公家さんが来た

昨年11月、「和歌の家」として藤原俊成・定家以来の歌道を守り続けてきた京都・冷泉家(れいぜいけ)に伝わる古文書の写真版複製本「冷泉家時雨亭叢書(しぐれていそうしょ)」全100巻が完結した。
1992年の刊行開始から、世紀をまたいだ大事業の完成につき、この仕事に携わってきた人たちにとって、、さぞや感慨深いことであったろう。
個人的に、これを伝える記事に目が留まったのは、我が福岡博多駅近くに「冷泉町」という名の街があり、そこには「冷泉閣」という名のホテルも立っていることによる。
京都の冷泉家と九州の博多に何らかの関連ありやと思い調べてみると、「冷泉町」の名の由来に「人魚」にまつわるミステリアスな出来事が起きていた。
1222年、博多の漁師の網に人魚がかかった。それがなんと150メートルもある巨大な人魚だった。
人魚が上がったという報告は京都の朝廷に伝えられ、朝廷は「冷泉中納言」という人物を博多に派遣する。
一方、博多の町は人魚が上がったということで大騒ぎになった。
好奇心旺盛な博多っ子のことだから、早速 食べようかとしていた時、冷泉中納言と安倍大富という博士が到着した。
安倍大富がこの人魚について占うと「国家長久の瑞兆なり」つまり、国が末永く続く前兆であると出たため、食べるのはやめて手厚く葬ることに決定した。
古地図には冷泉中納言が宿泊した場所も記されており、しばらくの間ここに滞在したことから、現在の「冷泉町」の名前はこの出来事に由来する。
冷泉中納言が宿泊していた龍宮寺(当時は浮御堂と言っていた)に人魚を運び、塚を作って埋葬した。
その「人魚塚」は現在でも龍宮寺に残っており、希望すれば「人魚の骨」といわれる実物を見ることができる。
冷泉家は、鎌倉時代に福岡を訪れたが、福岡に滞在した公家といえば、平安時代の菅原道真が最も有名である。
菅原道真を祭る太宰府天満宮は、道真の墓にたち、「学問の神様」として知られるが、もともとは「安楽寺」で、菅原氏のルーツは意外なものであった。
ところで「宮家」の名には、「万葉集」や「古今和歌集」などの「歌枕」となった地名からとられた名もある。
「三笠宮」は、奈良県磯城郡田原本町三笠。奈良盆地中央部に位置し、地名の由来は当地より三笠山(若草山)が望見できることによる。
また、「高円宮」(たかまどのみや)は、奈良市白毫寺町の東方にある標高432.2mの山で、古くから数多く歌に詠まれており、高円山を題材として詠み込まれたものが「万葉集」では、30首以上に及んでいるという。
さらに、「秋篠宮」は、現天皇の次男・文仁親王が独立したときに創設された宮家で、宮号は和歌の歌枕として有名な奈良県奈良市の「秋篠」に由来する。
秋篠は、奈良県奈良市にある地名、かつては大和国添下郡に属しており、平城京の北西端にあった西大寺の北側に広がる地域にあたる。
秋篠の南側に「秋篠寺」が建立されたが、平安時代に兵火による悲惨な災難を被り、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は失われている。
礼宮妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ているという評判が起こり、多くの人々が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れたこともあった。
また2006年には、秋篠宮家の長男、「悠仁さま」が誕生されたおり、お寺は一時賑わったという。
さて「秋篠」の地をさらに遡ると、意外な事実につきあたる。
そこは、古くから「土師氏」ゆかりの土地といわれており、782年に土師安人の姓が宿禰から朝臣に改められた際に、居住地にちなんで「秋篠安人」と改名している。
そしてこの「土師氏」というのが、太宰府に祀られている菅原道真のルーツにあたる。
ここで、「土師氏」のルーツをさらに遡ると、天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰(のみのすくね)にいきつく。
野見宿禰が出雲から呼び出され、殉死者の代用品である「埴輪」を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられたといわれている。
このことは、出雲が当時においては、技術的な先進地であったことを示唆している。
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。
大阪府藤井寺市、「三ツ塚古墳」を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。ちなみに「道明寺」は土師氏の氏寺である。

福岡の大宰府天満宮では、正月三ケ日、参拝客に溢れている。梅が枝もちを焼く香ばしいにおいが立ち、合格祈願つきのお土産の店がならぶ。
