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忘れがたきBGM

1969年 東大安田講堂において高く放物線を描く放水と、火炎瓶の煙。
その激しい攻防の末に安田講堂は落城へと至るが、バックにこの年にヒットした曲「夜明けのスキャット」が流れていた。
由紀さおりの「ルールルルー」の透き通った声が静かに語りかける。
後に海外でも高く評価された歌声だが、合いそうもない映像と音楽(BGM)とのこの不思議な「調和」は何なのだろう。
「言葉がない」歌詞というのは、それぞれの時代のへ思いが聞き手にすべて委ねられるということも、その理由のひとつであろう。
その自由度でいえば、森山良子の「サトウキビ畑の歌」の「ざわわ ざわわ ざわわ」にも似ているかもしれない。
だがもっと重要なことは、言葉なきメロディの中に、はからずも世代間の「断裂」が表現されていたからではなかろうか。
そう思うようになったのは、「もうひとつの場面」と出会って以来のことだ。
2001年の911テロで世界貿易センターの崩落が起きた。その衝撃の場面をみながら、不謹慎ながら、サイモンとガーファンクルの「サウンド オブ サイレンス」の歌詞が、脳裏に浮かんだ。
旧約聖書の「創世記」に、天にまで届く塔をたてようとした人間に対して、神は「人が思いはかることはよろしくない」と、人々の言葉を乱したとある。
言葉を乱すということは、その思考回路までも乱したということだろうが、「バベルの塔」という言葉は、人間の不遜ばかりではなく、人間のコミュニケーションの「断絶」を意味する言葉なのだ。
そして、「サウンド オブ サイレンス」は直訳すれば「沈黙の音」で、こんな一節がある。
「その光の中で僕が見たのは1万人 たぶんそれ以上の人々/みんな しゃべってはいるけど会話はしていない/みんな 聴いてはいるけど聞いてはいない/みんな 誰に聴かせるでもない歌を書いている/そして 誰もこの"静寂"を妨げない 」。
さて911テロの10年後の2011年の9月11日、追悼式のニュースを聞いて個人的に驚いたことがあった。
式典でポール・サイモンが「サウンド・オブ・サイレンス」を歌ったというのだ。
それも、ポール・サイモンは当初、「明日にかける橋」を歌う予定だったが、急遽「サウンド オブ サイレンス」に変えたのだという。
推測だが、ポール・サイモンが世界貿易センターの「グラウンドゼロ」に立った時、「明日にかける橋」の親和感よりも、「サウンド オブ サイレンス」の断裂感の方がこの場にはよく似合うと、咄嗟の判断をしたのではなかろうか。
実際に、ポール・サイモンがギター一本で静かに歌い終えると、少なからぬ遺族たちが「あの曲こそがベストだった」と語ったという。

TV番組「ウルトラマン」の脚本家は金城哲夫(きんじょうてつお)という人物である。
金城哲夫は、1938年生まれ。沖縄県島尻郡南風原(はえばる)町出身だで、金城が手がけた「ウルトラマン」は、金城が幼き日に体験した「沖縄戦」の戦中・戦後の記憶を色濃く映している。
金城の母は1945年3月、南風原の自宅で米軍の機銃掃射に逢い左足を失っている。6歳の金城は母を残し、砲弾をくぐって山中に逃れた。
戦火に追われた沖縄の住人の中には、数多くの者たちが日本軍の「聖戦」の犠牲となった。
そのため金城は主人公たるウルトラマンの「敵」たる怪獣や異性人を、一方的な「悪」として描くようなことはしなかった。
そしてウルトラマンによって、建物や国土を破壊する怪獣や異星人を抹殺するのではなく、宇宙に送り帰した。
その「ウルトラマンシリーズ」は高度成長期の真只中の1960年代の後半に大ヒットした。
その一方で金城らはブラウン管の外の「現実」に苦悩を深めていった。
故郷の米軍基地からは連日、ベトナムの空爆機が飛び立ち、反基地運動と安保闘争が全国で激化していた。
さらには、日本周辺の海域がヘドロの海と化し、公害問題が表面化していた。
1972年に沖縄返還(祖国復帰)が実現したものの、沖縄の住民が求めていた「本土並み」返還は実現しなかった。つまり、沖縄の米軍基地はそのまま残留したのである。
ウルトラマンやセブンが地球を無償で守る構図は、安保体制化で米国と日本、さらには本土と沖縄との姿が下敷きとなっていた。
米国や祖国の正義と善意への無条件の信頼が崩れたとき、金城らはこれ以上書き進めることができなくなってきた。
そんな金城らの気持ちが反映されたかのように、これまで順調に視聴率を上げてきた「ウルトラマンシリーズ」は、1968年以降低迷し、スポンサーからの支持はえられず早期打ち切りとなった。
円谷プロは経営状態の悪化に伴い大幅なリストラを敢行し、金城らがいた「文芸部」も廃止された。
そして金城はシナリオライターではなくプロデューサーに専念することを迫られたため、1969年これを機に金城は「円谷プロ」を退社する。
ウルトラマンから離れた金城は、沖縄で復帰を迎え本土と沖縄との「架け橋」になりたいという思いを抱いて故郷へ戻った。
そしてラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出などで活躍し、1975年開催の「沖縄海洋国際博」の演出を引き受けた。
金城は、これを沖縄を発信する好機会と捉えたが、漁師らから「本土の回し者」とナジられた。
地元では、海洋博は環境破壊と批判されていただけに、金城は沖縄と本土との間で引き裂かれて、酒量はしだいに増えていった。
1976年2月23日、泥酔した状態で自宅2階の仕事場へ直接入ろうと足を滑らせ転落。直ちに病院に搬送されたが、3日後に脳挫傷のために、37歳の若さで亡くなっている。
ところで「ゴジラ生誕60年」にあたる2014年には、ゴジラにまつわる様々な特集が組まれた。
東宝映画で「ゴジラ」企画は前からあったが、1954年版「ゴジラ」は、この第五福竜丸事件に着想を得ている。
そして1954年11月にオリジナル版が完成した。
ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被爆したのが1954年3月で、オリジナル版「ゴジラ誕生」の年にあたる。
そしてこの年、放射能汚染は日本の台所にまで追し寄せていた。
マグロ漁船第五福竜丸140トンは、筒井船長以下23名の乗組員を乗せ、一路中部太平洋のマグロ漁場へとむかっていた。
不漁のミッドウエー海域から南西に方向を転じた第五福竜丸は、3月1日未明、マ-シャル群島の東北海上にあって操業にはいった。
