道路か鉄道か

最近、自動車といえば、ハイブリッド、電気自動車、燃料電池車、さらには自動運転、無人タクシー、はたまたシェア・ライディングに至るまで、クルマの話題には事欠かない。
クルマの利便性の飛躍的な向上ゆえに見逃されているもの、車の拡大が日本社会にとってどんな意味をもつか、あまり議論されていないように思う。
今、三人の男達の姿が、雪国の風景をバックに浮かんでくる。その風景とは、トンネルを抜けたら雪国だった「新潟」である。
三人の男は「北国」のルサンチマン(怨念)を抱いていた点、それゆえに「道路/運送」に特別なこだわりをもっていた点で共通していた。その「第一の男」は、田中角栄である。
田中は新潟の牛馬商の息子であり学歴といえば高等小学校卒である。上京し夜間学校で建築を学び資格を取り、土木建築会社を設立して成功した。
その後政界に入り、史上最年少の若さで総理大臣になった。
東大卒だらけの大蔵省で、大蔵大臣になった田中は次のような挨拶をした。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」であった。
なみいる「高学歴者」を前にして、気圧される様子は微塵もみられない。
そうして「第二の男」は、東京佐川急便社長の渡辺広康である。
渡辺は、新潟県北魚沼郡堀之内町(現魚沼市)で生まれ1963年、「渡辺運輸」を設立した。
1980年代に入ると佐川急便の東京進出に伴い、業務提携の後、佐川急便の「系列下」として東京佐川急便を設立し社長となる。
佐川急便の社員に労働基準法を無視した超長時間労働で稼がせ、作った巨額の金を、自民党の有力政治家をはじめ、巨人軍の選手やOB、芸能人、相撲取りに気前良くふるまうタニマチとして知られた人物である。
そして「第三の男」は、佐川急便を創設した佐川清会長その人である。
佐川は現在の新潟県上越市板倉区の旧家に生まれた。
旧制中学に学んだのち、家業に従事したが、1948年に建設業「佐川組」を設立した。
建設会社の経営などを経て、1957年に自転車ニ台を使って妻とニ人で運送業を創業した。
佐川が運送業を展開する上で、道路行政と深く関わった田中角栄と強いコネクションが出来たのは自然な成り行きだった。
実際、田中と佐川にはあまりにも重なり合うものが大きかった。
佐川が新潟から「裸一貫」で出てきてここまで会社を大きくできたのは、田中角栄の存在なしには考えられないことであった。
つまり、佐川急便は「田中先生」の庇護のもとに育った会社であり、会長の佐川清からすれば、田中に足を向けては寝られないという気持ちさえも抱いていた。
そして、田中が権力の中枢に昇るに従い、佐川急便という会社も全国的に展開していったのである。
一方、「東京佐川急便」の渡邊社長は、竹下登を「後盾」としており、佐川会長は渡辺社長のあまりにも「自己顕示欲的」な勢力拡大に大きな懸念を抱いていた。
また竹下は、ローキード事件被告たる田中角栄の派閥にあっては総理として出馬することはありえず、田中派をでて独自に「経世会」を結成し、総理をめざしていた。
そこで佐川は、竹下を田中角栄を裏切った者として許すことができず、竹下を「後ろ盾」とする渡辺へ憎悪を募らせていたと想像できる。
そんな折、皇民党という右翼団体による竹下首相に対する、いわゆる「ほめ殺し」が起きたのである。
竹下は、この団体の街頭演説で褒められいるのだが、そのこと自体がイメージダウンに繋がり、神経をすり減らしていた。
この皇民党の「褒め殺し」の裏にどんな勢力が蠢いていたのか知る由もないが、そのうち、自民党の長老あたりから、こんな街頭演説をおさえきれないなら、竹下が首相になるにはまだまだ、という発言さえでていた。
ところが、この「褒め殺し」演説は突然、街中から消える。
後に、東京佐川急便の渡辺社長は、稲川系企業への巨額の利益供与どにより、特別背任罪に問われることになる。
この利益供与は、皇民党に「ほめ殺し」をやめさせた見返りと言われている。
ひるがえってみれば、竹下登は田中角栄から「公共事業誘導型」の政治手法を学んだのである。
中央官庁に働きかけ地元のために少しでも多くの公共事業予算を誘導し、その予算を自派系列の県会議員や市会議員に差配させることで、後援団体に名を連ねる建設業者を潤わせるというものである。
要するに税金でもって選挙地盤の整備と強化をはかるというシステムをいったん作り上げてしまえば、政治家は選挙区において「王国」をさえ築くことがてきるということ。
裏日本の「鄙」といわれる新潟や島根の地から、道路による政治勢力作りが盛んに行われるようになる。
それが地方都市各地に、今や皮肉な結果をもたらしている。

