プーさんとゾウさん

2018年3月、国際アンデルセン賞の授賞式がアテネであり、「魔女の宅急便」などの作者として知られる角野栄子に、作家賞の賞状とメダルが授与された。
国際アンデルセン賞は、国際児童図書評議会(IBBY)が選考するもので、児童文学の「ノーベル賞」と言われ、長年子どもの本に貢献した作家や画家に贈られる。
第二次世界大戦の終わりの年、ドイツのイエラ・レップマン女史は、戦後ドイツの疲弊した社会で生きる子どもたちに、本を見せたいという抑えがたい願いを抱いた。それがIBBYの創設に繋がったのである。
日本人では、まどみちお、上橋菜穂子についで3番目の受賞である。
角野は授賞式でのあいさつで、第2次世界大戦中に10歳だったと振り返り、「あの過酷な時期を本によって、どれほど慰められ、生きる勇気を与えられたか」と述べた。
また、5歳で母を亡くし、泣いてばかりいたとき、父がひざの上で昔話を聞かせてくれた体験を基に、「物語は読んだ瞬間から読んだ人一人ひとりの物語になり、その人の言葉の辞書になっていく。その辞書から想像力が生まれ、人の世界を広げ、くらいときも助けてくれる」と語った。
IBBYは「角野の描く女性はどんな困難に出会っても、忍び寄る自己不信にとらわれることなく対処法を見つけていく。人々が本の中に求める、今の時代にふさわしい作品」と評した。

1932年、5月15日、青年将校によって犬養首相は殺害される。
「ものすごい破壊力の嵐がやってきて、後は静けさがやってきた。来るべきものが来て安堵感とも解放感ともつかぬ気持になった」。
5・15事件で父親を殺害された時、現場に居合わせた娘の言葉である。
とはいえ妻は、現場に居ながら将校達にムザムザと夫を撃たせてしまったことを、終生苦悩する。
この出来事は、犬養家一人一人、強烈なインパクトを孫の代に至るまで与え続けた。
犬養毅の孫の道子は、自伝的小説に、5・15事件の顛末を「これこそが唯一の真実」として書いている。
海軍と陸軍の青年将校ら5人が首相官邸に突入してきて夕食前の食堂に向かっていた祖父と母と弟(康彦、当時4歳)に廊下で遭遇し、やにわに一人が祖父に向かって引金をひいたが弾丸は出なかった。
「まあ、せくな」ゆっくりと、祖父は議会の野次を押える時と同じしぐさで手を振った。
「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い」。
そして、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座り、煙草盆をひきよせると1本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう」。
その時、前の5人よりはるかに殺気立った後続4人が走りこんできて「問答無用、撃て!」の大声。
次々と9つの銃声。そして走り去った。
母が日本間に駆け入ると、こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中で祖父は卓に両手を突っ張り、しゃんと座っていた。指は煙草を落していなかった。
母に続いて駆け入った”てる”のすがりつく手を払うと、「呼んで来い、いまの若いもん、話して聞かせることがある」。
午後6時40分に医師団の最初の発表があり、こめかみと顎から入った弾丸3発。
背にも4発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」。
父・健が大きく笑って言いに来た。
「お祖父ちゃん、冗談いってさ、いつもとおんなじだよ。 9つのうち3つしか当たらんようじゃ兵隊の訓練はダメだなんて言ってるよ」と。
しかし、結局、午後11時分に祖父の顔に白布がかけられた。
この場面で、「健」とは犬養毅の長男で、犬養道子の父親にあたる人物。
犬養健といえば、「造船疑獄」の指揮権発動で佐藤栄作運輸大臣らの逮捕を免れさせ辞職した、アノ時の法務大臣である。
その犬養健は、意外なことに学生時代は「白樺派」の小説家でもあった。
作家の石井桃子は犬養健と交流があり、犬養家に司書のようなカタチで出入りしていた。
そして5・15事件が起きた1933年に、石井は犬養家で運命的な「出会い」をしている。
事件後に犬養家を訪問したところ、イギリスから帰国したばかりの犬養健の友人・西園寺公一が子供達(道子と康彦)へのプレゼントとして送った、”The House at Pooth Corner”という本が置いてあった。
子供達に「これを読んで」と言われて、翻訳しながら読み聞かせたが、石井自身がフイに不思議な世界に迷いこんでしまった。
その時の気持ちは、温かいものをかきわけるような、または軟らかいトバリを押し開くような気持ちであったという。
そのうち、子供達の不満げな様子をよそに、石井の読み聞かせは自然と黙読になってしまった。
