死に顔

サエない男が偶然に木の仮面を拾って自宅に持ち帰る。仮面をつけると、黄緑色の顔の怪人に大変身して大暴れする物語があった。
1995年公開の、ジム・キャリー主演の映画「マスク」で、漫画チックながらも、どこか現実感があるのは、マスクをつけると人間が別の人格になるというモチーフに原因があるのかもしれない。
英語で人間を表わす言葉は「パーソン」だが、その語源は「ペルソナ」。ペルソナには「仮面」という意味が含まれている。
さて映画「マスク」は、木製仮面が川に浮いたシーンから始まる。
そして、その仮面は主人公の手を離れて、またも川を浮かび、再び誰かに拾われることを予感させつつ終わる。
「川に浮いたマスク」で思い浮かぶのは、願いもしないのに「ポピュラーなマスク」になった名前不詳の女性のこと。
1880年、パリの川で謎の女性死体があがった。
警察がすぐに引き上げ、検死官に渡し、身元を特定するため、検死官はその顔の「石膏型」を作った。
ところが、この石膏型の顔には人を引き込む何かが宿っていた。
この石膏をみた1人がその顔を気に入ってしまい、石膏型職人に手渡され、大量生産されたのである。
ヨーロッパ全土へと広がった彼女の顔は、さらに数十年後、ある玩具メーカーの目に留まり、ナント「心肺蘇生法」に使われるダミー人形となり、現在へと至っている。
ちなみに、水死体で上がった彼女は、当時16歳だったと言われているが、彼女が「誰だったのか」は今も判明していない。
ところで、化粧品会社の創業者・マックスファクターは、ポーランド系で、バレリーナのメイクアップの仕事をしていた人物である。
しばしば「もっといい表情をつくれ」という意味で「メイクアップ」と言っていたが、それがいつのまにか「化粧する」ことになっていった。
名前を日本語に訳すと「最大要素」だが、そこに何らかの意味が込められているのだろうか。
その一方で、場合によっては、「心肺蘇生人形」のように、笑った表情や怒った表情よりも「無表情」の方が都合がいいということがあるかもしれない。
例えば、最近はやりの「生体認証」の場合、表情があるより無表情の方がバグが少なくなるのではと思わぬではない。
ところで世界的な彫刻家・ロダン作品に「死の顔 花子」というものがある。しかしこのタイトルは、誤解をよびやすい。
正確には、「死の形相」つまり女優・花子の断末魔の表情を彫ったものだ。
それにしてもロダンは、どうしてハナコという日本人女性と思しき人物をモデルに彫刻をすることになったのだろうか。
日本の幕末から明治にかけて、パリでは19世紀の半ばから20世紀の初頭までに5度の万国博覧会が開催された。
つまりヨーロッパ中でパリが一番繁栄した華やかな時代を迎えていた。
そんな中、パリで人気を博した日本人女性が「貞奴(さだやっこ)」である。
時の総理伊藤博文や西園寺公望をごひいきに、1894年 自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚する。
1899年 、川上音二郎一座を旗揚げしアメリカ巡演に同行し「貞奴」の人生は大きく旋回する。
川上音二郎・貞奴一座は、1899年アメリカのサンフランシスコ公演で公演資金を興行師に全額持ち逃げされ、一座は異国の地で無一文から在留邦人の支援などで苦境を乗り越え、シアトル公演の「芸者と武士」で空前の気を得る。
その後一座はロンドンを廻り1900年パリで行われた第5回パリ万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったアメリカ人女性興行師、ロイ・フラー(Loie Fuller)の劇場で「遠藤武者」「芸者と武士」の二本立てを公演する。
パリが華やかりし時代に若き天才画家ピカソがに舞台に花咲いた貞奴をを描くいた。また、フランス大統領エミール・ルーベが官邸のエリーゼ宮で開いた園遊会に招かれ「娘道成寺」を踊っている。
踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。
こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で日本人初の女優として一躍有名になる。
実は、この貞奴の陰になるように活躍したもうひとりの女優が「ハナコ」である。
1902年から1921年までの約20年間、西欧で女優マダム・ハナコとして活躍し、ロダンにも愛(め)でられて多数の彫刻のモデルとなった女性である。
大田花子は、1868年 尾張国中島郡上祖父江村 (現・愛知県一宮市上祖父江) に生まれ、2歳の時に親元を離れて名古屋に移り住む。
