蠱惑的な地名

世の中には、不思議な地名がある。場所の立地も読みも謎めいていて、「蠱惑的(こわくてき)」な地名とでもいおうか。
日韓共同開催のワールド・サッカーにおけるカメルーンの寄宿地である中津江村は、福岡県と大分県の県境にある村だが、その村を中心にした地域に「鯛生金山」(たいおきんざん)というものがあった。
山中に鯛が生きるという、謎めいた地名がついた場所。しかも金の産地というのだから、地名だけでも「蠱惑的」。
1972年閉山の東洋一の金山であった鯛生金山は、1983年「地底博物館鯛生金山」として蘇った。
この金山を知ったの約15年前、福岡県東南部の星野村や矢部村をドライブしていた時に、山林の中で「鯛生金山まで15キロ」という小さな表示版と出会ったからだが、我が地元・福岡に接した大分県にそんな金山が存在することなどまったく知らなかったのだ。
ところで金山に近い大分県の日田は、江戸時代より交通の要衝として栄えた。
瀬戸内海より、河川を利用すれば、有明海にも玄界灘にも出ることができる。
そこで江戸時代、日田は「幕府直轄領」となり、米作りばかりではなく木材も主要な産業となった。
明治時代にはいって、福岡県の矢部との県境に近い処で鯛生金山が発見され、海外からも人が押し寄せるほど活況を呈したが、1972年に閉山となっている。
しかし、福岡県筑後地方と県境にあり日田市にも近い中津江村に位置するこの金山、なぜか知名度が低い。
当時、九州の日田は大宰府に通じる交通の要地であったがため日田は江戸幕府の直轄領なっていて、日田産の米は、幕府に納められた。
しかしこの日田が直轄領になったもう一つの理由は、鯛生金山の存在があったからではなかろうか。
しかも、この金山の存在は人々に隠されてきた、いわば「隠し金山」だったのでは?
そんな疑念をもちながら、八女から車で1時間ほどかけて鯛生金山・地底博物館に行ってみると、その予測を裏付けるような展示物と出会った。
「地底博物館」の出口近くにいくと、松本清張が日田を舞台に「西海道談綺」(さいかいどうだんき)という小説を書いた際の資料が展示してあった。
1971年から76年まで連載されたこの小説は、日田の金山を「隠し金山」と想定して物語が展開しているのだ。
さらに、鯛生金山を出て車で日田に向かう途中、予期せぬものに遭遇した。
それは、「下筌(しもうけ)ダム」。下筌ダムは、山林地主・室原知幸のダム建設反対の戦い、すなわち「蜂の巣城の戦い」で有名な場所である。
室原の山林を流れる津江川の下流にある久留米がしばしば大水害に見舞われており、この地の「ダム建設」に当初から反対したわけではなかった。
国の役人が、小学生を諭すように「建設省は地球のお医者さんです。信頼して任せて下さい」といったり、一方で「日本は戦争に負けたんです。それを思えばこれくらいの犠牲を忍ぶことが何ですか」といった高飛車な態度に出た。
その「横柄」さのひとつひとつが室原の逆鱗に触れたといえるが、室原の妻が「大変なことになった」と日記に書いていたのは、室原の性格を熟知していたから。そして、実際にその予想は正しかった。
早稲田法学部卒業の室原は、地元では「大学様」とよばれていた。
すでに60歳を超えていたが、国との戦いに備え自宅にこもり「六法全書」を片手に憲法、土地収用法、河川法、多目的ダム法、電源開発促進法、民事訴訟法、行政訴訟法までをも跋渉した。
そして、国相手の訴訟は75件を超えるに至った。
室原は国との戦いで「智謀」の限りをつくした。
たとえば国は土地収用法14条の適用にあたり、測量に当たって已むをえない必要があれば障害となる伐徐を県知事の認可で出来ることを定めているが、その障害物を「植物若しくは垣、柵等」と限定している。