後の児童文学・石井桃子が、祖父・犬養毅を青年将校の凶行により失った孫達に、英語訳がでたばかりの「こぐまプーサン」を即興で訳して語り聞かせていたのである。
それは、凄惨な出来事を幼子達に忘れさせたかった思いがあったのだろうが、はからずもこれが、石井桃子と「プーさん」との出会いの場面であった。
その出会いから7年後、石井が訳した「プーさん」が岩波書店より出版され、多くの子供達の心を掴んでいった。
悲劇的な5・15事件の副産物が、日本語版「こぐまプーサン」であったわけだ。
原作者のイギリスの作家AAミルトンは、息子が4歳のときに、サセックス州のハートフィールド近郊に建てられていた古農家を買い取って別荘とした。
夏季休暇などのたびに妻子と乳母の4人でこの地を訪れた。田園地帯アッシュダウンの森こそが物語の舞台である。
4歳の息子クリストファーが持っていたテディ・ベアから着想えて、1926年に「くまのプーさん」を発表している。

1960年6月、国会周辺を30万人の人々に取り囲まれつつ新安保条約は成立した。
その時の首相は、安部首相の祖父にあたる岸信介首相であった。
これだけの人々が国会をとり囲んだのは、一人の女子学生の死が関係していた。東京大学の樺美智子(かんば みちこ)は、安保反対運動の中で機動隊ともまれて亡くなった。
人々は参議院の承認を経ないままに新安保の「自然成立」へともちこもうとする岸内閣への怒りを、さらにエスカレートさせていたのである。
ところが、樺美智子の死によってピンチに陥った岸内閣の暗雲を一掃したのが、もうひとりの「美智子」である。
皇太子と正田美智子様との御成婚では、「ミッチーブーム」さえもが起き、国民はしばらくは政治のことを語ることをやめさせるほどに、「祝賀ムード」にひたったからである。
ところで美智子様は、「そうざん」で知られる作詞家・まどみちおと意外な関わりがあった。
戦後、工場の守衛をしながら詩作を始めたまどは、1951年、42才のときに書いた「ぞうさん」に曲がつけられ、NHKラジオで流されるや大ブームを巻き起こし、以来、日本を代表する詩人となった。
まどみちおは、現在の山口県・周南市の生まれである。
金子みすず長門市仙崎生まれあるから、山口県の表日本側と裏日本側に著名な「童謡詩人」が誕生したことになる。
まどみちおは、本名が石田道雄で、「まど」と名乗ったのは、単純に窓が好きだからつけたという。
まどは、「ぞうさん」以外にも多くの詩を書き、1989年「国際児童図書評議会」は、まどの作品を国際アンデルセン賞に推薦し、日本における初受賞が決まった。
当時「日本国際児童図書評議会」会長であったのは日本人女性・島多代であった。ちなみの島多代の夫は新幹線を開発した島秀雄の次男で鉄道技術者の島隆である。
島多代は、「日本の絵本」を海外に売り込むなどカトリック系の出版社・至光社の編集者の経験者である。
島多代は、つねづね詩の翻訳は詩の心が分かる人でないとならないと考えた。
、 まど作品の翻訳を考えていた島多代に、ふと頭に浮かんだのが皇后・美智子様であった。
美智子様は、島にとって聖心女子大学の先輩であり、英文科を首席で卒業した英語力のもちぬしであった。
しかし島が注目したのは、英語力ばかりではなく、まどの世界観までも伝える翻訳ができる人としてであった。実際、美智子様は、当時の歌人としても注目されはじめていたのである。
島が、英訳を依頼してしばらくして美智子様の元を訪ねると、そこには思いもかけず、手作りの「THE ANIMALS」という小冊子が完成していた。
見開きの左側のページには、まどの詩、右側には美智子様の英訳が記されていたのである。
このレイアウトこそは、まどの詩そのものを読んでほしいという気持ちが表れだった。
後年、この「THE ANIMALS」の出版に携わった人によれば、美智子様は、詩人の思いをきちんと伝えようと、まどに何度も連絡して質問された。
例えば、「まめつぶ」という表現の場でも合、1粒なのか複数なのかなど、細かく聞かれたという。
1994年、まどは見事、日本人として初めて「国際アンデルセン賞・作家賞」を受賞したのである。
さて、まどみちおの詩「そうさん」に曲をつけたのが、作曲家・團伊玖麿(だん いくま)である。
もともと「ぞうさん」は二拍子の曲だったが、團伊玖麿によって3拍子となり、曲にノッシノシという「重み」が加えられたことがヒットに繋がったといわれている。
團伊玖麿の祖父・團琢磨(だん たくま)は、現在の福岡市中央区荒戸で士族の家に生まれ、藩校修猷館に学び金子堅太郎らと共に旧福岡藩主・黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米している。
そればかりか、そのままマサチューセッツ工科大学に入学し、鉱山学科を学んで卒業後に帰国している。