その時乗組員達は海上に白く巨大な太陽が西から上るのをみた。
数分後、昼の最中に夜のような暗さが周囲をおおった。
そして生暖かくて強い風が吹きつけ船体を激しく揺らした。
船員達は突然の異変を訝しみながらも 誰とは知れず原水爆の実験ではないかと言った。
無線で助けをよぼうともした。しかし、傍受したアメリカ軍に撃沈される危険があると判断。
彼らはあわてて操業を中止し、母港静岡県焼津港に向かったが、帰港の途上、彼らはすでに原爆症の初期症状が現れていた。
帰港した際、福竜丸の船体にも船員達には疲弊の色濃く滲んでいた。
そして船員達は隔離され検査をうけ、多くの船員は依然体調不良を訴えたが回復していった。
しかし、無線長である久保山愛吉がついに回復することなく死亡する。
実は、ゴジラの着想は、久保山さんの死から2ヵ月後のことであったという。
、 また新聞において、1954年版「ゴジラ」の制作指揮をとった円谷英二チームの二人の人物のことが紹介されていた。
一人は福岡県古賀市出身で、ゴジラ特撮シーンでデザイン担当の井上泰幸で、もう一人は、北海道出身でゴジラの音楽担当の伊福部昭である。
そして、ウルトラマン生み出した金城哲夫と、同じく円谷監督作品である「ゴジラ」のバックミュージックを生んだ伊福部昭のそれとが重なり合うのを感じた。
伊福部氏の音楽は、日本の音楽らしさを追求した「民族主義的」な力強さが特徴で、それは氏が作曲した「ゴジラのテーマ曲」にもよくあらわている。
伊福部の名言に「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」や「香水は物凄く臭いものから作られる」などがある。
伊福部は音楽をほぼ独力で学んだというが、その風変わりな姓の由来とともに、そのルーツに興味を抱いた。
1914年、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の息子として生まれた。
小学生の時、父が「河東郡音更村」の村長となっため、音更村に移るが、ここでアイヌの人々と接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。
伊福部に代表作の一つ、「シンフォニア・タプカーラ」(1954年)は、この時のアイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。
中学入学後、絵や音楽に関心を持ち、バイオリンを独学で始め、本格的に作曲も始めた。
18歳で北海道帝国大学農学部林学実科に入学し、文武会管絃学部のコンサートマスターとなり、さらに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成し、「国際現代音楽祭」と称して、時代の最先端を行く作品を演奏・紹介した。
大学を卒業後に、北海道庁の厚岸森林事務所に勤務するが、アメリカの指揮者の依頼により作曲した「日本狂詩曲」(1935年)をパリで行われた或るコンクールへと送った。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため、伊福部の楽譜も東京へ届けられた、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、否定的評価を下していた。
西洋音楽の和声の禁則を無視し日本の伝統音楽のような節回しが多いこと、極端な大編成であるオーケストラが要求されること、さらには北海道の厚岸町から応募したなどが背景にあった。
そして、正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だからという理由で、伊福部の曲を応募からはずそうという意見サエも出たという。
しかしフタをあけて見ると、伊福部が第1位に入賞し「世界的評価」を得ることとなる。
また、円谷が福島原発近くで生まれたことと等しく、伊福部が「放射線の研究」に携わっていたのも「奇遇」といってよい。
伊福部は31歳のとき、林野局林業試験場に戦時科学研究員として勤務し、放射線による航空機用木材強化の研究に携わったことがある。
当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた。
終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われただけだったと述懐している。
終戦後に自宅で療養しなんとか健康を回復し、その後東京音楽学校(現東京藝術大学)に作曲科講師として招聘された。
また1947年、33歳のとき、東宝プロデューサーから依頼され映画音楽を担当するようになった。
そして伊福部は、ゴジラのテーマ音楽を担当するが、円谷英二との出会いについて次のように書いている。
撮影所そばの小料理屋の二階で俳優と酒を飲んでいると、途中から入ってきた男が「また貰い酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらっていた。
互いに、名前も名乗らぬままだったが、酒に酔いつつ談笑延々大飲した。
伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたが、その男と妙に気が合い、たびたび会っては酒をおごらされた。
この男こそ特技監督の円谷英二で、当時公職追放中の身だったのである。
のちに映画「ゴジラ」の制作発表の現場でバッタリ再会し、二人とも初めて相手の名前を知ったという。
ところで、「伊福部」といえば、古代因幡国の有力な豪族として知られ、因幡国造に任ぜられたとの伝承をもつ家柄である。
現在の鳥取県の宇倍神社の神職は、古来より明治の初めまで伊福部家が務めていた。
その職務や名の由来として、笛を吹く部、天皇の御前の煮炊きをする職などいくつかの説があり、“気を変化させる力”を持ち「気をつむじ風に変化させるが故に気吹部の性を賜った」というのである。
「ゴジラ」のテーマ曲を作るのにいかにも相応しい家柄といえる。
この伊福部家の子孫が北海道で「アイヌ文化」と接して、独自の「音楽」をうみだしたのである。

黒澤明は、完全主義者だけあって自分の作品の中での音楽にもかなりこだわりを持っていた。
そのため音楽を担当した作曲家とケンカ別れということもあった。
例えば「乱」の武満徹や、「用心棒」の佐藤勝とも、ある段階で考え方違いから降板している。
黒澤の音楽家への注文は、「この場面には○○風の曲を付けてほしい」という言い方だったという。
