移動する神殿

日本のモノつくりの原点に、江戸時代以来の「からくり」があるということは別稿にも書いた。
その「からくり」の源流を探る時、弥生時代の高床式倉庫にみられる「校倉造](あぜくらづくり)」などはどうであろうか。
この仕組みは正倉院の構造にも生かされているが、湿気と乾燥の木の伸縮の差を用いて、微妙に隙間ができて風を通したり、隙間が閉じて湿気を防いだりする「からくり」そのものだ。
また平安時代に、仏像を「一木作」りから、「寄木作り」としたことも思い浮かぶ。
プラモデルならぬモクモデルとして部分を組み合わせながら仏像を作ったことは、様々な木々を接合させる技術を生んだことであろう。
これは、浄土信仰の普及により、仏像の大量生産を可能にしたもので、「からくり」の源流の一つであるように思う。
また、湿気の多い日本では金属が腐食するため、宮大工が「釘を使わず」楔(くさび)による接合を行ったことも、木造建築を「永続的」に維持させる工夫のひとつである。
世界最古の木造建築・法隆寺が実在するのは、そうした木造建築の粋が集中しているからに違いない。
ところが、この「永続性」のコンセプトと少々趣が異なるのが、伊勢神宮の「式年遷宮」である。
20年に1度、隣接する場所に建物を建て替えるという発想は一体なんの為に、またどこから生まれたのか。
それが宮大工の技術の維持に繋がったとしても、それは結果であって、目的ではない。
きっと「遷宮」には、何かモデルとなったものがあるにちがいない。
そんなことを思いながら、2015年の「草の船」のニュースを聞くうち、閃くところがあった。
2015年、国立科学博物館などのグループが当時を想像して「草の舟」を作り、およそ3万年前人類はどのように今の台湾から沖縄に渡ったのかを検証しようとした。
目的地の西表島を目指したものの舟は潮に流され、伴走船に引かれることになったのだが、個人的には検証の結果よりも、このグループのリーダーの「海部陽介」とい名前に目が留まった。
実は、海部氏は伊勢神宮のルーツにあたる京都丹後の「籠(こも)神社」の創立者で、さらに伊勢神宮(三重県)と熱田神宮(愛知県)の代々宮司である。
両神社は伊勢湾を挟んで向かい合う場所に位置するが、いずれも日本の皇室の「三種の神器」のうちのひとつが収められていることに注目したい。
現在では、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されているが、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は熱田神宮に、「八咫鏡(やたのかがみ)」は伊勢神宮の皇大神宮に、それぞれ神体として奉斎されている。
したがって、海部氏は「三種の神器」の実質的な守護者といってもよい存在なのだ。
籠神社の現神主は、初代から海部氏としての血脈を嗣ぎ、82代目。また、愛知県で代々熱田神宮の宮司を務めている尾張氏は、海部氏から分家した一族である。(反対に、尾張氏から分家したのが海部氏という説もある)。
日本と同じように「三種の神器」が王室のシンボルとなっている国がある。
それが古代イスラエル(ヘブライ王国)で、ヘブライ王国では王家のシンボル(十戒の石板/マナの入った壷/アロンの杖)がそれである。
この三種の神器は、契約の箱に収められ、ソロモン王が建てた神殿の至聖所に置かれていたが、「出エジプト」の時のようにイスラエル人が移動する時は、「契約の箱」を担いで運んだ。
その「契約の箱」を運ぶ姿は、日本の神輿かつぎによく似ていることなどから、古代イスラエルと日本の皇室に何らかの繋がりがあるのではないかという思いにかられる。
また、伊勢神宮とイスラエルの神殿(幕屋=移動神殿)は、構造が実によく似ているのである。
古代イスラエルの人々は、エルサレムに神殿がつくられる前には「幕屋」でヤハウェの神を礼拝をしていた。
紀元前10世紀頃、イスラエルは、出エジプト後、モーセに導かれてシナイの荒野をさすらいながら、各宿営地に「幕屋」を設営して神を拝したのである。
イスラエル人は、故郷カナーンの地を目指したが、時々に食糧がなくなり神が「朝露」のごとき食糧を降らせた。
そしてこの朝露のような食べ物が「マナ」とよばれ、イスラエル王の「三種の神器」のひとつとなっている。
また、神にモーセは「エジプトの王パロにイスラエルを去らせよと伝えよ」と命じられるが、それを拒否するエジプト王パロの前で様々な不思議を行った杖が「三種の神器」のひとつアロンの杖である。
さらにモーセがシナイ山で「十戒」を与えられえ、その「十戒」が刻まれた二枚の石板も、「三種の神器」のひとつとなっている。
神がモーセに与えたものは、この「十戒」ばかりではなく、幕屋のいわゆる「設計図」をも示したのである。
それは「出エジプト」26章に詳しく書いてあるが、新約聖書には次のようにまとめて書かれている。
「まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後ろに、別の場所があり、至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。」(ヘブル9章)。
そしてヘブライ王国(古代イスラエル王国)のソロモン王の時代に「神殿」がつくられたため、「幕屋」の時代が終わるが、神殿の構造も基本的に「幕屋」と同一である。
要するに「幕屋」とは、神と人が出会う場所であり、「会見の幕屋」ともよばれていた。
荒野を流離うイスラエル人にとって「幕屋」は、キャンプする際の生活の中心となり、ここで祭司や大祭司が神に仕え「聖所」にて、「犠牲」の動物を屠ったのである。
神はモーセに、集団の維持に必要な様々な「能力」についても、次のように命じている。
「見よ、主はユダヤの部族に属するホルの子なうウリの子ベザレルを名指しで召し、彼に神の霊を満たして、智恵と悟りと知識と諸種の工作に長じせしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせ」(出エジプト35章)とある。
このベザレルという人は「神の霊によって」様々な工夫を凝らす「能力」を与えられている。
ところで日本伝統の技術の粋を集めたのが伊勢神宮である。
内宮入り口の鳥居は直径70センチのヒノキが使われており、その高さと大きさに圧倒される。
内宮の正宮では、御稲御倉という建物があり「板倉つくり」という特殊なつくりでできている。
単純に板壁の倉ではなく、四辺の柱に溝を彫りそこに下から何枚もの板をはめ込んでいる。
これにより「横揺れ」のエネルギーを縦に分散する仕掛けになっている。
また「板倉つくり」では、柱の上に奇妙な空間がある。ちょっと見では設計ミスかと思われがちだが、ある計算の上でその空間を設けているのである。
木は長い時間がたてば水分がぬけ縮んでしまうため、その分屋根が下がってくることを計算しているのだ。
長く時間を経ると、屋根全体が下がってこの空間が少しづつ狭くなっているのに気がつく。
さらには、たくさんの宝物を収める伊勢神宮では、木の特性を生かし室内を最適な状態にするような工夫がなされている。
ところで遥か遠い日本とイスラエルとの間にどんな繋がりがありうるのか。
古代イスラエルは、ローマ帝国の攻撃によりAD70年に離散し、以後イスラエル12部族のうち10部族は「契約の箱」と共に行方不明で、その移動の痕跡はシルクロードに残存している。
そのシルロードの終点が奈良の正倉院で、京都「平安京」はエルサレムと同じ意味で、琵琶湖の「琵琶」は、イスラエルの「がリラヤ湖」のふるい名前「キネレテ湖」と一致している。
その他、両者の類似性を示すものは数々あるが、その点については別稿で紹介している。
イスラエルが船で日本に渡り、現在行方不明中の「契約の箱」を隠した可能性はないかと考えたとき、自然に「元伊勢」ともよばれる丹後半島の「籠神社」を創立した人々、すなわち「海部族」に注目することとなった。
なにしろイスラエルの神殿(幕屋)と非常に似た形をした建造物を建て、日本の皇室のシンボル、「三種の神器」のうち二つの守護者なのだから。
また、「海部」という名前からしても海を渡ってきた人々であることが推測できる。

2013年、ついに「式年遷宮」の年がやってきた。実は、個人的に「この時」を待っていた。
古代イスラエルの「幕屋」は宿営地の移動とともに建て直すのだから、イスラエルでは「神様のひっこし」が頻繁も行われたということである。
要するに幕屋は「移動式神殿」ということができるが、伊勢の「式年遷宮」に注目したのは、その「段取り」がイスラエルと似ているのではないのかと推測したからである。
個人的に、「式年遷宮」を映すテレビの画面に見入ってたのは、両者にどれくらいの共通点が見出されるかということに注目したからだ。
幸いにも、古代イスラエルの「神様のひっこし」の段取りは旧約聖書「民数記4章」に詳細に書いてある。それによると、「幕屋移動」の際には祭司・アロン(モーセの叔父)の家系の祭司たちが「解体」して包み、幕屋に仕えるレビ族が「運搬」の任にあたった。
そしてレビ族には三つの氏族があり、それぞの「分担」が決まっていた。
まず祭司アロンの子たちがいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをもって「契約の箱」をおおい、その上にじゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にサオをさし入れる。
また「供え」のパンの机の上には、青色の布をうちかけ、その上に皿・乳香を盛る杯・鉢および灌祭の瓶を並べる。また、金の祭壇の上に青色の布をうちかけ、じゅごんの皮でこれをおおい、そのサオをさし入れる。こうして「宿営の進む時」つまり「神様のひっこし」に関わる人数は8580人にも達したという。
