團伊久磨作「筑後川」

筑後平野は、佐賀・福岡・熊本・大分にまたがる田園風景の中を筑後川がゆったりと流れる。作曲家の團伊久磨が1985年「筑後川」という合唱組曲を作曲した。
團伊久磨の作曲の経緯についてのエピソードで印象に残ったのは、作詞家の丸山豊が終章の「河口」を当初「河口夕映」としていた。
ところが 團は「河口夕映」から「夕映」の2文字の削除を求めた。夕映えから連想される静かで感傷的なフィナーレではなく、「川は河口で終わ 終わらない。河口は新し門出なのだ」と主張した。
かくして完成した終章「河口」の終結部は壮大なエンディングになっている。
團伊久磨の祖父が三井財閥の総帥・團琢磨であることを鑑み、「筑後川」創作には「感傷」におさまりきれない何かが秘められているのかもいれない。
というのも、筑後川一帯は自然のうららかさとは裏腹に、テロの銃弾に倒れた團琢磨をはじめ、昭和維新の最も緊迫した場面に立ち合った人々が少なからずいたからである。
それは熊本の源流から、佐賀の河口にいたる筑後川の流れのように、途切れなく生み出されていった。

明治の大事件といえば、岩倉遣外使節団の留守中、西郷隆盛らを中心に「征韓論」を決定したが、大久保利通らは急ぎ帰国し「内地優先」を主張して決裂し、西郷隆盛や江藤新平らが下野した「明治六年の政変」である。
それが1877年の「西南の役」に繋がるのだが、その3年前に起きた江藤新平による「佐賀の乱」は、「西南の役」の陰に隠れているが、その政治的な意味はきわめて大きい。
岩倉使節団が外遊する間、初代の「司法卿」に就任したのが江藤新平である。
江藤は国政の基本方針、教育・司法制度など、明治国家の法体制構築に多大の実績を残した。
学制の基礎固め、四民平等、警察制度の整備など推進し、司法制度に多大の貢献をした。
その実績からすれば、「内務省」を握る大久保利通と「司法省」を握る江藤新平の二人は、「両雄」といえるほどの存在であった。
江藤は、三権のうち「司法権の自立」をとりわけ重視したために、「司法権=行政権」と考える政府内保守派から激しく非難された。
まして江藤は人権意識や正義意識の高さでは、閣僚の中でも群をぬいており、決長州藩閥の汚職事件(山城屋事件および尾去沢銅山事件)などの事件をけして無視できなかった。
一方、薩摩の大久保は、長州の伊藤博文らと「薩長藩閥」を形成して、こうした汚職問題を追及していた江藤を目の敵きにしていたのである。
となると、「明治六年の政変」の核心の一つはこの「江藤の放逐」ともいえる。
江藤が下野すると、佐賀藩(肥前)ではすでに旧士族の不満が高まっており、江藤をかついで「反政府」の急先鋒となっていく。
しかし、佐賀における反政府軍の軍備は決定的に不足しており、わずか2週間で鎮圧される。
そして江藤は、自らが整備した警察の「写真手配制度」によって逮捕される。
江藤は法にのとった東京での裁判を求めたが、大久保はそれを無視して佐賀裁判所のみで裁判を強行し、ただちに刑が執行された。
しかも江戸時代の刑法が適用されて、江藤は刑場から4キロ離れた千人塚にその首がさらされた。
それは大久保の江藤に対する個人的憎悪を物語るような残虐さであった。
佐賀の乱で敗れた佐賀人の怨念は、昭和の時代に違ったカタチで表出する。
大久保の江藤に対する勝利は、日本における行政権の司法権に対する優位を確定したということだ。
その大久保利通は1878年5月、自宅を出て馬車の乗って太政官に向かう途中、6人の刺客に襲われ全身に刀をあびて倒れた。
刺客は石川県士族らで、「斬姦状」の中で、政治は天皇陛下の御心によるものではなく、一般人民の公議によるものではないと語っている。
昭和の時代に、軍部の中には、「統制派」と「皇道派」という二つのグループが存在した。
後に226事件を引き起こす皇道派・青年将校達は、自分達の故郷である農村の悲惨と天皇の周辺で栄達を極める重臣達とを重ね合わせ、天皇の本当の「御心」はそうした重臣らによって歪曲せられていると思うものが多くいた。
これは、大久保を切った士族の「斬奸状」の内容と似て、「士族の不満」と「皇道派の不満」とが通底しているのは、あまり意識れていない。
さて、青年将校らは荒木貞夫陸相の政治力と人間性に期待が集まり「皇道派」が優勢であった。
しかし荒木の露骨な皇道派人事や極端な精神主義から、皇道派から離れる者もあり、かわって理知的で軍の秩序を重んじる永田鉄山を中心とした「統制派」が勢力を伸ばしていった。
さらに、永田鉄山が皇道派の青年将校に殺害されるにおよび、軍務を疎かにして「下克上的風潮」を生み出している皇道派に批判が集まり、皇軍派はしだいに孤立化していく。
2・26事件は、そうした劣勢にあった皇道派が行動をおこし自分達の真情を天皇に訴えて「御心」心をつかみ、一機に勢力を挽回しようと企んだものだった。
つまり彼らは、とてもナイーブに「天皇親政」をもとめて行動を起こした若者達だった。
しかし2・26事の顛末は、青年将校達の悲劇に終わる。彼らを「悲劇的」にしたのは、皇道派の中核を握る軍人達が、一旦は青年将校の立場を支持し「理解」するような態度を示したことにある。