4歳の時に養子に出され「酒井ひさ」となるが、家は没落し旅芸人一座に入れられ、1884年 に芸者となり、結婚や再婚や離婚などの末、1902年 、旅芸人一座としてデンマークコペンハーゲンへ渡り花子の旅が始まる。
1905年、イギリスのロンドンでロイ・フラーと出会い一座を旗揚げし、看板女優となりそのと時の芸名「ハナコ」と名乗る。
1914年 に第一次世界大戦が勃発、花子はヨーロッパに留まり、慈善興業を行ないながら、1916年に戦況の悪化により帰国する。
フランスでは、1917年ロダンの妻ローズが死去し、更に9ヵ月後にロダンも77年の生涯を閉じている。
そして花子は、1918に再びイギリスに渡り、巡業を再開するも、1921年に帰国する。時に花子53才となっていた。
花子は、大戦終結の1945年岐阜市西園町で丹毒で、77年の波乱の人生の幕を閉じている。
東洋人の女優が珍しかったのは確かだろうが、数々の写真を見ても、正直、花子は美女ではなく、愛くるしいとも言い難い。
貞奴がパリで公演した2年後の1902年34歳で踊子としてヨーロッパに渡った「花子」は一座を旗揚げし、1906年にロイ・フラーと共にマルセイユで開催されていた植民地博覧会で公演を行った。
その博覧会を訪れていたロダンは、旧知のロイ・フラーの勧めで「芸者の仇討ち」や「ハラキリ」を演じていた花子の公演を見る。
西洋人から見れば子供のような体形の花子が舞台の上で切腹の場面などをリアルに演じて拍手喝采を浴びる。
特にロダンは、花子が桜の木の下で斬られて悶死する断末魔の表情に衝撃を受け、花子をモデル依頼を申し出て、1906年に66歳の巨匠ロダンは、花子をモデルに制作を始めている。
花子は身長が138cmと小柄であり「プチト・ハナコ」(小さい花子) と呼ばれ、巡業がない時は自宅でロダン夫妻と寝食を共にするほどの親交があった。
花子は欧米18ヶ国を巡業して人気を博し、ロダンが制作した花子の面像50体余の彫刻やスケッチが、ロダン美術館に残っている。
ロダンが花子をモデルにした作品は合わせて約60点ほど、一人の人間をこれ程多く製作したのは珍しく、そのうち2点を花子は日本に持ち帰っている。
その持ち帰ったロダンの2つの作品「死の顔・花子」と「空想する女・花子」は現在、新潟市美術館に保存されている。
それにしても、不幸な生い立ちから芸者屋に売られ、ヨーロッパに渡り異国の言葉もわからず知識もない花子が、よくもあの華やかしパリの時代に活躍できたものだと思わざるをえない。
そればかりか、そんな花子がどうしてヨーロッパで人気がでたのか。
夫が死んだときも、開幕が迫る中、列車の中で号泣しつつ巡業地へ向かう花子。山賊が出るという山道で遅れ、ほこりにまみれたまま舞台の前で観客に詫わびる花子。巡業の列車ではトイレでも必死で異国語を覚えた。どこにいてもロダンを気づかって手紙を書き、ロダンの内妻を思いやる。
ハラキリでみせる「死に顔」に表われた狂気とは裏腹な、優しさと可憐さではなかろうか。
先日、全米オープンで優勝した大坂ナオミがインタビューで示した言葉や態度が人々の心をつかんだ。
パワープレイとは裏腹な心の優しさと謙虚さ、その後、「ナオミ・フィーバー」が起こったが、花子人気も幾分それと似ているかもしれない。

「死に顔」は、時をへれば表情がなくなる。
表情を失った抽象的な顔は「死体の誤認」が起きやすいのではないだろうか。
30年以上の前の事件だったが、娘がアパートで亡くなっている通報を受け駆けつけた父親が、娘の部屋の遺体を見て、警察に娘に間違いないと伝えた。
しかし後にその遺体は、娘が殺害した女友達であったことが判明。背格好が似ていたとはいえ、家族でも「死に顔」は間違えるのかと驚いたことがある。
日本近代史においても、歴史に残る「死体の誤認」が起きている。
1936年2月25日、東京は記録的な大雪に見舞われた。
「桜田門外の変」もそうだが、歴史を変えるテロ事件の時には、東京に大雪が降るらしい。
それは、迫り来るテロリストの足音を消すに都合がよい条件にもなったし、飛び散った血痕は、人々に事件の記憶をより鮮烈にとどめおく結果にもなった。
雪が深々と降り積もる中、総理官邸は和やかなお祝いムードに包まれていた。
その主人の総理大臣・岡田啓介は、選挙を終えたばかり。官邸にいたのはいつも岡田啓介を身近で支える人ばかりあった。
その中には、岡田総理を父のように慕う秘書官の福田耕(ふくだたがやす)がいた。
彼らのうち誰も、数時間後に大事件に巻き込まれるなど想像もできないことだった。
秘書の福田が自分の官舎に戻ったのは日付もかわった26日の午前1時過ぎであった。そして午前5時ごろ、凄まじい銃声が静寂を破り、目が覚めた福田は外を眺めた。
