痛みと感謝の共同体

「共同体」というものは多種多様だが、共同するのに何か目的があるのかないのか、曖昧なものがある。
社会学では、地縁・血縁など自然発生的な結びつきの「ゲマインシャフト」で、利益を目指すなど機能的な結びつきの「ゲゼルシャフト」という区分がある。
前者の代表例が家族や村落で、後者の例が企業や政治結社などある。
最近、カンヌ国際映画祭の最優秀賞パルムドールを受賞した「万引き家族」だが、実は彼らは血の繋がりのない人々の共同体である。
ではなぜ彼らがなぜ共同生活をしているかが、この映画の主題といえる。
この疑似家族が何らかのオペレーションを果たしているのかいえば、「万引き」に際しての役割分担ということはある。
だがそれは究極の目的ではなく、次第に明らかになってくる絆。それは、「痛み」ということである。
彼らの食事の場面に注目すると、各自カップヌードルを食べている場面もあるが、皆で鍋をつっつく場面もある。
そこで思い出すのは、近年テレビで紹介された、「未来食堂」というものである。
「未来食堂」は、「ただ飯」さえも食べられる夢のような食堂で、東京都千代田区一ツ橋に実在する。
「未来食堂」のメニューはシンプルで、TVで取材されたころのシステムは、定食は、毎日1種類だけで、ごはんは自分でおひつから盛り、おかわりも自由。
「まかない」というものがあり、お店の手伝いを50分することで、定食が1回ただで頂くことができる。
店の清掃をしたり、客の注文聞きとか様々あり、「マニュアル」あって、誰でもできるようになっている。
そして、働いたけれども、食べないという人は、その定食券(権利権)を入り口に貼って帰る。
すると来店した人は、その「まかない券」でタダで飯を食べることさえできる。
働くけど食べないという人は結構いて、それが権利を譲ることで「繋がり」を生み出す。
「あつらえ」というものがあり、本来の意味は、特別に注文して作ってもらうと言う意味だが、「未来食堂」では、用意してある食材の中から2種類を選んで、店主に「あたたかいもの」とか「しょっぱいもの」とかリクエストできるもののことである。
ただ、これは、夜のみのサービスで、定食プラス「あつらえ」で1300円となる。
店主の小林せかいは、1984年まれの32歳で、大阪府出身。高校生の時に、家出をして2カ月間、親とも連絡を取ることをせずに都会で暮らしていた。
その間、「人といっしょにごはんと食べること」をとても大切だと思ったという。
東京工業大学数学科に進学し1年生の時から、学祭で喫茶店をやっていて、3年連続人気度1位となって気をよくし、将来は飲食店を出そうと思うようになった。
大学卒業後、日本IBM、クックパッドでエンジニアとして働いた後に、サイゼリヤや、大戸屋、オリジン弁当などで働いた経験と、ITの知識を生かして、「未来食堂」を始めた。
行動のコンセプトは、あなたの”ふつう”をあつらえます。思想のコンセプトは、誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ります。
そして、信念は人は一人一人が特別であり、同時に平凡な存在である、ということ。
ただ飯さえも食べようと思えばできる「未来食堂」。大切なことはどんなに貧しくとも「繋がれる」こと。
なぜなら各地のNPOが運営する「子供食堂」同様に、未来食堂の存在は格差社会の一つの断面を示すものではある。
だがそこに、何らかの痛みを持つ人々が食堂を利用し、感謝の思いが明日に向かう力となるならば、その存在価値は大きなものであろう。

高等学校の公民科の授業の中で「家事労働」が登場する項目がある。
それは、「国民所得」の項目で、国民所得が必ずしも人々の豊かさを示すものではないことの一例として登場する。
なにしろ国民所得は市場で取引されるモノやサービスの合計として表示される。そこで、金銭のやりとりのない家事はGDPに寄与しない。
反対にクリーニング代や外食代など妻が家事をヌキにしてアウトソーシングすればするほど、国民所得は上昇する。
つまり、妻が家事をこまめにやればやるほど国民所得は減少することになるのだ。
そのために、「家事労働」を金銭として評価して、国民所得に調整を加えた指標がNNW(国民純福祉)である。
NNWにおいて、家事労働以外にも、医療費や公害対策費や軍事費などが調整項目としてあげられる。
実際、家事労働を単なる家庭内でのサービスと捉えるのも違う。
