草原に生まれた夢

モンゴルといえば目にしみ入る緑の草原での遊牧の生活。今日においても、パオ(ゲル)において、客人または旅人は、遊牧生活の証たる乳製品をもってもてなされる。
1908年に一人の僧侶が北京から内モンゴルまで敢行した旅の体験の中で出会った乳製品が、「カルピス」として日本人の心身を潤すことになる。
そういえば、映画「火垂るの墓」(1988年公開)の一場面で、兄が妹に「お腹空いたやろ。カルピスも冷えてるよ」という場面があった。すでにカルピスが国民的な飲料になっていたことがわかる。
この誰もが知るカルピスをつくり、健康と平和を希求した人物こそが三島海雲(みしま かいうん)。
三島海雲は、明治維新から10年め、大阪の貧しい寺に生まれた。
西本願寺教団が新時代に即して積極的に国内の教育と大陸への布教を推進し、布教を名目とする北京の日本語教師となる。
日清戦争直後から清朝崩壊までの激動の時代であり、人間の経済活動は国策の影響下にあった。
三島は、雑貨商に転じ、軍馬購入の途を開くが、良馬は三井・大倉両財閥が独占していたため、モンゴルに活路を求める。
だが三島は、モンゴルの草原で偶然、遊牧民の常食である「乳製品」に遭遇したことで、運命が変わる。
ところで、「食の衝撃」が人生を切り開いた人として、アメリカでキャラメルに出会った森永太一郎や、福井県鯖江の陸軍連隊でカツレツと出会った「天皇の料理番」秋山徳蔵などがいるが、出会ったものが国民的に愛されるようになった点で、三島は突出している。
三島は、医師からは長くは生きられないと宣告されるほど、病弱な少年だった。
大人になっても不眠や頭痛に悩まされた。そんな三島は、元朝時代、ユーラシア全土を支配下に治めたモンゴル遊牧民のたくましさに憧れていたのである。
三島が訪れたモンゴルの食卓には、遊牧民のソウルフードと言える乳製品が並んでいた。
牛乳が発酵すると表面に厚い膜がはる。その膜を掬い取って作る乳製品である。その1つが絞りたての牛乳から作ったジョウヒと呼ばれる乳製品だ。
そのジョウヒを口に入れた瞬間、三島は「これが、モンゴル人の活力の源だった」と直感した。
乳製品を食べ続けた三島は、不眠と頭痛が治り、体調がよくなったと実感する。
そして、この未知なる味をいつか日本人にも味わってもらいたいと考えるようになる。
さて、清朝崩壊の影響で事業継続が困難になった三島が帰国したのは1915年、無一文になった三島は、モンゴル乳製品の商品化に取りかかる。
三島がカルピスに託したのが、国民の健康と幸せであるが、もともと僧侶である三島の強い思いは、ほとんど「祈り」といってもよい。
その原点は、自身の闘病経験だけではない。帰国後、三島は2人の娘を若くして亡くしている。その無念の体験が、健康と幸せへの思いをより強くした。
その思いとは裏腹に、カルピスには「初恋の味」とはいいがたい暗い記憶がある。
昭和前期には軍需物資あるいは統制物資となり、1939年には「満洲カルピス製造株式会社」が設立される。
満洲カルピスの代表となったのは、三島の長男・克謄で、大陸において終戦をむかえる。
満州国の影の実力者である甘粕正彦は、青酸カリを飲んで自決する。その死に際を見届けたのが、甘粕の側近の赤川孝一である。
赤川孝一は福岡市博多区出身で、作家・赤川次郎の父。満洲映画協会から、戦後東映プロデューサーとなった人物である。
この頃、奉天の三島家にはカルピスを求める人が次々とやってきた。せめてもの懐かしい味に青酸カリを投じ、自決するためだった。
時代は下り日本が高度経済成長を迎えた1963年、日露戦争勝利の海軍記念日にカルピスの広告を出そうとする三島の計画を息子はつぶしている。
三島にとって日露戦は感激の記憶だったが、満洲カルピスの社長として奉天で終戦を迎えた克騰は、青酸カリと一緒に飲むから、と求める人びとにカルピスを渡した苦い過去があった。
共にカルピスを愛しながらも、父子が見てきた「景色の違い」が父子の距離を生んだのである。
ちなみに、三島は当初カルピスではなく「カルピル」という名で売りだそうと考えていた。
