「卓球」~分断と友好

最近、千葉県(市原市養老川沿い)で地球の「磁場」が最後に逆転した跡がみつかった。
磁場の逆転というのは、南北の磁石がひっくりかえることで、太古以来数回起こっている。
鳥や蝶がこの磁石に導かれて大地の間を渡ることだけを鑑みても、自然界の大変革をもたらすものだ。
地球温暖化の極端な進行は、映画「デイ・アフター・トゥモロー」(2004年)に描かれたごとく、磁場の逆転をもたらす可能性さえあるという。
この千葉で約30年前に、南北の「反転」ではなく、南北が「結びつく」ということが起きている。
千葉で開催された世界卓球選手権において、1991年4月24日から約2週間、北朝鮮と韓国が「南北単一チーム」として戦い、「小さな統一」を果たした。
当時の韓国のエースは、「韓国と北朝鮮が試合をする時は、本当に戦争に臨む気持ちで試合をしなければいけない時だった。だからこそ、南と北が1つにチームになるということは想像すらしたことがなくて当惑した」と述懐している。
つまり、反発しあうN極とS極が、突然にしてクッツイタような感覚だったかもしれない。
この時の「南北単一チーム」の名は「KOREA」。青地に朝鮮半島を白く描いた旗が幕張メッセの各場所に翻った。そしてKOREAは、なんと圧倒的な世界王者・中国を破ったのだ。
当時の映像をみると、民族衣装を身に纏っての熱のこもった応援が華々しく繰り広げられていた。
そして、表彰式で流れた国歌が「アリラン」であり、会場の応援団は「アリラン」を声の限り叫び、そして感激の涙をもって優勝を讃えたのである。
さて、それからおよそ10年後、南北に分断された男女の悲劇を描いた韓国映画「シュリ」(1999年)や軍事境界線を警備する両国の男達の友情と悲劇を描いた「JSA」(2001年)が制作された。
いずれも世界的な大ヒットとなったが、千葉における「小さな統一」の感激がベースにあったからではなかろうか。
また、2013年にはこの「小さな統一」を描いた映画「KOREA」(日本タイトル「ハナ 奇跡の46日間」)は、韓国において空前の大ヒットとなった。
では、この「KOKEA」チーム、いかにして実現したのだろうか。
当時の世界卓球協会会長(1987年~94年)である荻村伊智朗こそは韓国・北朝鮮「南北単一チーム」の結成を実現した最大の功労者といってよい。
荻村は元世界チャンピオンであり、「ミスター卓球」の異名をもつ人なのだが、「ピンポン外交」という言葉は荻村に始まったものではない。
中国では「井戸を掘った人の恩を忘れない」という言葉があるが、井戸を掘ったのは、愛知工業大学の後藤鉀二(ごとうこうじ)学長であり、「ピンポン外交」という言葉はこの後藤に帰する。
後藤は、1971年第31回世界卓球選手権名古屋大会当時、日本卓球協会会長でアジア卓球連盟会長であった。
さらに後藤は、長く国際スポーツの世界から遠ざかっていた中国の参加を実現した人物である。
初出場の中国チームは、1961年の北京大会で当時の「卓球王国」日本の五連覇をはばみ、その後の大会における優勝を含め、「三連覇」を達成していた。
さらに1965年の世界大会では実に7種目中5種目で優勝するなどして日本に代わる「世界最強」のチームといってよかった。
ところが中国で「文化大革命」がおき、中国が参加する機会を失った67年69年は、世界卓球選手権はもはや「世界大会」とはいえなかった。
後藤は周囲の反対にあいながらも、北京を訪問して名古屋大会への「中国参加」を働きかけた。
そして、中国と太いパイプを持っている西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らの協力を得て、「中国参加」を実現したのである。
そしてこの名古屋大会において、ある歴史的なハプニングがおきた。
中国選手団のバスにアメリカ選手が「間違って」乗り込んでしまったのだ。
当時、中国には「アメリカ人とは話しをするな」という不文律があったのだが、復帰した元世界チャンピオン荘則棟氏は、チームメートの制止をよそに、アメリカ選手に気軽に話しかけたのだ。
そして、この「対話」で両国選手団にすっかり友好ムードが漂ったのである。
そして翌年それまで国交のなかったアメリカに、中国の卓球選手団が招待されたのである。
そして後藤こそが、中国選手のアメリカ訪問の舞台を準備して演出したのだ。
そして同じ年の1972年2月23日にニクソン大統領の電撃訪中が実現し、米中の国交が正常化する。
その際に、人民大会堂で開催されたレセプションで周恩来首相から元世界チャンピオンの荘則棟選手が大統領に紹介されるなどして、ピンポンが米中国交樹立に少なからぬ役割を果たしたことを示した。
その後、日本をはじめ中国との国交回復をはかる国々が相次いだ。
そして後藤鉀二氏の意思を引き継ぐかたちで、「ピンポン外交」において大きな役割を果たしたのが、前述の荻村伊智朗である。