それは、夫の健康管理や子供の学業の支援を通じて妻が行う後方支援(ロジスティクス)活動。大げさな言葉を使えば、「銃後の支え」ともいえる。
かつてイバン・イリイチというメキシコの思想家が主婦の家事を「シャドウワーク」として捉えたことを思い出す。
1980年代に「脱学校・脱病院・脱交通」を唱え、その著書は日本でもよく読まれた。
実は、イリイチはメキシコ生まれではなく、クロアチア生まれのユダヤ人である。
カトリックの神父となって、1950年頃に研究のために立ち寄ったニューヨークでプエルトリコ人のスラムに遭遇し、ニューヨーク司教に願い出てプエルトリコ人街の教会の神父として赴任した。
その後、南米の「解放の神学」に惹かれ、メキシコなどを活動の拠点とした。
最下層で暮らすマイノリティの人々のために奔走しつつ、多く著述を行い社会思想家としての評価を得た。
今時、イリイチが読み直されていい気がする。というのも、家庭や共有(シェア)、NPOといった「脱市場的」な動きが大きくなりつつあるからある。
さて、イリイチのいう「シャドーワーク」とは、市場経済が我々にしらずしらず強要している仕事で、市場が勃興しなければ、生じなかったであろう労力を指す。
卑近な例をあげれば、夫を仕事に送り出すためのアイロンかけや、子供を早くから学校に送り出すための弁当作り。
朝早くかあの通勤地獄も、過大な労働に対して払うストレズや病気も、市場がおしつけたものといえる。
イリイチは、「コモンズ」という概念から「シャドウワーク」を説明する。
「コモンズ」とは、古代ローマ社会で、家庭で育てられるもの、家庭で作られるもの、共有地に由来するものをさす。
そして、このコモンズを現代風に一般の市場で売買されないものというふうに拡張する。
ところで市場の勃興は、土地や労働までも売買の対象としたため、共同体的な機能を奪い、一人だけでいきることを困難にさせ、そこに生まれた不便や不都合が消費となり、それに応じた生産活動が生まれる。
その消費と生産活動の裏側で行われる仕事こそが「シャドウワーク」である。
子供の教育や老人の介護はかつてを家族や共同体が行っていたが、市場における金銭的な取引でサービスで行われるようになると、入施設や入塾の手続きから、車での送り迎えなどが家庭の大きな負担をもたらす。
そしてこれらは主に、対価の支払いのない「家事労働」によって行われているのだ。
さらには、お受験をめぐる親同士のつきあいから、受験勉強がもたらす夜食づくり、ストレスを受けた子供の「ひきこもり」の負荷から、子供たちのネット中毒まで、シャドウワークととらえていいであろう。
最近、「情熱大陸」という番組で、世界コンクールで準優勝した東大大学院出のプロゲーマーが紹介されていたが、市場社会の局面の一部である。
また、ハーバードを出て医者と弁護士までして県知事にまでなった人物が、女性関係で週刊誌に書かれるということで辞任に追い込まれたた。
この人のように、愛情さえも金銭を通じてしか結べなくなる人物も現れる。
良し悪しは別として、この社会のコモンズの喪失(人の孤立化)と関係ありそうだ。
つまり、市場が用意したサービスと交換できるようになると、本来の共同体的な関係から逃げてしまっていということだ。
そこで思い浮かぶのは、世界で一番幸福と呼ばれる国ブータンの最近の変貌ぶりである。
さて、ブータンの国民の9割以上が「幸せ」を感じているのだが、一体ブータンの人にとっての幸せとはどんなものなのか。
例えば、「今日は家族と一緒にご飯が食べられた」とか、「畑仕事はできなかったけど、代わりにお寺に参拝できた」など、日常の些細な事全てを「受け入れる」という気持ちを持っているからである。
ブータンの人々の幸せの源泉が「感謝」にあり、国まるごと「感謝の共同体」だったとはいえまいか。
そんなブータンには、大きな変化が起きている。
毎日家族の仕事をする主婦が、中古テレビや冷蔵庫が欲しくなったりと。
政府が力を入れている観光業では、高級ホテルが進出してきて高級指向にシフトしたり、「殺生禁止」というチベット仏教を守ってきたのに「釣り」が解禁になったりと、激変している。
また、首都では日産のリーフが走り、日本で人気の「マツタケ」を輸出するほどになり、「キノコプロジェクト」が動き出しているそうだ。
こうしたことから、市場は、人々を一人にさせ不満や不安を呼び起こすことで発展するともいえる。
「不満」や「不足」をたえず作りそれを再生産し、金がなければどうにもない社会となる。
それは感謝を忘れる生き方ともいえる。