個人的には、「羅生門」のバックミュージックはすっかりラヴェルの曲「ボレロ」とばかりに思い込んでいたら、「ボレロ風」に編曲したものだという。
しかし、よくも「著作権問題」にならなかったものだ。
その「ボレロ風」のBGMを制作したのが早坂文雄で、早坂は「ゴジラ」で有名な伊福部昭と共に活動をしたこともあるという。
早坂は若いうちに亡くなるが、早坂の弟子が前述の佐藤勝である。
早坂が黒澤とのコンビで作曲したのが、1948年の「酔いどれ天使」から55年の「生きものの記録」まで全部で8作を組んでいる。
そしてなんといっても、黒澤の名を世界に印象づけた2作品「七人の侍」と「羅城門」を担当している。
黒澤明監督の映画「羅生門」は、芥川龍之介の小説「羅生門」ではなく「藪の中」を素材にして制作されたものである。
平安時代、京の郊外で起こった一つの殺人事件をめぐって、盗賊、殺された侍の霊を代弁する巫女、侍の妻、目撃者の樵(きこり)のそれぞれが証言するが、同じ一つの事件について四つの物語を都合よく語るのが、シンプルかつ面白かった。
黒澤は「早阪に対して、最も重要な場面である真砂(京マチ子)の証言の場面で、黒澤は「ボレロ風の音楽を」と注文した。
映画のなかで、証言しながら煩悶が高まっていく真砂の様子を強調する「演出効果」として重要なものであった。
そして、早坂による「ボレロ風」の音楽は、場面の時間にして約10分。ラヴェルが繰り返しの中で描いた「熱狂」とは一味ちがって、怨みや悲しみや憤りといったドロドロとした表情すら浮き上がってきそうなほど「情念」が込められていた。
その点、伊福部の「日本的土俗性」と共通している。
「羅生門」は日本国内での評価はいまひとつであったが、翌年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞やアカデミー賞の名誉賞(外国語映画賞)などを受賞するなどして、「世界のクロサワ」への第一歩としての作品となった。
ちなみに今年のカンヌ映画祭で最高賞であるパルム・ドールを受賞したのが「万引き家族」である。音楽は細野晴臣が担当している。

さらに、第五福竜丸の帰港後、焼津より水揚げされた魚に放射能が発見された。
そして、原水爆禁止運動の萌芽が意外なところから芽吹いていった。
運動の中心となったのは放射能に汚染された魚が食卓に上るのではないかという危惧を抱いた東京杉並区の主婦達であった。
そして杉並公民館を拠点として原水爆禁止署名運動が広範な広がりをみせ、杉並区議会においても水爆禁止の決議が議決された。
杉並公民館はこうして世界的な原水爆禁止運動の発祥の地となったのである。
かつて杉並公民館があった現在の荻窪体育館の前には奇妙な形をしたオブジェが立っている。
被爆から半年後の9月23日に、久保山愛吉さんは 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との最後の言葉を残して亡くなった。
ところで東宝映画で「ゴジラ」企画は前からあったが、1954年版「ゴジラ」は、この第五福竜丸事件に着想を得ている。
そして1954年11月にオリジナル版が完成した。
久保山さんの死から2ヵ月後のことである。

1954年、いまから60年前に生まれた日本の映画「ゴジラ」が今年、ハリウッドで甦った。
なぜ今時ゴジラか。映画では原因不明の地震で津波が発生し原子力発電所がメルトダウンする。
そしてゴジラが目覚め、アメリカ本土を襲う。
1954年版「ゴジラ」は、ビキニ諸島での水爆実験による放射線で恐竜が変異してゴジラが出現したが、2014年版「ゴジラ」は、どうやら東日本大震災と福島第一原子力発電所事故が下敷になっているようだ。
そして、物悲しく響くゴジラの雄叫びこそが、映画の最大のメッセージといえるかもしれない。
水爆が生んだ巨大怪獣は、いわば「核の申し子」として君臨し続け、日本ではシリーズ全24作の金字塔を打ち立てている。
1998年にアメリカが一度「ゴジラ」を制作したが、ゴジラが単なる爬虫類と化していたたため、いたく失望した。
日本ではゴジラは歌舞伎だという人もいるくらいなのに、あのゴジラには「品格」のカケラさえも感じられなかった。
2014年「ゴジラ・リメイク」を行ったイギリス人監督ギャレス・エドワーズはゴジラに魅了された一人で、1954版に対するリスペクトにより東宝の協力も得て、オリジナルへと「原点回帰」させている。
それにしても、終戦の1945年から10年も満たない段階でのオリジナル作「ゴジラ」制作には、制作スタッフのどんな思いがツマッテいたのだろう。
日本は広島・長崎原爆被爆で世界唯一の被爆国であり、アメリカとソ連はそれ以上の破壊力をもつ水爆実験を競うように行っていた。
以前テレビで、母ザルが自分の子供が死んだことを認識できず、ミイラに近くなるまで抱き続ける場面があったのを思い出す。
ただ、仮にバービー人形が破損して使えなくなったとしても、自宅に3Dプリンタを置いておけば、いとも簡単にその複製を作ることができる。
そして、新しく作ったバービー人形をクラウドAIとつなげれば、人形の性格再生もできる。
ただ、その人形を自分が今まで親しんできた人形と「同一物」とみなせるか、といった問題もある。
また幼児にとって、最高のコミュニケーションの相手は母親であるはずであり、その機会が奪われる可能性がないとはいえない。
実際、少子高齢化、女性の職場進出という方向性は、そうした傾向を助長するかもしれない。
そこで、ナチスがユダヤ人の子供達に行った恐ろしい一つの実験を思い浮かべた。
ユダヤ人の子供達から徹底的に社会性を奪い取ることによって命令通りに殺人を犯す「殺人マシーン」を育てようとしたことだ。
その子供達には普通の子供達以上の栄養を与えながらも、母親には「お面」などをかぶせて生活させ一切の人間的コミュニケーションを排除して食事だけを与えて生活させたのだ。
こうした子育てを行わせた結果、多くの子供は生存することなく死んでいった。
実は人間は、母親が目を合わせる、名前をよぶ、赤ん坊に微笑んだり頬ずりをしたりする、などして広い意味でのコミュニケーションをはかることによってその生命力が維持されているのである。
このエピソードから得られる逆教訓は、「人間生命の社会性」ということである。
つまり人間の生命力という能力ですら、個人の自然性(素質)だけでは育たないということである。
そしてこれは幼児期だけではなく大人になる過程で、個人の自然性に対する周囲の様々な働きかけや物的な刺激によってようやく発達するということである。