「カルピル」のカルはカルシウムの「カル」、「ピル」は仏教の言葉で最高の教えを意味するサルピルマンダ。しかしカルピルではどうにも歯切れが悪い。そこで、カルピスはどうかと思い立つ。
意見を求めたのが、「あかとんぼ」の作曲家の山田耕筰だった。「カルピスは響きがいい。音声学的に見てもいいですよ」とのお墨付きを与えている。

モンゴルのフィールドに新たな学問的可能性見出したのが、今西錦司である。
京都大学理学部の講師・今西錦司は、動物の社会にも人間のように社会があるはずだと考えた。
人間の社会の成り立ちを動物の社会から 考えよう生態学の研究と登山や探検に明け暮れるなか、終戦後まもない1948年、46歳になってもまだ京大理学部講師だった。
今西は1902年、京都・西陣の織元「錦屋」の長男としで生まれた。
小さいころは昆虫採集に熱中した。登山は中学時代にはじめ、この頃には日本アルプスの未踏峰を次々に踏破し登山家としで有名になっていた。
今西の口癖「自然そのものから学ベ」は、彼の登山体験からでた言葉に違いない。
31歳で京大理学部講師になるものの15年間も無給講師のままで無給講師のころ「講義はいやだから給料はいらん」といい、確実な収入は貸家の家賃だけだった。
彼のもうひとつの口癖、「好きなことだけをやる」精神は、ここにも表れている。
今西はまず野生馬の観察からはじめようとフィールドを野生馬の生息で知られる宮崎県・都井岬と決めた。
ふかし芋がはいった弁当箱をぶら下げ岬を尾根伝いに馬を探し歩いた。
その彼の前に、突然ニホンザルの群れが現われたのである。40~50頭はいる、その中にボスザルのような大きなサルがいた。今西の頭に予感めいたものが閃いた。「馬ではなくサルだ」。
今西は大学にはいったばかりの学生二人を連れて、再び都井岬を訪れた。学生は百頭近いサルの集団と出会い、いくつかの鳴き声の違いで意思を伝えあっていることを直感した。
今西は、動物の世界にも人間と同じように「社会」があるという根本的な認識をもっていた。
それがこの場所でウマ探しやサル探しを始めた理由であるが、今西はウマよりもサルに「社会」性が強いことを感じた。
動物はけして無名の集団ではなくそれぞれが個性があり、複雑な社会関係があることを今西は観察によって裏づけようとしていた。
当時、人間以外の動物の世界に「社会」があるなどとは誰も考えていなかった。今西はいまや未知の領域に踏み込もうとしていた。
そしてウマの調査で初めて用いた「個体識別」という手法でサル集団の観察をはじめた。
群れの一頭一頭の特徴を見分けて名前を付け、長期にわたってその行動を記録していくというやり方で、今西が考えついたことだった。
実は今西は1944年、内モンゴルの張家口に設立された西北研究所の所長に迎えられたことがあった。
そこで彼はひたすら遊牧民とウマの群れを観察していたことがある。
そして遊牧民が何百頭ものウマを正確に見分けていることに気がついたのである。
実は「個体識別」のヒントはこのモンゴルで得たものである。
今西の幸運のひとつが、この都井岬から海を隔て少し離れたところに幸島という野生ニホンザルの格好の観察地があったことである。
今西にはやがでヒマラヤ踏査の先発隊長としての仕事もあり、その学生達らがサルの調査を引き継ぐことになりサルにそれぞれ名前をつけ、ノートを手に朝から双眼鏡をのぞく日々が続いた。
するといままでに見えてこなかったものが次第に明らかになっていった。
サル社会における縄張り、上下関係、相互のコミュニケーション、秩序の維持と文化の発見などは世界に先駆けたものであった。
周りに、次第に若き俊英達が多く集まっできた。中尾佐助・河合雅雄・梅棹忠夫・川喜田二郎などである。
今西の自宅では連日、酒、議論が続き、時には取っ組み合いにまで発展した。
登山で鍛えた今西は乱闘にも強く決め技は柔道技であったから、ひ弱な学徒にはとても近付ける場所ではなかったという。
戦後、サル社会の研究から今西は次第に人類学の方に学問的関心を移していった。
そして1967年に愛知県犬山市に京大霊長類研究所を発足させる。1979年には文化勲章を受章し、1992年、90歳で亡くなった。
