ディストピア

ヘーゲルは、人間の自然的な結合関係である「家族」が「市民社会」へと分裂し、両者の概念がより高次の段階にあたる「国家」の概念の内に統一されるとした。
ヘーゲルの脳の中では、国家はユートピアならずとも、少なくとも人間生活の諸矛盾がもっとも治まりやすい「最終態」のようだ。
しかし今日、貨幣を媒介とする自由な経済活動がグローバルに行われ、情報の高速化や拡大によってかつてない交流や利便性を生み出した結果、そこに国家の枠を超えた「何か」が生まれんとする気配もある。
つまり「国家」は人間社会の最終態とか完成態ではなく、弁証法的な展開の「一過程」でしかない。
その「アウフレーベン」(止揚)の過程のひとつかどうか、定かではないが、 「ディストピア」とでもいえる国家の分裂状況を示している。
そうでない場合でも、異常な「監視国家」やイスラム国などのような「疑似国家」なるものも現れている。それもユートピアの対極を意味する「ディストピア」の亜流ととらえられる。
さて、世界一の「幸せ大国」といわれたブータン。国王の決断で、長い国王親政を経て2005年、近代化を目指す前国王が立憲君主制への移行を表明し、08年に初の国民議会(下院)選を実施した。
選挙運動は静かで、拡声機が使えず、戸別訪問が基本で、期間中は仏教の法要や結婚式も禁じられた。
表向きの静かさとは異なり、SNSでは現地のゾンカ語で「ノロプ(謀反人)」という言葉が飛び交う中傷合戦。
警察官のひとりは「政党は一部の代表だが、国王は全国民の代表。国王のもとでまとまっていた国なのに、家族や村さえも分断された」という。
政府は選挙を根付かせる政策を繰り出し、前回13年の上院選投票率は45%。
今回、帰郷できない人のため郵便投票を導入し、家族で誰も投票しないと後から理由を尋ねられる。
政党もできたが、以前は政党といえば反王室の亡命勢力を指し、結成は反逆行為。
このため、政党につきいいイメージを持たない人が多く、憲法上、集会や結社の自由は「国家の統合に支障をきたさない」という条件がある。
ブータンは「国民総幸福」(GNH)を国是に掲げ、物質的豊かさだけではないバランスのとれた成長を目指してきた。
鎖国状態から徐々に国を開き、1999年にテレビとインターネットを解禁。
外貨を稼げる産業は水力発電と観光業ぐらいで、一方、自国製でない自動車や携帯電話の消費ブームが盛り上がる。
いま問題となっているのが若者の失業で、特に男性の失業率は15年の8%から16年は16%に。
高学歴化で肉体労働を避けるようになり、建設現場はインドの出稼ぎ者ばかり。
大学生は、まず政府の仕事を狙うものの「狭き門」。職につけない若者が薬物に手を出しやすい現実があり、薬物事犯の逮捕者は16年の523人から1年で倍増。大麻が自生し、インドから大量の薬物が流入する。
2018年7月のの上院選は候補者数が前回の倍近くまで増え、中でも30代が約6割を占めた。
彼らに投票する理由は、「若いのに仕事がなくかわいそう」という理由なのだそうだ。
いまだに選挙の仕組みや目的がわかっていない人が多いという。
こうした事態に首相は、「ブータンはシャングリラ(理想郷)ではないのだから」と応じたが、若くて急成長の国はいっそ「王政」のほうがまとまった国づくりが出来たのではないだろうか。
「立憲君主制」への移行は、国王自身が決められたことらしいが、それは憲法を国王権力の上におき暴走を防ぐのが趣旨であり、国王が市民に圧政を敷こうとしない限り、「立憲」など無用なものだ。
「国民総幸福」が国是で有名なブータンが、王政から立憲君主制への移行の10年で、家族や村も分断され、若者の失業・薬物事犯の増加は、「ディストピア」の様相を示している。

