それぞれの「反骨」

山手通りと井の頭通りが交差するあたりの小田急線代々木八幡駅近くに「春の小川」の石碑がたっている。
唱歌「春の小川」は大正元年に生まれて、今年100年にあたり、現在も小学3年生で習うようだ。
作詞の高野辰之は、渋谷の代々木に暮らし、渋谷川の支川・河骨川の景色を詠みんだ。
しかし今や、渋谷駅から上流は蓋をされて暗渠となり、下流では開渠ではあるものの、深く掘りこまれたコンクリートの三面張り水路となっている。
東京オリンピックに際しては都内14河川の全部または一部の暗渠化が決定され、その後、急ピッチで工事が進められた。
すなわちオリンピックを開催するために江戸から連綿と続く風土・景観が切り捨てられたのである。
加瀬竜哉というロック・ミュ-ジシャンは、小さい頃、宇田川という川の側に住んだが、川の存在を長く知らなかった。
それは、大人たちの愛、つまり後年自分達が安全に清潔に生きるための選択だったのだろう。
ただ後に、自分が川の上にいて生きていることを知ってショックをうけた。
まるで臭いものにフタをするように、何かを得るために何かを犠牲にしていることを知る。以後加瀬は、東京中の暗渠を訪ね歩くことになる。
そして町の表面には表れてこない川の暗渠を探しだし、見つけてはフタを開けてはいりこむ。
そして「ごめんね」といって、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。
加瀬にとって「春の小川」こそロックの原点なのだそうだ。
さて、小川がコンクリートで隠されてしまったことを「知らずに生きてきた」という痛恨は、一人の作詞家と沖縄の風景との出会いにもうかがえる。
「さとうきび畑の歌」は、作詞家の寺島尚彦が沖縄を最初に訪れた時の体験から生まれたものだった。
寺島は、サトウキビのざわざわと揺れる音から、何か歌をつくれないかと思っていた時、さとうきび畑の下には戦争で命を失った人々の魂が眠っていると聞く。
その瞬間、目の前の風景がモノクロームと化した。
寺島は、戦禍に散った魂の叫びを、風に揺らぐサトウキビの音に託した。
正面きってではないが、平和を願って「ざわわ ざわわ」と何度もリフレインが続き、それが大きなうねりのように広がっていく。

スマップの大ヒット曲「世界に一つだけの花」(槇原敬之作詞)は、他人にない自分独自の生き方を探そうというメッセージが込められていた。
人と比べて競うのではなく、他人にできない創造的な生き方に出会い、能力を磨いた結果、他人を幸せに出来る自分という「花」を見つけることができる。
この歌詞そのままに、オンリーワンを会社経営の理念に生かし成長著しい会社が、「スタート・トゥデイ」。
この会社は、ファッションECサイトであるZOZOTOWNを運営する。
ZOZOTOWNは、毎日お店に通い、発売を待ちこがれていた憧れのブランド服が自宅にいながら購入できる 夢のようなシステムである。
商品の人気や着こなし方も教えてくれるし、検索すれば今まさに自分が探しているものがリストアップされ色も形も妥協せずに買い物が出来る。
「スタート・トゥデイ」を率いる前澤友作は、元ミュージシャンという異色の経歴を持つ。
中学2年生のときにバンドを結成し、早稲田実業卒業後には「インディーズバンド」として活動を始めた。
インディーズ時代はCDの価格、発売時期、ジャケットデザイン、流通ルートなど、すべて完全なセルフプロデュース。
起業のきっかけは、ライブ会場には、CDやTシャツなどを販売するスペースがあり、そこで前澤が趣味で集めていた輸入レコードやCDを販売したのが商売の始まり。
前沢は洋楽レコードのコレクターで、高校時代から趣味でレコードやCDを輸入していたという。
好きな音楽をとにかく他の人にも聞いて欲しいという思いからだが、前沢がセレクトしたレコードやCDを販売してみると、飛ぶように売れた。
そのうちカタログを使っての販売を始め、20歳の頃には、六畳一間の自分の部屋を拠点にして電話で注文を受けつけた。
注文数も増え拡大していったので、会社を設立した。
つまり、「起業」は自然な流れで、2000年には、カタログ通販から「ネット通販」へと移行した。
当時はミュージシャンと経営者という二束のわらじを履いていた。
小さなころからファッションにも興味があり、好きな音楽を届けたかったように、好きなアパレルブランドを多くの人に届けたかったという。
また当時は、前澤らが好きな服をネットで販売している会社はなく、好きなストリート系アパレルブランドに声をかけ、インターネット上にセレクトショップをオープンした。
これが現在のZOZOTOWNの原型である。
音楽の方では、2000年にメジャーデビューしたが、経営の方が音楽よりも楽しくなって経営に専念するようになった。