間はその存在を堀りさげていった時に、他者との共通の「基盤」みたいなものがあって、その「共有」する部分が 人との交流の中で感情のやりとりや言外の言葉の意味を探ったりする、豊かな情動の部分を形成しているのだと思う。 1951年、ベネチア映画祭で金獅子賞金賞を受賞した黒澤明監督の映画「羅生門」は、芥川龍之介の小説「羅生門」ではなく「藪の中」を素材にして製作されたものである。バックミュ-ジックがボレロであったのが予想外に効果的だった。 平安時代、京の郊外で起こった一つの殺人事件をめぐって、盗賊、殺された侍の霊を代弁する巫女、侍の妻、目撃者の樵(きこり)のそれぞれが証言するが、同じ一つの事件について四つの物語を都合よく語るのが、シンプルかつ面白かった。 この映画は、何か国家間の歴史観の相違による対立を連想させるものがある。 こうした各自ユニークな「物語」は、人間が自らを正当化したり価値あらしめるために多かれ少なかれ誰しもがやっていることではある。 最近、自分のアイデンティティを誰かと共有できるような物語を生みだす「不可視のインフラ」とでもいうべきものが貧弱になりつつあるのではないか、という気がしている。 国民単位で考える時に、人々がその国の成り立ちである「神話」は、「不可視のインフラ」の最も典型的なものである。日本の場合、「古事記」や「日本書記」というと、戦前の軍国主義教育を思い浮かべるために、あまりよい印象をもつことができなくなったが、実はもっと素朴な形で記紀神話の神々は、軍国主義の時代以前から各地の鎮守の森の祭神としていきずいていたのである。 ちなみにローマ人は、その建国の起源をオオカミとしていたのに対し、日本の場合は天照大神としていたのである。「オオカミ」と「オオミカミ」ではえらい違いである。 「不可視のインフラ」つまり目には見えない心のインフラストラクチャーにどれ程の価値あるのかは、目に見えるハ-ドのインフラの価値と比べて、測りがたいのは当然で、ましてその経済価値なんかを問題にしてはいけない。

会話型「バービー人形」の問題を突きつめると、結局その存在が「子供の社会化」にとって「有益か、有害か」につきるように思う。
数年前、NHKの動物番組でマングースの子育てを見ていて、動物の世界での「子育ての社会化」について知った。
マングースの子供達は青年オスに弟子入りして昆虫の捕獲法や食事法を学ぶ。
食事法というのは、固い甲羅の昆虫を後ろむきで股の間から木にうちつけて甲羅を割って食べる方法などである。
母親は寒季が来る前に沢山の子供を育てなければならないので、そうした技術を教える余裕がない。
そこで子供達はこれはと思うオスに「自己アピール」して生きる術を学ぶ。
青年オスに気に入られるように熱意を充分見せたり、可愛らしく振るまわねければ「弟子入り」は認められないのだから厳しい。
母親とは違う他者である存在(青年オス)に自らの「子育て」の一部を子供自身がお願いにあがるのだから大変なことである。
結局「自己アピール力」に欠ける子供は生存できないのだ。
要するに「リアル」な社会で学ぶことこそが大切で、そうした「リアルな世界」と「人形相手の世界」とは随分と開きがある。
経団連による企業アンケートでは、新卒採用で「選考に重視した点」のトップは2017年まで15年連続で「コミュニケーション能力」です。
いまや、「主体性」や「チャレンジ精神」「協調性」より重視されている。
ただ、それがどんな能力なのか、学生も企業も、漠然とイメージしているだけで、言葉が独り歩きしている面もあります。
ただ日本では、「コミュ力」という省略語で若者の間で日常用語化し、本来の意味から離れつつあります。空気をうまく読んだり、雰囲気を巧みになごませたり、テレビ番組のMCのようにうまくその場を仕切って回したりすることができる対人スキル、という理解が広がっているようです。少なくとも企業が学生に求める能力とは違います。
コミュニケーション力が求められる背景には、産業構造の変化とグローバル化がある。
モノづくり中心の経済から、新しいアイデアや知識をベースとする知識基盤社会へ変化するに従い、人間相手のサービス産業が増えました。
変化のスピードも加速し、3年経てば賞味期限が過ぎる専門知識や技術より、新しい知識や情報をうまく取得し、それを生かす力が必要になってきた。
同時にグローバリズムの時代には一国で完結する経済活動は減り、どんなビジネスでも、異なる文化や価値観をもつ相手と意思疎通を図らなければならなくなった。
相手の言い分を正確に理解し、相手にうまく伝える能力こそが重要だ、という考え方が世界的にも広まった。
したがって、企業が求めるのは相手の話をきちんと聞き、それに対する自分の考えを示しながら論理的に話し合う力だからです。
そして、きちんと話す力同様に、コミュニケーション能力の中核として企業が重視するのは、「文章を書く力」です。
依頼や報告、連絡など、あらゆる仕事は「きちんと書く能力」を必要とするからです。
SNS時代で友人に短文で思いを簡単に伝えることには慣れていても、論理的に書く能力は世界的にも低下しているようです。
書く能力は、筋道立てて考える力とも重なるので、今後もコミュニケーション力を支える重要な柱として、求められる。

そしてこの「異国情緒」の街・長崎を形づくった最大の功労者が熊本天草にあった「小山商会」の二人の兄弟といって過言ではない。
そして「小山商会」は、このたび産業遺産として登録される端島(軍艦島)の建築にも関わっている。
幕末、開国に伴って長崎に多くの外国船が入港するようになるという噂が各地へと届くと、多くの天草人出稼者が長崎へと出向いた。
そして、200年以上前から代々天草の御領町大島に住む銀主(ぎんし)と呼ばれる実力者である小山家は、当時、長崎に進出し「国民社(くにたみしゃ)小山商会」を創設している。
小山家の3男として誕生した織部は、幼くして北野家へと養子に出され、長崎開港時は、天草郡赤崎村の庄屋職を務めていた。
一方、秀之進は、小山家11人兄弟の末っ子でありながら、勤勉さと才能を認められた秀之進は、晩年、この歴史ある家を継ぐこととなる。
1858年、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と修好通商条約が結ばれ、翌年、長崎港も自由貿易港として新たに開港された。
開港にあたって各国より外国人の居留場が要望されていた。