「ブータン」はヒマラヤ奥地で長く鎖国状態で、中国本土における少数民族とも無縁。そのことが、政治的な対立をも生まなかった。
ところが、ブータンに近い小国のチベットは、少数民族問題もはらんで長年中国からの独立をはかり、僧が焼身自殺するなどの事態となっている。
そして今、中国は恐ろしいほどの「監視社会」へとむかっている。そうしなければ自らの体制を保ちえないことを示している。
知らぬ間に自分が防犯カメラに映っている。いつ、どこに行ったか、足跡がさまざまな記録に残る。そんな社会が、今や当たり前になっている。
さて、監視の技術は日進月歩で、最近では、人工知能(AI)を使った「顔認証」が世界各地で広まっている。
多数の人々の動向を瞬時にとらえ、当局に伝える。
犯罪やテロ防止などの名目で加速する変化を、市民の側はどれほど意識しているか。
少なくとも中国においては、人権やプライバシーをめぐる配慮がまったく置き去りになっている状況である。
一部の都市では、警察官が顔認証できる眼鏡状のAIカメラを身につけてパトロールを始めた。
イベント会場などで指名手配容疑者が摘発されているという。
高速鉄道の改札や大学構内に入る際など、身分証提示による本人確認を「顔認証」に変える仕組みも試験的に始まった。
先端技術による大量チェックは確かに治安対策としては効率的だ。市民にとっても、本人検査の列に並ぶなどの負担が減る便利さがある。
しかし懸念されるのは、それを、誰が、何のために、どのように使うかという問題だ。
中国の場合、少数民族問題との絡みで異様な使い方が伝えられている。
「新疆ウイグル自治区」では、特定の人物が自宅や職場、通勤路から300メートル以上離れると、カメラの顔認証を通じて当局に通報されるという。
それは明らかに監視が政府批判を抑え込むためのものであろう。
当局が故意に選ぶ思想信条、人種、宗教などによりプライバシーが侵されるならば、人権侵害にあたることはいうまでもない。
ひるがえって日本は、言論や集会、移動など、基本的な自由が保障された国だ。それでもネットや携帯、防犯カメラなどを通じて、大量の個人情報が企業などに蓄積されている。
スノーデン事件で、米国の情報機関が世界的に盗聴網を張り巡らせている現実も明らかになった。
問題は中国だけにとどまらない。国民を裸にしてまでも、政府批判や反政府活動を抑え込もうとするなら、「ディストピア」へのイエローカードである。

1981年に井上ひさしが書いた「吉里吉里人」は、日本国からの独立を描いた点で、当時の政治社会状況を反映して描かれたものだった。
とはいえ、そこに独立の武装闘争がえがかれてはいないが、2011年東北震災や福島第一原表発の事故における日本国政府の大臣の「東北でよかった」失言やら震災予算の流用などの「ディストピア」状況の中で、震災から遡って30年前のアノ「吉里吉里人」達のことが気になった。
東北地方の一寒村・吉里吉里村が、三流作家を中心に、吉里吉里国の分離独立闘争を描いた作品である。
ある日突如として日本国からの分離独立を宣言し、「吉里吉里国」を作るという話。
吉里吉里国は、これまで「ズーズー弁」と蔑まれてきた東北方言を「吉里吉里語」として公用語に定め、金本位制の独自通貨「イエン」を導入する。
次々に新国家としての体制を整えていく吉里吉里国に対して、自衛隊を投入すれば瞬時に片が付くと高をくくっていた日本側も、吉里吉里国が次々に繰り出してくる「切り札」を前に翻弄される。
その「切り札」が参加人数わずか3名の国際卓球大会など、正面切ったものではなく、映画「ホーム・アローン」的な知恵を使った戦い方なのである。
ばかばかしいとはいえ、この「吉里吉里国」独立の心情的背景は、これまで長きにわたって虐げられてきた東北地方の現状である。
日本の工業化・高度成長の陰で常に泣かされてきた東北の人々の不満が、吉里吉里村を分離独立に踏み切らせたのである。
食料自給率は100%、電力も地熱発電で賄え、小国家ゆえに自転車で事足りるため石油燃料に頼る必要もない。
自分たちの手ですべてをうまく回していけるのに、なにゆえに日本国政府の政策と付き合わせられ、苦しい生活を強いられる。
例えば、日本の農政は30年前から今に至るまでずっと東北の農村に農業の単一化・機械化を推し進め、機械代と化学肥料代で農村を借金漬けにした。
減反政策は深刻な農業離れを生み,若者は農業と故郷を捨てて都会へ出て、税収の減った地方自治体の財政は破綻し、そこへ莫大な補助金を伴って原発がやって来たのである。
東北は30年どころではなく300年前から受難は続いている。
井上ひさしの「吉里吉里人」は、東北の一寒村の独立という荒唐無稽な物語だが、その構想はそうしたルサンチマンに根差すものであるに違いない。

