ボーイ ミーツ ガール

「ボーイ ミーツ ガール」。このタイトルに副題を与えるとすれば、「若くして出会い、同じ夢を求め続け、死が分かつまで連れだった男女の物語」。
最近、地元の福岡放送制作番組「シーナ&ザ・ロケッツ」を見て、夢を貫くことの爽やかさが印象的だった。それは、鮎川誠が演奏していたライブハウスにやってきた副田悦子との運命的な出会い。
つまり、”ボーイ ミーツ ガール”。
鮎川誠は、久留米出身で父はアメリカ人で、ハーフ。シーナ(副田悦子)は北九州若松出身で父親がダンスホール経営で、幼少の頃からダンスホールで踊ったり跳ねたりしていたという。
彼らの音楽は今聞いても、代表曲”You may dream”はじめ、シンプルではあるが古さを感じさせない。
音楽の性質は違っても、その浮揚感に思い浮かべたのが、スウエーデンの国民的ミュージックバンド「ABBA」。
1970年代、連合赤軍事件や三菱重工爆破事件で、政治に厭(あ)いていたサ中、ABBAの「Dancing Queen」の浮揚感は、我々を別世界に連れて行った。
ABBAは、なにもかもが「異例」ずくめのポップス・グループであった。
まず、男女カップル2組の4人組のバンドは、それまでにないバンドの形態であった。
ABBAは1970年代半ば、「彗星」のごとく出現して、成功を手にしたグループだと思われがちだが、そのメンバーは全員60年代からスウェーデンで活躍してきたトップ・スターだった。
女性ボーカルを担当していたアグネッタ・フォルツコグは1950年、スウエーデンのヨンショーピングという、ベッテルン湖の砂浜が美しい街に生まれた。
アグネッタは、15歳で学校を退学してソロデビューする。
会社勤めをしながら夜はバンド活動をし、17歳にしてヒットチャート1位になり、国民的なアイドル・スターとなった。そして18歳でストックホルムへ。
実は、「Dancing Queen」は、ディスコのフロアで周囲の視線をひとり占めする17歳女子の「輝き」を歌ったもの。
”You are the Dancinng Queen.Young and sweet,only seventeen.”
17歳で国民的スターとなったアグネッタの姿と重なる。
アグネッタは、ビヨルン・ウルヴァース作詞作曲のこの曲と出会った時に「心が震えた」と語っている。
ビヨルンは、高校時代に結成したグループ「フーテナニー・シンガーズ」で一世を風靡したトップ・スターだった。
あるテレビ番組で競演し、話ているうちに互いに通じ合う「何か」をに感じた。ドキュメンタリーで、ビヨルンは魔法にかかったようだったと語っている。
そして二人は結婚する。結婚式でピアノをひいたのが親友のベニー。このベニーもたタダものではなかった。
「スウェーデンのビートルズ」と呼ばれた大物バンド、「ヘップ・スターズ」の中心人物だったベニー・アンダーソンだった。
そしてベニーの恋人が、一緒に音楽活動をしていた女性ボーカルのアンニ=フリート。
当初、グループを結成しようなどという思いは全くなかったが、一緒にカバー・ソングを歌っているうちに、オリジナル曲をつくって大ヒットしたりして、ついに1972年ABBAが結成された。
「ABBA」の名は、4人の名前アグネッタ、ビヨルン、アンニ、ベニーの頭文字でてつくられた名前である。
ところが二組の夫婦で結成された幸せなファミリー・グループなんていう存在は、パンク・ロック全盛期の70年代当時には格好の「非難」の対象となった面がある。
グラム・ロックやパンク・ロックが台頭するなかで、ABBAの「幸せな家族」というイメージは、「商業主義」の生み出した幻想にすぎず、レコードを売るために作り出された「虚像」だとしか受け取られなかった。
そのため、彼らの人気が高まるにつれて、ゴシップがない分、ゴシップが捏造されることもあった。
彼ら自身はそれを望んだことは一度もなかったが、そうした周囲の変化が彼ら4人のキズナに少しずつヒビを生じさせ、さらには二組のカップルの仲を引き裂いていったことは否定できない。
アグネッタとビヨルンに二人目の子供が生まれると、アグレッタは子供達との時間をほしがった。
アグネッタは音楽活動と子育てを両立させるのがますます困難となっていき、夫ビヨルンは、妻アグレッタさえその気になれば、いろんな仕事ができるのに、といらだった。
そして「SOS」(1975年)は、いままでのABBAの曲とは違う雰囲気を醸していた。それは「別れ」を歌った曲であった。
ビオルンは「SOS」を自分の気持ちを整理したくて書いたが、メンバーは二人のことを思い涙ぐんだという。アグレッタは、あまりにも自分達のことを言い当てた歌詞に躊躇したものの、「SOS」を切々と歌ってみせた。