そこで長崎奉行によって外国人の活動や居住の場所を提供するために大浦海岸一帯を埋め立てて平地部分を増やし、そこを外国人居留地にあてる方針がとられた。
しかも、イギリスやアメリカの領事からは、日本人で居留地の建設が不可能なら上海に待機中の英米人を呼び寄せ、労働者を連れてきて施工するなどと責め立てられた。
なんとか日本人の手で成し遂げなければと、請負人を募集するがなかなか希望する者がでない。
そこで名乗りを上げたのが、天草郡赤崎村の庄屋、当時50歳の北野織部だった。
そして1859年9月、正式に「大浦御築方御用」を仰せつかっている。
織部の総請負金額の3分の1が長崎会所から前金として手渡され、その金を人夫小屋建設、埋め立て工事専用の沼船建造、人夫賃支払いなど、さしあたっての運用資金にあてた。
織部がはじめに雇い入れたのは、船頭300人、石工、石持、石割、石積み船頭とも30人、陸上土取り場の岡夫70人、つごう400人だった。
また織部は、専用船の建造は小山家のある天草御領村大島が誇る船大工達に発注し、「沼船」300隻を動員させ、はるばる天草から長崎港に「天草石」を積んだ「石船」が入港した。
織部は、沖や波がかりの場所や、カーブなどの主要部分は、天草から運んだ良質の石材を選択し、頑丈に築き上げる。
その結果、この石材を運ぶのに、終的には天草人夫約1000人を要したという。
工事は当初予定よりも伸び、織部は長崎奉行所に再三に渡って完成期日の延期願書を提出した末、1860年10月についに完成した。
織部は、埋め立て工事完成に引き続き、大浦南手、常盤崎の二ヶ所の波止場工事を行ったが、その工法はまさしく「天草石」を用いた天草方式による埋め立てで、人夫はもちろん天草人だった。
北野織部は「長崎開港の父」ともいえ、熊本天草の人と資材を使って「異国情緒」長崎の土台を築き上げた功労者といってよい。

大浦天主堂 は、日仏修好通商条約に基づき、横浜天主堂(1862年完成)に次いで建てられた外国人居留区にたつカトリック教会である。
開港後まもない長崎にフランス人宣教師フューレが派遣されたのは、西坂の丘で殉教した26聖人へ捧げる教会堂を建立するという断固とした目的があった。
1864年、当時この町の土木業界きっての実力者・「小山商会」小山秀之進当時数え年36歳に、その教会堂建設の依頼が舞い込んでくる。
小山秀之進は前述の北部織部の弟で、すでに外国人住宅の施工をいくつも手がけていた。
神父の指導の下、それまでの洋風建築の建設の経験と従来の伝統技術とを結びつけての教会堂建設がはじまった。
この時、小山は兄の織部同様に郷里天草の資材を取り寄せている。
また小山秀之進の心中は、織部と同様に天草人としての恥じない「最高傑作を築き上げてみせる!」という情熱が満ちあふれていたことだろう。
外国人から「コーヤマ」あるいは、「ヒーデノシーン」と呼ばれていた小山秀之進だが、彼が請負った仕事は、長崎会所や外国人居留地関連など公的なものばかりではなく、居留する外国人達の私的な建物にまで及んだ。
長崎随一の観光名所として知られるグラバー園内に現存する洋風住宅で、今は国指定重要文化財となっている旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅といった幕末洋風建築の建設も小山秀之進が携わっている。
さて小山が施行した大浦天主堂は聖堂はゴチック建築様式で1945年8月9日の原爆で中央大祭壇やステンドグラスが大破したが、5年間に及ぶ修理を経て、53年3月、国宝に再指定された。
設計はフューレ神父らプチジャン神父(のち司教)の指揮で1863年着工し、翌年12月29日に完成した。
「信徒発見のサンタマリア像」のほかにも、信徒発見を記念して1866年にフランスから贈られたブロンズの「日本之聖母像」が聖堂入り口にある。
聖堂内にはプチジャン司教の墓碑もある。
小山は、大浦天主堂建設につき、プチジャン神父と行き違う面も多々あり、工事も遅々として進まない期間もあったが、なんとか完成した。
小山は、神父の設計図を元にしながらも壁の下地や小屋組みなど随所に日本的手法を用いた。
大浦天主堂は、純粋な西洋建築ではなく、天草の資本と技術が築き上げた洋風建築といえるだろう。
また、小山が手掛けた木造洋風建築に住む若き貿易商グラバーは、明治に入る頃には、すでに押しも押されもせぬ大貿易商人となっていた。1876年、小山は48歳にして小山家の8代当主の座にすわる。
しかし高島炭鉱開発への関与を境に、小山の輝かしい人生に暗雲が立ち込める。
「グラバー商会」の倒産、高島炭鉱の引退、また端島(軍艦島/当時は「初島」)の石炭発掘に関する日本坑法の制約など。
そしていつしか天草郡御領村大島の小高い丘に建つ小山邸は、借金のカタとなっていた。
その後、天草へと帰った小山は、三角港築港や、熊本三角間鉄道敷設などを手掛け、71歳で他界している。

九州新幹線全線開通に向けた熊本県の事業で、「くまモン」が誕生した。
「くまモンの生みの親」は、放送作家・脚本家 小山薫堂(こやまくんどう)で、この人ひと言でいえば「偶然力」がある人といってよい。
小山によると、もともとキャラクターを作る予定はなく、ロゴ作りをお願いした(デザイン会社の)グッドデザインカンパニーが、おまけで「くまモン」を作ってくれた。
それを熊本県庁の職員に見せたら、とても可愛いと評判になり、県庁内で大好評になった。
それでは、PRキャラクターにしようということで「くまモン」が生まれた。
そして小山のアイデアをベースとして、くまモン自ら名刺を配ったり、関西でいろいろなイベントに出たりして知名度をあげていった。
しかし小山自身もこれほど人気が出るとは思わなかったという。
誕生から3年半、ゆるキャラグランプリでは日本一を獲得し、海外進出までもも果たしている。
その人気について小山は、昔は計算されて、すきのないものがヒットしていたけれど、今は欠点があって人々がそこを「埋めたく」なるようなキャラに人気が集まるのではないかと語っている。
小山薫堂は1964年、熊本県天草市生まれ。日本大在学中にテレビ番組「11PM(イレブンピーエム)」の放送作家としてデビューした。
「料理の鉄人」「カノッサの屈辱」などを手がけ、脚本を担当した映画「おくりびと」は米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
小山の「偶然力」を物語るのが、大学1年生の時に大学の先輩に誘われてラジオ局でアルバイトをすることになり、放送作家の長谷川勝士に出会って人生が動き始めた。
