”兄弟”の確執

旧約聖書は、「カインとアベル」にはじまり、兄弟間の確執の話が多い。
「エサウとヤコブ」の兄弟の確執は、豆スープの誘惑のまえに「長子」の特権を売ったエサウの節操のなさと、兄を装って父イサクの祝福をえたヤコブの狡猾さが引き立つ。
どっちもどっちのようだが、その子孫をみると神の恩寵はどこまでもヤコブの側に傾いていく。
ヤコブは「イスラエル」という名を与えられ、その子孫はダビデ、ソロモン、イエス・キリストという系図を辿る。
その一方、エサウの子孫はエドム人として山間に住むが、イエスキリストの時代、ローマとの協力関係を約してユダヤを統治するヘロデ王として現れる。
ヘロデ王は、「メシア」(救世主)誕生のウワサを聞いて不安を感じ、3歳以下の子供の殺害を命じたアノ悪名高き王である。
エサウの子孫とヤコブの子孫がこんなカタチで交叉をするところが、聖書の面白いところである。
歴史の層の深さで驚くのは、今日のアラブ人とユダヤ人の争いは、アブラハムの子である「イサクとイシマエル」の異母兄弟の対立、正確には母親どうしの確執に起源し、今から5000年前にまで遡ること。

日本史上、源頼朝・義経兄弟はじめ、兄弟とはヤヤコシイ間柄なのだが、現代日本であっても、成功の裏側に激越な兄弟間の確執を体験した人々がいる。
作詞家のなかにし礼の父は一代で造り酒屋を築き成功し、子供たちは満州で 豪勢な暮らしをしていた。
なかにしと14も年の離れた兄は、兄の存在はケンカが強く、アコーデオンを華麗に弾きこなし、オシャレで頼りになる存在だった。
戦争で特攻隊に所属、戦後生き残り、日本に引き上げていた家族の元へ戻って来て、父の死後一家の大黒柱として祖母、母、姉から頼りにされるはずだった。
しかし戦争から帰還した兄は別人のように、事業に失敗しては借金を繰り返し 横暴で破滅的な人間に変貌していた。
なかにしは立教大学でフランス語を学んだが、作詞家になったのは、喫茶店でボーイとしてアルバイトをしていた時にシャンソンの「訳詞」をしたのがキッカケであった。
なかにしの「訳詞」は好評をえて、美輪明宏、戸川昌子などが歌っていた日本最初のシャンソン喫茶「銀巴里」などから依頼が来るようになった。
そのうち芸能界にも、その名が知られるようになり、歌謡曲の作詞を手がけるようになる。
満州からの帰国後、北海道の小樽で一攫千金をねらったニシン漁の体験は、「石狩晩歌」という名曲を生んでいる。
その後、オリジナルで歌謡曲の詞を書き始め、それが次々にヒットし、金に困らない生活に変わるが、歌謡曲の作詞をする事に反対だった妻と離婚し、半身不随になった母の面倒を見てた兄夫婦と一緒に住むようになる。
その兄がお金を勝手に使い出し、働いても働いても兄のせいで借金が山になって行く生活になる。
特攻隊で命を投げ出す覚悟をしていた兄は 「れいぞう、地獄を見なきゃな、いい詞は書けないんだよ」と事あるごとにその経験を話す。
なかにしは兄をに憎むようになるが、兄嫁は母を介護してくれていることもあり 兄をそう簡単に切り離すわけにはいかない。
実際、なかにしが作詞に手を染めたのも兄の影響であり、兄の存在なくして自分の才能も開花出来なかったことも知ってるだけに、印税を横領している兄を告訴も出来ない。
しか、弟が命を削るようにつくる詞も、兄には「金のなる木」にしか見えなかったようだ。
なかにし礼は、2度目の結婚をし、子供にも恵まれるが兄は相変わらず多額の投資に失敗し、印税を横取りしては銀座で遊びまわる。
兄は「なかにし礼名義」で会社を作っては倒産させ、弟一家は借家住いに追い込まれ、債権者に金を返しにまわされる始末。
しかしそれでもヒット曲が生み出されていった。
そして、兄を受取人として自分に生命保険でかけられていたことを知る。
そして、ついに兄と縁を切る覚悟をする。
なかにしは作詞家としての「栄光」にありながらも、実の兄との地獄のような確執に苦しんだ。
このことは、「兄弟」という自伝小説に書いている。
兄が死んだと聞いて兄という「骨肉の呪縛」から解き放たれたれるや、なかにしが心の中でさけんだ言葉は次のようなものだった。
「兄さん色々とありがとう。兄さんをやってくれてありがとう 親代わりになってくれてありがとうたくさん苛めてくれてありがとう そして死んでくれて本当にありがとう」。
兄の戦友から戦争現場の辛い現実や生き残りたちの悲しみを知り、兄が「虚勢」を張って生きてきたことを知る。
そして、「夢がぼやける」と死の床まで眼鏡をかけていたその亡骸に、あれだけ兄に苦しめられ、憎んでいた弟の目から涙があふれ出す。

かつての内閣総理大臣・小泉純一郎の祖父の小泉又次郎は横須賀市長、衆議院副議長をつとめた。
また逓信大臣をつとめ、入れ墨があったことから「いれずみ大臣」という異名があった。