荻村が1971年、後藤と共に日本チーム団を率いて中国を訪問した際に、荻村は周恩来首相に中国がこれから力をいれていく卓球のために力を貸して欲しいと告げられた。
その際に、周恩来は荻村に驚くようなことを明かしている。
中国には早くから国家的にスポーツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足(てんそく)」という習慣であった。
纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足が美しい(可愛い)とされた伝統があったからである。
しかし纏足は女性を家に縛りつけておこうという男性側の都合でできた悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことは、この「纏足」をやめさせることに繋がるというものであった。
さらに中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っていて、日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をはねかえしたように、中国も卓球というスポ-ツで自信を回復したいという内容だった。
当時20代だった荻村にとって、周恩来の「胸の内を明かす」ように語ったそれらの言葉が胸に刺さった。
というのも、荻村は1954年と1956年に二度世界チャンピオンになっているが、荻村氏が初出場した1954年当時、日本は国連にも加盟できず戦争中の「悪者」イメージがつきまとっていた。
国際大会に出場する日本選手に対する観客の「視線」には厳しいものがあった。
ところが、ある試合中で対戦相手の外人選手が玉を拾いにフェンスを越えようとした時に転倒しそうになった。
その時、荻村氏が身を挺して床に飛び込び、その選手を転倒の怪我から守ったことがあった。
その時から、観客の日本選手に対するブーイングはすっかり消えたという。
そして名古屋大会における中国参加から20年の時をへて、荻村が千葉において韓国・北朝鮮の「単一チーム」を実現させたことになる。

中国から日本に帰化した卓球選手を両親にもつ14歳の張本選手が、世界のトップランクの選手を次々と打破し、世界に衝撃を与えている。
卓球における日本帰化選手といえば、1987年ニューデリーの世界選手権で優勝しながらも、次の大会で代表にもれて日本に帰化した小山ちれ(中国名:何智麗(かちれい)」のことが思い浮かぶ。
小山は、日本人の社会人卓球の一員となり、日本人コーチと国際結婚し、日本国籍を取得した。
2017年、平野美優が日本人としてアジア・チャンピオンとなったことは、中国にとってのある意味「事件」となったが、その21年前に日本人として出場した小山ちれがアジアチャンピオンになったことはちょっとした「騒動」ともなった。
1994年広島で開催されたアジア大会の会場は、近年土砂災害が起きた場所に近い安佐北体育館であった。
小山は、広島アジア大会には日の丸をつけて、決勝で中国のエース「鄧亜萍」を逆転で破り金メダルを獲得した。
しかしこれは、中国ではあってはならない「事件」として受け止められた。
日本に限らず、他国籍を取得する中国選手は少なくないももの、日本への帰化は特別なものがあり、本国の選手を打ち負かせたことは大問題となったのだ。
2003年から09年まで世界女子1位として君臨したのが張怡寧(ちょういねい)だが、彼女のプレーを見た時に「小山ちれ」のプレイ・スタイルと実によく似ていると思った。
後でわかったことだが、中国選手は、元世界チャンピオンで日本に帰化した「小山ちれ」という強敵を倒すために練習相手として「仮想・小山ちれ」を育てたというのだ。
その「仮想・小山ちれ」に指名されたのが張怡寧で、そのうちに強くなって自らが超一流選手の仲間入りをしたのである。
さすがにコピー大国の中国であるという思いと同時に、小山ちれの優勝がいかに大きな問題として受け止められたかを示すものであった。
張本選手の父親宇氏も、広島アジア大会の時にたまたま日本で、その「事件」の一部始終を見ていた。
実は、日本は、アマチュアの卓球選手にとって天国なのだという。
実業団に所属すれば、練習時間、練習場所、報酬、宿舎、将来の保証とアスリートファーストで整えられ、競技に集中できる。
張本智和の父・宇氏を含め中国の卓球OBが日本で指導に当たるのは、この環境に引き寄せられてのことなのだ。
福原愛のコーチも中国の卓球OBであったし、宇氏のように帰化して、卓球場を開設した中国人は少なからずいて、その子供たちが力をつけて大会の上位にいるという。
張本智和が生まれたのは2003年6月で、「智」は知恵、人が人らしく生きていくための道具。「和」は平和を意味する。
祖国を離れた張本夫妻にとって、周りと仲良く暮らす大切さを知った。
両親は卓球のコーチであったにもかかわらず、智和に卓球をさせるつもりもなかった。
むしろ、仙台の東北大学に留学した魯迅のような人物にしたかったという。