長谷川のニューヨーク取材に誘われ、その旅行で三宅祐司と仲良くなった。
帰国後に三宅さんの番組の打ち上げにもぐりこんだところ、プロデューサーの方から「君は誰?」と聞かれてしどろもどろになっていた。
すると、長谷川が「放送作家なんです。今度、三宅さんの番組を書かせようと思っています」と言ってくれた。
その時、台本の書き方もよくわからなかったのに自分は放送作家になるのかと思ったという。
チャンスを引き寄せる要素のひとつが、先輩がつい教えたくなるような「スキがある」ということだという。
さて、くまモンの風貌を思わせる小山だが、その人生哲学の基本は、いかに楽しく日々を過ごすか、幸せを感じながら生きるかで、周りの人にもそれを感じてもらえたらということだという。
そうした生き方の実践として、小山は友だちや父さん、母さん、先生など、近くにいる人に手作りのプレゼントをあげることを推奨している。
また小山によれば、日本人の最も大きな才能は、こうすればこの人は喜ぶとか、不快に思うとか知ることで、そこから「おもてなし」精神が生まれた。
小山薫堂は、テレビ番組「11PM」を手がけ、ゆるキャラ「くまモン」の生みの親、映画「おくりびと」の脚本家で、「嵐」曲の作詞までして、確かに人を楽しませることを実践してきた人である。
実は小山薫堂、大浦天主堂をはじめとする長崎の「異国情緒」の生みの親・小山秀之進の子孫である。
仮に、長崎を中心とする「キリスト教教会群」が世界記憶遺産に登録されるならば、教会建築に関わった五島出身の鉄川与助、天草出身の小山秀之進の功績が堀り起こされるのは確実である。
加えて、小山秀之進のDNAが生みの親である「くまモン」の世界進出に弾みをつけることになろう。

素直だけれど実はとても頑固、謙虚だけれど大変な自信家、という意外な側面を持ったプレーヤーでした。そして常に、黙って一人でじっと考え、道を切りひらいていました。
北海道日本ハムのGMとして、入団交渉を重ねたとき、同席する本人は質問もしないんです。本当に聞いているのだろうか、と私は不安でした。ところが最後に急に「お世話になります」と言ってきました。キツネにつままれた気分でした。
記者会見で、彼が説明できるのか心配しました。すると、球団と何を話し、どう考えて結論を出したかを理路整然と話しました。私の話をじっくり聞いていたことに初めて気づきました。
二刀流の方針を決めたのは栗山英樹監督ですが、普通は考えられない。でも本人は「大丈夫かな」とこぼしたこともない。会見で「二刀流をやらせるというから興味を持った」と言い切りました。
たいていの選手は、好不調の波の中で、周りからいろいろ助言を受け、混乱するものです。
大谷は自ら助言を求め、「うんうん」と素直に聞くけれど、そのまま実行するのは3割だそうです。
残りの7割は今の自分に必要な方法にアレンジしているみたいだ、と。大谷は誰に何を聞いても、自分の頭で「良い」「悪い」を選別している。
日本一になった後の2017年春、大谷に「メジャー、どうするの」と聞くと、「今年、行きます」と言うんです。「2年後のほうが年俸も上がるし条件もいいんじゃ?」と聞いても「いえ、もう行きます」。
北海道日本ハム関係者はどの球団に行くかも含め、全く相談されませんでした。自分で決めたのです。
子供の頃、お年玉で欲しいものを買うと、余った半額を親に返したそうです。
目的以外のものには全く興味がない。両親にどんな教育をしてきたのか聞くと「何もしていません」という答えでした。怒ったことがないそうです。
日本の歴史上最高のアスリートになれると評価していました。彼の身体能力はケタ違いだったわけです。
ただ大谷をよく知る人であればあるほど、運動能力以上に、彼の素晴らしさを「内面」に見るのです。
身体能力はスポーツ選手だった両親から受け継いだ要素が強いとしたら、彼の思考力や向上心といった内面的な特徴は後天的に身についたと言えます。
ご両親は小さい頃から、彼の好きなように任せ、おおらかに育てましたが、野球の監督だった父は小学校5年ごろまで息子に「野球ノート」をつけさせていました。
毎日試合での反省や課題を書かせ、父親がそれに返答する、言わば野球の「交換日記」です。父は「書くこと」を重視していました。
言葉を書き付けさせ、頭に入力する習慣をつける。彼の考える力の原点にあるのかもしれません。
彼が進んだ花巻東野球部の佐々木洋監督も、「言葉」を重んじる指導者でした。
言葉にはデータや情報、理論を伝えるだけでない要素、「言霊」があると言い、どんなに小さな言葉でも人の人生を左右する力があると考えていました。
そんな監督から大谷が受け取り、自分で長年かけて消化した言葉も多かったと思います。彼が言う「先入観は可能を不可能にする」もそうです。「大谷語録」とも呼ばれる、特徴的な言葉の原型は10代にあるのでしょう。
「頭がいい」と大谷を評する人もいます。「頭がいい」と言うと、ふつう物事を効率よく処理する論理的思考や、リスクとメリットを比較・計算する力など、偏差値秀才的な賢さを想像します。
ところが、彼はむしろその逆です。彼は効率ではなく、「~したい」という自分の中でわき上がる欲求、「内なる声」にシンプルに従うのです。
大谷は今行けば成功できるとか、得だとかを考えてメジャーに行ったのではなく、「行きたいから行った」のです。成功や失敗は、行って初めて経験することで、二の次なのです。
2年後には巨額な大型契約を結べるといった計算にも興味がない。その単純な姿勢は決してブレません。
その意味で、彼は私たちの社会が共有している物差し、価値観からは離れたところにいるのです。子どものときから、言葉を大事にし深く考えることを通じて、彼自身が培ってきた芯の強さでしょう。
大谷選手がヤンキースのような超人気球団でなく、エンゼルスを選んだのを興味深く感じました。
大谷選手は、20以上の球団の中から、「二刀流」に理解があるという理由でエンゼルスを選んだといわれています。「超人気球団」というブランドではなく、自分のやりたいことがしっかりわかっている。自分の価値観を持っている芯の強さを感じます。
米国の大学入試は、学力と並んで志望動機書が重視されます。なぜこの大学で何を学びたいのか、その境地に至るまでのストーリーの有無が合否に影響するのです。
その点でも、大谷選手は、内側からわき出てくるストーリーが明確です。「大リーグで通用する地力をつけるために日本ハムをまず選び」「大リーグでは、二刀流挑戦に理解のある球団を選ぶ必要がある」「環境面でも、寒暖差が小さい米西海岸は順応しやすい」――といったところでしょうか。
