そこに立てば、彼が来る

ある男が、トウモロコシ畑を歩いていると、ふと謎の声があった。~「それを作れば、彼が来る」。
今から30年ほど前に、アメリカ映画でケビンコスナー主演の「フィールド オブ ドリームス」という映画があった。
「それを作れば、彼が来る」の言葉から強い力を感じ取った主人公は、周囲の人々があざ笑うのをよそに、生活の糧であるトウモロコシ畑を切り開き、何かに取り憑かれたように小さな野球場を作り上げる。
すると、かつて憧れだった野球の名プレイヤー達がトウモロコシ畑から次々と現われる。
そして、その野球場に往年の名選手達が勢ぞろいして、アメリカ全土から客が押し寄せるという「荒唐無稽」な物語だが、制作者の気持ちがわかる気がする。
さて、我が福岡にあって、いまだに平和台球場跡地をめぐると、プレーする選手の息吹や汗の臭いが蘇ってくる。
すると幻(まぼろし)の中、「鴻臚館」の発掘現場から往年の野球選手達が出現する。
野武士軍団といわれた西鉄ライオンズ(現西武)が躍動した平和台球場跡地こそは、古代の外交使節を迎え入れた「鴻臚館跡地」に作られたものであったからだ。
そこは選手ばかりではなく、彼らのプレーを見ていた観客にとっても青春が詰まった場所なのだ。
そして、「野武士軍団」といわれた西鉄ライオンズの栄枯は、産炭地の盛衰とよく重なっていた。
3年連続優勝後の1959年~60年には三池炭鉱争議が起き、その後石炭産業は斜陽化する。
そんな時代背景だけに、1963年の前半終了時点で首位と14、5ゲーム差からの奇跡の逆転優勝は産炭地の人々にも希望の光となった。
プレーする選手が野武士なら、それを見る観客も野武士だった。
、 その1963年11月9日、福岡県最南部の都市・大牟田を悲劇が襲った。
三池炭鉱三川坑(大牟田市)の鉱炭じん爆発事故が起き、犠牲者458人と一酸化炭素中毒患者839人を出したこの事故は産炭地の衰退を決定づけた。
そして1997年3月に閉山した。
しかしこうした悲劇の中、1965年大牟田から甲子園初出場を果たしたた三池工業高校の優勝は、人々を歓喜させた。
三池工業の監督は原貢(はら みつぐ)である。
原貢は吉野ケ里遺跡近くに生まれ、鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退しノンプロの東洋高圧大牟田(現三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任した。
原監督は無名校を初出場にして全国大会優勝へと導き、三池工フィーバーを起こしたのである。
その後、東海大学の創設者で総長の松前重義の招きで東海大相模高校野球部監督に就任し、「東海大相模」の名を全国に轟かせた。
このチームで1年からレギュラーで3番を打ったのが原辰徳である。
時代を遡って、その炭鉱の野武士たちに希望の灯がともされたのは、1949年4月。
日本野球連盟総裁だった正力松太郎(読売新聞社主)が米大リーグに倣い、球団数を増やして2リーグ制を導入する構想を表明した。
これを機に毎日新聞や西日本新聞、近鉄、大洋漁業などが続々と加盟を申請し、遅れじと西鉄も10月に申請したのである。
この年の夏、西日本鉄道株式会社第四代社長を引退後も影響力絶大だった村上巧児は、戦後復興に尽くす福岡の人々に明るい話題を届けようと、「日本一の球団を作れ!」と社員達に檄を飛ばした。
西鉄は1946年6月に社会人野球チームを発足させていたが、この日を境に球団結成に動き出した。
当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、「3交代制」の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。
正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。
困った村上氏は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎元総理の父)に助けを求めた。
麻生は村上に、それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいとアドバイスを与えた。
そして村上は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎を密かに訪ねたのである。
その村上氏は、西鉄事業部に親戚筋の中島国彦という人物がいた。
中島氏は、旧陸軍仕込みの行動力を買われ、球団設立の特命を担い、白洲との折衝役をつとめた。
中島氏は上京する度に、福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参し、白洲はこの博多の珍味を非常に気に入ったという。
その後、白洲やGHQが正力や野球連盟にどんな圧力をかけたのかは不明だが、とにもかくにも加盟交渉は急にスムーズになり、1950年11月にパ・リーグへの加盟を果たした。
そして1954年にパ・リーグ初優勝、56年からは日本シリーズ3連覇を成し遂げた。
これだけの短期間で黄金時代を築いた背景には、中島氏らの強力な「選手獲得」の働きがあったればこそである。
1年目は巨人から福岡・久留米商出身の川崎徳次投手を引き抜いた。川崎は球界の情報に精通しており、三原監督の招聘の交渉役ともなった。
