予期せぬ「十字架」

2012年2月、北アフリカ・リビアで、カダフィによる独裁政権に対して大規模な反政府デモが発生、8月に首都が制圧されその「政権」が倒れ、カダフィも殺害された。
リビアの石油埋蔵量は世界8位、アフリカ大陸では3位なのだが、それだけ豊かな資源があるのに国民の生活には反映されなかったことが大きな要因だ。
実は、リビア産には石油資源以上に、魅惑的な伝統生産がある。
その一つは「ワインガム」でグミのようなお菓子系のもの。そしてもう一つは、妖しげな「輝き」を放つ「リビアン・グラス」である。
エジプトのピラミッドからはこのリビアングラスを使用した「両刃の手斧」が発見され、ツタンカーメン王の墓からは、リビアングラスで作ったスカラべやツタンカーメン・マスクの目や胸の部分にも使用されている。
このリビアの首都トリポリには、「クレネ (Cyrene) 」という「世界遺産」(1982年登録)となっている町がある。
クレネは、現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、現存する遺跡の多くは、ローマの植民都市となった際に再建されたものである。
このクレネの町には、古代より「離散ユダヤ人」の住民が数多く住んでいた。
新約聖書の使徒行伝2章10節に「エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち」とあるので、クレネの町がリビアにあったことが確認できる。
その「使徒行伝」によれば、ユダヤの祭りである「五旬節」(ペンテコステの日)にこのクレネの人々がエルサレムに上り、聖霊が降る場面を目撃し、ペテロの説教によって「初代教会」が始まったことが書いてある。
初代教会のひとつアンテオケの教会で、指導者としてパウロに手を置いて宣教に送り出したひとりが「クレネ人ルキオ」とあり、リビアは周縁ながらも聖書の舞台でもある。
そして新約聖書のハイライト、イエスがゴルゴダの丘を上る場面で、忘れがたい「クレネ出身」の人物が登場する。
その男「クレネ人シモン」は、はるかリビアの地からユダヤの「過越祭り」に参拝するためにやってきて、イエスが十字架を背負って丘を登る場面と遭遇する。
それどころか、十字架を担いで丘を登るイエスを、ローマの兵卒に命じられて、なかば「強制的」に共に担うことになったのである。
突然、衆目にさらされる場面に引き出される体験の中、イエスなる「罪びと」が何者かを知る余裕さえなかったに違いない。ただ、十字架を共に担い、苦難のイエスに誰よりも近くにいたというのは、確実な事実である。
そしてシモン自身、まるで「罪びと」と同じ姿で十字架を担わされるなど、恥辱と恐怖の体験以外の何ものでもなかったに違いない。
さらに、なぜ自分だけが多くの群衆の中から引き出され、「十字架」を背負うハメになったのかという点は、シモン自身にしばらくつきまとっていた疑問であろう。
ローマの兵卒からすれば、群衆の中で「ひとり孤立」したかに見えるヨソ者の方が、引き出しやすい状況があったったのかもしれない。
しかしそれは表面上のこと、聖書は「その後」のシモンを伝えており、その本質に応えている。
パウロが書いた「ローマ人への手紙」の中に「主にあって選ばれた人ルポス」なる人物が登場するが、「マルコによる福音書」に驚くべきことが書いてある。
「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」という記述により、ルポスの父がクレネ人シモンであることが判る。
つまりシモン・ルポス父子は「信仰者」となっており、「主によって選ばれた」という言葉は、そのまま彼の父シモンにこそあてはまる。
シモンは、ゴルゴタの丘を登った日以来、あの「場面」を何度も反芻し、十字架の重みを何度も蘇らせながら、あの日以来、自分が不思議な恩寵の中にあることを体験したのではなかろうか。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章)。

「クレネ人シモン」で思い浮かべるのが、黒人公民権運動の指導者であるマルチン・ルーサー・キングに起きた出来事である。
アメリカの黒人による「公民権運動」は、バス乗車をめぐっておきている。
1955年、アラバマ州モントゴメリーにおいて、黒人の店員ローザ・パークスがいつものように市バスで帰宅の途についた。
「市の条例」によれば、白人専用の前部座席が埋まると、後部座席の黒人は席を白人に譲らなければならなかった。
その日、勤め帰りにクリスマスの買い物をして、足が疲れていたパークスは、あとから白人がバスに乗り込んでも席を立たなかった。
白人運転手は警察を呼び、パークスは逮捕された。
パークス逮捕の知らせを受けて、市の黒人指導者は市バスの一日ボイコットを計画した。