誰もが大谷選手みたいになれるわけではないけれど、自分なりのストーリーをもって、挑戦することが大事です。
失敗しても、そこから学び、目標を達成するためにストーリーを修正していく。ストーリーを作れる子は、最初から正解しか学ばなかった生徒より最終的に伸びます。
円谷英二の生誕地が福島原発に非常に近いのは、今から思えば「奇遇」である。
円谷英二は、1901年、福島県須賀川町(現・須賀川市)で糀業を営む商家に誕生する。
須賀川町は、福島原発から50キロで、避難地区には指定されていなが、現在も放射能の高い地域である。
円谷英二は少年の頃、二人の大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功したことに感銘を受け、15歳にして羽田の日本飛行学校に第一期生入学した。
しかし、日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗して教官も亡くなり、活動停止に追い込まれたため、円谷少年の夢ははやくも潰え去った。
16歳のとき、神田電機学校(現:東京電機大学)夜間部に入学し、叔父の経営する内海玩具製作所という玩具会社の考案係嘱託となり、玩具の考案で稼ぐようになる。
18歳の時、玩具電話等が当たって特許料が入り、祝いに職工達を引き連れ花見に繰り出した際、隣席の者達と喧嘩を始め、若い円谷が仲裁したところ、喧嘩相手の活動写真屋に気に入られて映画界に入ることになった。
この会社は、すぐに国際活映(国活)に吸収合併されが、円谷は早速カメラマン助手となり、嫌がる仲間をよそに自ら名乗り出て飛行機による空中撮影をやり遂げ、カメラマンに抜擢される。
20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となるが、除隊後に関東大震災で壊滅状態であった国活に復帰する。
この頃円谷は、給料の約半分を撮影技術の研究費につぎ込み、協力者に対してただ酒をおごる毎日だったという。
ところが大スターである林長二郎(長谷川一夫)の顔をリアルに黒く写した として社内で反発を受け、待遇を格下げされた上に、照明することすら制限された。
円谷はこのハンディの中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕強したり、安っぽいセットを立派に見せるため「グラスワーク」ミニチュア撮影を投入した。
つまり円谷の「特撮」はこういう冷遇状況から生まれた工夫だった。
円谷は、特殊技術を注目され31歳の時に日活に引き抜かれたが、撮影方法をめぐり幹部と対立し、その後1934年に東宝の前身の会社に移る。
このころ、アメリカ映画「キング・コング」の特撮に衝撃を受け、1コマ1コマを分析研究している。
こうした工夫と研鑽の積み重ねの上に、39歳の時に映画「海軍爆撃隊」では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影した。
この時、飛行機を固定して背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮るという円谷の特撮は、公開時に大評判となった。
ところが1941太平洋戦争に突入した時、円谷はちょうど40歳となったが、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。
俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる「特技課」は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画すべてを担当していく。
そして、特撮の腕を存分に振るった「ハワイ・マレー沖海戦」が公開され、大ヒットする。
しかし終戦後の47歳のとき、「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、GHQの公職追放によって重役陣ともども東宝を追放された。
フリーとなった円谷は東京の祖師ヶ谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立し、映画の特撮部門を請け負った。
さて1952年、日本独立後の公職追放解除を受けて再び本社に招かれ、満を持して戦記大作「太平洋の鷲」が企画される。
この作品は本格的な特撮映画で、その後もコンビを組む本多猪四郎監督との初仕事となった。
翌年、プロデューサーによってゴジラの企画が出され、円谷は新たに特撮班を編成するが、そこに後述する井上泰幸という男が「特撮デザイナー」として参加する。
そして1954年11月、完成した「ゴジラ」が公開され、空前の大ヒットとなった。
円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の「全米公開作」となり、ゴジラ(GODZILLA)の名は海外にも知られた。

コミュニケーションの手段に革命的な変化が起きたのは、1990年代半ばでした。
携帯電話とインターネットの普及です。
携帯には大量の連絡先を登録rし、ネットを通じて四六時中つながれる。私が90年代終わりに若者の聞き取り調査をしたとき、すでにそれぞれの友達の数が、百人単位になっていました。
相手を傷つけず、ほどよい距離感で誰とでもやりとりする。その作法になっていったのが「コミュ力」でした。
自分を分かりやすいキャラで見せ、相手のキャラは瞬時に見抜き、互いに承認する。表層のキャラをいじり合うだけで深い話はせず、コミュニケーションを続ける。「毛づくろい的コミュニケーション空間」と私は呼んでいます。
情報量はほとんどありません。原型はお笑いです。だから言葉も業界用語が輸入された。キャラをいじる、かぶる……。若者はこの空間で10年以上前から生きています。
コミュ力の空間は、キャラのいじり合いのうまさが対人評価を決定づける、奇妙な世界です。価値を決める上位の人がいて、空気を読む取り巻きである中間層がいる。
一方で、そうした「コミュ力」社会に違和感を覚える人は「下層」として排除されます。一説には、この階層は上位が1割、中間層が6割、下層が3割。上の7割には快適、残り3割には地獄です。
これは、内閣府の調査で現在の生活に満足と回答する若者が7割以上という結果に合致します。