ビヨルンは、歌詞にある「勝者」がすべてを手に入れるなんてありえない。あの状況では両方が敗者である。つまり「SOS」は完全にフィクションであったとも語った。
とはいえ、「SOS」はABBAの名曲中、「最高傑作」の評価が多い。
二人の女性ボーカルがいるというのは、それだけでも難しい問題があったものの、彼女ら二人の声質もイメージも対照的なのだが、それだけに二人で歌うと素晴らしいコーラスができあがった。
ところが「SOS」に2年後にリリースされた「ノウイング・ミー ノウイング・ユー」(1977年)は、メンバーの「人間関係」に変化が生じていることを暗示していた。
実際、もう片方のカップルであるベニーとアンニも長い交際を経て結婚したが、2年半で離婚した。
そして、解散の公式発表もしないまま、それぞれの道を歩み始め、1983年にABBAは活動を休止する。
その後も、アグネッタは数曲ソロでレコードを出すが、やがて子どもたちとの生活を大切にするため、マスコミから完全に姿を消すことになった。
1999年、コンテスト優勝から25年、ヒット曲を満載したミュージカル「マンマ・ミーア」がロンドンで初演され、ABBAの曲はリバイバルしたばかりではなく、新しい次元に高められた感があった。
日本では「劇団四季」により公演された。
実は、ABBAはいまだに解散宣言をしていない。結成についても、どの時点かあやふやなのだという。
ビヨルンは、ドキュメンタリー番組で、「ABBAは自然に生まれ、自然になくなった。ただそれだけのことさ」と語っている。

少女エバは、1934年ドサ周りのタンゴ歌手に誘われて田舎からブエノス・アイレス出てきた。
芸能界にコネを作るためなら、どんなことでもするような女の子だった。
都会に出て5年後の1939年にはラジオにも出演し、ひとかどの女優になっていた。
しかし、スラリとして目元ぱっちりだったが、田舎ナマリがぬけずに演技も下手、ようやく「端役」をもらう程度でしかなかった。
しかしエバの本領は、「美」ではなく「頭脳」にあったようだ。
自分の下積み生活でなめた屈辱や辛酸を胸に、自分を売り出してくれる人々に大胆に近ずいていく。
大した教育を受けていないにもかかわらず、新聞や雑誌を熱心によみ、政治や社会について素晴らしい理解力を示し、むしろ男性の方が彼女の判断を仰ぐようになった。
だが、彼女の底力は「路上」で養われたといってよいかもしれない。
そこで労働者のリーダー格の男たちと知り合い、このことが彼女の「政治力」の源泉となっていく。
そのことを、本人が計算していたかどうかは定かではない。
彼女のもう一つの才能は「英雄」を見つけ出す預言者的な嗅覚であった。
エバは、アルゼンチンの政治や経済界の大物とも親しくなっていき、その過程で新しい視界が開けていく。
エバの路上生活の中で、の当たらない都会の片隅をその日暮らしで生きる人々を知り合った。
また自分を卑しめてきた一握りの金持ちとの、独裁政治のもとでの圧倒的な「貧富の差」が、彼女の胸中を重石のごとくに占めていた。
そして、エバが探したのは、単に財力や権力をもつ「偉くなる男」ではなく、この国を変えうる「英雄」であった。
そしてついに彼女は、自身が出演するラジオ番組のパーティで、その英雄に出会うのである。
ペロンとよばれたその軍人は、立派な体格と、好感度で若い将校達に人気であった。
この時、フアン・ペロン48歳、エバは24歳である。
ペロンは最初の妻をなくしており独身であった。
というわけで、気分は遅れてやってきた「ボーイ ミーツ ガール」。
ペロンはエバと付き合ううちに、エバが単なる「遊び相手」以上の存在であることに気付く。
それどころか、ペロンは彼女の知力や人脈からして、ペロンの片腕、もしくは「守護神」になってくれるかもしれないと思うようになる。
そして、いつしか2人は一緒に暮らすようになる。
そしてエバの「預言者的」才能は次第に現実味を帯びてくる。
第二次世界大戦後、大地主の封建的支配に不満を爆発させた都市労働者のために社会情勢は不安定となり、ペロンはそうした情勢をうまく利用し、彼らを扇動しつつ彼らの支持を集めていく。
こうした采配の陰には、労働者のリーダー格にもワタリをつけられるほどの「エバの人脈」があったことは間違いない。
そしてついにペロンは副大統領に選ばれることになった。ペロンはエバを頼りにしていることを公衆の前でも決して隠すことはなかったのである。
ところがペロンの運命は暗転する。
ペロンを新たな独裁者として喧伝する勢力があり、また戦時中のドイツ派ともみなされ、その責任を追及され逮捕されるのである。
逮捕後、ペロン自身も自分の命運はつきたとエバに語ったという。
ところがここからがエバが本領を発揮する場面であった。