バルカン半島北部のセルビア・クロアチア国境、ドナウ川の中州を領土とする国家づくりが進行している。その国名は、「リベルランド自由共和国」。
リベルランドの名は英語の「liberate(自由にさせる)」に由来するが、個人の自由を尊重し、独自の仮想通貨を構想する。市民権申請者は約15万人にのぼる。
チェコの「自由市民党」の地方支部代表だったビト・イェドリチカ氏(34)が、グーグルマップを眺め、自身の国家観を実践する場を探していた。
既存の国家を直すより、新しくつくる方がやりやすいという考えからだ。アフリカなどにも候補地はあったが、チェコと文化が似ていて訪れやすいこの地を選んだという。
セルビア北部アパティンのマリーナから、ボートで30分ほどドナウ川をさかのぼると、草木が生い茂った無人の中州に着く。
ドナウ川の中間が境界だとするセルビアと、オーストリア・ハンガリー帝国時代の境界を採用したいクロアチアのどちらも領有を主張していない場所だった。
国際法上の無主地に当たり、建国できると考えた。
そして2015年4月13日、イェドリチカ氏がこの地に旗を立て、「建国」を宣言した。4月13日の建国記念日は、米独立宣言の起草で知られるトマス・ジェファーソンの誕生日なのだ。
その最大の理念は、「個人にとって限りなく自由な国」を追求する。米国などで力を持つリバタリアニズム(自由至上主義)の思想だ。
個人の権利と責任を重んじ、政府の役割を基本的に否定、規制のない経済をめざす。
自由を基本とする国家理念に賛同し、犯罪歴がなければ、誰でも市民権を申請できる。
ウェブサイトへの登録は約50万人、有効な市民権申請は約15万人に上る。ただ、今は拡大を急がない。市民になる人は5千ドルを納めるか、労働や専門知識を提供する。
どの国からも国家承認されていないが、欧州でメディアに取り上げられるなどして支持が広がり、各分野の専門家が国家構想を練るようになった。
イェドリチカ氏を大統領として外相、財務相、内務相を置き、法律と経済の助言チームがある。
IT起業を奨励し、タックスヘイブン(租税回避地)として国際企業を呼び込み、実際に住む数万人とネットを通じて関わる数十万人がITや貿易で繁栄する。そんな将来像を思い描いている。
独自の仮想通貨「メリット」を創設して運用する構想があり、仮想通貨の根幹であるブロックチェーン技術を電子的な国家運営に採り入れる方針という。
仮想通貨業界がリベルランドを発展させ、我々も仮想通貨を発展させる。(ブロックチェーン技術で)公正性、透明性を提供できる点で、仮想通貨は既存のどの通貨より優れている。
税金は基本的にない。市民は自発的に出資金を納めて仮想通貨メリットを得る。選挙は一人1票ではなく、メリットの保有額に比例した票数を持つ仕組みとする。司法は、市民から選んだ陪審員がネットで証拠を集め、素早く判決を下す。
こうした制度の基礎となる憲法と基本法の草案を公開している。
今年4月13日にセルビアのノビサドで開いた建国3周年パーティーには、クロアチア野党党首や、16年米大統領選に立候補したこともある元ニューメキシコ州知事や、複数の欧州議会議員の支持も得たという。
セルビア側は、建国記念日などに訪れる人が増え、ボートで中州へ向かう起点のアパティンやその周辺が潤う。
その一方で、クロアチア側は中州への上陸を阻んでいる。国境が未確定との認識は示しつつ、無主地とは認めず、立ち入ろうとした「市民」を警察が逮捕しているという。
イェドリチカ氏は、国連や欧州連合(EU)に加盟することには否定的。外交政策はジェファーソンの考えを柱とし、すべての国と友好関係を持ち、貿易をするが、いかなる同盟も組まない。
将来は大統領を廃し、仮想通貨メリットを持つ人々による権力分散型の自治行政府に移行したいというビジョンを示す。
同じ考えの人々を集めた国家ならば、政治というよりは「経営」に近い感じなのではなかろうか。
他にも人口国家を構想する人がいる。米サンフランシスコ、ベイエリアの不動産業界の大物だ。
世界が団結して、難民が暮らせる国を新たに建国しようというのだが、 新国家への移住が難民の意思によるものか重要である。