皇道派の幹部達は、「天皇の裁断」によっては、自らの劣勢を回復できるという期待の下、青年将校の決起に理解さえしたのだ。
この時、皇道派のリーダー的存在が荒木貞夫と並ぶ真崎甚三郎であった。
彼らは「君達の真情は理解した、その心を天皇もきっと受け止めてくださるだろう」などという言葉を青年将校らに伝えている。
青年将校らは、これに望みをいだき「天皇の裁断」をひたすら待ったのであった。
しかし赤坂山王ホテルにたてこもる彼らに対する天皇からの返答は、天皇自ら「近衛兵団をひきいてこの乱を鎮圧せん」というほどに激越で、彼らを「反乱軍」と位置づけたのである。
天皇への「至上の思い」を抱いていた青年将校らはすっかり「行き場」を失い、鎮圧軍にあっさりと降伏する他はなかったのである。
そして、反乱軍のイデオローグ北一輝とともに、現在の渋谷NHKのある場所にあった刑場の露と化す。
その結果、「反対勢力」がいなくなった統制派により、日本は「軍国主義一色」に染まっていく。
驚くべきことは、皇皇派の頭目「真崎甚三郎」が、久留米で「俘虜収容所長」だった時期があった。真崎は佐賀西高校出身で、そのためにか226事件の行動部隊の中に数多くの佐賀出身者がいた。
久留米高良山に近い山川神社の墓地に「佐賀の乱」における「叛徒」と書いてある墓石が建つのをみて、筑後川の河口である佐賀の乱は、福岡・久留米と連動して反乱を起こしたことがわかる。
この226事件は、天皇親政を掲げた「昭和維新」とよぶべき流れの終極点であった。
この終極点に向かう1930年代は、テロ事件が頻々と起きていた。
そうした事件のターゲットになった團琢磨、井上準之助ともに筑後川近くで生まれ、テロリストを幇助した権藤成卿も久留米生まれである。
そして筑後人が、昭和維新におけるテロリストを生んだ茨城の水戸と関わりを深くもつのも意外な話である。
ところで、筑後・柳川の儒者・安東省庵は、聡明で好学心が高く、1634年に藩主・立花宗茂より「分家」の内意書を与えられている。
安東が京都で朱子学を修めている時、日本に亡命している朱舜水の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して「師弟」の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そのうち、明朝を救おうとした「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。
朱舜水ははや60を過ぎ、五代将軍・家綱の時代になっていた。ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。
幕末1860年、この水戸学の影響下、水戸浪士による井伊直弼の暗殺「桜田門外の変」が起こっている。
昭和の時代、この水戸大洗において井上日召らの「血盟団」が結成され、「君則の姦」を除く意図のもと「一人一殺主義」が唱えられた。
「昭和維新」を志す水戸出身の若者の思想形成に、水戸学の「尊王思想」が影響があったことを否定できない。
ここで注目したいことは、この水戸の浪士と深い関わりをもった一人の「筑後人」がいたということである。
筑後国久留米(福岡県久留米市)の水天宮の神職の家に生まれた真木和泉(まきいずみ)という存在。
1823年に神職を継ぎ1832年に和泉守に任じられる。
国学や和歌などを学ぶが「水戸学」に傾倒し、1844年、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け「尊王の志」を強く抱くに至った。
そしてこの真木和泉とともに久留米藩校「明善堂」で儒学者の薫陶をうけた人物に、権藤直(ごんどうすなお)という人物がいる。
権藤は、「筑後の三秀才」とよばれた医者の息子で、品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、彼の内に志士的な情熱が渦巻いていたのは確かなようだ。
そして「寛政の三奇人」の一人・高山彦九郎は、久留米の「権藤家」の親類の家にて自決している。
そして、権藤直の息子が、血盟団と深く関わることになる権藤成卿(ごんどうせいきょう)である。
権藤成卿は、明治元年に福岡県三井群山川村(現久留米市)で生まれている。
日露戦争の機運が高まる中、権藤は親友を通じて、内田良平の「黒竜会」の動きに共鳴し、権藤は内田良平への資金援助を担当したらしい。
後に、内田とは袂を分かつが、権藤は独自の構想を抱き「権藤サークル」を形成する。
このサークルを母体としながら、1920年には「自治学会」を結成した。
権藤成卿は、若き日に中国に遊んだ経験があり、それが独自の「農本主義」思想を生んだといえる。
また「大化改新のクーデター」構想に思想的な確信をあたえた唐への留学生・南淵請安に理想をもとめた。
それを“日本最古の書”である「南淵書」として発表したものの、たちまち学者たちの批判を浴びる結果となった。