実は今西はモンゴルで馬と出会ったことから、最初にウマを探しに宮崎県都井岬に行った際、もう一つの候補地があった。北海道日高である。
今西が迷っていたある日たまたま手にとった雑誌に、日向灘を背に岬で草をはむ馬の群れが紹介されていた。彼はその時フィールドを都井岬に決めたという。
馬をもとめモンゴルに渡った三島海雲が「乳酸菌」と出会ったのと同じように、馬を求めて都井岬にいった今西錦司はサルに出会い、運命が大きく変わったのである。

今西錦司に似て、裕福な家に生まれモンゴルを1つのフィールドワークとした学者がいる。
鳥居龍蔵は1870年、現在の徳島県徳島市東船場町で、煙草問屋の次男として生まれた。実家は裕福であったが、学校ぎらいで小学校入学当初は逃げ回ってばかりだった。
鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方がよほど優っていると思っていたという。
発見された鳥居の履歴書によれば、「尋常小学は寺町(現新町)小学校ニテ学修、高等は中途ニテ退学」と記載押印されている。
中学校の教師の教えを受けながら、独学で人類学を学んでいる。
「人類学雑誌」の購読者となったことが縁で東京帝国大学の人類学教室と関係を持ち、1894年には「標本整理係」として坪井正五郎の人類学教室に入る。
東京遊学を言い出した鳥居に両親はしぶしぶ賛成するが、結局煙草屋は廃業し、両親とともに上京して貧乏生活を送ることとなった。
鳥居は国内では徳島をはじめ、四国各地、後、東京帝大在職中も、日本各地の「フィールド・ワーク」を行い、その度に展示会・講演会を開催、人類学・考古学の普及に努めた。
そして1895年の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を調査した。中でも満州・蒙古の調査は、鳥居と彼の家族の「ライフワーク」ともいえ、たびたび家族を同伴して訪れている。
現在のような飛行機の便はなく、船・車・馬を利用し、鳥居は25歳から67歳に至るまで、幾度となく東アジアを中心に調査を行った。
その際、妻のきみ子は現地で鳥居の助手を務めるが、モンゴルにおいて、スパイコード「沈」とよばれたひとりの日本人女性と接点をもつことになる。
日清戦争後の日本は、ヨーロッパで明石元二郎、宇都宮太郎らがロシアの革命勢力に接触し、満州シベリアで石光真清、花田仲之介等が写真館等を営んでロシア軍の動向を探るなど、対露戦に備えた情報収集に力をつくしていた。
こうした情報の渦中に身を投じた日本人女性が河原操子(かわはら・みさこ)である。
操子は、内モンゴルのカラチン王府に教育顧問として赴任、モンゴルの女子教育をはじめる一方で、対ロ情報を収集し、シベリア鉄道爆破作戦の前線基地を用意する使命を担う諜報活動に従事する「沈」として活動する。
河原操子は、1875年に長野県松本の藩儒河原家の一人娘として生れた。
96年に長野県師範学校を卒業、女子高等師範学校に進学したが病のために退学して帰郷し99年に長野県立高等女学校教諭になった。
教師たる道を歩んだのは、幼少より父忠から説き聞かされていた「国家百年の計は教育にあり、国を富ますも、強くするも、根本は教育だ」と、「教育報国」の志を実現するためであった。
この「教育報国」への思いは、「日本と支那とが互に手を握り合わなければ、東洋の平和は得られない」と教えられた父の遺命にうながされ、清国女子教育に従事したいとの強い祈念となっていく。
1900年夏、明治の「女子教育」の指導者下田歌子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のために清国女子教育への宿志を述べ、助勢を嘆願する。
ここに操子は、下田歌子の推薦により、横浜の清国人学校大同学校教師として9月に赴任する。
この赴任は「本邦婦人が支那人の学校に教師となり嚆矢」といわれるものであった。
大同学校での2年近い教師生活の後、操子は上海の「務本(ウーベン)女学堂」に赴任し、女生徒の指導に力をつくした。