今、各地方都市で駅前が凋落しつつある。「駅前留学」を謳った英会話学校の倒産や、東京上野の「駅前旅館」が外国人バックパッカーの「安宿」群になっている。
地方商店街では、シャッター・ストリートともよばれ、「自動車」に適合すものを充実させつつ、鉄道とそれに付随するものを追いやりつつある。
作家の石田依良は池袋西口近くの公園に集まった数人のスケボー少年たちの姿にインスピレーションをえて、「池袋ウェストゲートパーク」(1997年)を書いた。
そこには「駅周辺」がそうした青年の棲家になっているのも、現代をシンボリックに表している感じもある。
その一方で、東京で巨大ショッピングモールをさらに「複合化」したような人工都市空間「二子玉川ライズ」が誕生した。
若い夫婦が子供を連れてショッピングをかねて1日遊んでいられるこの施設は、クルマ社会の産物である。
そして今、高速道路のドライブインは、単なる「休息所」ではなくなって、シャワーあり、遊戯施設あり、シアターあり、特産物ありの複合施設となって、ドライブインそのものを目的にやってくる客もいる。
従来、日本の多くの地方都市は「鉄道の社会形成力」で潤ってきた。人口もふえデパートができ、企業群が移転し雇用が生まれてきた。
その一方で前述のように、雪国からやってきた田中角栄や佐川清や渡辺広康と同じく裏日本・島根県出身で「田中派」のリーダー格であった竹下登も、県内に道路をめぐらせ政治力を肥大化させた。
つまり、道路を作るのに国の予算が下りるので、政治家・官僚・建設業界の「利権の構造」も生まれる。
ド田舎に利用者がほとんどない高速道路をたくさんつくり、そこに群がるいわゆる道路族や利権官僚を生み出した。
つまり、彼らの登場によって「道路の社会形成力」が一機に拡大したということがいえる。
ただ、この段階では「駅前凋落」という事態までは想定されていなかったのではないか。
駅前と郊外の人の流れの「逆転現象」が起きたのは、イツごろからだろうか。
大きな転機は、1974年に「大店法」という法律ができたことで、大都市圏の地場の零細商店街に、大規模店舗の進出に対する「拒否権」をを与えるものであった。
それで、大都市の中心部では、ほとんど大きな店は立たず、大きな店がたつのは、反対運動がない郊外や地方だけという方向に、「大店舗」の立地はむかった。
そして民主党の岡田克也の父上が経営するイオンのように、「エネルギー効率」の極めて悪い場所に立地したショピングモールの巨大な集客力が、駅前の商店街の客さえも呑み込んでいった。
つまり、駅前商店街を守るはずの大店法が、駅前を凋落させたということは、広い視野に立てば、政治家や建設業者などの道路利権に基づく「道路の社会形成力」が、駅前を次第に駆逐していったとはいえまいか。
そして近年、特に目に付くのは、そうした郊外のショッピングセンターを舞台にした「犯罪」の多発である。
自動車による「負」の社会形成力といっていい。
かつて見た黒沢明監督の映画「天国と地獄」では、警察が犯人の指示で鉄道のトイレの細窓から「現金入りトランス・ケース」を線路下にいる犯人の下に投げる印象的なシーンがあった。
なぜ印象的だったかというと、トランクの大きさが、列車のトイレの窓の大きさに合わせて指定されてきたからである。鉄道が犯罪の舞台あるいは道具として利用されたのだ。
また、松本清張の「点と線」では東京駅の二つのホームと福岡市香椎の二つの駅の存在がトリックに使われたが、香椎駅も香椎浜もすっかりモータリゼーション(=自動車化)の渦に巻き込まれてしまった感がある。
一方で、滋賀県警が取り逃がした森永グリコの犯人は幹線道路下で目撃されていた。犯人は道路の「死角」をついてたくみに逃げおおせたが、その後に県警本部長が責任をとって自殺するという痛ましい結果を招いたことは記憶に残る。
この森永グリコ班の逃亡劇こそ、モータリゼーションが生み出した犯罪の典型といえるかもしれない。
しかし、郊外に巨大ショッピングモールができていくことは、鉄道によるかつての集客力からみても、「非効率」とはいえないだろうか。
さて、日本で最初の鉄道は、1872年の新橋から横浜間で、その時の「車両」は新橋の駅前広場に展示してある。
日本ではむしろ士族授産による「私鉄」優勢であったが、日清・日露の両戦争を経験し「軍事目的」でそれらが日本国有鉄道法(1906年)によって「国鉄」として統合・連結されていった経緯がある。
この私鉄を繋げて国鉄に組み込んだ「実績」は、JRや様々な私鉄を含めて国の隅々までも鉄道のネットワークを築き上げた土台となったであろうことは推測できる。
銀座から新橋、そして有楽町までの山手線・線路下に延々と続く赤提灯の「飲み屋街」があるが、これこそが「鉄道の社会形成力」を如実に物語っている。