これを字義どおり解釈すれば、小屋は厳然たる構築物として伐除の対象外となるはずだと考えた。
住民等は民法上の権利を居住性を具備した小屋を次々に増やす戦術にでた。
つまり実用ではなく、「法的戦術」のために小屋をつくりはじめ、いつしか黒澤明の映画「蜘蛛の巣城」にちなんで「蜂の巣城」とよばれた。
裁判費用は室原一人の拠出であったにせよ、一般の村民は「監視小屋」につめることなどにより、長期の闘争は日稼ぎに頼っている者にとっては深刻だった。
イツ終わるともしれない戦いに、住民達が生活の糧をこの地以外に求めるにつれて、「蜂の巣城」も縮小して室原の孤軍奮闘の様相を呈していった。
そして皮肉にも、山森を守るための費用捻出の為に山林を売らねばならなくなっていった。
裁判では国側が勝訴し、下筌ダムはついに建設の運びとなり、室原は訪れる人々に「ダム反対」を逆さに「タイハンムダ」と読ませた。
1970年春、下筌ダムは完成。室原は自宅に闘争本部を移し、最後まで反対を叫び続けたが、この年の6月28日に来客を送り出した後「気分が悪い」と言って、翌日に死去した。
享年70。葬儀にはすでに村を出て行った人、建設省関係の人も参列した。涙ながらに弔辞を読んだのは当時の九地建の所長だった。
その時、「公共事業、それは理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならない。そうでなければ、どのような公共事業も挫折するか、はたまた、下筌の二の舞をふむであろうし、 第二の、第三の蜂の巣城、室原が出てくるであろう」と結んだ。
室原が語った「公共事業は法にかない、理にかない。情にかなわなければならない」は、ムダどころかその後の行政闘争の基本原則として生かされていった。
ところで、ダム建設反対闘争のリーダー室原知幸の山林の領域に「鯛生金山」の金鉱脈が走っていることを知った時、室原智幸のダム反対闘争のイメージが、幾分「変色」することにもなった。
それは、室原知幸という存在が、聖地(金山)の入口を守る「獅子」のような存在に見えてきたからだ。

福岡の太宰府天満宮の境内には、都府楼(太宰府政庁)に住んだ官人の歌が刻まれてい石碑が立っているが、その中に 笑える歌碑が菖蒲池そばにある。
「人とあらずは 酒壺に なりてしかも 酒に染みなむ」。
笑えるのは、「酒壷になりたい」という内容もさながら、作者が万葉の代表歌人である大伴家持(おおとものやかもち)の父親にあたる人物だからだ。
大伴旅人は、歌も詠んだがどちらかといえば、武人としての性格が強かった。
大伴旅人は天智天皇四年(665年)の生まれで710年の正月、騎兵や隼人(九州南部の異民族)・蝦夷(東日本の異民族)を率いて都を行進しているので、武官としての能力は高かったと推測できる。
この頃は、元明天皇・元正天皇という女性天皇が続いた時代で、養老四年(720年)に起きた隼人反乱の鎮圧を命じられている。
しかし、平定が終わる前に都で右大臣・藤原不比等が亡くなったため、帰京の命令が出て旅人だけ帰っている。
その後、724年には聖武天皇の即位に伴い、正三位に昇進し、728年には、妻・大伴郎女(いらつめ)を伴って大宰府の長官に赴任した。
既に60歳を過ぎているので左遷のようで、 間もなく妻が亡くなっている。
その時、旅人が抱いた孤独や寂寥は想像にかたくないが、大宰府にいる間に山上憶良などと親しくなり、筑紫に歌壇ができるほどであった。
ところが中央で他の高官が次々と亡くなったため、いつしか旅人が臣下最高位となってしまい、高齢だったこともあってか、天平二年(730年)11月に大納言へ昇進し、帰京を命じられている。
旅人は都にあって、まもなく病となり、7月25日に亡くなった。
その旅人が味わった悲哀のゆえか「酒」について詠んだ歌が非常に多い。というよりも酒そのものが主題というものばかり。