この上海行きは、大同学校での操子の働きを通じて、下田によって、教員としての実力以外に日本婦人を代表する覚悟をもって、忍耐力、強固なる意志ず、また万事を円満に処理し得る人期待されていたが、それにふさわしい女教師として認められたことを意味する。
そして、シナを文明に導くために奮闘するうちに、その働きに注目したのが中国公使・内田康哉である。内田はその後、四内閣で外務大臣を務めている。
内田は、対露戦を前に、要衡地モンゴルに「親日勢力」を扶植する尖兵として河原操子をカラチン王府に派遣する。
この派遣は、1902年の日本の「内国勧業博覧会」を視察したカラチン王より、女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請されたがためであった。
操子は、「数千年来眠れる蒙古の覚醒に歩を進めん」という強い思いで、1903年12月に北京を出発し、寒気厳しい北の曠野にあるカラチンへ向かう。
この旅程は、北京からカラチンまでの沿道地図を作成する任をもおびたものであった。
カラチン王府は、操子によって生まれた「毓正(いくせい)女学堂」を支援し、王妹と後宮の侍女、官吏の子女を学ばせた。
操子は、地理、歴史、習字の一部を除き、全教科を担当するとともに、月に数回の啓蒙講演会を開催、モンゴルの生活改善に努めている。
操子は、こうした教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を探る「沈」としての使命を果している。
「沈」河原操子は、ロシア軍への破壊工作をすべく、エニセイ河の鉄橋爆破に向う横川省三らの特別任務班のための前進基地を用意した。
王と王妃は、操子を信頼し、特別任務班のために多くの支援をしてくれた。
しかし1904年3月、北興安嶺をめざした横川らの一行は、破壊工作に失敗、ハルピン刑場の露と散った。
河原操子は、モンゴルの「女子教育」を前述の人類学者・鳥居龍蔵夫人のきみ子に託し、帰国している。
徳島生まれの鳥居きみ子は、上野音楽学校在学中に鳥居龍蔵と結婚。蒙古の女学校で日本人教師を捜していると頼まれて、それを受けて単身モンゴルにむかう。
後から来た東大勤務の夫とモンゴルで生活しながら、教え子から昔話やわらべ唄を採集し、世界的な学者である夫のフィールドワークを手助けした。

三島は1878年に現在の大阪府箕面市の貧乏寺で生まれた。しかし彼は僧侶でありながら寺を継がず、海を渡る。当時、中国大陸は青年たちの夢をかき立てるフロンティアだった。 北京に到着した24歳の三島は、日本語教師となり、清国人に日本語や数学、地理などを教えはじめる。 時代が大きく変転しようとするさなかだった。当時、朝鮮や満州の支配権をめぐって日本はロシアと対立していたのだ。 1904年2月、日露戦争がはじまると日本帝国陸軍の軍馬が不足した。日本からの輸入雑貨を扱う行商会社を立ち上げていた三島は、陸軍から軍馬調達の依頼を受ける。しかし満洲の軍馬は、大倉財閥や三井財閥などが買い占めていた。 いまで言えば、当時の三島は経済力も人脈も持たない1人の若きベンチャー起業家に過ぎない。大手財閥の影響が強い満洲ではとても勝ち目がない。間隙を縫うのが、弱者の戦略のセオリーだ。 では、どこに向かうか。三島が目を付けたのは、地図もなかった大陸の空白地帯。そこが 北京を旅立った三島たちは、ひたすら奥へ、北へと冬のモンゴル高原に馬を走らせた。旅商というよりも、探検に近い旅。大きな成果はえられなかったが、この旅で知り合ったモンゴルの王公や貴族たちとの縁を新たなビジネスに活かしていく。 中国大陸を支配していた清朝は、1840年のアヘン戦争でイギリスに敗れて以来、清仏戦争、日清戦争と立て続けて敗北した。清朝政府は機能不全に陥っていた。モンゴルの治安も悪化した。 三島は土地や民、財産を自らの力で守る必要に迫られたモンゴル王公から武器の買い付けを依頼される。三島は北京とモンゴルを行き来して、手広い商売を営むようになる。 そんな旅のさなか、1つの出会いがあった。現在の中国・内モンゴル自治区ヘシクテン旗を治めるジャンバルジャヴという名の貴族である。 1908年夏、ジャンバルジャヴは三島をヘシクテン旗に招待する。