イリイチは、こうした市場を埋め戻すコモンズの経済文化を再評価し、それは「ヴァナキュラー」なものであるべきという。
「ヴァナキュラー」とは、学校で教えられるラテン語に対して、自然に習得した言語に対しての呼称のこと。つまり「地域性」のことである。
最近の興味深いのは、佐賀で始まった佐賀弁ラジオ体操が、他の地域にも広がりつつあること。
ちなみに博多弁のラジオ体操では、「よかば~い」というかけ声が印象的であった。
ところでイリイチは、コモンズとはかつては共有地のことを意味していたが、今やコミュニティ環境やコンピュータ・ネットワークを含んだ共用環境のことをいうと考えてよい。
つまり、活用しようとおもえば立ち上がってくる環境、それが新しいコモンズなのである。
その反面、そのコモンズを媒介にして新たな相互作用が動くとき、そこには当然になんらかの価値が生じ、経済力もついてくる。
最近の自動車のシェアライディングや民泊などの動きが、ネットでの「共有知」が果たして新たなコモンズとして、闇に退いていたバナキュラーな価値をどの程度引き出すかは、いまのところ未知数である。

日本の競争力の後退や人工知能に仕事を奪われるなど、未来の不安要素はいくつあるが、最も確実なことは、本格的な人口減少が始まれば、社会保障の支え合いの基盤が加速度的に弱まるということだ。
それに備えて、新しい支え合いの基盤を早く作り直す必要がある。
現在、50歳まで1度も結婚したことがない人の割合(生涯未婚率)は2015年に男性で約23%、女性で約14%と過去最高に。離婚も毎年20万件以上と、夫婦で生きていく世帯ばかりではない。
この世代は、就職氷河期に社会に出て、非正規のまま働き続けている人が少なくなく、20年後に65歳以上となったとき、相当数が単身で低所得の高齢期を迎える恐れもある。
昨年、海野つなみの漫画を原作に、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」は、就職として契約結婚したカップルを描き、登場人物が踊る「恋ダンス」も話題になったことは、記憶に新しい。
新垣結衣演じる森山みくりは就職活動に連敗した挙句に派遣切りにあって、将来について悩む日々。
そんなみくりの姿をみていた父親から、星野源演じる津崎平匡の自宅のハウスキーパーを頼まれたことで二人は出会う。
みくりは「就職としての契約結婚」を持ちかけ、時給2千円のアルバイトから、月19万4千円で「雇用」されることに。夫婦ではあるものの雇用主と従業員の関係となる。
ただ、この家事労働をいかに金銭的に評価するかが一つの問題で、家政婦を雇った場合の賃金が一応の目安になる。
まさにこれこそが「契約結婚」における雇用主(夫)と従業員(妻)の関係である。
やさいい雇用主なので「ホワイト企業」ではある。
ところが、最初は雇用関係だった二人も、いつの間にかお互いに惹かれあい、回を追うごとに“本物の夫婦”になっていく。
プロポーズされたみくりだが、これまで有償だった家事が、結婚すれば無償になり、これは「愛情の搾取」なのでは。
そして2人は家庭の「共同経営者」として家事を分担することを選ぶ。
原作者によれば、ドラマ見た人は二通りの反応があったという。
一つは、結婚して家事でお金をもらおうなんて夫婦じゃないというのは、男性や年配の女性が多かった。
もう一つは今までお金をもらっていた仕事が、結婚してタダになるのはおかしいよね」という反応。
ドラマ「逃げ恥」は、そういう見方もあったのかと発見につながる。
ドラマ「逃げ恥」を学問するシンポジウムにおいて、婚姻関係において当たり前とされてきた「性別役割分業をドラマが否定した意義は大きいという評価があった。
その一方で、家事労働者の法的な扱いには問題が多いという指摘もあげられている。
労働基準法では、みくりのように特定世帯に雇われ、住み込みで家事をする人は「労働者」と認められず、労基法の保護を受けないという。
そもそも、夫婦の「家事労働」では勤務と勤務外を判別するのが難しい。
日本は、国際労働機関(ILO)の家事労働者の待遇改善をめざす条約も批准していない。
国家戦略特区での外国人による家事代行サービスが、16年から東京都や大阪市などで始まり、家政婦大国フィリピンなどから出稼ぎでやってくる人も多い。
原作の漫画では、自分の家事は自分でやる「シェアハウス」型で終わる。
愛情のバロメーターといわれる食事。相手の分もついでに作ることはあっても、役割や義務ではなく、相手の分もやってあげるという「好意」と、やってもらった側の「感謝」で生活を回そうという提案で落ち着く。
