不思議な感覚

オー・ヘンリーの短編に「20年後」という作品がある。20年後に再会を誓った親友どうしが、警察官と容疑者という立場で再会するという話。
警察官の男は、かつての親友を逮捕することに忍びず、他の警察官を逮捕に向かわせる。
これはフィクションだが、「20年後」を幾分連想させる実話をきくことができた。
数年前、福岡の新宮町出身ながら愛知県警に長く務めた元刑事と話をする機会があった。
どうして福岡で警察官(刑事)にならなかったのかと聞くと、もしも容疑者を捜査・逮捕しなければならなくなった場合、多少でも縁ある者がいた場合に情に流される。そこで、繋がりの出そうもない地域で刑事になったのだという。
その職業意識の高さに感服したが、その元刑事は想定外の出会いの話をされた。
1959年9月、伊勢湾台風が愛知県を襲い、八幡製鉄の規模縮小で仕事を失った人々が、被災地復興のために数多く愛知県にやってきたのだ。
そのため元刑事は、担当した事件の捜査上、様々なカタチで福岡出身者との関わりを持たざるをえなかった。
仏教のいう八苦に、「愛別離苦/怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉があるとおり、人の出会いも別れも、思いどおりにはならないということだ。
一方、あるテレビ番組で、「アン・ビリーバボー」な男女の出会いを知ることができた。
それは、今でも仲睦まじい埼玉県在住の夫婦に起きた、不思議な恋の物語である。
今からおよそ70年前、 高校時代、真面目で成績優秀だったという柴崎育久氏。 一生懸命、勉学に励む一方で、美術の先生とも親しくなり、放課後は先生のアトリエで、大好きな映画や美術の話で盛り上がっていた。
高校卒業後は東京大学に進学したが、その後も美術鑑賞の趣味は続き、その日も、上野の東京美術館で開催されていた日本美術展覧会、通称『日展』の鑑賞に訪れていた。
日展では「日本画」や「西洋画」をはじめ、「彫刻」「美術工芸」など、様々な美術作品に触れることができる。
会場内で、柴崎さんは「ある絵画」の前で立ち止まって見入ってしまった。 いつもなら、様々な作品を見て回る彼だが、この日は、その作品の前で、足止めをくらうカタチとなった。
そんな出来事があってから1年後、1952年7月13日。 大学3年になっていた柴崎さんは、この年の夏休み、北軽井沢において、友人たちと共に、楽しいひとときを過ごそうとしていた。
その時、友人の山下のYシャツのボタンが取れてしまい、隣から針と糸を借りてきていた。 しかも、貸してくれたのは、旅行に来ていた、彼らと同じ年くらいの女の子4人組だというのだ!
しかも、彼女らは、津田塾大学の英文科の才女達であった。
そしてその日、彼女たちは誕生会を開くことを予定しており、そのパーティーに柴崎さんたち4人を招待してくれたのだ。
それを聞いた東大生たちは、”でかしたぞ、山下!”と喝采の声をあげた。
彼らがイロメキだつのも無理はない。戦争が終わってまだ9年余り、 テレビや電話も普及していないこの時代。男女の出会いは、貴重な出来事だった。
そして、その日の夜。ケーキの代わりにと、ドーナツが差し出されたのだが、給仕をしてくれた女性が、その日の主役・富子さんだった。
この時、柴崎さんは富子さんに一目惚れしてしまった。だが、それだけではなかった。柴崎さんは、富子さんと以前、どこかで会ったような不思議な感覚が消えなかった。しかしそれがなぜなのか、この時はまだ分からなかった。
翌日、東大・津田塾8人の男女は、まるで青春ドラマをジで行くように、朝霧牧場に出かけ、楽しい時間を過ごした。
東京に戻ってから、柴崎さんは富子さんに積極的にアプローチ。 富子さんも、柴崎さんの真っすぐな思いを受け止め、やがて2人は恋人同士になった。
大学卒業後は、社会人として互いに忙しくなったが、出会ってから6年目の27歳で結婚した。
柴崎さんは、この頃には、どこかで一度出会ったことがあるという、「あの不思議な感覚」のことを、すっかり忘れていた。
だが結婚から6年後のある日、新聞に中澤弘光画伯が亡くなったという記事が出ていた。
明治から昭和期にかけて活躍した洋画家・中澤は、洋画家であると同時にデザイナーとしても活躍。与謝野晶子の作品の表紙、さし絵も手がけるなど日本を代表する画家だった。
柴崎さんは富子さんに、その新聞を見ながら、中澤画伯の作品で印象に残っている絵があると語った。すると、富子さんの方も中澤画伯と「接点」があると、一枚の絵葉書を持ってきた。
その絵葉書を見た時、柴崎さんの中で、眠っていた何かが目覚めた。
実は柴崎さんが日展の展覧会で、長く佇むほど印象に残った絵画とは、富子さんの絵葉書の中の、中澤弘光作『静聴』だったのである。
そして、富子さんの「絵葉書」は、柴崎さんを驚かせたばかりか、あの「感覚」の謎を解くこになる。
あの展覧会の1年前、中澤画伯のアトリエに富子さんはいた。 つまり、あの絵のモデルは妻の富子さんだったのだ。