不思議なのは、バブル期の若者の方が経済的に豊かでしたが、当時がうらやましいと言う学生はいま、誰もいません。スマホもネットもない、石器時代には戻りたくない、と。
おいしいものを食べなくても、高級車に乗っていなくても、つながってさえいれば何となく満足できるのです。問題は、その満足が、排除される3割の不幸の上に成り立っていることです。コミュ力は、表層的な心地よさの一方で、一部の相手を排除する攻撃性を持っているのです。
「コミュ力」に対抗する流れとして、私が期待しているのは「対話主義」です。議論でも説得でもない。対等の立場で、私の考えとあなたの考えを交換しましょうという対話です。交換を続けると理解が深まり、意見が異なっていても、折り合えるアイデアが見いだせるようになります。
コミュ力は、表面的なやりとりで序列を固定するだけで相手を変えることはありませんが、対話主義は関係性を揺さぶってお互いに変化をもたらします。顔を合わせて言葉を交わすことが重要で、ネットとは親和性がありません。
コミュ力偏重は続くでしょうが、対話主義を用いたケアの方法がいま一般にも注目されています。90年代半ば以来の転換点の兆し、と思いたいです。
「これができる」とか「あれができない」を世の中では「能力」と言い、個々人の力と考えています。就職活動の際の「コミュニケーション能力」とは、自分の考えを整理し、相手にわかるように過不足なく伝える能力といった程度の意味に理解されているのでしょう。学生たちは「コミュ力」が高い、低いの言い方になじんでおり、その個人差を意識しているようです。
人間と人間のコミュニケーションは言語化しにくい部分があります。しかし、片方をロボットに置き換えると、いままで見えていなかった本質が見えることがある。私はそんな研究をしてきました。
例えば言葉です。ロボットが人間の言葉を100%理解しても、一本調子の返答だけでは、冷たく機械的な印象で、会話に思えません。ところが、わざと「言いよどむ」ように調整すると、一生懸命話す生き物らしさが出て不思議と耳を傾けたくなります。
その理由は、正確・簡潔に答えるロボットより、むしろ言葉に詰まったり、言い直したりするロボットの方が現実の人間同士のやりとりに近いと感じるからだと思います。
ふだんは意識しないけれど、人間は不完全さをお互い補い合い、コミュニケーションを成立させているのです。
例えば、2人の若い女性が雑談している話を、すべてそのまま書き起こしたことがあります。ハワイ旅行の思い出話をしているのに、書き言葉に変えると、意味不明です。言い間違えたり、話がそれたり――。
ところがその場では、不完全なまま相手に委ねられた言葉は、相手の解釈によって補われ、コミュニケーションが成立するのです。
私たちの「あいさつ」だってそうでしょう。相手が返してくれて初めて、あいさつとして意味を持つ。返してくれないと宙に浮いたままです。
つまり、言葉を話すとは表現行為であると同時に、知覚したり、探索したりする要素も含んでいるのです。
自分が主体として言葉の意味を100%決めているように見えて、相手が受け取らないと完結しないのです。
電車の中で携帯電話で話す人の声を快く感じないのは、私たちが無意識にセットとして考えている「受け手」の言葉が聞こえないからかもしれません。
それならコミュニケーションに能力という言葉をつけて個人に帰属させるより、コミュニケーションとは2人の持ちつ持たれつの間で立ち現れる関係だと考えるべきです。
つまりコミュ力とは、不完全な私たちが、お互いを補い、支え合うなかで生じる関係の力です。言い方を変えれば、自分の弱さ、不完全さを上手にそして適度に他者に開示することによって、相手の手助けを引き出していく力とも言えるでしょう。
相手を傷つけず、ほどよい距離感で誰とでもやりとりする。その作法になっていったのが「コミュ力」でした。
自分を分かりやすいキャラで見せ、相手のキャラは瞬時に見抜き、互いに承認する。表層のキャラをいじり合うだけで深い話はせず、コミュニケーションを続ける。「毛づくろい的コミュニケーション空間」と私は呼んでいます。
「ひきこもり」にしても「ニート」にしても、あるいは、いわゆる「新型うつ」から就活の悩みの相談に至るまで、どこにでもこの問題がみてとれる。
今思い返せば、若い世代の就労動機が、もはや「生活の糧」を稼ぐことなどよりも、はるかに「承認」寄りになっていることに気づいたことが重要なきっかけだった。そう、彼らは食べるために働くのではない。他者から承認されるため、いまある承認を失わないために働くのだ。
果たして、この認識は本当に正しいのか。大学は言うまでもなく、講演会やシンポジウムなどで若者と話す機会はしばしばあるが、私がどれほど「若者の承認依存」や「コミュ力偏重」について挑発的に語っても、彼らはうなずくばかりでほとんど反論してこない。
ツイッター上でも同様で、同意されることはあっても否定されたことはない。どうやら私の認識は“とんでもない見当違い”というわけでもなさそうだ。
他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい。承認依存とは、つまるところそういうことだ。それは困ったことかもしれないが、だからといって、その風潮をただ批判してもはじまらない。
彼らがコミュニケーションと承認に依存していく過程には、強い必然性がある。

mずは井上泰幸であるが、1922年、現在の古賀市薦野の農家に8人兄弟の7人目として生まれた。
中学卒業後、高千穂製紙に1年間勤めた後、徴兵され長崎の海軍軍需工場へ。
そこで兵器の図面をひたすら引く生活を送った後に南方へ出兵するが、航海中に敵飛行機に狙われた少年兵を助けだそうとした際に左足を失うことになる。
終戦後は「傷痍軍人学校」で家具の作成を学んだ後に上京するが、たまたま東宝撮影所の近くに下宿していたため、撮影所に入り浸たるようになった。
ミニチュア作りのアルバイトをしていたところ、当時の美術課長に製図の正確さと、家具職人として培った造型の腕を見込まれて東宝に入社することになる。
そして「ゴジラ」「モスラ」など多くの作品に美術助手として関わったあと、美術監督として数多くの作品を世に送り出した。
現場で、「いかに本物に見せるか」にこだわり、映画「日本沈没」のクランクインの前には、東京大学で地震を研究している教授に話を聞きに行くなどしたという。
78歳のとき「ゴジラ×メガギラス」に関わったのを最後に引退した。
また、「ゴジラ」をめぐっての、もう一人の人物こそが、日本を代表する作曲家の一人、伊福部昭にである。