「有楽町であいましょうが、あなたとわたしの合言葉」であった時代、そのお隣新橋が「サラリーマンの聖地」といわれた時代こそが、鉄道の社会形成力が最も優位に働いていた時代であったようにも感じられる。
ちなみに、新橋に隣接するJRの旧「汐留操車場」は今、「汐留サイト」に生まれかわり、そこには日本を代表するIT産業の雄であるソフトバンクが入っている。
不動産アナリストの増田悦佐によれば、日本の世界最強の強味は、「鉄道ネットワーク」という指摘している。これを生かし賦活していくことこそが、日本の「再生の道」があると主張した。
そればかりか、ネットワークを支える人的資源も、他国がマネができない。そして複雑なダイヤをすぐにも修正できる能力がある。
ところで、鉄道網は世界中にあるのに、日本のそれがなぜ「世界」に冠たるモノなのか。それを一番雄弁に物語るのが、世界一の乗降車数を誇る「新宿駅」である。
欧米では、同じ都市に乗り入れる鉄道路線でも、駅がそれぞれ別にあるのが普通である。会社が違えばほぼ例外なく、別の駅をそれもかなり離れたところに作っている。
ためしにパリの地図を見たら、サン・ラザール駅、オーステルリッツ駅、東駅、モンパルナス駅、リヨン駅がパリ駅乗り入れている列車の駅であり、それらはまったく別々の離れた場所にある。
意外に思えるほどに、他社との「接続」には一切、関心がないようである。
一方、日本で最も利用客の多い新宿駅の場合は、山の手線、中央線、東横線、小田急線、京王線、埼京線が「新宿駅」に集まり、改札口をたった1回通るだけで、あらゆる路線に「乗り換え」が可能である。
イギリス人が鉄道を発見したが、日本人が「鉄道網」を作り出したともいえるほどなのだ。
また最近、東京で特に目をひくのが大井町である。
自分が東京に住んでいた30年以上も前は、大井といえば「競馬場」ぐらいしか聞かなかったが、今やお台場・天王洲と結び、埼玉とも結んでいる「一大拠点」となっている。
様々な電車の乗り入れ地として、この駅が生み出す社会形成力(コミュニティ)はきわめて大きく、駅前の再開発が進んでいる。
東京圏や大阪圏のように鉄道と徒歩だけで、仕事も生活も娯楽も何不自由なく享受できる場所は、世界的に見てほとんどないという。
郊外の巨大ショッピングセンターや高速道路沿いの「道の駅」が、様々なアメニティを統合して、心地よく生活し遊べる空間を作り人を集めたように、JRの駅においてもイベントを行ったりして楽しい空間を作れば、かならずしも鉄道を利用しなくても人が集まり、商店街も活気をもつことができる。
それが成功しているケースが、我が地元の博多駅である。
博多駅のある福岡市は、中国や韓国からの旅行客の玄関口となっていることもあるが、「博多駅」のリニューアルは人を集める大きな要素となっている。
それは当然に「駅前」の元気に繋がっているので、福岡に住み限りでは、地方都市の衰退を感じないで済んでいる。
福岡の繁栄は、博多駅や天神駅前が非常に繁栄しており、ポケモンなどのIT企業の多くが博多駅近くに進出し、それは全国で1位にあたるという。
また、2016年11月8日の博多陥没事故を、僅か1週間で復旧させるという驚異のスピードが、世界の賞賛を集めた。
ところで、サービス業は消費者と生産者が出会わなければなりたない。
鉄道の駅とその周辺は「自然」とたくさんそのような場を作り出す場を提供している。
クルマ社会だとそうした場を「意図して」作らなければならない。
例えば、鉄道などの大量輸送機関と比較して「エネルギー効率」を「駐車場スペース」から「道路の渋滞」まで見てみると、「自動車社会」は実はかなり「低効率」社会である。
もっとも人間個人に焦点を合わせると、デパートでものを買って重い荷物をぶらさげて列車に乗り、最寄りの駅から降りて自宅まで歩く労力は、高齢になればなるほど重く、そのことがモータリゼーションに拍車をかけていることは間違いない。
雪国からきた3人の挑戦のごとく、クルマは地方を都会に近づけるかに思えた。
しかしいまやクルマは、日本の地方を疲弊させている元凶にさえなりつつある。
地方ではクルマがなければ何もできない。それが常識になっているから、クルマへの過度の依存を止めなければ、「地方創生」はありえない。
車の技術進歩にばかり目を奪われていると、日本の鉄道の利便性は霞んで見える。
その一方で、目立つのは、高齢者による痛ましい交通事故。
鉄道においては、高齢化に備え、駅構内のいっそうのバリアフリー化やアメニティの統合が必要である。
「物流は自動車」で、「人の輸送は鉄道」ぐらいに棲み分けをはからないと、日本社会は各地の中心部から溶解していきそうな気配がある。