常に状況が変化していて、企業経営には一つとして同じ仕事はない。取引先、客など関わる人の幅が広く、人数も多い。そして、商品、売上など、あらゆることがどんどん増えて、広がっていく。
会社が成長を続けている最大の理由は、自分たちが楽しめる仕事をしているから。
我々は洋服が好き、一緒に働いている洋服が好きな仲間が好き。いわば、趣味の延長でビジネスをしているようなもので、仕事は「余暇活動」ともいえる。
それでも、それが人の役に立っているから、今の成長につながっている。
ちなみに、ZOZOTOWNの名は、「創造と想像」に由来する。
かつて前沢が輸入レコードを販売していた頃の想いと同じで、スタッフが自分の好きなアパレルブランドに営業に行き、御社の商品が好きなので、多くの人に届けたい」と、自分自身の情熱を伝える。
そうして、ZOZOTOWNに参加してもらえるショップやブランドを一つずつ増やしていった。
前沢の経営は、かつての音楽活動ときってもきれない感じがある。
音楽ではリズムが重要で、サビで盛り上げて、最後に収束させる。つまり全体のバランスをとりながら、数分の限られた時間の中で起承転結をつくる能力が必要で、ビジネスでも同じ。
たとえば、資料を作るときもリズムが大事で、資料にも1曲の歌のようなリズムがなければ、読む人に伝わらない。
たとえ文字の意味が伝わったとしても、心に訴えかけることはできない。
スタートトゥデイ本社に足を踏み入れると、平均30歳ほどのシャツ、スニーカー姿の若い社員たち。
ボーナスが全社員一律、階層が同じならば給与も全員同じという制度をとっている。
違うのは役職給だけで、どれだけ働いてもサボっても、同じ給料がもらえる給与制度のもとで働いている。
ボーナスは同じ給料一律で社内競争を排し、社員にはお客をどう喜ばせるかを考えることに時間を使ってほしいというのが前澤の願いだ。
ランチタイムなしで6時間集中して仕事をするほか、無駄な業務の見直しなどで効率改善をはかっており、労働時間を4分の1もカットした。それでも給与は従来通り支給されている。
ストリートファッションに身を包んだ部長や本部長など、900名以上が仕切りのない大部屋に席を並べる。前澤によれば、いかに「楽しんで」仕事ができているかが重要だという。
会議室や廊下には現代アートが飾られ、オフィスはさながらポップなミュージアムの雰囲気。会議をすれば、どんなにシリアスな内容であっても、笑いが絶えない。
その他にも、音楽と経営の共通点がある。
それはメンバー間の信頼関係が大切なこと。
信頼関係がなければ、同じ目標に向かって協力しあうことはできないからだ。それは4人のバンドでも、900人の会社でも同じである。
前澤の考えで特徴的なのは、競争が嫌いなのでいつも人と違うことをやってきたということ。
ZOZOTOWNの先進的な試みとしては、客の体型サイズを正確に計測するために開発された「計測用スーツ」である。
全身黒で、白のシャボン玉が覆っているような服ZOZOSUIT。
ZOZOSUITを着用後、専用スタンドにスマートフォンを立てかけて、ZOZOTOWNアプリの音声ガイドに従って時計回りに少しつづ回転しながら1周12回の写真撮影を行うことで、「体型サイズ」の計測が可能となる。
計測されたデータをもとに、体にぴったり合ったZOZOオリジナルアイテムの購入が可能となる。
また、20代の女性に高い人気 昨年月に「ツケ払い」のサービスを開始したが、1年も経たないうちに利用者100万人に達した。
前澤によれば、起業家に必要な資質は、センスと反骨精神という。
センスは、ミクロとマクロの視点を併せ持っている人。
人の気持ちや物事の些細な変化に気づくのがミクロの視点。
そしてマクロの視点とは、時代や世界全体の大きな流れを見据えた視点のこと。この2つの視点を併せ持つ人は、起業家に向いている。
反骨精神とは、あらゆることを疑い、立ち向かう精神である。
あらゆるルールやシステムを疑ってみる。
なぜ、そんなルールが決まっているのか。いったい誰が決めたのか、本当にみんなの幸せに役立っているのかという疑問こそ「反骨精神」事始めなのだ。
ルールや常識に反発してみると、人生がおもしろくなるはずである。

人の目がいかないところに「美」を見出すのは、既成概念を覆すという意味で、ロック魂に通じるものある。
その点、青森のBOROに美しさを見出した人や、日本が植民地化した朝鮮の「民芸品」に美を見出した柳宗悦など、ミュージシャンにあらずしてロック魂が宿った人々といえるかもしれない。
さて青森の人々が何十年も、何百年もかけて使い続けてきた衣類をBOROという。
野良着から肌着、そして寝具まで。すり切れ、ツギハギされたBOROは、青森では恥ずかしいものとされ、決して表舞台に出ることななかった。
