に参考のためにと原稿を渡す。その老小説家は急死するが、その小説家の書いた場面を取り込んだ作品が文芸誌で高い評価をうける。
その作品は特に6枚ほどが優れているが、他は平凡という評価をうけるが、その小説は女中の恋人が「盗作」したものであった。
そのことが殺人事件にまで発展するが、この「渡された場面」という小説を思い出したのは、最近の消費で起きていることを思い出させるからだ。
ところで、人間の社会は「必要」なものはほとんど作り出してきたので、どうしても買いたというものがなくなっている。
前述のように経済格差でとなると、消費が停滞するのだから、必要でないものをいかに買わせるかということだ。
イノベーションも、それほど期待できない中、モノが売れなくなるのは当然。そんな中、消費に新しい動きが起きている。それは、モノの消費からコト消費といわれているが、「コト消費」とは出来事を作る「場面つくり」といってよいかもしれない。
それは、洒落た「場面」、おいしい「場面」などを作り出して、それを写真に写してスマホを使って「インスタ映えのする場面」を一般に広げる。
ブランド品や高級車のような「所有」によって承認を得ようとするものと比べて、それは一過性の「場面」による承認「いいね」である。
平凡な中にもキラリを生み出すの消費活動が、ソーシャルメディアの発達とともに、「承認欲求」を重要な因子としながら広まっている。承認欲求とは、消費行動の中で「所有欲」として顕れ、ヴェブレンの「顕示消費」がそれでである。
「所有欲」は、人が持たぬものをもって自分のステータスを誇示するものとみなされるが、こうした所有欲とは異なる「消費志向」がうまれつつある。いわば、「場面」を買うといえる。
その場面の消費は、いくらかお金がかかっても、その場しのぎでも「いいね」という返事によって報われる。
若者はキラキラする場所にいたり、楽しい思い出を作ったりしたい一方、車やブランド品の所有欲は薄れている。
最近、「インスタ映え」というこ言葉がはやっているように、変わった盛り付けの食べ物を演出してアピールする「場面」を買う。
「場面つくり」というからには、生産しているようだが、消費である。一時の「場面」(体験)を作るために消費するからだ。
こうした「場面つくり」に役立つビジネスや商品がたくさんうまれている。レストランのメニューも「インスタ映え」が大きなポイントである。
スケールの大きなものでは、決まった場所や時間に雨やを降らす「人工気象」の話はもはや目新しくはないが、最近では、結婚式や誕生日に合わせて「流れ星」を出現させる超小型人工衛星の開発までも行われている。
最近の「モノ消費」から「コト消費」への移行は、「場面作り」ばかりではなく「体験共有」が大きな要素である。
「コト消費」は、個人の体験ではなく、集団が主体になる場合が多い。「集団のコト消費」を可能とするIT技術の革新が、一つの大きな理由である。
カラオケの世界では、すでにあったことであるが、例えば、機器を組み込んだジョギング・シューズ。どれだけの距離を、どのくらいの時間で走ったかの走行データを蓄積し、他者と共有して、世界のランナーの中での自分の順位を教えてくれたりする。
技術革新の結果、靴というモノを通して練習成果の記録や共有、分析が可能になり、スポーツを楽しんだり上達したりするコト消費を可能にした。
こんな風に、一人ひとりが自分の情報を集団に提供することで、皆が楽しめるという「コト消費」つまり体験共有型の消費が広がってきた。
「インスタグラム」の存在を前提にした新しいビジネスも次々に生まれていっている。
現在、個人の健康状態を常に測定できる端末が開発されつつあり、個人のDNA解析も可能である。
こうした個人データを世界規模で集め、人工知能で解析すれば、一人ひとりに日々を楽しく健康的に過ごすための個別アドバイスを、高い精度で提供できるようになる。
かくして、共有・共創によるコト消費が、新しい生活の可能性を切り開こうとしている。
ある出来事を作り出してその「一瞬」をインスタにアップするための消費するというライフスタイル。
そこでは、「いいね」をもらうことがインセンティブ。
今、若い女性に人気なのがナイトプール(夜営業のプール)で、それは泳ぐことを目的とするものではない。自撮した写真をアップするためのものである。
こうした消費スタイルは、どうして生まれたのだろうか。
生まれた時から不況で、今日より明日がいいと思えない中で、「刹那(せつな)」を楽しむ、それをみんなに広げて承認してもらうこと。
「はかなさゆえに連なる」のは、ビットコインばかりではなさそうだ。