似かよった「対極」

世の中一般で「正反対(対極)にある」と思われがちなものに、意外にも多くの「共通点」をみつけることがある。
見出したその一例は、「天使」と呼ばれたオードリーヘップバーンと、世紀の女スパイとよばれた「妖女」マタ・ハリ。
もう一例は、イギリスの貴族出身でアラブ独立の旗手となったロレンス大佐と、南米の医療活動を通じて社会主義革命を目指したチェ・ゲバラである。
ところで最近、イギリスで元ロシア人二重スパイとその娘の襲撃事件が起き、イギリスのメイ首相はロシア(プーチン)の仕業と激怒し、イギリスからロシア外交官を引き上げさせた。
歴史上によく知られたスパイ事件といえば「ドレフュス事件」を思い起こす。
当時フランスは、プロシア・フランス(普仏)戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。
そのような中で、軍部によって無実のユダヤ系軍人がドイツのスパイであるとして、正義と自由が踏みにじられたのがドレフュス事件であった。
10年以上の年月を要したがドレフュスの無罪は確定し、フランスの共和政の精神はどうにか守られることとなったものの、ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、ユダヤ人に対する民衆の差別感情がその後押しをした面があった。
ハンガリー出身でジャーナリストで、パリに滞在していたユダヤ人ヘルツルは、この事件を通じて、フランスのみならずヨーロッパ全域での「反ユダヤ感情」の強さを身を以て感じショックを受けた。
そこで、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざす「シオニズム運動」が始まったのである。
そして、この事件のもう一つの要諦は、フランスのドイツに対する劣勢を「スパイ」の情報漏えいのせいにしようとしたという点である。
そして同じ構図は、後に同じフランスで「マタ・ハリ」と呼ばれた踊り子にも向けられる。
20C初頭にマタ・ハリとよばれたフランス国籍のダンサーがいた。
彼女は「女スパイ」の代名詞となり、時には「妖女」ともよばれることもあった。
しかし、こういう「イメージ」というものは大概作り出されたもので、国際的に活躍するダンサー・マタハリが何らかの「諜報活動」に利用されたとしても、彼女がドイツ側にどんな情報を流し、それが戦況にドンナ影響を与えたかは、ほとんど判明していない。
それにもかかわらず、マタハリは1917年にドイツのスパイとしてフランス・バンセンヌで処刑された。
近年2005年の10月15日、彼女の裁判の再審請求がフランスの法務大臣に提出された。
それによると、マタ・ハリは当時の愛国心のために歪められた裁判の「犠牲者」であるという。
ドイツに劣勢を強いられたフランス上層部としては、マタハリがドイツと通じていたことにすれば、劣勢の責任を回避できて都合がよかった面がある。
妖女「マタハリ」の人生は、意外にも「天使」ともよばれたオードリー・ヘプバーンとも重なる。
マタハリの本名はマルガレタ・ゲルトルイダ・ツェーレといい、通称を「ゲルダ」とよばれた。
ゲルタもヘプバーンも等しく「踊り子」をめざしていた。
ゲルダは1876年8月7日、オランダの北部レーウワルデンに生まれるが、ヘップバーンにとってオランダが忘れようにも忘れられぬ地であった。
ゲルダは最初の夫の赴任地ジャワのダンスに魅了され、それが彼女を妖艶なマタ・ハリへと変容させていく「色」を与える場所となる。
そして、ヘプバーンの両親ジョセフとエラは1926年にジャワ島のジャカルタで結婚式を挙げている。
その後二人はベルギーのイクセルに住居を定め1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。
ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた。
母の実家がオランダであったこと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって、ヘプバーン一家はこの三カ国を頻繁に行き来していたという。
ヘプバーンは、このような生い立ちもあって英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。
ヘプバーンの両親は1930年代にイギリス「ファシスト連合」に参加し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった。
その後両親は離婚し、第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラはオランダのアーネムへの帰郷を決めた。
オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも「中立」を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。
ヘプバーンは、「アーネム音楽院」に通い、通常の学科に加えバレエを学んだ。
しかし1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンは「偽名」を名乗るようになったという。