もともとは海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師で腕っぷしと根性がものをいう商売に生きたため、その孫の純一郎もその血を引き、そのような家風で育った。
小泉純一郎の長男が俳優の孝太郎で、次男が衆議院議員の進次郎で、全く異なる世界に進む。
西武鉄道の創業者・堤康次郎は「ピストル康次郎」とよばれた点や衆議院議長となった点で小泉又二郎と似ている。
堤康次郎が作り上げた「西武王国」は、義明と清二という息子の激しい確執の中で展開していく
ところで堤康二郎が「ピストル」という異名をもつのも、戦後の皇室領を買い漁っていく強引さにあった。ホテルにプリンスホテルという名を付けたのは、ホテルの敷地が元皇族の土地という一等地に立つことを示したかったのだろうか。
ところで、堤康次郎の長男だが「妾の子」といわれた堤清二は、康次郎の幾分情緒的な部分を受け継いだように思える。
堤清二は「辻井喬」というペンネ-ムで知られる作家でもあった。
清二は父親の後継者として考えられていたが、次第に父親の人生をあたかも「糾弾」するかのような歩みをするようになる。
父親が何人もの妾をつくり、異母兄弟が多数存在する一族の姿に嫌気がさしたのか、東大在学中に共産党に入党し、左翼運動に身を投じる。
しかし、この「不肖の息子」はやがて肺結核を患い、政治運動からも身を引くことになる。
そこで父・康次郎は、清二の弟でまだ高校生だった義明に自分の後を継ぐことを願い、息子の前に土下座して頼み込んだ。
清二には自分の方が義明よりはるかに優秀で自分の方ができるという思いがある分、父親が自分ではなくて義明を選んだことが屈辱であった。
清二が病気から回復した頃には、後継者は弟義明に決定しており、清二は当時の場末で赤字の西武百貨店の書籍売り場の担当からその働きをはじめる。
それでも清二は28歳で西武百貨店の取締役となり、鉄道やホテルなど中核事業を継承できなかった清二は、独自の感性と才覚で、「セゾングループ」を作り上げ、一世を風靡する。
その原動力となったのは、父親と弟の義明に対する強烈な対抗心だった。
そして渋谷でパルコを中心に再開発した清二は、時代の寵児ともなるものの、清二が創立した「西部環境開発」は、その経営領域において弟義明の「国土開発」とバッティングしたため利益率は低く、バブル崩壊によって清二はグループのトップから去ることになる。
ところが1964年父康次郎が亡くなって2年後、堤清二は、井深大(ソニー)、今里広記(日本精工社長)、小林中(後のアラビア石油社長)らの財界人を巻き込んで「新都市開発センター」を設立し、池袋の地に本格的な60階建の超高層ビルの建設を計画した。
特筆すべきことは、このビルが当時すでに劇場・美術館、映画館、水族館などを含んだ総合文化施設と位置付けられていたことだった。
このように、清二が事業の中でも「文化」を前面に打ち出したのは、土地の売買でお金儲けに走った父親を反面教師にしたという面があったのかもしれない。
しかし1973年のオイルショックで、参加を表明していた多くの企業が撤退し、計画の取りまとめ役であった清二の経済人としての信が問われた。
そしてこのとき、清二は、当時39歳の清二がもっとも頭を下げたくなかった弟の義明に助けを求めるほかはなく、結局義明がこの計画を引き継ぐことになる。
堤清二は、ペンネーム「辻井喬」で、「虹の岬」(1998年)という作品を書いている。トップの座を目前に住友を去った一代の歌人川田順と、京大教授夫人との恋愛を描いた。
この小説は、財界人としてトップを走る人生と、趣味人として心豊かにいきる人生のコントラストを示し、ある時期の堤兄弟の二人の生き方を重ねているようにもよめる。
とはいえ、財界人として一徹に生きた弟義明の方も、経営者としての蹉跌が待っていた。
2005年インサイダー取引で「証券取引法違反」で逮捕され、彼が率いていた西武グループが危機に陥ったのである。
その後、西武グループの再建を冷静に見守っているはずだった兄・清二は、突如豹変して、「再建」を主導する銀行などのやり方に異を唱え始める。
西武グループの持ち株会社である「コクド」の株式は名義株に過ぎず、実質的な所有者は堤家であるとして、2005年に末弟の猶二らとともに訴訟を起こした。
週刊誌のインタビューで、82歳になった堤清二に対して、作家の「辻井喬」として生きている時間をわざわざ捨てて、何のために経済人の堤清二に戻らなけれならないのかという質問があった。
それに対して清二は、「50年前の父との約束、父が本当に愛していたのは自分」と答えている。
50年前の約束の具体的な内容は明らかにしていないが、亡父への思いと弟へのわだかまりが、いまだに滓(おり)のように残っていることを窺わせる言葉である。

ここからは、”兄弟”のようなコンビの話である。