前述の「人とあらずは 酒壺に なりてしかも 酒に染みなむ」を意訳すると、「人間でいるよりも、酒壺になりたいものだ。そうすれば酒に浸されていられるから」というものである。
こんな酒好きの大伴旅人が、もしも酒の川などというものがあったら、さっそく飛び込んで泳いでいたにちがいない。そんなことを思ってしまう蠱惑的な地名が、神奈川県・小田原にある。
箱根・小田原近くを流れる「酒匂川」(さかわがわ)であるが、酒が匂う川なんて名前、大伴旅人ほど酒好きでなくとも魅惑的な地名である。
この川の名との出会いは、個人的に結構インパクトのあるものであった。
2006年8月18日、小田原アリーナでバトミントンの試合を観戦していたまさにその日、小田原アリーナに面して存在するこの川が豪雨で増水し、釣り人が中洲に孤立しヘリコプターで救出するという出来事が起きた。
翌朝の朝刊一面トップを見て驚いたのは、小田原アリーナが写っていたばかりか、釣り人がヘリコプターで救出されている写真。それに20数名が流され2名が死亡したという記事の内容だった。
そして、小田原アリーナの隣の川の流れが「酒匂川」ということを初めて知ることになったのだが、それからまもなく、偶然にもある映画の場面で「酒匂川」の名と再度遭遇することになる。
実はこの川、黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)の一場面の舞台なのだ。
誘拐犯人は身代金の受け渡しに、東海道線の特急の窓から現金の入った鞄を投げろと指示してきた。
鉄橋の手前で誘拐した子供を見せるから、川を渡りきったところで鞄を投げろと言う。
そして犯人が指示してきた川の名前こそが「酒匂川」であった。
カーブする川沿いの道に挟まれた狭い三角地帯。作品ではこの部分に砂利を盛って高くし、その上に子供と共犯者を立たせ、目立つようにしていた。
この三角地帯は現存しているらしいが、完全主義者の黒澤明は、「あの建物が邪魔だ」と酒匂川沿いにある二階建て民家の二階部分を壊させ、撮影後には元通りに作り直したというエピソードが残っている。
しかし、酒匂川の話を語るには黒澤明よりも、二宮金次郎の方が先かもしれない。
二宮金次郎は、この酒匂川の氾濫を契機として一家離散の状態に陥り、その苦難から立ち直る経験を生かして、その後の数多くの「農村復興」をもたらすことになる。
小田原アリーナ最寄りの小田急線・蛍田(ほたるだ)駅から二つめの駅「栢山(かやま)駅」から歩いて15分で二宮金次郎の生家に着く。

京都観光の目玉の一つが「東映映画村」で、この映画村のある地名が「太秦(うずまさ)」。なんとも面妖な地名である。
794年の平安京遷都の10年ほど前に長岡京遷都を行っているが、その時、造宮使・藤原種継が暗殺されて、あらためて平安京に遷都がきまった。
実は、この藤原種継の母親が「秦氏」であり、京都市右京区「太秦(うずまさ)」がその本拠にあたる。
東儀秀樹は雅楽家として知られるが、東儀氏は奈良時代から続く雅楽の「楽家」(がくけ)の家系に生まれ、1500年ほど前まで溯る由緒ある家柄なのだが、そのルーツは秦氏である。
聖徳太子が生きていた時代の秦氏の族長こそ東儀氏の先祖であたる「秦河勝」で、聖徳太子のブレーン及びパトロン的存在でもあった。
その証拠に、秦河勝は太秦に「広隆寺」を建て、聖徳太子より「弥勒菩薩」半跏思惟像を賜り、それをこの寺に安置している。
また、右京区西京極には「川勝寺」とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」との碑がある。