とはいえ「南淵書」は北一輝の「日本改造法案」と並んで、昭和維新のひそかな“バイブル”となったのである。
権藤は1926年4月、東洋思想研究家の安岡正篤が、東京市小石川区原町に創立した「金鶏学院」において講義を行うようになる。
聴講生は軍人、官僚、華族が中心であったが、ここに井上日召や四元義隆といった、のちの「血盟団」の構成員も含まれていた。
ちなみに、連合赤軍の重信房子の父は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、父の影響を強く受けたという。
1929年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣には苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。
また、のちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も権藤の家にさかんに投宿した。
つまるところ、権藤成卿は「血盟団メンバー」にそのアジトというべき場所を提供し「幇助」したことになる。
1932年2月9日、メンバー小沼正が打ったピストルの銃弾が民政党の井上準之助を貫き、菱沼五郎の銃弾が三井の総帥・團琢磨を襲った。いわゆる「血盟団事件」の勃発である。
あらためて昭和維新の精神的背景をたどると、筑後柳川に逗留し水戸藩主に仕えた朱舜水、筑後久留米の真木和泉と水戸の会沢正志斎との繋がり、筑後三井の権藤生と水戸の井上日照の繋がりなど、福岡県筑後は「昭和維新」のテロリスト側の思想形成にに関わってもいるのである。
そしてテロのターゲットになった井上準之助(当時、蔵相)もまた筑後の人といってよい。
井上は、旧日田郡大鶴村(現・日田市)生まれで、生家は久大線の「夜明駅」に近い「井上酒造」という作り酒屋である。
何しろ、筑後川「夜明けダム」に近い生まれで、日田といっても福岡県筑後の延長として意識される土地である。
井上は、東京帝国大学卒業とともに日本銀行に入行し、38歳という若さで営業局長を経験、49歳で本行初の生え抜きの日銀総裁となった。
1929年に就任した浜口雄幸首相は、経済の行き詰まり、「金解禁」の国際的圧力、軍部の暴走、財政再建の必要などに取り組むキーパーソン、つまり大蔵大臣としての入閣を乞うたのが、井上準之助であった。
政党政治が光を失いつつあるなか、朴訥だが山刀のように揺るぎない浜口と、スタイリストでナイフのように怜悧な井上という対蹠的な二人は、名コンビといわれた。
二人は、軍部や野党立憲政友会の猛反対を押し切り、金解禁、緊縮財政、軍縮を次々に断行していく。
浜口は、強い危機感と使命感で内閣を牽引するものの、東京駅で銃撃されて死亡する。
死に際して語った言葉「男子の本懐」は有名だが、その2年後の1932年、井上も選挙運動中に血盟団の凶弾に斃れている。
「軍事予算」の大幅削減を顔色一つ変えずにやってのける井上であったが、1929年10月のNY暴落は、誰も予想出来ないことであり、「旧平価」での金解禁は、世界恐慌という嵐に向かって、窓を開くような結果となる。
井上の緊縮財政が結果的に不況をさらに加速化させ、満州事変など軍部の独走に繋がっていくのは、歴史の皮肉である。
そのターゲットとなった團琢磨は1868年、筑前国福岡荒戸町で、福岡藩士馬廻役・神尾宅之丞の四男として生まれた。
12歳の時、藩の勘定奉行、團尚静の養子となり、藩校修猷館に学ぶ。
金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学する。
1878年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国する。
東京大学理学部助教授となり、工学・天文学などを教える。るが工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。
三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任した。
三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、三井財閥形成の原動力となった。
こうして團は三池を背景に三井の中で発言力を強め、1914年三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。
しかし昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つ。
1932年3月5日、東京日本橋の三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺されている。
テロリズムとはあまりにも対照的な筑後川の悠久さ。そのことに、團伊玖磨の5章にもおよぶ壮大な「合唱組曲」の創作動機の一端があるように思えますが。