それは、生活経営の目標は個人の発達や幸せで、主体は「個人」という前提であり、封建的な「家の存続」とは対極にある考え方である。
ただ、シェアハウス型で、関門は「子どもができたとき」ということが予測できる。
漫画の終盤では、みくりは就職して正社員になっている。仕事を続けるために保育園に預ける可能性が高そうだ。
現状、男性の「育児休暇利用率」はわずか5パーセントだが、最近のシェア・エコノミーの増大は、家族の在り様にも意識の変化をもたらす可能性もある。
星野源が歌うドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌「恋」には「夫婦を超えて行け」という歌詞があり、評判になった恋ダンスも、日本人の意識に伝統的に欠けている「ペア」の意識を喚起することに繋がるかもしれない。
というわけでこのドラマの一番の意義は、ものの見方が変われば、重荷が軽くなることを教えてくれたことか。

血の繋がりで、こうした意思のやりとりは他人行儀とも思われるが、家族を自分の所有物のように思うことの方が、よほど問題である。
「ホワイト企業」でもある。
世界3大映画祭の1つフランスのカンヌ映画祭で、是枝裕和監督の「万引き家族」が日本の映画としては21年ぶりの受賞です。 この受賞の理由と意義について考えます。 まず、パルムドールについてです。フランスのカンヌ映画祭は、ドイツのベルリン国際映画祭、イタリアのベネチア国際映画祭と並んで、世界三大映画祭と言われ、この映画祭で上映されること自体が、映画関係者にとっては名誉です。 その最高賞、パルムドールは、誰もがあこがれる賞といっても過言ではありません。 過去、日本からは、1980年、黒澤明監督の「影武者」、1983年、今村昌平監督の「楢山節考」、さらに1997年、今村昌平監督の「うなぎ」など、名監督が受賞してきました。 21年ぶりの快挙となり注目されたのです。 では、何が評価されたのでしょうか。 ひと言で言えば、是枝監督が長年テーマにしてきた「家族」を通して、社会のひずみを浮き彫りにする作風が評価された、ということです。 受賞作、是枝裕和監督の「万引き家族」は、東京の下町で年金をあてに暮らしながら足りない生活費を万引きで稼いでいる家族を描いた作品です。 これまでにも、こうした問題を提起する社会性のある映画を是枝監督が送り出してきました。 例えば、2013年の福山雅治さんが主演を務めた「そして父になる」。 出産時に病院で子供を取り違えられた、血のつながらない親子の葛藤を描き、カンヌ映画祭の審査員賞を受賞しました。 また2004年の作品「誰も知らない」では、育児放棄された兄弟の姿を描き、主演の柳楽優弥さんが日本人として初めてカンヌ映画祭の最優秀男優賞を受賞しました。 テレビのドキュメンタリー番組を作ってきた、その経験を生かして記録映画のように作られる手法が高く評価されています。 是枝監督は、カンヌ映画祭にはほかの部門も含めると今回で7回目の参加となり、パルムドールに最も近い日本人の1人として、近年、名前が挙がり続けていました。 こうした中で、是枝監督の作品は、これまでは、家族を通して人の心の内側を丁寧に描いた作品でした。 しかし、今回の受賞作は、世界の先進国が共通して抱える「格差社会」のひずみを浮き彫りにしています。この点が、わかりやすく、評価されたというわけです。 では、万引きの家族をテーマにしようと思ったきっかけは何だったのか。 是枝監督は、こう語っていました。 「2、3年くらい前に、亡くなった母親の死亡通知を出さずに残された家族が年金をもらい続けながら暮らしていたという事件があった」 当然、万引きは犯罪で、決して許されることではありません。 そのうえで、「今の日本社会で隅に追いやられたり、見過ごされたりしている家族をどうしたら可視化できるかを考えて撮影した」といいます。 ともすると、人間は、自分に理解できない行動に対して疑念を抱き、ときに攻撃的になることすらあります。 しかし、相手の立場にたって、違った側面から世界を見てみると、全く違った考え方が生まれるかもしれません。 今回の受賞作の場合、犯罪である万引きをテーマの1つにしつつも、同時に、映画を通して、貧困層を作り出している今の社会のどこに問題があるのか、あわせて考えるように投げかけています。 是枝監督は、物事を1つの方向からだけでない多面的な見方をするその手助けとなる「つなぐ力」が映画にはあると感じているのです。 ついに世界の頂点にたった是枝監督が、今後、何をつなぎ、社会に問いかけるのか、多様な価値観が生まれ争いや対立が絶えない今の時代にこそ、そのメッセージが重みを増すことになります。 「社会的経済」とは明らかに異なる種類の事業(たとえばフェアトレードや社会的企業、有機農業)が近年数多く生まれていますが、こういう事業の立ち上げにおいて社会的経済系の金融機関が必ずしも有効に機能していない。