そしてナチの危険は、ヘプバーン一家に迫っていた。
1942年に、母方の伯父は「反ドイツ」のレジスタンス運動に関係したとして処刑された。
また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監され、もう一人の異父兄アールノートも強制労働収容所に送られることになったが、捕まる前に身を隠している。
連合国軍がノルマンディーに上陸してもヘプバーン一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による作戦の砲撃にさらされ続けた。 そしてヘプバーンは、1944年ごろにはひとかどの「バレリーナ」となっており、オランダの「反ドイツ・レジスタンス」のために、秘密裏に公演を行って「資金稼ぎ」に協力していた。
ドイツ占領下のオランダで起こった「鉄道破壊」などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。
飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちは「チューリップの球根」の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐありさまだった。
戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、「連合国救済復興機関」から物資を満載したトラックが到着した。
ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。
この時救援物資を送った「連合国救済復興機関」こそ、ユニセフの前身であった。
つまり、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの「戦争体験」が、後年のユニセフへの献身につながったといえよう。
オードリー・ヘプバーンは、マタハリと同様に「スパイ疑惑」と無縁ではなかった。
それは彼女自身というより、周囲のスタッフに向けられたものだった。
彼女の代表作「ローマの休日」は、マッカーシー旋風(赤狩り)でソ連のスパイと名指しされたハリウッドの映画スタッフが、イタリアに拠点を移して撮影されたものであった。
したがって「名作誕生」の背景には、スパイ疑惑への反抗という側面があったのだ。
ヘプバーンは女優の仕事から退き、アフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身して、1992年終わりには、「ユニセフ親善大使」としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である「大統領自由勲章」を授与された。
この大統領自由勲章受勲1カ月後の1993年に、オードリー・ヘプバーンはスイスの自宅でがんのために63歳で亡くなった。

映画監督デビット・リーンは、「人間の営み」を雄大な自然の中で謳いあげた。
監督が描く人間のドラマ自体も壮大だが、それを凌駕するような大自然の猛威が、いずれも圧倒するような画面の中に描かれている。
「アラビアのロレンス」では波のようにうねる砂漠、「ライアンの娘」ではとてつもない海嵐、「ドクトルジバゴ」では果てしない豪雪といった、熱き人間ドラマをさえ呑みこんでしまいそうな自然の営み。
その意味で、映画の主人公は人間に立ちはだかる「自然」だったかもしれない。
さて、第一次世界大戦が始まる前アラブ地方はオスマン・トルコに支配されていた。
大戦が始まると、オスマントルコはドイツ側につき、英仏と戦う。
この時イギリスは、トルコ支配下のアラブ人を味方につけるために、戦後、東アラブ地方にアラブの独立国家をつくるという約束を与えた。
これが「フセイン・マクマホン協定」で、イスラエル建国を約束した「バルフォア宣言」との「二枚舌外交」の一翼となる。
1916年これを信じたアラブ側によって独立が宣言され、トルコに対するアラブの反乱がおきる。
この時、アラブの反乱軍に加わり烏合の衆に近い諸部族を組織して率い、イギリスとの連絡にあたったのが、トーマス・ロレンス大佐である。
ロレンスはもともと考古学者として、アラブ人と早くから交流し、現地の情報に通じていたため、イギリス軍は彼の存在を見逃さず情報将校として用いたのだ。
さて、映画「アラビアのロレンス」ではピーター・オトゥールがロレンス大佐を演じたが、その実際の外貌は一人のカメラマンに焼け付くような印象を残している。
「アラブ人群集の中に一人、目もさめるような純白のベドゥイン風アラブ服を身にまとった碧眼、金髪の青年の姿をみかけた。まるで中世十字軍戦争当時の戦士がそのまま抜け出してきたかと思えた」。
また、ロレンス大佐がアラブ人を操縦する「天才」につき、彼と行動をともにした将校が次のように語っている。
「彼らの感情を不気味なまでに感じ取る能力、あるいはまた彼らの魂の奥底にわけ入って、彼らの行動の源泉を暴き出す不思議な能力」。
さらに別の将校は、「ロレンスという男は、彼自身および彼の部下に対する静かな信頼、そしてけして命令するのではなく、ただかくかくして欲しいと依頼するだけで、見事に目的を達しうる人間であった」と語っている。