"KKコンビ"といえば桑田と清原だが、高卒後、桑田が早大を希望しながら巨人に1位指名され、清原が巨人1位指名を切望しながらも外れて、西武に1位指名される。
両方にとって残酷な話で、二人の心に深い傷あとを残したに違いない。
ところで、個人的に"OKコンビ"名付けた二人がいる。兄弟のような存在であり、相互の人生の展開をみると、幾分"KKコンビ"に似たところがある。
見城徹は最近軒並みヒット作品を出版している幻冬社の編集者兼社長である。
その見城が角川の雑誌「野生時代」の編集者であった頃、新宿の雑踏でたまたま聞こえてきた尾崎の歌「シェリー」のせつなさに顫動した。
まずは見城自身、学生時代にはいわばいじめられっこで「道化」できりぬけてきたという体験をもっていた。その見城の心に尾崎の曲の底知れない孤独や切なさ響いてきたのである。
以後、尾崎をなんとか活字にしたいと思い、尾崎の事務所に連絡をとるが何度も断られた。
その間、通勤時でも職場でも家でも人目もかえりみずに、尾崎の曲を聴き続けた。巌もつらぬ意思で数度にわたるアプロ-チの末、ようやく尾崎と会うアポイントをとることができた。
見城は、尾崎は若いのでうまい肉が食べたかろうと自腹で六本木の高級な焼肉屋で出会うことにした。
尾崎ははじめ言葉数が少なく、見城は彼の心をつかもうと必死に言葉を捜した。
そのうちに尾崎は次第に饒舌になっていっき心を開いていくのがわかった。尾崎は帰りがけに先に仕事のオファ-があった出版社を飛ばして見城と仕事をすることを約束してくれた。
そして2人が尾崎20歳の誕生日に出した本「誰かのクラクション」は、尾崎の感性にあふれた本となり、30万部の大ヒット作となった。見城にとっても「読む本」から「感じる本」へ従来の本のイメ-ジをこわす記念碑的出版となった。
その後、尾崎はアメリカへと渡り約2年ほど音信不通となったが、その間尾崎は若き「カリスマ」としてのイメ-ジが定着していった。
そこへ覚醒剤取締法違反で逮捕されたというニュースが飛び込んだ。
見城は尾崎を気にはしていたが、コンタクトをとることもなく音信不通の状態が続いていた。
そんな或る時、見城がスポーツクラブに行くと太った男が「見城さん」と呼びかけてきた。
それは見城と尾崎との運命的な再会でもあったのだが、尾崎は荒れ果て白髪もめだち、はじめは尾崎であることさえ分からないほどだった。
その尾崎は見城に、自分はすべてを失ったが、どうしても復活して、またステ-ジに立ちアルバムも出したいと言った。
実はその時見城は「月刊カドカワ」の編集長として地位も上がり、面倒な企画や、難しい作家と関わることもなくなった安穏とした自分に嫌気がさしていた。
尾崎と話すうちに見城は「尾崎復活」に編集者としての自分の復活をも賭けてみようと考えた。
そしてスポ-ツ選手の専属トレーナーのようになったかのように見城は尾崎をサポートしていった。
まず尾崎の体の復活えはかるためにトレーニング・メニューを書いた。
不動産屋をまわり、金を集め、人を集め、尾崎を社長にした個人事務所まで設立した。これらは雑誌の編集長の範疇を越えおり、もし会社にバレたらクビになるような行為であった。
見城は、かすみつつあった尾崎の総力特集を「月刊カドカワ」のなかでやった。
尾崎が常宿にしていたヒルトンホテルで毎日のように尾崎と会いインタビュ-を行い詩作などをさせた。
この頃の見城と尾崎はほとんど共同生活みたいな日々であったという。
しかし音楽を作りだすという復活のプロセスが尾崎に不安定な精神状態を強いることにもなった。なにしろ尾崎は金の成る木であった。
麻薬を渡すことによって彼をコントロールしようとする人間が出てきたり、ステージに立たせるために嘘をついたり、いろんな策を労して、レコード会社を移籍させたりした。
次第に尾崎は音楽業界は自分を利用し搾取すると思いはじめ極度な疑心暗鬼の状態に陥ったのである。
毎日、スタジオの中で暴れたり、バックミュージシャンと大喧嘩を自動販売機に殴りかかって拳を血だらけにした。
とはいっても再起のアルバムがオリコン1位と判ったときに尾崎と見城は二人で抱き合って泣いた。
以後、40数本という復活ライブ・ツアーが始まるが尾崎は、見城に対して自分だけを愛してくれという甘えが野放図に膨らんでいった。
見城がコンサ-トを見てはやく帰ろうものならば、もう君とは仕事ができないと言い、見城の愛情が自分一人に向かない限りは、次の連載は書かないとも言い出した。
尾崎との繋がりをそうやすやすと切るわけにもいかなかった。コンサート後の打ち上げで、店にあったギターを叩き割ったり、イスを投げたり、尾崎が破滅に向かって走っているのがわかった。地獄への道連れもこれまでと尾崎と決別した。
見城は、尾崎が死んだというニュ-スを聞いて、どこかホットした気持ちがしたという。それは尾崎に関わった人々の偽らざるの気持ちだった。