我が世代では「保守/革新」が、ごく普通の対立軸であった。
多くの若者は「革新」を志向していて、芥川賞をとった小説が、
庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969年)であった。
タイトルには、安易に過激な革新に走る若者(赤頭巾ちゃん)への警鐘が込められていた。「若さ」という狼に食い尽くされないように、という。
一方、「保守」とは、既存の価値・制度・信条などにつき「変革」する思想が現れた時に、これに抗して既存の価値・制度・信条などを「守る」立場である。
当時、よく「反動的」といわれた保守は、「変革者」の存在を想定した言葉である。
実際、日本の保守は、戦後の共産主義・社会主義を唱えた「革新勢力」に対抗する立場から生まれたものだ。
1955年、自由党と民主党が合同して自由民主党が生まれる際、「保守合同」といった。
一方、「革新」といわれた当時の最大野党の社会党は、右派から左派まで多様であったが、「共産党とは違う」ぐらいでまとまった。
日本では、保守勢力が「改憲論者」で、革新派が「護憲派」という「言葉上」の面白い逆転現象が生まれたが、冷戦構造の終焉とともに、保守勢力は「対立項」を失った感がある。
それを如実に表すのが、1994年、自民党が「政権復帰」のためになりふり構わず社会党と組んで、社会党もなりふり構わず「党是」を捨てて成立した「自社さ連立内閣」(村山富市政権)である。
社会党の党是とは「自衛隊違憲、日米安保反対」などを掲げた「護憲」の立場であった。
さて、今日の政治を「革新ぬき」で考えると、「保守」という概念自体がぼやけてしまう。
そこで最近目立つ言い方が、「保守とリベラル」という新たな対立軸だが、これが実に曖昧。立憲民主党の枝野幸男氏いはく「自分は保守リベラル」。
枝野氏によれば、「護憲派」は専守防衛・個別的自衛権の枠内ならばこそで、自衛隊安保を容認した「希望の党」は、リベラルの名に値せず、ということから一線を画し「立憲民主党」をつくったというのだ。
リベラルとは、「安全保障」までカバーする言葉とは、この時はじめて知った。
そもそも人間とは、環境が激変することは望んでいないという意味で、本質的に「保守派」なのだと思う。
それは、思想良心の自由や表現の自由など、ある部分制約する傾向があるが、その制約が「不合理なもの」ならなくしていこうという立場こそ「リベラル」ということではなかろうか。
したがって、リベラルを人権擁護の立場とするのはヨシとしても、安全保障にまで広げては、リベラルの立場をかえって不明にする。
個人的にまとめると、「リベラル」は古い習慣や伝統には、不合理な迷信や偏見があるので人間の理性の光で正していこうとする立場。
一方、「保守」は社会的経験や良識、伝統といったものを重視する。なぜなら歴史の風雪に耐え、多くの人々の経験が凝縮された「潜在的」英知を含むからである。
保守主義は、定義的には伝統的な国家と家族を守る思想であり、シングルマザーや同性愛者の同居などについては厳しい目をむける傾向にある。
だからといって保守は、何も変化しないというものではなく、急激な革命とは距離を置くものの、漸進的改革には積極的に取り組もうとするものである。
なぜなら、大切なものを守るためには、時代に応じて変わっていかなければならないからである。
国家にしろ、市場にしろ、エリートにしろ、大衆にしろ、すべては不完全な存在であり、これにさえ依拠していれば完成された社会ができあがるというものなど存在しない。
だから、さまざまな主体がバランスを取りながら、着実な「合意形成」を重んじる。
こうみると、保守とリベラルとは、経験や伝統に人間の潜在的叡智を求めるか、理性や合理的的思考に英知を求めるか、漸進的に変化すか急進的変革を志向するかの違いはあっても、案外と親和性が高いといえよう。
また保守が大切にする社会の潜在的叡智には、「人智を越えたもの」をも含み、したがって「宗教」と相性が良い。
それが歴史・伝統・文化に対する敬意、先祖への尊敬など日本では神道、そして、天皇陛下との結びつきが見られる。
欧米ではキリスト教の伝統や家族観・結婚観とも深く結びつこうとする傾向がある。
特に日本では、天皇陛下への尊崇を保守に不可欠のものと考えるが、天皇を尊崇しない者に対してとても「不寛容」な立場をとる者を「極右」という。
以上、保守とリベラルを言葉の原義にさかのぼって論したが、新聞や雑誌で一般に語られる「保守/リベラル」は、おおむね次のようになる。
保守は、経済的には既得権益の保護で、「小さい政府」論を展開するようになり、経済的グローバル化の下では、「保護主義的」である。軍事的にはタカ派的傾向がある。
一方のリベラルは異端の個人や少数者の市民的人権を擁護し、それを保障する「憲法」の遵守を説く。