同地はモンゴル高原のなかでもとくに豊かで、1800種類もの植物が茂る。 滋養がある草原で育った家畜から作る乳製品は、味がいいのはもちろん栄養が豊富で北京でも有名だった。この一夏の旅が、日本初の乳酸菌飲料誕生の原体験となった。 三島は、医師からは長くは生きられないと宣告されるほど、病弱な少年だった。大人になっても不眠や頭痛に悩まされた。そんな三島は、元朝時代、ユーラシア全土を支配下に治めたモンゴル遊牧民のたくましさに憧れていたのである。 ジャンバルジャヴ家の食卓には、モンゴル遊牧民のソウルフードと言える乳製品が並んでいた。その1つが絞りたての牛乳から作ったジョウヒと呼ばれる乳製品だ。 牛乳が発酵すると表面に厚い膜がはる。その膜を掬い取って作る乳製品である。そのジョウヒを口に入れた瞬間、三島は直感した。これだ、これが、モンゴル人の活力の源だった、と。 2016年、三島の旅路を追うなかで私も内モンゴルに赴き、遊牧民たちと交流した。そこで100年前と同じ製法で作られたジョウヒを味わった。 口に運ぶと予想に反して酸味はなく、淡泊でクセのないまろやかな口当たり。味も食感も生クリームに近い。よくいえば、上品。しかし、特徴がないとも言えた。 その反応をみた遊牧民は、「そうじゃないんだ」とばかりにジョウヒの入った椀を私から取り、砂糖と煎った粟を入れ、豪快に掻き混ぜた。するとまるで味が変わった。 甘みが増し、粟の歯ごたえが絶妙なアクセントにもなる。素朴ながらも味わい深いスイーツに一変した。三島も雑誌のインタビューで、はじめて食べた乳製品(おそらくジョウヒ)に砂糖を混ぜたと語っている。私は「初恋の味」の原点にようやく辿り着いた思いがした。 乳製品を食べ続けた三島は、不眠と頭痛が治り、体調がよくなったと実感する。そして、この未知なる味をいつか日本人にも味わってもらいたいと考えるようになる。 さて、清朝崩壊の影響で事業継続が困難になった三島が帰国したのは1915年。無一文になった三島は、モンゴル乳製品の商品化に取りかかる。 そして4年間の試行錯誤の末、1919年の7月7日にカルピスが誕生する。それは、青春を賭けた冒険と遊牧民との親交が生んだ、三島の分身ともいえる商品となる。 経営の柱をカルピスに定めた三島は、経営の多角化、多商品化を好まずに一社一品主義を貫いた。また彼は日本一主義という経営手法を掲げた。 何かを決断するときはその道の第一人者にアドバイスを仰ぐというシンプルかつ、効率的な仕事の流儀である。 たとえば、カルピス命名を巡るエピソードだ。当初、三島はカルピスではなく「カルピル」という名で売りだそうと考えていた。 「カルピル」のカルはカルシウムの「カル」、「ピル」は仏教の言葉で最高の教えを意味するサルピルマンダ。しかしカルピルではどうにも歯切れが悪い。そこで、カルピスはどうかと思い立つ。   意見を求めたのが、「あかとんぼ」の作曲家の山田耕筰だった。「カルピスは響きがいい。音声学的に見てもいいですよ」とのお墨付きをえる。 またカルピスの試作品を親しく付き合っていた与謝野鉄幹、晶子夫妻や、岡本一平、かの子夫妻、その子どもでのちに芸術家となる岡本太郎らに試飲してもらって、アドバイスをもらっている。 与謝野晶子からは<カルピスは 奇しき力を 人に置く 新しき世の 健康のため>という一首を授かり、また岡本太郎は、のちにカルピスをモチーフとする壁画まで制作している。 なぜ、日本を代表する人物たちがこぞって三島に力を貸したのか。おそらく三島の壮大な生き方に魅せられ、そして純粋な思いに賛同したからだろう。 三島がカルピスに託した思いがある。それが、国民の健康と幸せだ。その強い思いは「願い」や「祈り」と呼んでもいい。 その原点は、自身の闘病経験だけではない。帰国後、三島は2人の娘を若くして亡くしている。その無念の体験が、健康と幸せへの思いをより強くした。 国利民福――。企業は国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、そして幸せにしなければならないという三島が辿り着いた理念である。 