そして、前年に市内のバプテスト教会の牧師としてボストンから「着任したばかり」のマルチン・ル-サ-・キングにリーダーとして協力要請をした。
キングは、アトランタの豊かな牧師の家に生まれたが、ボストン大学を出て一年ちょっと前にこの市の教会に着任したばかりの弱冠26歳。なぜ、地域の事情に通じてもいない若者に白羽の矢が立ったかというと、有力な黒人有力者達は「名前が知られてしまう」と表に出ることをためらったからだという。
仮にキングが運動失敗の暁には、全責任を負ってどこかに逃走できるのようなヨソ者だったからである。つまり失敗してもどこにも累がおよばないということが一番の理由だった。
要するに、キングはクレネ人シモンと同じように、突然に表舞台に引き出されて、黒人の指導者というリスクの多い重責を担わされたということである。
しかし、この無名の若きキング牧師は、誰も予想できなかったほどの存在感とリーダシップを発揮していく。
キングはそれまで現実の苦難から逃れる「避難場所」にすぎなかった教会を戦う拠点に変えたのである。
キングは4千人を集めた決起集会で原稿なしの演説を行い、屈辱と忍従に代わって「自由と正義」を求める時が来たと訴えた。
キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにジョンソン大統領時代の1964年7月2日に「公民権法」が制定された。
これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の下における人種差別が終わりを告げることになった。
しかしキングは、しだいに「身の危険」を感じることも増えていった。
キングはガンジー哲学を学び人種差別のもっとも激しかったバ ーミンガムを戦場と選んだ。しかし白人保守層の過激な反対運動もおきた。
バーミンガムの教会が爆破され、聖歌隊の4人の少女が犠牲になり、イスラム教の立場から運動をしていたマルコムXも暗殺された。
マルチン・ルーサーキングも次第に身の危険を感じ始めるが、死の危険にさらされながらもキングはこの運動と関わり突き進んでいく他はなかった。
「死は怖いし長生きしたい。でも人々を救う犠牲なるのら、死んでも意味はある」と語った。
1968年宿泊先のメンフィスのモーテルで一発の銃声によって、39年の生涯を閉じた。
マルチン・ルーサー・キングもまた、行きがかりのように見えて、何かに導かれて「十字架」を担わされたということだろう。

最近、文学賞をとった作品を読んでも、なかなか心にささる作品に出会うことがないが、2011年芥川賞作品、西村賢太の「苦役列車」は、自分の以前の生活圏が小説の舞台であったことに加え、現代の若者像を的確に描いた点で深く共感するものがあった。
西村氏は、父親が犯罪歴があって母子家庭となり、学校にも通えなくなったという経歴をもっている。
小学生のころ、父親の犯罪テレビでを面白おかしく報道され、それを学校の皆が知っているような状況に追い込まれる。
担任の先生はクラスで「悪いのはお父さんで、賢太は悪くない」と慰めめたつもりだが、小学生がこれから受けるであろう社会的制裁からすれば、とうてい慰めにも何にもならない。
実際、それは早速現れる。駅の階段で好意を寄せた女子と出会えば、親ともども素知らぬ態度で通りすごすなど、いかにも残酷な話だ。
さっそく離婚した母親に連れられ、知らない人ばかりの学校に転校する。そして父の罪は、彼の一生を「苦役」となって彼を縛り続ける。
中学卒業後に家を出て、日雇い仕事で生計を立てるが、仕事先で父親の犯罪歴がばれていられなくなる。友人も恋人もいない19歳の主人公の唯一の楽しみといえば、日々の退屈きわまりない仕事の後の一杯の酒。同世代の専門学校生と知り合うが、平凡でどこにでもいるこの人物に対して抱く、恋人がいることへの嫉妬心やら学歴のコンプレックスから、自虐的で暴力的な言動を繰り返す毎日。
小説では、このあたりが結構「笑える」ように描かれており、その「骨太さ」が魅力である。
西村氏に受賞後インタビューで、「ふだん誰とも話さないし、友達も一人もいないから交友で時間を使うことはない」とあっさりと言い切った。
西村氏は23歳のとき、大正時代の無名の作家、藤沢清造の作品に出合い、私淑したという。
暴行で留置場に入れられた29歳のとき、貧しさの中で凍死した清造を思い出し、「自分よりダメなやつがいるんだなという気持ちになってもらえれば書いたかいがある。それで僕も辛うじて社会にいれる資格が首の皮一枚、細い線でつながっているのかなと思う」と語っている。
受賞後「印税」が今の10倍となっても、引越しする気もなければ、大きな家に住む気もないという。叩きつけられる幾多の経験から、地を這うように生きるいき方を身に着けたかのようだ。