「連帯金融」あるいは「倫理金融」などという表現を使うこともありますが、「連帯経済向けの金融機関」という表現する。
忘れてはならないのはバングラデシュのグラミン銀行で、基本的に通常の銀行から融資を受けられない農村の女性層を対象とした金融機関である。
貧困層の生活水準の底上げという点では同銀行はかなりの役割を果たしており、マイクロクレジット(小規模金融)というジャンルを確立したという点ではパイオニア的存在で、ノーベル賞を受賞する。
協同組合の7原則の中にはグラミン銀行に適用されないものがあることがわかります。
たとえば同銀行は普通の企業であり協同組合ではないため第2原則「組合員による民主的管理」は行われておらず、主な顧客である農村の女性層はグラミン銀行の経営には参加できない。
グラミン銀行の使命自体は大変すばらしいことなのですが、その従業員はあくまでも大学を卒業した都市エリートであり、利用者自身による自主運営ができる体制が整っていない。
そのため、銀行側の論理に農村の女性たちが振り回されることも少ない。
このような問題を解決するには、やはり金融機関の利用者自身による自主運営が保証されるような制度が必要となる。
イタリアで生まれてその後スペインにも広がった「倫理銀行」(イタリア語・英語など)である。
この銀行はもともと、協同組合やNPOなどの関係者が事業への融資を普通の銀行に要請した際に断られたため、彼らが自分たち独自の銀行を作って自分たちの事業に融資できるようにならないといけないという思いから1990年代末に発足したものです。
倫理銀行のような事例は、欧州各地に存在しています。
その中でも特に有名なのが、オランダで発足して現在欧州5ヵ国(オランダ、ベルギー、スペイン、英国、ドイツ)で活動しているトリオドス銀行と、ドイツで発足して最近急激な成長を見せているGLS銀行(ドイツ語)、そしてデンマークで生まれてスウェーデンで発展したJAK銀行(スウェーデン語、英語など)である。
トリオドス銀行は1971年に持続可能な事業に対して寄付や融資を行う財団として立ち上がり、1980年にオランダの銀行として認可される。
1990年には環境ファンド事業を開始し、その後オランダ国外でも事業を開始する。
GLS銀行は当初はシュタイナー学校の設立のための資金獲得のために創設されたものですが、その後農業や風力発電など各種事業への融資も始めました。
JAKとは「土地(Jord)、労働(Arbete)、資本(Kapital)」を意味するスウェーデン語の単語の頭文字を組み合わせたものですが、JAK銀行の特徴的な点としては、金利が存在しないという点が挙げられる。
会員になれば誰でもJAK銀行に預金することができますが、金利はもらえないかわりにポイントが手に入る。
そして、預金者自身がお金を借りる必要に迫られた場合。
実際にはJAK銀行の運営においてはそれなりの経費がかかることから、JAK銀行からお金を借りると元金に加えて金利ならぬ手数料を支払う必要がありますが、この手数料自体がJAK銀行の経費をカバーするのに必要な額に抑えられることから、最終的にはこの預金者は、普通の銀行のサービスを利用する場合よりも金融費用を抑えることができる。
金利という考え方を否定して運営されている同銀行のモデルは最近各地で注目を浴びており、実際イタリアでも最近同銀行が立ち上がっています(JAKイタリアのサイト(イタリア語))。

仮想通貨の根幹技術「ブロックチェーン」。金融界では低コストの決済システムをつくる仕組みとして注目されているが、農業でも活用の動きが始まっている。記録したデータの改ざんが難しいというブロックチェーンの特徴を生かし、野菜の品質証明に利用。「エシカル(倫理的)」という新たなものさしをつくり、野菜に新たな付加価値をつけようとする試みだ。
宮崎県綾町。有機農法でつくる農産物で知られる小さな町で、新たな実験が始まった。