当時、中澤は学生をモデルに作品も描こうとしていたのだが、自分が理想とするモデルになかなか巡り会うことが出来なかった。
そこで、学生たちに頼んで、高校の卒業アルバムを持ってきてもらい、理想のモデルを探したという。
そして、中澤の目に留まったのが、端正な顔立ち、美しい黒髪の富子さんだったのである。
後日、富子さんは友達に伴われ、中澤のアトリエで肖像画を描いてもらう。富子さんにとって、 絵のモデルになったのは後にも先にも、「この時」だけだった。
柴崎さんは富子さんと出会う1年前、すでに絵の中の彼女と出会っていたのだ。
描かれた女性に魅入られた男子学生と、その絵のモデルになった女性が、何かに導かれるように軽井沢の別荘で出会う。
そんな2人の出会いの不思議を、結婚6年後にたった一枚の絵葉書が紐解いてくれた。
この時、柴崎さんはもう一度富子さんが描かれたあの肖像画を見てみたいと思った。
そこで、かつて展示されていた東京美術館に問い合わせたのだが、すでに11年も経っていたので、作品は展示されておらず、しかも、現在はどこに所蔵されているかも分からないということだった。
その後も独自に調べて見たのだが、行方不明のまま時間は過ぎていった。
さらに47年の月日が流れた2011年。すでに世は インターネットの時代となっていた。
そして、ついに富子さんがモデルになった『静聴』が、宮崎県の都城市立美術館に所蔵されている事が判明する。
2012年、柴崎夫妻は美術館を訪れ、60年ぶりに絵画、つまり60年前の富子さんと対面することとなった。
古代ユダヤ王国のソロモン王は、次のような言葉を残している。
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。 すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」 (旧約聖書「箴言」30章18節)。

1977年新聞に、作家・水上勉と長男・窪島誠一郎の再会のことが掲載された。
実の父子でありながら生き別れ35年ぶりに劇的な再会を果たした「奇縁の父子」であった。
作家水上勉は福井県の大工の家に生まれ5人兄弟の次男として育ち、9歳の時京都の禅宗に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔した。
その後一時連れ戻されるが再び禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書いた。
経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的には恵まれないことが多かった。
1941年に水上氏は同棲していた女性との間に長男が生れるが、この頃結核にかかり血を吐きながらも酒ばかり飲み自身の生活さえ維持するのがやっとであった。
アパ-トの隣人が水上氏に同情し、また結核が子供に感染することを心配し、一時長男を預かり「養子先」を探したのであった。 この時、水上勉氏には養子先を知らされていなかった。
その後、明大前付近は1945年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものと思われていた。
しかし長男は、そのとき養父母と石巻市に疎開しており、無事に空襲を逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開する。
しかし窪島氏は、自分が親と似ていないことや血液型などにより養父母が実の親ではないと確信する。
そのころ、養父母は、生活は苦しく生きるのに必死で息子の心の変化を知る余裕もないほどであったという。
窪島氏は高校をでると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従纂員、店員、珠算学校の手伝いなどをしながら、家計を助けるとともに金を貯めた。
結婚後、それをもとに喫茶店や小劇場(キド・アイラック館)・居酒屋を開いて成功し、大小5軒の店を構える少壮実業家となる。
さらに銀座に好きな絵を集めて画廊を開いた。
自伝によると「高校時代から口八丁手八丁の男だった。深夜酒場のマスターは天職だったかもしれない。あれほど好きだった文学にはすぐに見切りをつけた」と書いている。
終戦後間もない頃、窪島氏の父親である水上勉は本が売れず妻の稼ぎに頼っていたが、妻は子供を置いて勤め先のダンスホールで知り合った男性と駆け落ちしてしまう。
1946年ごろ作家の宇野浩二を知り文学の師と仰ぐようになり、1947年に刊行された「フライパンの歌」が一躍ベストセラーとなるが、その後しばらくは生活に追われまた体調も思わしくなく文学活動からは遠ざかった。
しかし1959年「霧と影」で執筆を再開し、1961年「雁の寺」で直木賞を受賞し、「飢餓海峡」「越前竹人形」、「五番町夕霧楼」、などの小説を相次いで発表し華々しい作家生活が始まったのである。