その参道のつきあたりに「五卿遺跡碑」と刻まれた石碑が立っており、ここは現在、宮司・西高辻邸がある場所だが、江戸時代までは、安楽寺「延寿王院」といわれていた。
案外と見過ごしてしまう石碑の存在だが、ここは幕末の五人の公家の3年以上にもおよぶ滞在場所であった。
さらには、彼らとコンタクトをとるために坂本龍馬や西郷隆盛らが、この参道の旅館に宿泊している。
これら志士たちが泊まった「泉屋」、「大野屋」、「松屋」などの旅館は、今は土産物の店にかわり、屋号の看板がみられるだけである。
それではなぜこの五人の公家が大宰府に3年の長きに渡り滞在することとなったのか。その経緯についてふれたい。
1853年のペリー率いる黒船来航以来、日本国内では開国なのか、それとも攘夷なのかとゆれる中で、朝廷と手を組んで政治をうまく動かそうとする動きが諸藩の中から出てくる。
そして、外様ながら力のあった長州藩や薩摩藩は、それぞれ公家と結びついて朝廷での発言力を高めようとした。
桂小五郎や高杉晋作、久坂玄端らの攘夷運動を受けて「攘夷派」となっていた長州藩は、結びつきのあった公家三条実美(さんじょうさねとみ)らとタッグを組んで、朝廷に攘夷をするよう働きかけていた。
これをよく思わないのは、天皇の妹が将軍に嫁ぐなどして朝幕の融和をすすめようとしてきた「公武合体派」の薩摩藩や会津藩で、この2つの藩は手を組んで、1863年の8月18日に長州藩を京都から追い出すことに成功する。
この事件のことを「八月十八日の政変」と言う。
長州藩は過激な攘夷派として明治維新まで煙たがられる存在に、また長州派だった三条実美たちは京都から追われることになる。
「八月十八日の政変」で、官位を剥奪され長州へいわゆる「七卿落ち」した三条実美ら7人の公卿は、三田尻、湯田と転々としたあげく、第一次征長戦争の停戦条約にしたがって九州へむかった。
7人のうち沢宣嘉は平野国臣とともに生野で挙兵し、錦小路頼徳は結核で病死した。
五卿すなわち三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌の五人は、1865年2月、長州藩から筑前黒田藩が支配する太宰府天満宮「延寿王院」に移され、福岡藩の監視下にはいり、上水城、阿志岐、二日市、針摺、武蔵などに見張り番所が置かれた。
しかし、福岡藩自体の揺れもあったのか、その監視はさほど厳しくはなく、薩摩の西郷や土佐の坂本、筑前の月形仙蔵、平野國臣など勤王の志士達と新しい政治をめざし秘策を練った。
こうした点から見て、大宰府は、維新史の思想統一の場であり、さらには薩長連合の母体となり、三条実美と京都の岩倉具視を直結させる維新の「震源地」となったのである。
彼らは王政復古を目指した勤皇派の志士達と連絡をとり、長年の圧政に反発する農民達の世直し運動とも結び、西洋列国の開国要請を背景にして、ついには明治政府を実現させていく。
現在、大宰府天満宮内に「五卿記念館」が建設され、その遺物および参考品などは宝物館にも陳列されている。
また、二日市、通古賀、関屋、水城などの旧家には五卿の「遺墨」を散見することができ、太宰府や二日市温泉周辺には、「五卿の歌碑」がつくられている。
また五卿公家達は、大宰府周辺の勤皇派の庄屋、造り酒屋等を訪れ、得意の和歌を詠んだりもしている。
三条は山家宿の山田勘右衛門宅に「洗心亭」の額を送り、阿志岐の平山洗十郎宅でも一首残している。
また、医師岡部忠徳宅で治療を受けた中で「いかにして つくしのうみによるなみの ちへのひとへも きみにこたえむ」等、五卿の麗筆は今日まで大切に地元で伝えられている。
三条実美の歌碑が二日市温泉「大丸別荘前」に立つが、王政復古を目指し激しい心情を遊ぶ鶴に託し詠んでいる。
二日市温泉は、奈良時代に「次田の湯」として大伴旅人の歌に詠まれており、「御前湯」は江戸時代黒田藩主専用の温泉として使われその名が屋号として残ったもの。幕末維新前夜の志士達特に五卿達はひと時の疲れを癒しこの温泉を利用したようだ。

さて、大宰府は古代には「遠の朝廷(みかど)」とよばれ、朝鮮半島への出兵基地、鎌倉時代には中国との交易の拠点でもあり、天皇や皇族のなどの「高貴な名」のつく街が存在している。
聖徳太子の実弟の墓が福岡県糸島半島の志摩町にある。久米と名がついた集落から火山北麓側へと山道を登ると、聖徳太子の弟、来目皇子(くめのみこ)の墓とよばれるものがある。
この地を訪れて「久米」という地名が、この皇子の名に由来するものであることを知った。来目皇子は用明天皇の皇子、聖徳太子の同母弟であり6世紀後半に活躍した人物である。
来目皇子は602年に朝鮮半島内の勢力争いの際に敵対していた新羅という国に攻めこむ為2万5千の大軍を久米港に駐屯させた。そして翌603年皇子がこの地で病死したのである。