次には青バットで有名な東急フライヤーズの大下弘選手で、約7か月もの折衝を重ね移籍させている。
新人獲得では、南海ホークスの名将である鶴岡一人監督が目をつけた選手を狙った。
その一人が、大分・別府緑丘高の稲尾和久投手で、大分出身だった西鉄の初代社長から当時の別府市長に入団を勧めてもらったという。
また香川・高松一高の中西太選手を入団させるため、高松に行くたびに、母親が行商していた野菜を定宿の旅館にすべて買い取らせるまでして、早稲田大への進学を志望していた「怪童」を翻意させた。
はじめ球団名は「西鉄クリッパーズ」(高速帆船の意)とした。
2年目は「西鉄ライオンズ」に改称し、そこに総監督に招かれたのが、巨人軍を戦後初の優勝に導いた三原脩(みはら おさむ)であった。
1956年から58年にかけて、福岡の西鉄ライオンズが読売巨人軍を倒し、日本シリーズ3連覇を達成した黄金時代は、エネルギー転換により「総資本対総労働」対決といわれた三池争議が激化していく時であった。
中央から進出した資本と地域で暮らす労働者の闘争は「西鉄対巨人」とも重なり、西鉄を勝利に導いた稲生和久投手が「神様・仏様・稲生様」と称えられた。

現在の「横浜DeNA」であるが、その前身は「横浜ベイスターズ」、さらに遡ると「大洋ホエールズ」。
「大洋ホエールズ」の本拠地は、かつて鯨景気にわいた山口県下関市。
この下関市の一角に、市民の夢を育んだフィールドがあったことは、もはや遠い幻のようだ。
個人的な話だが、幼少の頃にプロ野球チームで最初に覚えたのが「大洋」で、「太陽」という言葉を連想させたからであろう。
幼な心に、太陽が「黒づくめ」のユニホームというのは不思議に思えたが、今にして思えばあれはホエール(クジラ)をイメージしたユニホームだった。
そしてあの黒づくめの男たちが、現在の下関中央病院あたりのフィールドを拠点に日本一となった。
1950年代後半の福岡で斜陽化する炭鉱の思いを引き継いだかに思えたのが、同じく地方球団大洋ホエールズの「日本シリーズ初制覇」である。
1960年の大洋ホエールズは、前年まで6年連続最下位だった大洋は、前年まで西鉄の監督を務め、西鉄を4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いている三原脩を新監督として迎えた。
チームは、前年までと同様に貧打に苦しんだが、守りの野球に徹した三原監督が投手陣をやり繰りし、接戦を次々と勝利していった。
最終的には2位の巨人に4.5ゲーム差をつけて、初のリーグ優勝を果たしたばかりか、日本シリーズでは、大毎(現ロッテ)を相手に、全て1点差勝利の4連勝で初の日本一を決めた。
貧打の大洋を日本一に輝かせた三原監督の手腕は、「三原マジック」と称された。
関門海峡を挟んだ下関と門司は戦前、大陸への玄関口としても栄え、社会人野球では下関市の「大洋漁業」、北九州では「門司鉄道管理局」(現JR九州)や「八幡製鉄」(現新日鉄住金八幡)などがしのぎを削っていた。
戦後はプロ野球の人気も急上昇し、1948年7月には福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)に新球場「豊楽園球場」が、現在のJR小倉駅北側にあたりに誕生した。
1951年に西鉄ライオンズが球団合併で誕生すると、福岡市の平和台球場だけでなく、豊楽園球場での公式戦開催の機運がさらに高まり、準本拠地的な存在となった。
セ・パに分かれて直接戦うことはなかった両者、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)には炭鉱で人々が多くいたが、大洋ホェールズのファンには捕鯨の遠洋漁業で生きる人々の夢が託されていた。
下関には戦前から社会人の「林兼(はやしかね)商店」野球部が活躍した。
この1924年創業の林兼商店こそが大洋漁業のルーツで、ユニホームの左袖に付いた球団名「(は)」は、林兼商店にちなんだ大洋漁業の社章で、開幕直後にはチーム名を「大洋ホエールズ」に変更し、この名前は長く親しまれた。
林兼商店は戦後の45年に「大洋漁業(現マルハニチロ)」へと社名を変更し、49年11月にプロ野球「まるは球団」を下関市に設立。直後に2リーグ制が発表され、セ・リーグに加盟し、本拠地は下関市となった。
当時の大洋漁業社長は「鯨1頭分余分に捕れば、選手の補強なんか大したことない」と豪語するほど捕鯨はで多大な収益があった。
この新球団の拠点「(旧)下関球場」で、下関から東京へ本社を移していた大洋漁業だが、同社の発祥の地である下関を重視。本拠地移転後も下関球場では年間数試合の公式戦やオープン戦を開催した。
また、50年代には米メジャーの球団などを招いた日米野球も人気を呼んだ。
このように大洋以外の球団も試合を行ったが、球場の経営は振るわず、11月に3200万円で市に身売りし、「下関市営球場」へと変わった。
当時の下関市の人口は約20万人程度、「下関名物」と称されたホエールズだったが、ナイター施設のない平日の動員力は約2000人程度しかなかった。
1955年大洋球団は本拠地を下関から神奈川県川崎市の「川崎球場」に移転。主人(あるじ)をなくした(旧)下関球場は、1985年に老朽化により廃止解体された。