そこで能力主義的な自由競争を擁護してきたが、社会的弱者救済のための福祉国家のヴィジョンを描く「大きな政府」を主張。軍事的にはハト派的傾向がある。
表現の自由など市民的人権擁護を訴え、枝野氏のように憲法9条を中心に「護憲派」の立場をとる。
近年、「新保守主義」という言葉が表れ、1980年代に登場したアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権などがそれにあたるとされる。
それでは、1980年代の「新保守」は、「保守」とはどうちがうのか。
それは従来の「保守」が地方(農村)を基盤としたものであったのに対して、「新保守主義」は大都市を基盤にしている点である。
「新保守主義」は、大企業や富裕層への「減税」と消費税増税、福祉削減、規制緩和などによって特徴づけられる。
「小さな政府」をめざし、政府による介入を排して、市場や企業の活動への「規制」をナクソウという傾向が強い。
具体的には国鉄や電電公社などの「民営化」と社会保障や行政サービスも「民間」に委ねて、社会の効率化をはかる。また外国との貿易では、自由貿易・自由経済の推進をしようとする。
また、地方自治には「消極的」であり、市町村合併や道州制の推進、地方交付金の削減などの「中央集権的」傾向がみられる。
その極端な例として、サッチャー政権が「地方議会の廃止」などがアゲられる。
ところで、「同じく「新」がアタマにつく「新自由主義」は経済的文脈で語られることが多い。
「新保守主義」が「夜警国家観」に基づく「小さな政府」を指向するので、アダム・スミス以来の市場経済重視・規制緩和の「新自由主義」と相性はよいはずだ。
では、ここでなぜ「自由主義」のアタマに「新」とツケルのだろうか。
現代社会は、アダムスミス以来の「自由放任」で実現できた市場経済、つまり比較的同じ規模の企業による素朴な競争世界とは違っている。
今日においては、独占・寡占や政府の規制により自由な価格競争が制限されてきた。そうした規制を外したり、独占を抑制したりして、失われつつある「市場原理」を賦活しようとするのが「新自由主義」である。
ミルトン・フリードマンらの経済学を「新古典派」といいアダムスミスやリカードの「古典派」と区別したのに並行して、そこから生まれた社会経済思想を「新自由主義」とよぶようようになった(ようだ)。
「新自由主義」と「新保守主義」は、同じく「小さな政府」を志向する点で相性はイイのだが、両者は完全には重ならない。
「新保守主義」の代表といわれたレーガン政権はソ連と軍拡競争をおこない、サッチャー政権も領有問題でフォークランド紛争をおこした。
また中曽根政権の「防衛予算の拡大」や「対米同盟の強化」など、「対外的強硬」のイメージがつきまとっている。
そういう点から見ると、「小さな政府」を目指すといっても、「新保守主義」はコト「軍事面」に限ってはそれでオサマリきれない「政治的志向」をもつといえよう。
というわけで、軍事面は別にして、市場メカニズムを重視して「小さな政府」を志向する「保守」と、政府の役割を重視して「大きな政府」を志向する「リベラル」という関係が成り立つ。
アメリカの場合、「共和党」は政府の権限は縮小(小さな政府)して自由市場や個人の自由を重視すべきとして、「民主党」は連邦政府は強力な権限(大きな政府)を持って福祉政策などを展開すべきとしている。
つまり、アメリカにおいて共和党は「保守」で、民主党は「リベラル」とされ、1世紀半もの間、両党による「二大政党制」が続いている。
総体的に見ると、「古きアメリカ」を代表するテキサスなど中西部では共和党が強く、様々な移民が住みついている州が多い西海岸や東海岸などでは「民主党」が強いという構図がある。
その支持層から特徴をいうと、共和党大会の代議員層は、白人男性が圧倒的で黒人の数は極端に少なく、アジア系もヒスパニック系も探すのに苦労する。
その一方、民主党の支持者たちは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系で「多様性」が目につく。
リベラリストは、市場は不完全であるがゆえに失業やインフレなどが生じるのであり、「不均衡の是正」のために「政府の介入」は積極的に行うべきであり、「大きな政府」とそれを支えるだけの「高負担」はヤムナシと考える。
リベラリストは「文化多元主義」の立場に立ち、「マイノリティ」の権利をも大切にし、同性愛者など「異端」に対しても寛容ば傾向がある。
彼らは国家という枠組みに必ずしも捉われずに、「国防」にアマリ重きを置かない「平和主義者」である。
BS放送で、見たアメリカのアニメ「お助けマーニー」は、道具たち(ネジ、ドラバー、トンカチ、メジャーなど)を率いてこまった人々を助ける若い「修理屋さん」の話である。
舞台はカリフォルニアのどこかの市で、会話の中に時折スペイン語を交えるなど、民主党的世界観たる「文化多様主義」をよく表現している。