久米は日本で最古の軍港とされ、墓がある地を登り火山の頂上からみると、西方は弧状を描いて松林と砂浜の「弊の浜(にぎのはま)」が美しくのびている。火山の名も急を知らせる狼煙をおいたところからつけられたといわれている。
今から約1400年前、来目皇子もここから眼下に広がる玄界灘とそのはるか彼方の朝鮮半島を臨んでいたのだと思う。
皇子の死後、その亡骸は河内埴生山岡(現在の大阪府羽曳野市)に葬られたといわれており、それがの2006年の1月の塚穴古墳の発掘で、南側から墳丘を囲むように築かれたとみられる大規模な外堤の一部が確認された。
この古墳は、聖徳太子の弟、来目皇子の墓として宮内庁から陵墓に指定された。しかしこの福岡県志摩町の墓は、陵墓指定「以前」より来目皇子の葬られた墓と伝えられるものである。
また福岡市の南の那珂川町を通ると「安徳」という地名が見える。安徳天皇と関係があるのだろうかとずっと気になっていた。
安徳天皇は高倉天皇の子で、母親は平清盛の女・建礼門院・徳子である。 1185年壇の浦の戦いでわずか7歳で海中に入水し没したことはよく知られている。
役場の方に安徳天皇は瀬戸内海を漂う前に平家ゆかりの地・太宰府を訪れたことがあるという話を聞くことができた。
平清盛は1157年、大宰大弐として太宰府の地にいたことがある。「大弐」なる地位の場合、代理人を派遣するのが通例であるが、博多での貿易の利に目をつけていた平清盛は太宰府の地に実際に赴任していたのである。
しかし平清盛死後、平家は没落の一途をたどり、東国から源氏の追討をうけ、清盛ゆかりの地・太宰府に逃れた。
このころ平家一門は安楽寺(太宰府天満宮)に参り、終夜歌詠み連歌をしている。大宰府天満宮すぐそばに「連歌屋」という地名があるが、この場所で飯尾宗祇などもここを訪れ連歌を詠んだのである。
この時平家に擁された安徳天皇は、坂本の善正寺と筑紫郡那珂川町にある原田氏居城を行在所としている。
那珂川町の安徳台と呼ばれる小さな台地を訪れたところ、畑の中に大きな木がありそのすぐそばに安徳天皇行在所をしめす碑が立っている。
安徳天皇と平家はその後、再び海に浮かんで讃岐の屋島の戦いに臨むこととになる。 那珂川町安徳は、地名から謎を問いていく、そうした面白さを味あうことができた場所であった。

南北朝の動乱は全国的な広がりをみせるが、広大な筑後平野と有明海にそそぐ筑後川でよく知られる福岡県・筑後地方の南部の山々も、南北朝動乱期の南朝の悲史をとどめている。奥八女は「もうひとつの吉野」なのだ。
そして筑後には宮の陣、大刀洗などの戦いを想起させる多くの地名が残っている。
かつて自分が勤務した職場で「五条家の末裔」を名乗る方との出会った。
この出会いでもなければ、まずは足を踏み入れることはなかったであろう山奥深いところに、それら南朝の悲哀を含んだ遺跡はあった。
後醍醐天皇は地方武士を結集するため、最高の貴種たる自らの皇子である義良親王を奥州に、宗良親王を遠江に、満良親王を土佐に、恒良親王を越前に、そして懐良親王を九州に派遣した。
つまり後醍醐天皇は地方の武士を結集するために最高の貴種である親王を派遣したのである。
この時、皇子の中には10歳にも満たないものもあったが、何よりも「血統」がものいう時代であったといえよう。
奥州の義良親王には公家である北畠顕家が軍勢を引きつれていったが、九州の懐良親王には五条頼元を筆頭に十数人の公家が付き従ったにすぎない。
それでも南朝側は1359年九州における南北朝の最大の戦いである「筑後川の戦い(大保原の戦い)」で勝利し一旦は大宰府を制圧した。
そして1361年に征西府を熊本の菊池武光の居城・隈府から大宰府に移している。
この時九州は一時的には独立王国のようになり、中国大陸からみて懐良親王は「日本国王」のように見えたという。
しかし懐良親王を擁する南朝勢力は、1336年の多々良が浜の戦いで勢いにのる足利尊氏の北朝勢力におされて筑後の山間に逃げのびた。
筑後川の戦いで、懐良親王の陣地があったところが「宮の陣」で西鉄大牟田線の駅名ともなっている。
またこの戦いで菊池武光が血刀を洗った場所が「太刀洗」(旧町名)で大刀洗町の町名のおこりとなっている。
大刀洗公園には、この菊池武光像が太平洋戦争の弾痕跡もなまなましく立っている。
さて南朝の懐良親王は、久留米市の高良山を根拠地として抗戦し続けたが劣勢をはねかえすことができぬまま、征西将軍を後村上天皇の皇子・良成親王に譲る。
良成親王は奥八女の矢部山中で先述の五条氏に守られ再興をはかろうとしたが、それもかなわずこの地に没する。
その矢部村には南朝の懐良親王や良成親王の墓があり、良成親王の御陵は大杣(おおそま)からさらに山深いところにあり、その地には「御側(おそば)」という地名がついている。
また懐良親王に付き従った五条家は、黒木町のおそらくは昔とほとんど変わらぬ佇まいの中にひっそりとして在る。
そして五条家の末裔達は、いまもなお懐良親王、良成親王の墓を守っておられる。