1945年の原爆で「焼野原」となった広島市は、戦後市民達の夢を育むフィールドとなる。
市民の復興への熱き思いを受け、中国新聞社および広島電鉄の代表5人がプロ野球チームとして初の「市民球団」創設の発起人となった。
そして、アマチュア球界でもプロ球界でも実績を持つ石本秀一を初代監督として迎えることが決定された。
石本もそれを快諾し、本拠地は広島総合球場とした。
ところで「市民球団」というのは自治体の負担で運営されるもので、核たる親会社がない。
そのため球団組織に関するバックアップが十分ではなかった。
そして石本は球団発会式に参加した際に、この時点で契約選手が1人もいない事実を知らされる。
球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。
石本秀一は広島市の石妻組という土木請負業の子として生まれた。
尋常小学校時代からエースとして活躍し、旧制広島商業学校では2年生でエースとなり、野球熱の盛んな広島で石本はすでに有名人だったという。
1923年に満州から帰国し、大阪毎日新聞広島支局の記者となる。
しかし、母校広島商業の試合を久しぶりに見た石本は、あまりの不甲斐なさに激怒し自ら志願して26歳で監督に就任する。
そこで「野球の鬼」と化した石本は、練習が終わると立ち上がれない程の超スパルタ式練習を課した。
そして1924年広島県勢、また近畿以西として、また実業学校として初優勝を果たし、その後も3度の全国制覇を成し遂げた。
バントや足技で相手の意表を突く「広商野球」を築いた人こそ、この石本秀一である。
その後に新聞記者に復帰し、1936年プロ野球開幕年大阪タイガースの二代目監督に招かれた。 そしてタイガース黄金時代を築き上げた。巨人・阪神の「伝統の一戦」は石本によって始まったといって過言ではない。
ただ、石本の野球人生は「戦争」によって頓挫した。
広島市に原爆の投下された日、石本は広島市から北に30km、向原町に疎開中で、当日朝は畑で耕作中のため無傷で済んでいる。
しかし親族には焼け死んだものが多く、生き残ったものとして広島になんとか夢を与えようという気持ちから、監督要請に応えたものだった。
しかし石本監督をもってしても1年目は惨憺たる結果で、最下位の8位(最下位/勝率.299)でシーズンを終えた。
しかも、この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。
成績に比例して収入は落ち込み、5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生している。ニ軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみという惨状だった。
セリーグ連盟は加盟金の支払いにも応じることができず、遠征費も捻出できず、大阪から広島まで歩くと言い出す選手もいて、球団社長らはセリーグ連盟から呼び出、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と厳しい叱責を受けた。
そして、広島市の旅館で行われた役員会では、下関に本拠を置く大洋ホェールズとの合併が決まり、選手達は実質「解散」に等しい決定を、テレビのニュース速報で知った。
役員会の報告を受けるために中途参加した石本は、グローブを買うために貯めたお金を使ってくれと差し出した子供のことや、旅館の周りに集まった市民達の悲痛な訴えをせつせつと語り、役員会の「合併方針」は寸前で撤回された。
そして石本は、ファンに協力を求め危機打開を図るという「後援会」構想を打ち出し、石本自ら陣頭指揮をとっての球場での「樽募金」は名物となった。
1952年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。
これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定に目途が立つことになった。
1957年に広島市民球場ができ、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来て「大型補強」を可能にした。
1973年古葉竹識がコーチから監督に就任し、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。
1975年、広島は10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目でセリーグ初優勝達成した。この時石本は涙をみせつつ感無量と語った。
また1979年・80年と日本シリーズに勝利し広島の連続日本一となる。
石本は1982年に、86歳で他界している。
なお、広島市民球場は2012年球場が解体され、跡地には「勝鯉の森(しょうりのもり)」がつくられ、セ・リーグ優勝の記念碑や衣笠祥雄の連続試合出場記録を記念した石碑も置かれている。
この場所に立つと、伝説となった79年・80年の江夏豊と近鉄打線の対決が蘇る。~「そこに立てば、彼が来る」。

川崎球場から横浜スタジアムに本拠地を移した1978年から横浜大洋ホェールズ、93年から横浜ベイスターズのチーム名を使用した。
DeNAによる球団買収に伴い、2012年から現在の横浜DeNAベイスターズとなっている。