そして、この「担ぎ棒」を通して運ぶというやりかた、そして布で器具を覆って見えないようにしている仕方など、テレビ画面でみた伊勢神宮の「式年遷宮」と実によく似ていた。
また、移動式神殿なら釘などで固定しないほうがよい。「木組み」を多用し釘を使うのを嫌った日本の宮大工の方式に通じないだろうか。
2013年10月5日夜、伊勢神宮で「遷御の儀(せんぎょのぎ)」が行われたが、これこそが「式年遷宮」のクライマックスで、「ご神体」を新しい社殿に移すものである。
「ご神体」を別の場所に移すといっても、ご神体を移す先の建物は、それまでの建物のすぐ隣にある建物である。
ただ、器物を移動するに際して、伊勢の場合は「白布」で覆っていたが、イスラエルの場合は「青紫の布」で覆ったという違いがある。
伊勢神宮では、内宮と外宮の建物をはじめ、鳥居などを新しく造り替えることになっていて、その数は65棟に及ぶ。
したがって、相当な人々がこの仕事に関わることになる。
樹齢およそ200年のヒノキ1万本が必要で、昔は周辺の森から「切り出し」ていたが、現在は長野県と岐阜県にまたがる山林で大半を「調達」している。古い建物は遷宮が終わった後、解体されて更地になる。解体した建物の柱などは、境内の鳥居に再利用されたり、各地の神社に配られるという。
福岡では、糸島市の桜井神社がそれを受けている。

愛知県には、県の西部に「海部郡」という地域がある。つまり丹後半島あたりからやってきた海部族の人々が住み着いたためにこの名がついたが、彼らの中には、籠神社や伊勢神宮を創立した人々であるから神社建築に携わった人々も数多くいたにちがいない。
したがって熱田神宮の建築にも海部族の人々が関わったことは間違いなく、愛知県から「からくり」が生まれるのも、自然の成り行きであったともいえる。
彼らが、イスラエルの幕屋つまり移動式神殿に関わった人々であったらなおさらであるが、それについては確証はなく、推測にすぎないが。
海部氏が代々宮司を務めた熱田神宮は尾張大地の南端に位置する。江戸時代、名古屋は豊富な木材を活かして尾張仏壇や尾張箪笥などの 木工業が盛んで、この地域特有の山車からくりも木工技術から発展して花開いた。
現在の山車の原形ともいえる山車が登場するのは1620年、名古屋の東照宮祭りにおいてであるが、現在は熱田神宮には高さ22mの「からくり人形」山車が登場する。
愛知で、「からくり人形」の名手として知られる初代玉屋庄兵衛が名古屋に来る以前から、山車やからくり人形が存在したことは注目に値する。
江戸時代より「からくり興行」というものが行われ、そこから「人形浄瑠璃」が生まれていく。
「からくり人形」の制作者といえば、福岡県・久留米に田中義右衛門が有名だが、本名は田中久重で、二代目の田中久重が東京の銀座に東芝の前身となる会社を設立した。
そして近代に至って「からくり」の伝統を実用に生かしたのが、豊田織機を創業した豊田佐吉である。
佐吉は、1867年、現在の静岡県湖西市に生まれた。 1890年、佐吉は、東京・上野で行われた「第三回内国勧業博覧会」で最新機械に衝撃を受け、その年の秋、佐吉の最初の発明となる「豊田式木製人力織機」を完成する。
その2年後に佐吉は、自ら発明した豊田式木製人力織機数台の小さな織布工場を現動力織機の発明に一心不乱に取り組み、1896年、日本で最初の動力織機である木鉄混製の豊田式汽力織機(豊田式木鉄混製動力織機)を完成する。
1903年、機械を止めずによこ糸を自動的に補充する最初の自働杼換(愛知)装置を発明し、それを装備した世界初の無停止杼換式自動織機(豊田式鉄製自動織機(T式))を製作した。
そして、1907年、「豊田式織機株式会社」(現、豊和工業株式会社)が設立された。
というわけで、福岡の「からくり精神」は、後の東芝に連なる会社を生み、愛知の「からくり精神」は、後のトヨタという現在の世界トップ企業の中に生かされている。
そして、日本の皇室のシンボル「三種の神器」という言葉は、日本の「大量生産/大量消費」のシンボルとなった。
1950年代の「三種の神器」といえば、「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」で、1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、「カラーテレビ」「クーラー 」「自動車」の3種類の耐久消費財が新「三種の神器」として喧伝された。
皇室の「三種の神器」が、東芝やトヨタが大きなシェアを占める「耐久消費財」に適用されたのも興味深いところだが、「移動する神殿(もしくは幕屋もしくは山車)」に伴って出現した「からくり」の原点に、海部氏の存在があると推測する。
そして奇しくも、昭和が平成へと変わった1989年、内閣総理大臣に就任したのが、愛知県出身の海部俊樹であった。
海部首相が日本国憲法下での初めての行事となる平成天皇即位の礼・大嘗祭などをそつなくこなした1990年、バブル経済も終焉を迎えた。