一方息子の窪島氏は生活の安定とともに本格的に「実の両親」を捜し始める。
そして養父母である窪島夫婦が戦前、世田谷の明大前でクツ修理屋をやり二階を下宿にしていたこと、そこに「山下」いう学生がいて1943年秋、孤児をもらったといって二歳の赤ちやんを子供を欲しがっていた窪島夫妻のところに連れてきたことを知った。
さらに、かつて「山下」が住むアパ-トの隣の部屋にいて子供を預けた人物が、当時すでに流行作家としての名が知られていた水上勉氏であることをつきとめるのである。
窪島氏は父が作家の水上勉氏であることを知った時のことについて次のように語っている。
「それは天地が裂け、雷鳴が轟き、驚天動地でしたよ。人前ではかっこつけていましたが出会ったときには涙がでました」。
水上・窪島父子の「血の濃さ」を物語るのが、窪島誠一郎氏が水上作品の「愛読者」でもあっこと。 つまり本当の父親の名を知ったとき窪島氏の本棚には水上作品が並んでいたのである。

ロンドン在住の作家・黒木亮(51)は、実の父ととても不思議な出会いをする。
大手邦銀をはじめ総合商社や証券会社などで国際プロジェクト金融を手掛け、アフリカから中東、アジアなどを縦横に駆け巡った経験を持つ。
それに裏打ちされた「巨大投資銀行」「エネルギー」といった作品は、多くの読者を魅了してきた。
黒木氏は、元マラソン選手で本名を金山雅之選手という。早稲田大学在学中に華々しくデビューし、五輪にも2度出場した。その瀬古利彦選手と同じ時期に、早大競走部に在籍した。
エンジ色のランニング・シャツに、白字で大きな「W」。それは、若き日の金山選手の姿であるる。
金山選手は箱根駅伝では、「花の2区」を走った瀬古選手から首位でタスキを受け取って3区を走り、首位をキープしたまま、4区へタスキを引き継いだ。
そして、翌年は8区を走った。
黒木亮の「冬の喝采」は、自身である金山雅彦の青春物語である。競走部時代の瀬古利彦や監督の中村清のエピソードなどが書かれている。
自伝的小説というより、ノンフィクショに近い。
中村監督の口癖は「マラソンは芸術です」、「若くして流さぬ汗は、年老いて涙となる」、「朝に新しく生まれ、夜は明日の復活を信じて床に就く、一日一日が命のやり取りだ。」、「一日一生(いちじついっしょう)」など。
金山選手は、北海道の田舎町で本格的に走り始めた高校時代から早大時代まで、金山選手は来る日も来る日も走る。ケガで走れなくても、頭の中にあるのは、走ることだけである。
今にして思うことは、単調でもあるけれど、その凡庸たる日々を積み重ねた者だけが非凡さを獲得し、道を切り開くということだ。
そんな金山氏が、創作の世界にはいったことには、決して「凡庸」では済まされない心の葛藤があった。
金山選手が実の両親と信じて疑わなかった父母は、実は養父母だった。彼はそれを、早大入学時に知る。生後7カ月のとき、養子に出されたのだという。
そして、小説の中で最も印象的な場面は、北海道から上京してきた養父に真実を聞かされた場面。金山氏は、真実を知った後、少し外出し、気分を鎮めてアパートに戻った。すると、養父はシュークリームの箱を差し出す。
それを見た金山選手は箱を部屋の隅に叩きつけた。
自分はこれからも何も変わらないと思っているのに、父が媚びようとする。それに腹が立った。自分が前向きになっているのに、父さん、あなたが変わってどうするのだ、と。
やがて、金山選手は48歳の父に向かって言った。「これからも僕の親は、父さんと母さんだけだから、よろしくお願いします」と。
大学卒業後、大手邦銀に入った金山さんは1988年、ロンドン支店に赴任した。そして戸籍を手がかりに、北海道岩見沢市に住んでいた実の両親に、初めて手紙を書いた。
すると、すぐに母から返事が届いた。封を開けると、何枚もの写真が入っている。
一番大きな写真は、昭和20年代の「箱根駅伝」の写真だった。
それこそが、金山選手の父の若き日の姿だった。金山選手の父も、箱根駅伝の選手だったのである。
「M」の文字の入ったランニング・シャツを着た若者が、父親の若き日。自分の「W」(早稲田)と父の「M」(明治)、文字が逆さになっただけの違いだ。
明治大学の選手として、父は4年間に4度出場した。金山選手が走った3区と8区は、父も走っている。
しかも大学4年のときは、2人とも8区を走り、ともに区間6位・チーム3位だったというのだ。
そのあまりの符節の合一に、金山氏は愕然としたという。
それからしばらく過ぎた1996年。英国の永住権を取った金山氏は久々に郷里、北海道を訪れた。初めて両親に会いに行き、そして知った。
自分の出生の経緯と、生後7カ月の息子を手放すとき、母は布団をかぶり、声を押し殺して泣き続けたこと。
幼くして別れただけに、父子に親子の歴史はなく、陸上競技だけが共通の話題だった。
TVでの「大学箱根マラソン」の全面中継は最近だが、それ以前に参加ランナーの名前の中に、父はきっと息子の名を見出していたに違いない。