野菜についたQRコードをスマートフォンで読み込むと、画面には写真つきで収穫日、育った畑の土壌検査の結果、使った肥料、種の購入先、生産者名、農場の場所などが絵日記のように表示される。
実験は、綾町と電通国際情報サービス(ISID、東京)が2016年10月から行っている。
綾町は1988年、化学肥料や農薬を使わないことをうたう条例を全国で初めて制定。自然生態系に配慮した農業を続け、町ぐるみで厳しい生産管理をしている。
種、土、水、野菜などの品質をデータとして残してきていた。
ISIDは、この綾町の有機農法の取り組みと「ブロックチェーン」の相性が良いと考えた。
ブロックチェーンは、ネット上で一定量のデータを「ブロック」としてまとめ、時系列順に「鎖(チェーン)」のようにつなげて管理する。仮想通貨では取引履歴が残り、この仕組みを野菜の生産管理に使う。
野菜がどこでどうつくられ、運ばれてきたかを正しく記録するトレーサビリティー(生産履歴の管理)の構築が可能だ。
記録が管理された「ブロックチェーン野菜」は、産地偽装ができず安心・安全というお墨付きを得た野菜だとPRできる、というわけだ。
綾町でレタスやニンジンをつくる北野将秀さん(43)も実験に参加している。
有機農法は手間ひまがかかるが、そのコストを価格に反映しきれていない面がある。
「どこに出しても恥ずかしくない栽培をしてきたが、証明できるものがなかった。
農薬を使い安く仕上げる農法も否定はしないが、そこと差別化し、理解してもらえる消費者にきちんと届けば、長年の願いがかなう」と話す。
前田穣・綾町長は「全国の消費者へ安全性を証明する手段として、今後は町の公的サービスの一つになっていくと考える」という。
ISIDの鈴木淳一さん(41)は「安全で環境にやさしい野菜なら高くても買う、という消費者は確実にいるが、産地とうまくつながっていない」とみる。
昨年3月、東京都港区のアークヒルズで開かれた朝市で野菜を試験的に販売したところ、必要経費を含めて一般の倍近い値段としたのに完売した。「5倍の値でも買う」と話した人もいた。
鈴木さんは「値段や味だけでなく『環境にいい』という新たな『ものさし』がつくれないかという試みでもある」と言う。
5月には都内のレストランで綾町産野菜を使い、メニューに「値段」の代わりに、「自然生態系への配慮レベル」を可視化したグラフだけを載せて、お客がどう感じるかという実験もした。
「手間とお金がかかっている野菜が、価格競争だけの市場にのまれるのはもったいない。いいものを

ーターを務めた大和総研の河口真理子調査本部主席研究員は、日本でそれが主流化しないのは当事者意識の欠如も一因と述べ、「生産と消費の現場が断絶している」と指摘した。
NPOフェアトレード・ラベル・ジャパンの中島佳織事務局長は、「サプライチェーンを末端まで追えていないのに、うちには児童労働は絶対ないと言い切る」企業人もいると述べた。
日本のフェアトレード市場規模は極端に小さく、ドイツは日本の13倍、英国は30倍だという。
博報堂DYホールディングスグループ広報・IR室CSRグループの川廷昌弘推進担当部長は、せっかくMSCやFSCの認証を取得しても輸出向けで、国内では消費者から求められないために未認証品と混じって流通してしまう実情を紹介。
一方で、「ESG投資とエシカル消費でサンドイッチすることで(企業も)変わっていくだろう」と展望を述べた。
エシカル認証に携わるFEMの山口真奈美社長は、児童労働の現場で本音を隠す子どもの姿に「声にならない声を拾う」必要を痛感。その世界の存在を伝えるツールのひとつが認証だと語り、「愛ある選択(消費)」を提唱した。
三越伊勢丹の婦人・子供・婦人雑貨統括部 新宿婦人・子供商品部マランジェリーの伊藤千恵バイヤーは、「(消費動機に)『長く使える』が加わるような提案をしていきたい」と抱負を述べた。
消費者庁などは子どもたちへのエシカル消費者教育を始めている。一同は、周囲の大人の意識をも変革し得る次世代にも期待を込めた。

契約結婚のメリットは雇用主が一番信頼できる人であり、また人間関係のしがらみからも解放されることです。
基本的には自宅を掃除することが仕事ですから、わざわざ上司や部下との間に挟まれなくても、相応の対価を支払っていただけます。
基本的に雇用主である人は旦那さんでもありますから、料理について文句を言われるというよりは「美味しい!」と言ってもらえるのでイライラすることもないでしょう。
人間関係に悩まずに働ける環境なのは、幸せですよね。メリット②:家事=労働時間になる.