エバは、そこから10日間、ブエノスアイレスじゅうを巡り歩いて、ペロンを救うために、労働者達にゼネラル・ストライキをよびかけたのだ。
そしてなんと70万人の労働者がデモを行い、ついにはペロンは「釈放」されてしまうのである。
その釈放5日後に2人は正式に結婚した。
そしてフアン・ペロンは、1946年の選挙で圧倒的な勝利で大統領となった。
ペロンは自分の運命が彼女によって開けたと信じそのことを隠さなかったものの、民衆の「エバを副大統領に」という声には耳を貸さなかった。
それでもエバは、大統領夫人として富を手にし世界を旅し、世界中で歓迎された。
その間、貧しい大衆のために公共施設をつくり民衆にも尊敬された。
しかし彼女の過去を知る者には厳しく、口封じをして、追放、逮捕なども辞さなかった。
彼女のことを悪く書いた新聞を許されなかったし、彼女に屈辱をあたえたかつての上流社会の人々も手痛いシッペ返しをうけた。
しかしその後、アルゼンチンは不況に陥り、ペロンも政治危機を迎えるなか、エバも病におかされていた。
1952年6月エバは病に冒され33歳で亡くなった。
エバの遺書には、次のようにあった。
「私は神が、私の多くのあやまち、私の欠点、私の罪によってではなく、私の人生を賭けた愛によって裁いて欲しいと思います」。
彼女の生涯は、「エバ役」を切望した歌姫・マドンナ主演の1996年映画「エビータ」によって描かれている。

アレキサンダー・グラハムベルとヘレン・ケラーの友情はヘレンが6歳の時に始まった。
ベルの母は聾者で、ベルの父は読唇術を完成させた。ベル自身も聾者の妻と四人の子供をもうけ、生涯をともにしている。
祖父は吃音治療を研究し、ベルは聴覚障害者が話す技法を発明した。ことばを理解し、伝えることに生涯を費やした一族といえるかもしれない。
ベルは父親と仲がよく、二人は一種独特の話題を共有していた。
二人は、川を上下する船やボートをながめていて、どこかでききなれない小鳥が鳴くと、ベルは、「おとうさん、いまの声は、どんな記号であらわしますか」とたずね、その声を口にして、くちびるの形を研究し、ああでもない、こうでもないと、「発声学」の研究に夢中になっていた。
ある日、ベルはヘレンに電信柱に手のひらを押し付けてみるようにすすめる。ヘレンは電信柱の低い振動をはじめて感じ、ものごとが「伝わる」ということに対して衝撃をうける。
当初ヘレンは大学を卒業したら教師サリバンとともに人里離れたところで書き物をして暮らそうと考えていた。しかしベルはヘレンを次のように激励した。
あなたの仕事をきめるのは、あなたではない。我々は、ただ宇宙を支配している大きな力の道具にすぎないのだ。だから、自分を一つの型にはめてしまってはいけない。あなたが一つでも多くの仕事をすれば、それだけ、世の中にいる目の見えない人や、耳のきこえない人の助けになると。
そしてヘレンは、こんなにきびしく私を励ましてくれたのは、ベル以外にはいなかったとは書いている。
しかし深い友情と信頼に裏打ちされた激励とは別に、ヘレンの人生を操作しようとする善意の人々も大勢いた。
ヘレンが在学中に書いたさまざまな手記を通して「三重苦の乙女」に多くの注目が集まると、全盲聾唖の「障害者」が生きていくにはこれぞ最善と思うプランを持ってヘレンの元に押しかけてきた。
せめて大学を卒業するまではと思っていたヘレンやサリバンに対して、大学で学ぶより、視覚、聴覚障害の子供たちのために働くことこそ人類全体の益になるといいつつ、ヘレンがこういう事業をはじめようとしているとふれてまわった者さえもいた。
そんな中ヘレンケラーが14歳の時、あるパーティーでに紹介されたのが、クレメンスという人物だった。
クレメンスは面白おかしく話すのが上手で、初対面からヘレンを大いに笑わせ、ヘレンは自分の真の友人になる人と直感した。
なぜならクレメンスの機転は、時にヘレンに無神経な言葉をかけるものを痛烈な皮肉でやっつけるために使われることもあったからだ。
クレメンスがヘレンの後見人として討論に立った。彼は「障害者に学問は無駄である、福祉事業に打ち込むことこそ神の御心だ」という主張に対して次のように反論した。
「支援するとは相手にかわって何が最善かを決定することではない。責任能力のある成人が仕事を選ぶとき、世間を知らない子供を相手にするように手取り足取り差し出がましく口を出すのは対等な関係とはいえない。ハンディを持っている人を支援したいと思うとき、そのような口出しを支援と勘違いすることがある。自立した人間ではなく”保護してやらなければならない弱者”だと思ってしまうのだ。そこに悪意はないとしても、善意に潜む思い上がりには注意しなければならない」。
この偽善嫌いの皮肉屋クレメンスこそが、後のアメリカの国民的作家・マーク・トウェインである。