三島が96年の人生の大往生を遂げたのは、1974年。それから44年の歳月が流れている。 2000年代の派遣労働の規制緩和がきっかけとなり、正社員の割合が大幅に減り、派遣社員の割合が増えていった。あらわになった格差は、どんどん広がり、手の施しようがない。それは他人事ではなかった。超氷河期時代に大学を卒業して、フリーライターという職を選んだ私も、不安な日々を生きてきた。 見えない将来の展望、あまりにも広がった格差のせいで、日本人から他者を思いやり、社会をかえりみる余裕を奪ってしまったように見える。自分を優先しなければ、競争を生き抜けない。 こんな今だからこそ、三島が訴え、実践してきた国利民福から学べることがあると思うのだ。 カルピス社は、2016年にアサヒ飲料に吸収合併され、企業としての終焉を迎えた。天国の三島は悲しむだろうか。いや、そんなことはないはずだ。 繰り返すが、三島は企業の売上げより、日本人の幸せを祈った。カルピスがいまも愛され、国民の健康を支えているという事実こそ、三島の本望だろうか 博多湾周辺には様々な「歴史遺産」があるが、市民でさえ気づきにくい「秘史」が刻まれている。
「金印」で有名な福岡県志賀島の船着場から海岸伝いに歩くと、小高い丘がありソコに「蒙古塚」がある。
13世紀末、蒙古軍が博多を襲った際 数名の蒙古人の首を日本人が切って埋めたアタリに、昭和の時代(1928年)に「蒙古塚」が立ち、そこで「除幕式」が行われた。
この蒙古塚の「除幕式」に集まった人々は次のような人々であった。
福岡県知事・福岡市長 旧清王朝の人々、川島浪速、 蒙古の騎兵隊などである。
参加予定であった蒙古のカラチン王は突然急病を理由に参加をトリヤメたが、「張作霖の祝辞」がこの式には寄せられて、今その時の内容が蒙古塚横の「石碑」に刻まれてる。
この蒙古塚建立は、鎌倉時代に蒙古襲来を預言した日蓮宗の僧の「発案」によるもらしいが、参加者総数は千人を超え、当時の内閣総理大臣・田中義一「蒙古供養塔」の文字が書かれており、「準国家的式典」でもあった。
ここに集まったモシクハ集まる予定であった「顔ぶれ」を見ると、この「式典」の意図がヨク読み取れる。
その後の満州建国のスロ-ガン「五族協和」のスロ-ガンそのもので、この式典は満州国建国の「先取り」であったとサエいえるものだ。
ちなみに、1931年満州事変、1932年満州建国と続く。
当時、満州は多民族混住の地であり、日本人にとっては朝鮮半島の隣接地域として、将兵10万の血を流して大国ロシアと戦いとったイワバ「生命線」ともなっていた。
1911年辛亥革命によって清朝が滅亡した後、日本の一部に清朝の王族の一人・粛親王をかついで「満蒙独立」の動きがあった。
満蒙独立の真のネライは満蒙における「日本の権益」を中国から切り離して温存しようというものであった。
志賀島における「蒙古供養塔」の除幕式も、「満蒙独立運動」の一環ともみることができる。
日本は当初、中国の北方軍閥で「親日的」な張作霖と手を組んで満蒙独立をしようとしたため、この式典に「張作霖の祝辞」が寄せられているのである。
蒋介石の北伐がはじまると、日本は「中国居留民保護」を名目に、山東半島に日本軍を三度にわたって送り込んでいる。
そして、この「蒙古供養塔」の除幕式は第二次山東出兵直前の1928年3月というタイミングで行われた。
この式典出席予定のモンゴルのカラチン王の妃は、実は清朝・粛親王の妹という「縁」でもあった。
しかし、カラチン王の「病気欠席」も、日本軍の山東出兵に対する「警戒」マタハ「牽制」であったとみることモできる。
そしてこの時読まれた「張作霖の祝辞」は、張作霖が「親日」から「反日」へ転ずるビミョーな時期だったのである。
とすると、志賀島「蒙古塚」脇に立つ「張作霖の祝辞」の石碑は、まさに「歴史の証言」物であり、もう少し注目を浴びてヨサソウなものである。
ちなみにこの「除幕式」の3ヶ月後、反日に転じた張作霖は満蒙独立の「障害」となった為に、関東軍・河本大作大佐らによる「張作霖爆殺事件」が起きている。
このことを天皇に追求された田中義一は、翌年内閣ともども総辞職に追い込まれている。