実は、映画「アラビアのロレンス」の中で一番印象に残ったのが次の会話だった。
「ロレンス大佐、あなたを砂漠にひきつけているのは何です?」という質問に対して、「清潔だからだ」と応えた場面である。
このセリフから、詳細は省くが、彼の出生にまつわる「影」のようなものを感じる。
ロレンス大佐は、砂漠をこよなく愛し、自らのアイデンティティを砂漠に求めた。そしてオートバイを愛する青年であった。
映画「アラビアのロレンス」で砂漠を通る道路をイスラムの衣装をまとって走るシーンが印象に残った。
ロレンスは異文化のアラブ人を統率するにあたって次のように語っている。
「外国人が他民族の国民運動を動かすということ、それはとにかく困難な仕事なのだ。ことにキリスト教徒の定住的人間が、回教徒の遊牧民を指導するなどといえば、それは二重にも三重にも困難が重なってくる」。
また、アラブの反乱を指揮する限り、少なくとも「外国人だから彼らの命を守る義務を躊躇する」といった批判だけは受けたくなかったと述懐している。
また彼らの心を掴むためには、兵卒とともに食い、彼らの服を着、彼らと同じ生活に堪え、しかも彼らの間に自ら頭角を抜きん出るのでなければ、何人といえどもとうてい彼らを率いることは不可能であろうとも語っている。
そしてロレンスは、自分が組織し率いた「アラブの反乱」は、あくまで民族革命であるべきことが根本として、革命の結果がまたしても西欧白人の新しい植民地建設に終わってはならないという、あくまでも「アラブ独立」に寄り添うものであるべきであるという一貫した姿勢をもっていた。
しかし、ロレンスはアラブ人から「砂漠の英雄」とまで讃えられる一方、自分が軍上層部に利用されている事実を知るようになる。
結局、イギリスや列強諸国との「二枚舌外交」に気がつき始めたのだが、アラブ人の部族同士の対立という現実からもロレンスの思いは裏切られていく。
その後、ロレンスはイギリス帰国し、ようやく平穏の日々が続くかた思えた頃、オートバイ事故で亡くなる。
さて、チェ・ゲバラは、アルゼンチンの経済的に裕福な家庭で育った。ただ未熟児で喘息を患っていたため、両親は人一倍、ゲバラの健康には気をつかったが、ゲバラ自身はその病のおかげで強力な「克己心」を身につけている。
ブエノスアイレス大学で医学を学び、1951年~52年在学中に年上の友人とともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験している。
オンボロのオートバイでの旅立ちは、あまりにも恵まれた自分自身との「決別」でもあった。
ゲバラの旅は金もなく行く先々で仕事をしながら、ゲバラの視線は常に下層で暮らす人々へと向かった。ある鉱山労働者は、賃上げを求めたり労働条件をよくするように頼むと、鉱山主は機関銃をぶっ放したと語った。
そして南米各地の貧困と鉱山での非人間的な扱いを見聞するうちに、次第に「社会正義」に目覚めていく。
その一方で、医学生二人の旅は、東海道五十三次のヤジさんキタさんほどではないにせよ、かなりの「珍道中」ではあったといえる。
二人は、旅の間にいくつかの職業と人格を演じ分ける術を身につけていた。
ある時は、ぼろをまとった放浪者、ある時はハンセン病専門の医者、そして一夜漬けの民俗学者やトラック運転手、時にサッカーのコーチにもなりすました。
大学卒業後には、別の友人とオートバイで再び南米放浪の旅に出て、革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行しグアテマラに行き着いた。
グアテマラで医師を続ける最中、祖国ペルーを追われ亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い共鳴し、彼女と結婚する。
しかし、ゲバラがラテンアメリカで最も自由で民主的な国と評したグアテマラの革命政権だったが、アメリカCIAに後押しされた「反抗勢力」によって瓦解してしまう。
1955年7月失意と怒りを抱いて妻ガデアとともにメキシコに移ったが、この地で亡命中の反体制派キューバ人のリーダーであるフィデル・カストロと出会い、共産主義の思想に共感を覚える。
実は、カストロはキューバ、オリエンテ州の農場主の五番目の子として生まれており、ゲバラ同様にカストロもまた経済的に恵まれた家の出であった。
ただゲバラと違っているのは、ハバナ大学時代から学生運動のリーダーとして活躍していた点である。
キューバの独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、一夜にして「反バティスタ」武装ゲリラ闘争に身を投じることを決意した。しかしゲバラは1967年にボリビア国軍に捕まえられる。
貴族階級のロレンスも、富裕な家に生まれたチェ・ゲバラも、戦乱と革命に身を投じた。
ロレンスはアラブの民衆に寄り添い、ゲバラは南米の貧しい人々に身をよせた。
ロレンスは若き日に考古学者としてアラブを転々として、ゲバラはオートバイで南米を旅した。
戦乱と革命を通じて民衆に寄り添ったロレンスとゲバラは、いずれも志半ばで亡くなる。
ロレンスは47歳でオートバイ事故、ゲバラは39歳で銃殺されている。