実業界に入り三井合名会社理事長の地位にまで就くが、昭和金融恐慌の折、三井の「ドル買い」が批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった。
そして1932年3月5日、三井本館入り口で「血盟団」の菱沼五郎の銃弾によって殺害された。
また同年2月9日、「血盟団」メンバー小沼正が打ったピストルの銃弾が蔵相の井上準之助を貫いた。いわゆる「血盟団事件」である。
ところで、佐賀・福岡・熊本・大分にまたがる筑後平野の田園風景の中をゆったりと流れるのが筑後川である。
作曲家の團伊久磨は、1985年5章にもおよぶ「筑後川」という壮大な「合唱組曲」を作曲した。
この筑後川の下流の有明海に面したところに、祖父・団琢磨が創設した三井・三池炭鉱が存在するのだが、団琢磨と同じく、血盟団テロのターゲットになった井上準之助(当時、蔵相)もまた筑後川沿いの人といってよい。
井上は、旧日田郡大鶴村(現・日田市)生まれで、生家は久大線の「夜明駅」に近い「井上酒造」という作り酒屋である。
何しろ、筑後川「夜明けダム」に近い生まれで、日田といっても福岡県筑後の延長として意識される土地柄である。
テロリズムとは無縁に思える筑後川の悠久さ。その川の始まりと終わりに、血盟団事件で斃れた二人の男のゆかりの地があるのである。

まどみちおは幼い頃に生涯消えることのない体験をしている。
父、母、兄妹、それに祖父母と暮らしていたが、5歳の時、父の将来の生活を考え、まど一人を祖父母のもとへ残し台湾に渡ってしまう。
1915年4月のある朝、目を覚ますと、家の中がひっそりとしており、母、兄、妹がいなかった。そして祖父の言葉から置き去りにされたことを知る。
母親は、ひとり取り残される祖父の不安をおもんばかって、次男のみちおを祖父の手元に残して、養育費を送金する約束をしたのだという。
おとなしく、手がかからないという理由で、長男ではなく、次男のまどを残していったようである。
そして来る日も来る日も、祖父と二人だけの生活が始まる。
まど少年と祖父との暮らしが5年間続いたが、10歳の時、まどみちおも叔母に連れられて台湾に渡る。
しかし長年別れて暮らしていたためか、母親は、兄や妹と違って、呼びつけではなく「さん」づけで呼んでいたという。
しかし「置き去られた」体験の中で、まど少年の心を紛らわし励ましたのが、生家周辺に広がっていた自然であった。
草木や虫や動物と触れあうことで、まどの感性はしだいに研ぎ澄まされていき、「人も自然も物もみんな同じ」という世界観を育んだ。
ゾウさんお鼻が長くてみんなと違うねというと、少々カラカイのニュアンスがある。
しかし、そう言われたゾウさんは「鼻が長いけど、お母さんだって長いんだよ」と毅然として応えている。
この短い歌詞の中にまどは、存在するすべてのものすべてに対等の価値があるという世界観を書き込んでいる。
もちろん子供達は何も考えずに「ぞうさん」を歌っているに違いない。しかし何も考えていないからこそ、その「歌心」は、子ども達の心の中に地下の水脈のごとく生活を豊かにしているのかもしれない。
まどみちおと同じように台湾にあって、置き去りにされた体験をもつのがシンガーソングラーターの一青窈(ひととよう)である。
台湾人の父親と日本人の母親との間にに生まれ、父親を早くなくして以来詩を書くようになったが、母親が病の床につくにあたっては、言葉を紡ぐことだけが「救い」であったそうだ。
中学3年の時に、母親が酸素マスクを外すときにも詩を書いていたという。
しかしそれでもしばらくの間、自分の気持ちをコントロールすることはなかなかできなかったという。
一青窈の作詞で特徴的なのは、例えば「あこるでぃおん」と題する歌などにある。
「あこるでぃおん」とは、「アコーデオン」という楽器が日本にやってきたときの名残かと思ったら、実は彼女が幼い頃やっていた「ラ行入れ」の言葉遊びから来ているらしい。
詩を作るということは、言葉で世界を「操作する」まではいかなくても、入るスキマのない世界に少しばかりのアソビをつくりだす行為なのかもしれない。
さて、まどみちおは、台北工業学校土木科に在学中、数人で同人誌「あゆみ」を創刊し詩を発表するようになる。
卒業後は台湾総督府の道路港湾課で働いていたが1934年、雑誌「コドモノクニ」の童謡募集に応じて投稿したところ、そのうちの2篇が選者の北原白秋の目に止まり「特選」に選ばれた。
これをきっかけに詩や童謡の投稿を本格的に行うようになる。
終戦後、日本に戻り1948年は出版社に入社し、雑誌の創刊にたずさわり、1959年に退社した後は、詩・童謡・絵画に専念し、それまでに作った童謡を「ぞうさん まど・みちお子どもの歌100曲集」(1963年)としてまとめている。
まどみちおは、90歳を過ぎた頃からは、自らの「老い」を見つめた詩も増えたとされ、2014年104歳で亡くなった。