2018年7月、「オウム」という存在が、麻原と信徒7名の処刑によってふたたび注目された。
自然と、1995年当時と今日の日本はどのように変わったのかという思いにかられた。
思い浮かぶのは、教団内での地位をめぐって、麻原の覚えをめでたくするための信徒たちの「忖度競争」。教義や大義がそれほど問題にすることなくそれが繰り返されたという点。
一体、エリート達を何が駆り立てたのか。日本という社会は、彼らが上り坂の頂上に見えた「輝き」とは随分異なっていたのではなかろうか。
努力して上り詰めた末、エリート達の多くは、高い理想を抱くほど「不全感」を抱く他はなかった。つまり彼らの「内なるディストピア」が起きたのだ。
この社会がもつ理想のコンセンサスが崩れ、理想を占めていた場所に私的な虚構(アニメやゲーム)が占めはじめた。
彼らが行き着いたオウムは有力信者を国家になぞらえた「大臣」などに任命するなど、どこか「虚構」めいていた。というより漫画的でさえあった。
それが現実であろうと虚構であろうと、「不全感」を埋めるものであれば、それでよかった。
そして信者たちは、そして今日の「ポスト真実社会」の予兆であるかのような心理状態を示していた。
日本とアメリカが世界最終戦争を戦うなど、根拠の薄いと思われることや、教祖の「空中浮遊」など事実と反する虚構であっても、自己のイメージに合致すれば受け入れてしまう心理のようだ。
とはいえ、オウムが説いたハルマゲドン的なものも、今や人々は現実的なものとして受けとめ始めている。
日本社会は、フェイク、忖度、終末観など、「オウム的なもの」が覆っているとはいえまいか。
HIROSIMA、MINAMATA、FUKUSIMA、そしてOUMUと、いずれも「ディストピア」に近い現実が日本を襲った。
それにしても、この日本は、世界に先がけ「異臭」を感知するカナリアのような存在だ。

国連加盟が彼らのの利益になるとは思えず、EUには膨大な規制があり、自由な国をつくる彼らのの考えと正反対だからという。
現在、ウェブサイトへ登録が増えているが、同じ考えを持ち、一緒にやれる人を見つけることが重要で、成長を急ごうとは思っていないという。

戦後、日本のスタートは「ユートピア思想」とけして無縁ではなかったように思う。
日本人にとって、戦後の憲法がある種「啓典」としての役割を果たし、その世界観に与えた影響ははかりしれぬものがあるように思う。
例えば、憲法前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。
自国の安全と生存を外部に委ねてしまうのはあまりに無防備だが、この世界観を掲げながらも「在日米軍」の駐留を受け入れた。
その矛盾が、戦後の政治的対立の根源だといってよい。
日本国憲法の前文はその末尾で、前文の記述が「崇高な理想」であると自ら述べている。しかも「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓った」ということを一度は受け入れたのだ。
したがって、現実的でないから改正すべきというより、日本国民はこの憲法前文の「誓い」と、今日の現実との距離を忘れないでおくための条文として受け止めてはどうか。