また、映画「アダムズファミリー」や「刑事コロンボ」も、そういう世界観をもった番組ではなかったろうか。
ところが歴史をみれば、アメリカの民主党と共和党の関係がひっくり返ったことに気がつく。
米国の南北戦争の際に南部側で「奴隷制を支持」していたのが民主党であり、一方北部側で「奴隷解放」を唱えていたのが「共和党」である。
特に「奴隷解放宣言」を行ったA・リンカーンは「共和党」の最初の大統領である。
これはいかなることであろうか。実は、南北戦争で敗北した民主党はその勢力挽回のために、「新しい移民」をターゲットにして移民船の到着する港で「党員勧誘」を行ったのである。そして「労働者や貧困の党」を看板にアピールしていく。
つまり、元々は奴隷制度支持の民主党が、奴隷解放後は一転して「黒人優遇政策」を唱え出したのである。
対する共和党は1960年代から「党勢拡大」を狙い、とりわけ南部白人層への迎合を重ね、かつてのリンカーンの党とは思えぬ状況にある。
その根っこに、南北戦争期に南部に巣くった「人種秩序」を基盤とする復古的な階級社会を求める思想がある。
つまり、共和党と民主党はそれぞれの「党勢拡大」の過程において、磁石のN極とS極がひっくりかえるようなことが起きたということだ。
今日のトランプ政権は、軽んじられてきた白人層の中・低所得層の不満を基盤に票を伸ばした。そして、その怒りをメキシコ人やイスラム教徒になどに向けている感さえある。
かといって、白人低所得層の多い「ラストベルト」に対して、有効な政策をだせず、ことごとく約束を反故にして生きた感がある。
また、共和党といえば、一時の「新保守主義」に代表されるように「世界の警察官」と自認するほどの拡張主義を露わにしたのに対して、トランプ政権が「自国第一主義」を掲げて、従来の「共和党」の考えからは外れている。
「リベラル」、日本語でいうと「自由主義」は、アメリカとヨーロッパでは、考え方が反転する。ヨーロッパのリベラルは、アダムスミス以来の経済的自由(市場重視)に基づく「小さな政府」を志向し、アメリカのリベラルは市場は不完全なので、それを補うためにもまた弱者を保護するためにも「大きな政府」を志向する。
こうした分かりにくい「リベラル」という言葉をやめて、現代社会を「自由と民主」の対立のというカタチで原義にもとづいて捉えたらどうであろうか。
実は、「自由民主党」とは、「自由党」と「民主党」が合同して「自由民主党」になった党である。つまり、自由主義と民主主義というそれほど相性のよくない考え方が融合した政党なのだ。
「リベラリスト」あるということと「デモクラット」であるというのは、語源的な意味合いでいえば「相互矛盾」なのである。
「自由主義」は個々人の考え方を重視する考え方である一方、民主というのは「多数派」を重視する考え方なので、多数派の考え方が少数の個々人の考え方を排除してしまう傾向があるからだ。
ところで、「立憲主義」は、もともと王権から市民を守るために、王権の上位に憲法枠をもうけたということだ。
今日、日本において「王権」は存在しないが、「多数派」がそれにあたる。
問題は、民主主義において多数派がどのように、形成されるかということで、今日の政治状況に即していうと、長期安定の安倍政権の支持を基盤に形成された、官僚、経済界、学会などを含む「政権おこぼれ与り隊」のようなものが目につく。
現国会の「裁量労働」の不適切データのように、民主主義はいくらでも「仕込まれ」「仕組まれ」うる。
ところで、「立憲主義」とは、どんな多数派でも人権を奪うような法律をつくれないという歯止めであり、それこそが「自由主義」の砦であるといえる。
前回の選挙で票を伸ばした、立憲民主党の「立憲」には、安保法制のみならず、靖国公式参拝、特定秘密保護法、共謀罪などへの批判を込めたものであろう。
安倍政権における憲法軽視は、多数派のための「民主」が、個人の尊厳たる「自由」を覆いつつあるというような見方も可能だ。
民主を「月」として、個人の尊厳たる自由を「太陽」になぞらえるならば、仕組まれた「民主」の名のもとに、「個人の自由」が奪われつつある。
なぜ、民主を月に、自由を太陽になぞらえるのかというと、民主それ自体が目的なのではなく手段であり、個人の尊厳たる「自由」こそが目的たりうるものだからだ。
今起きているのは、月が太陽を覆う「金環食」現象。
例えば、不適切データに基づく裁量労働制の拡大で、残業への規制は緩くなりそうな気配だ。電通女子社員の「過労死」事件のほとぼりもさめぬというのに。
さて、石川達三の原作「金環食」(1966年)という小説は、ダム建設をめぐる政財界の癒着を描いたが、「周りは金色の栄光に輝いているが、その中身は真っ黒に腐っている」というのがタイトルの意味らしい。
株式・金融・労働市場にみられる「官製(偽装)相場」と、「お仲間&忖度政治」の多数派形成で歪められる今日の政治状況に、結構あてはまる言葉なのかもしれない。