近年、そんなBOROの美しさがヨーロッパをはじめ世界中のアーティストから注目された。
ある民具研究家は、こんなに布きれを大事にして、粗末にしないで、いのちあるものとして大事にツギハギしたのだと感激し、涙が出きたという。
以来、青森県内の村々を歩き回り、次第に冬の寒さと戦ってきた祖先たちの生き抜くくふうと知恵をたどる旅になっていった。
目の粗い麻布ゆえに寒さをしのぐ重ねの技がBORO独特の色合いを生み出した。
綿花が栽培されなかった青森では、明治の中ごろまで、麻を紡ぎ、布地を織り、衣類や寝具を仕立ててきた。
中でも、何代にもわたって使い続けられたドンジャ。冬を越すごとに、ツギハギがさらに重ねられ、麻布の藍の濃淡は自然と多彩になっていく。
青森では江戸の末期、刺し子の着物が作られるようになる。
刺し子とは麻布を木綿の糸で刺し通し、つづっていく技。貴重な木綿糸の白色は麻布の藍の色に映える。
これ以上使えなくなったボロ布(きれ)を青森の女性たちは捨てることなく、ふたたび布によみがえらせる技を編み出した。
これまで凶作や飢きんに、たびたび苦しめられてきた青森の人々。犠牲になった多くは幼い子どもたちであった。
青森には、そうした子どもたちの霊を弔う地蔵がたくさん祭られている。
毎年、新しい色鮮やかな衣装を地蔵に着せることで、青森の人々は、幼くして亡くなった子どもたちを代々慰めてきた。
BOROの美とは、究極的には、もののかたちの美しさというよりは、人の心のやさしさと美しさということかもしれない。
そういえば、ジーンズも使い込むほどに味が出てくる服。ジーンズは履き古したような色あせや傷こそが魅力の一つとされている。
ジーンズが「反抗のシンボル」とされたことがあったが、BOROが単なるぼろ布でなくなるというのも、既成秩序への反抗といえるだろう。
ところで、「パンク」と自ら名乗るミュージシャンいる。パンクを意味するのが「クズ」。
「パンク」といえば、青坊主で中心部の頭髪をつったて顔面にピンを刺し鋲を革ジャンに打ち、体に鎖をまきつけジャラジャラ揺らし歩く人たちを想像するが、町田は俳優としても活躍するビジュアル系のミュージシャンである。
池袋から埼玉へと向かう東部東上線の成増(なります)という駅がある。
東京と埼玉県との県境に位置し、南口は商店街で昭和調の古い喫茶店があり、北口にはトタン屋根の映画館と西友と古いマ-ケットがあった。
町田康は自らをパンクロック歌手と称して、この町が「原点」のひとつでもあるようだ。
そういえば成増駅近くにには「青木メタル」という工場があったが、この工場が、まさかパンク御用達の鎖を作っていた、ということはなかろう。
町田は成増について、なんら周囲の配慮も無くおのおの勝手な生活の都合上で出来上がった「仮設住宅」のごとき町と表現し、「成増はパンクを引き寄せる町」としている。
その一人がナント自分なのだが、成増には当時、何ものかに「なります」という方向性がほとんど感じられなかった。
その傾向は、町田の書いたもの全般にあてはまることであり、町田がこの町に親近感を抱いたのも、わかる気がする。
町田が成増時代に書いた「つるつるの壺」(講談社文庫)によると、「16歳で親に背いてパンク歌手に成り下がり、19歳でレコードデビューし、20歳でスクリーンデビューして以来自分は、七枚のアルバムを出し、9本の映画に出演した」とある。
町田が17歳のころ大阪市の環境局職員として働いていたことがある。
実際にしていたことは夜中に埋め立てた人工の島に行って、ゴミを埋めた結果生じるメタンガスで火災が発生したらすぐさま市に連絡するというもの。
要するに誰もいない小島を懐中電灯をつけてぐるぐるまわっているだけの仕事だから、まともに働こうとういう意思のあるものはこんな仕事をするはずもなく、人間としても廃棄されて仕方がないような人ばかりだったという。
ところがそんな彼らの間にも、いつ睡眠時間をとるのかをめぐってエゴイズム丸出しの争いがたえない。
その様子を見つつ、町田は次のようことを語っている。
人間として、どこか廃棄されたような、人間の屑のような人達の言っていること、役に立たぬ者達の言動、無能の滑稽さとせつなさ、悲しみみたいなものを、その頃、僕はさんざん見聞きした、と。
それがパンク魂にどんな影響を与えたのかは定かではないが、人間洞察に溢れた小説「宿屋めぐり」などに生かされたに違いない。
最近、町田康訳「宇治拾遺物語」が出版された。それは、翻訳史をゆるがす衝撃作なのだという。
目が二十四個ある鬼に「おまえは二十四の瞳か」と、訳者がやむにやまれぬツッコミを入れたりする。
町田流の創意創作が織り込まれており、不真面といえば不真面目。真面目な受験生を怒らせるかもしれない。
町田康もまた、誰かと比べたり競争したりしないという「反骨の人」のようだ。