数年前に、瀬戸内海に面した「秦氏ゆかり」と聞いた岡山県の赤穂市に近い港町「坂越」を訪れたところ、神社の境内で東儀氏の名をみつけ、東儀氏が秦氏から分かれた一族であることを初めて知った。
秦河勝は、聖徳太子亡き後、蘇我入鹿の迫害をさけ、坂越にやってきたのだ。
村人の朝廷への願い出により、創建されたのが「大避神社」である。
なお秦河勝が、故郷の「弓月国」からもってきた「胡王面」がこの神社にあり、そこには「天使ケルビム」の像が彫られている。
このケルビムは、意外にもイスラエルの「契約の箱」にとりつけられたもと同じである。
実は、古代ヘブライ王国の12部族のうち10部族は、それ以前ンにアッシリアの支配やバビロニア捕囚などで離散し、残った「ユダ族」からユダヤ人と呼ばれるようになった。
そのユダヤ人も紀元70年頃ローマに滅ぼされて離散し、モーセの十戒のはいった「契約の箱」も行方不明となっている。
たた彼らの足跡と推測される地名がシルクロード各地に点在している。
秦氏は、日本書紀によると応神天皇14年に「弓月君」(ゆづきのきみ)が、朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し「秦氏」の基となったという。
彼らは、キリスト教「ネストリウス派」(景教)ではなかったかと推測される。
もしそうでるあならば、ザビエルによるキリスト教伝来よりも9世紀も溯る時期に、「福音書」の内容などが日本に伝わっていたことになる。
秦氏が仕えた聖徳太子の本名は「厩戸皇子」(うまやどおうじ)だが、イエス・キリストが「馬小屋」で生まれた伝説を連想させる名前ではないか。
一応、彼らの「出身地」は朝鮮半島となっているが、朝鮮半島は単なる「経由地」であり、そのルーツはペルシャからウィグルを経由して中国・秦国にやって来た可能性が高い。
というのも、ウィグルあたりに「三日月王国」という国があり、中国の史書「資治通鑑」では、この国を「弓月(クルジャ)王国」と表記しているからだ。
秦氏は中国の秦の「万里の長城」の建設に従事し、土木事業に優れた能力を身に着けていた。
そこで彼らは、天皇の権威を誇示するために「巨大前方後円墳」の建設をはじめ、数々の土木工事を行ってきた。
例えば、淀川流域は氾濫が多く荒れ果てていたが、ここに堤防を築き難しい「治水工事」をやってのけ、京都盆地一帯をその所有地にした。
その際、相次ぐ鴨川や桂川の氾濫で荒れ果てた土地を治水工事によって川の流れを大きく変えて、そこを住みやすい土地に改良していったのである。
この秦氏は645年の大化の改新後に、秦、畑、波田、羽田などの「姓」に変えていった。
というわけで平安京遷都には秦氏が大きく関わり、平安遷都のための巨額な資金も「秦島麻呂」が出した。
「平安京」という名は、イスラエルのエルサレムと同じ意味で、エル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味である。
その他にも、イスラエルと日本との繋がりを想起させるものは多々ある。
出エジプトの際に、イスラエル人だけが災いをのがれるために羊の血を鴨居に塗る「過ぎ越し」は、日本の神社の赤い鳥居を思わせるし、イスラエル人が「契約の箱」を運ぶ姿は、日本の祭りに際して神輿を担ぐ姿と実によく似ている。
また、ユダヤ人が教育を重視したことは、日本人の寺子屋教育と比肩できる。
、 さらには、伊勢神宮の構造なども、イスラエルの移動式神殿を思わせる。
イスラエルには平安京近くの琵琶湖と大きさも形も似た「ガラリヤ湖」という湖がある。
「ガラリヤ湖」は、古代には「キネレテ湖」と呼ばれていて、「キレネテ」とは「琵琶」を意味している。
さて、「鯛生」「酒匂」「太秦」、自分がたまたま遭遇し気になった地名の由来は諸説あるが、その地名の裏側に一体どんな真実が隠されているのか。