時代を遡って1910年代、日本の近代化に学ぼうと、中国人留学生が日本に滞在した。
中国の文学者・魯迅は東京の飯田橋に近い宏文学院を卒業したが、中国人留学生が多く住む東京をはなれて一人仙台に向かい、現在の東北大学医学部に学んだ。
ところが、魯迅はこの大学で彼自身の人生を転換させるような決定的な体験をする。
ある日のこと大学の階段教室で幻灯の上映が行われ、中国人が日本人に銃殺されているシーンを見たのだが、周囲の日本人学生の喚声があがる中、その銃殺現場の周囲にいる中国人民衆の無表情さ・無関心さに大きなショックをうけた。
そしてこの時、彼自身の内部で憤怒と恥辱が入り混じった感情をおさえることができなくなり、医学を学んで人間の体を直すよりも、中国人の精神を正す文学を志すという劇的な転回をする。
1998年に江沢民主席が中国の国家元首として初来日した際も仙台まで足を延ばし、魯迅の座った席で記念写真を撮っている。
そして張本夫妻は仙台に在住しており、東北大学で学んだ魯迅への思いを強くし、それを息子に託した。
母親は願いを込めて、3歳から卓球センター近くの学研教室に週2回、英語塾にも通わせた。学研のCMに張本が起用されたのはこの縁からである。
そして息子智和は、学校では成績は常にトップクラスを維持し、よく本をよむ少年として育った。
智和は、成績優秀だとはいえ、勉学よりも両親から学んだ「卓球」で注目される度合いがはるかに大きく、魯迅と同様に東北の地が進路を転換させる地となったのである。

韓国で空前の大ヒットとなった映画「KOREA」は、日本では2016年に「ハナ~奇跡の46日間~」のタイトルで公開された。
韓国のエース「ジョンファ」役を人気女優にハジ・ウォンは過酷なトレーニングを経て「再現」している。
また、北朝鮮のエース「リ・プニ」を演じたのがペ・ドゥナで、卓球の特訓ばかりではなくて、そこへ自然な北朝鮮訛りの演技を加えてリアルなキャラクターを完成させた。
また2013年という「KOREA」製作のタイミングとして北朝鮮の書記長が金正日総書記から、若い金正恩に変わるタイミングは、「新体制」への期待が込められているのだろう。
とはいえ1991年の千葉における「小さな統一」にもかかわらず、その後の韓国・北朝鮮関係は必ずしもよい展開をもたらしたとはいいがたい。
その後、「潜水艦船爆破」「延坪島砲撃件」「ミサイル発射」などで南北緊張が続き、せっかくの「対話ムード」は立ち消えとなった。
そして今年(2018年)のスウェーデン大会において、決勝トーナメントで韓国と北朝鮮と対戦が決まるや、両国の政治状況を考慮して戦うことをやめて、急遽「KOREA」チームを結成したというのだ。
準決勝での対戦相手は日本で、結果は3-0で日本が勝利して終わったが、この流れはあまりにも唐突で腑に落ちない。
そして、その前段があったことはいまだ記憶にあたらしい。韓国の文在寅(ムン・ジェンイン)政権主導で、平昌五輪(2018年)でアイスホッケー女子の南北合同チームを結成したことに対し、韓国選手の間から「私たちに対してひどすぎる仕打ちだ」などと、反発の声があがった。しかもスイスに0-8で大敗を喫している。
「五輪を平和の祭典にする」というのが文在寅政権の“大義名分”だが、それによって出場の機会を奪われる選手にとってショック以外のなにものでもない。
「南北対話」を政治公約とした掲げた文在寅とはいえ、突然の卓球の統一チームの結成は、あまりにも選手への配慮を欠いているといわざるをえない。
そこで、国家と個人の関係を最も先鋭的に突きつけられた一人のマラソン選手のことが思い浮かんだ。
1936年8月、ヒトラーが国威発揚に利用したベルリン五輪で、当時植民地下で「日本人」だった韓国の孫基禎(ソン・ギジョン)選手が、2時間29分19秒の五輪新で金メダルを獲得した。
当時の新聞は興奮気味に伝えているものの、目を引くのは、表彰台でうつむく孫選手の表情の写真だった。
この「事件」は、これだけでは終わらなかった。
東亜日報は、孫選手の胸の「日の丸」をぼかして掲載。記者は逮捕され、無期限の発行停止処分となった。
民族主義運動の高まりを恐れ、孫選手には特別高等警察(特高)の監視がつく。
1910年、日韓併合の2年後、孫選手は朝鮮半島北部で生まれた。
1948年に韓国・北朝鮮が建国。38度線をはさみ、孫選手を含め多くの家族が離散。1952年、サンフランシスコ講和条約で日本独立、植民地出身者は日本国籍を喪失することになる。
アスリートとして頂点に立った孫選手は、日本代表として脚光を浴びたが、日本の独立によって大韓民国の国籍を得、陸上の指導者となる。
その一方、日本は今でも、孫選手の金メダルを、歴代五輪で得たひとつとして数えている。
今日の日本、言うまでもないことだが、日本も日本国民も、単色ではないということである。
そのことがトップアスリートに特に目立つが、「日の丸」を背負って戦うことへのそれぞれの思いは、シングル・カラーでは収まらない。