福田の目に飛び込んできたのは、数多くの歩兵部隊が向かいの首相官邸を取り囲んでいる姿であった。
彼はすぐに官舎を飛び出そうとしたが玄関に居た兵に制止された。
後にわかったことは、この日、首相官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊約300人で、同じ頃には別の部隊が警視庁などを襲撃、陸軍省を含む東京の中枢を占拠した。
異変を知って官邸に松尾伝蔵陸軍大佐が私服警官とともに駆けつけた。
そして、間もなく襲撃部隊が官邸になだれ込んできた。
見つかるのは時間の問題だった。
そんな中、福田は応援を頼もうと、憲兵隊曹長に電話を掛けるが、かつてない大クーデターの前に為す術がなかった。
そのとき福田が耳にしたのは、兵たちの「万歳の声」。それは岡田首相が殺害されたことを意味するものだった。
そして襲撃から4時間経った26日午前9時、寝室には遺体が安置された。
首相官邸は襲撃部隊に完全に制圧され、静けさを取り戻していた。
福田は同僚の秘書官を伴い線香を上げたいと官邸の中に入った。ところが寝室に通された二人は予想もしない事態に直面した。
遺体は岡田首相ではなく義弟で私設秘書官の松尾伝蔵大佐だったのだ。
そして二人は女中部屋に向かった。そこには身を固くして座り込んだまま動かない女中たちの姿がいた。
尋ねると女中の一人が「お怪我はありません」と答えた。 福田たちはこのとき岡田首相が無事であることを直感した。
さらに女中たちは押入れの前から動こうとしないのに気づいた。
福田らは、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけ、押入れの中の首相の生存を確認した。
事情を聞くと襲撃直後に、捜索を続ける下士官により押入れが開けられるが、女中の「料理番のお爺さんです。風邪をひいて休んでます」の答えに下士官は部屋を立ち去ったという。
女中たちは怯えて動けないふりをして首相を守り通してきたのだった。
それでは、岡田首相と誤認されて亡くなった松尾伝像大佐に何が起きていたのか。時間を遡ってみよう。
松尾伝蔵大佐は、襲撃部隊の侵入を知って岡田首相を女中部屋の押入れに押し込むと自らは庭に立ち襲撃部隊を待ちうけた。
襲撃の下士官の「撃て!」の一声で一発の銃弾が松尾大佐の顔面を捉え、松尾大佐は即死した。
襲撃部隊のリーダー格の香田大尉、栗原中尉らも将校らも岡田首相と面識は無く、欄間に掛けてあった肖像画と見比べ「岡田首相本人」であると判断したのだ。
実際に、岡田首相と松尾伝蔵は、顔や体型がよく似ていた。
そして福田は、岡田首相を救援に動き出した。
政府に応援を要請するため宮内省に使いを送る一方、官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べた。
岡田首相が隠れていた女中部屋の押入れから脱出するには廊下を通って玄関に出るしか道はなかった。
しかし見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため、通過するのは至難の業だった。
ところが事件発生から14時間が経った午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田首相の死を伝えた。それを聞いた親戚が早く弔問させるよう訴えてきたのだ。
27日午前9時かつて福田応援を求めた憲兵隊曹長がやってきた。
彼も女中から岡田首相が無事であることを知った。
そしてこの二人の出会によって「奇跡の脱出劇」が始まった。二人が考えたのは、次のような奇想天外な作戦だった。
まず弔問客を官邸内に入れ、小坂の部下たちが兵の注意を逸らし、岡田首相を焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過させ車で脱出するというもの。
寝室と玄関の見張りに怪しまれずに通過できるかが成功の鍵を握った。
弔問客の誘導から首相の脱出まで各人の役割分担が決められた。
福田は弔問客を入れさせてほしいと頼み、交渉の結果10人程度という条件で許された。
一方、憲兵隊軍曹は岡田首相を弔問客に変装するための着替えを用意し、部下が見張りの注意を引きつける間に、女中部屋に届けることができた。
そして27日午後1時、いよいよ作戦が決行された。
予定通り弔問客が官邸内に足を踏み入れ、しばらくして岡田首相を廊下に連れ出した。
ところが心神を消耗した岡田首相は歩ける状態ではなく、福田と軍曹で抱きかかえるように部屋を出た。
寝室の見張りを突破し玄関前の廊下を進んだが、慌ただしく走ってきた3人にただならぬ気配を感じたのか、見張りの兵が身構えた。