新約聖書にも、誰からも愛されず、親しみももたれず、不正に蓄積した財産だけを頼りに生きるザアカイという人物が登場する。
その希望のなさは、その「改心」の大きさから逆に推し量ることができる。
ザアカイは、たくさんの人々集まりの中から「声がかかった」という点で、クレネ人シモンと共通している。
ザアカイは、イスラエルを支配するローマの請負で「厳しい徴税」の仕事をしていたために、イスラエルの民衆か嫌われていた。
おまけにザアカイは「取税人の頭」で、イスラエル人でありながら、支配するローマの手先になって私腹をこやしていた。
取税人の頭ともなれば、厳しい取り立てをする酷薄な人間のイメージが浮かぶ。
ある日ザアカイは、今人々の話題になっているイエスという男が自分の村に通りかかるという噂をききつけ、背が低いのか一目見ようと木にのぼって待っていたのだ。
騒ぎたつ好奇の群衆の中にあって、イエスが突然「ザアカイよ、急いでおりてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけられる。
ザアカイは、なぜ自分の名を知っているのか、しかも旧知の仲であるかのように自分の家に宿泊させてくれなどと、街中でそんな風に声をかけられたことなど一度もなかったことにちがいない。
世の荒波にすっかり心も凍ったザアカイにとって「なぜ俺に」という気持ちの反面、「光がさす」体験ではなかったか。
ザアカイはその呼びかけに素直に応じ、「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」と、頼まれてももいないことを自ら申し出ている。
そしてイエスは、「今日、救いがこの家に来た」と語っている。
このエピソードの中で、「宿泊する」という言葉には、救いにより聖霊が人々に宿ることの暗示(預言)が秘められている点でも奥が深い。
ザアカイ以外にも、徴税人という立場にあって、「福音書」を書くほどイエスの近くにいたマタイという人物もいる。
さて、ザアカイやマタイに、あるテレビ番組で紹介された「竹下重人」という人物が思い浮かんだ。
竹下氏は、長崎県出身で裕福ではない家庭に生まれたは、成績優秀のため篤志家の援助で名古屋高等商業学校に進んだ。
卒業後満州国の官吏となったが満州国は崩壊して、シベリアに抑留された。
シベリアから帰国した竹下氏を待っていたのは、ソビエト当局に「教育」されてのソ連のスパイだの共産主義者だとのレッテルをはられ警察からマークされた。
せっかく決まったかに思えた就職も警察にヨコヤリを入れられダメになった。
そんな中、たまたま見つけた「貼り紙」で名古屋で税務署の税金の滞納者に対する徴収の仕事をみつけた。
採用されたものの、この仕事は、情け容赦ない滞納者への取立をし、泣きつかれようが生活必需品を差し押さえて容赦なく徴収するという「嫌われる仕事」であった。
あくまで国の税務解釈をにそって「徴税」していくのだが、それを「職業」として行ううちに、そのような国の姿勢を疑問に思うようになった。
そして、国の税務解釈を「絶対」としていいのかという疑問がわいてきて、「被課税者」の立場から仕事をしたいと思うようになった。
そして40歳近くになって司法試験を志して合格した。
テレビ番組では,竹下氏が「書き残したもの」から、当時の社会情勢と人物像を紹介していた。
例えば、日本の敗戦で、中国人が日本人に「出て行け」と言って罵っていたこと、日本の満州を開拓につき「他人の家に土足で踏み込んでおいて”一緒にやろう”など、受け入れられるはずもない」と批判している。
竹下氏は「満州国」の官吏としての仕事にありつつ、こういうものをしっかり書き残して自分の家族や後世に伝えようとしていたフシがある。それは、当時の彼のせめてもの良心の証でもあった。
ところで竹下氏は、望んだ弁護士になるも国相手でほとんど勝てない税務訴訟を多く引き受け「連戦連敗」であった。
しかし「誰かがもの申さねば」という思いから、80歳になるまで多忙な弁護士の仕事を続けた。
学会出席のため滞在中の福岡市内のホテルで82歳で亡くなった。心臓に持病があったという。
実は、竹下氏の娘が女優の「竹下景子」さんで、弁護士になってもらいたいという思いがあったようだ。
若い頃ある縁談が持ち上がったが、あの時の縁談が成立していたならば、「女優竹下景子」を存在しなかったと同僚に語っていたという。
竹下氏が満州国の官吏として働いたいたことから、シベリア抑留といううき目にあい、帰国後は国家の「徴税人」として働く。
仕事への疑問から、その「徴税」と戦う立場の弁護士としての仕事をするようになる。
それは、ザアカイの「回心」とまではいかなくとも、良心に基づく「反転」であった。
人は誰しも「貧乏くじ」をひいたと思われる体験をすることもあるが、それが「強制された恵み」であったと、後に悟ることもある。