尋問しようとしたその瞬間、軍曹はとっさに「病人だ、死体を見たからだ」と答えた。
見張りの兵は、最後まで弔問客が1人多いことに気が付かなかった。
そして3人は遂に玄関を出た。直後、岡田首相を乗せた車は官邸を脱出。事件から32時間が経った午後1時20分、首相は無事救出された。
救出後「君、たばこを持っているか?」が総理の初めての言葉であった。
その2日後、二・二六事件は終結した。周囲の命懸けの行動が首相暗殺という事態を防いだ。
命を救われた岡田啓介首相は、事件を防げなかったことに責任を感じ辞職し官邸を去った。
そして事件から16年後に84歳でこの世を去った。
岡田元首相は、2・26事件で、自分を守って亡くなった5人の位牌を作り自宅で供養し続けた。

「栄枯論ずるに足らず」岡田元首相が福田に贈った漢詩の書幅が自宅に掛けてある。
人からあれこれ言われても、言い訳や手柄を語る必要はない。
自分の真心は天のみが知っているという意味が込められている。
古代ユダヤ王国のソロモン王は、次のような言葉を残している。
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。 すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」 (旧約聖書「箴言」30章18節)。

川上音二郎と貞奴の娘であるツルは、アメリカで金を持ち逃げされた後、アメリカで画家の養子となっなる。青木ツルは、アメリカの日本人初のハリウッド男優の早川雪舟と結婚する。
早川は世界中で知られ家を留守にすることが多く、東京神楽坂で夫の帰りをまった。
早川に弟子したは、俳優としての道をすて当時はやったパーメネントを日本に持ち込み、美容室を開く。
そして早川を待つ青木ツルを物心両面で支えている。
が開いた美容室は今も健在で、妻である牛山が開いたハリウッド美容学校は、六本木ヒルズの近くにあった多くの美容師を育てている。  映画を観終えたとき、私は一人の女性のことを思い浮かべていました。中村久子という方です。明治30年に生まれ、両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、72年の人生をたくましく生き抜いた人物です。  飛騨高山の貧しい畳職人の家ではありましたが、久子は結婚11年目に生まれた子であり、両親の寵愛を一身に受けます。しかし、彼女が数えで3歳のとき、「突発性脱疽」という病気を患います。肉が焼け、骨が腐り、体の組織が壊れてしまうという難病でした。医師からは、「両足を切断しなければならない。だが、子どものことだから、命の保証はない」と宣告されます。  両親は「切らずに治してください」と医師にすがる一方で、父は藁(わら)をもつかむ重いで新興宗教に走ります。久子の治療費と集会所へのお布施で、一家は貧困を極めていきます。  ある日、久子のけたたましく泣き叫ぶ声に、母が台所から駆け込んでくると、白いものが転げていました。左手首がぽっきりと包帯ごと、もげて落ちていたのです。母はあまりの驚きと悲しみのために、気を失いました。  久子は病院に担ぎ込まれ、その月のうちに左手首、ついで右手首、次に左足は膝かかとの中間から、右足はかかとから切断されました。その後、何度も手術を繰り返します。痛みのため昼も夜も泣き叫ぶので、近所から「やかましい子」「汚い子」だと嫌がられ、毎年のように住まいを替えなければなりませんでした。  そのうち、父が亡くなり、母も病気になります。生活苦から見世物小屋に自ら入り、「だるま娘」として23年間も好奇の眼にさらされました。それでも、障害者には他に生きる道がないため、じっと運命に耐えました。  「人間はいかなる場合でも、いかなる職業に携わっていても魂を磨くことを忘れてはならぬ。自分を卑しめることが一番の罪悪だ。泥の中に咲く蓮の花の誇りをもって生きるよう、努力しなくてはならない」という友人の言葉に励まされ、自分の力で人生を好転させていきます。独学で読み書きを覚え、たくさん本を読んで教養と精神性を高めました。  久子は生きる希望を絶対に捨てませんでした。結婚や出産、そして育児までをも立派にこなしました。両手がなくとも、料理も作り、裁縫までして生計を立てました。  「奇跡の人」として知られるかのヘレン・ケラーが来日して、彼女に初めて面会したとき、「私より不幸な人、そして偉大な人」と涙を流しながら言ったそうです。  晩年は全国を講演して回り、障害者をはじめ多くの人々に勇気を与え続けた中村久子。彼女は「人生に絶望なし」と強調し、日常生活においては「いのち、ありがとう」を口癖とし、常に感謝の心を忘れませんでした。