通常、家事は労働時間とみなされません。だからこそ女性側は、なぜ女性というだけで自分が家事を一任されなければいけないのか、なかには疑問を感じられている方もいらっしゃるでしょう。
専業主婦だろうと共働きであろうと、どちらかに負担がかかっている状態をいつまでも続けることには限界があります。
しかし、旦那さんでもある雇用主が家事を労働時間とみなしてくれるなら、たとえすべての家事を任されたとしても「仕事」と思って取り組める分、丁寧にも仕上げようと思えるし、多少旦那さんにイライラをぶつけられても我慢できます。
「逃げるは恥だが役に立つ」のみくりと平匡さんがそうであったように、一緒に暮らしていれば相手に対して愛情を抱いてくることもあるでしょう。
雇用関係だけで成立していた暮らしも、二人が恋に落ちれば、いつまでも雇用主と従業員ではいられないのです。
恋愛に発展すれば、ルールを制定する必要があります。みくりのように奥さんが外に働くことになれば、今までのような関係が成立しなくなるのです。
それでも二人でトコトン議論し、結論を出していかなくてはいけません。
デメリット②:結婚したいと思ってしまったら…?「逃げるは恥だが役に立つ」の二人は、あくまでも事実婚状態であって入籍はしていませんでした。
つまり新垣結衣さんが演じるみくりは「未婚の妻」とみなされるのです。
しかし、二人の間に愛情が芽生えずっと側にいたいと思ったとき、やはり事実婚ではなく「入籍」というかたちをとらざるを得なくなるでしょう。
結婚となれば、今までのように雇用主と従業員という関係だけで成立していた部分もすべて変更していかなければいけません。
いずれ愛情が芽生え、籍を入れるなら従業員と雇用主の関係にこだわる必要はないのかも。
ただし、旦那さんには家事の時間は本来、労働時間とみなしていいくらい大変であるということを覚えていてほしいものですね…。

シンポジウムで発表する大橋准教授(左)と斎藤准教授=東京都文京区(主催者提供)  「逃げ恥」を学問する――。家事を仕事ととらえ、「就職」として結婚するという設定が話題になったドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(TBS系)を、家事労働や生活経営学の観点から考えるシンポジウムが開かれた。「『やっぱり夫婦』には違和感」「性別役割分業否定の意義は大きい」。研究者はこのドラマをどう読み解いログイン前の続きたのか。(山田史比古) 所得の不平等が強くなったら、社会は富裕層に課税するのだろうか。
これはありそうなシナリオに思える。
なんせ民主主義のもとでは「数は力」であり、貧困層と中間層の数は、富裕層の数を大きく上回るのだから。
しかし著者らは、富裕層への税率(富裕税率)が、そのようには決まらないことを実証的に解きあかす。
鍵となるのは公正の感覚だ。人間は自己利益に関心があるから、多くの人は高い富裕税率を支持しそうだ。
だが人間は、社会の公正にも関心がある。過度の富裕税率を不公正だと考えるならば、それは支持しない。著者らはその歴史的な証拠のひとつとして、参政権の拡大と、富裕税率の上昇との、リンクが弱いことをあげている。
貧困層や中間層は、選挙の影響力を獲得するだけでは、富裕税率を上げようとはしないのだ。
それでは富裕税率を上げる要因は何なのか。著者らは、それは戦争だという。
戦費の調達にお金がかかるためではない。生じた不公正を埋め合わせるためなのだ。
世界大戦においても、富裕層は徴兵を逃れやすく、また軍需により利益を得ることが多かった。
その埋め合わせとして、富裕税率を上げる要求が社会に高まった。
失われた公正を回復するために、累進課税は強化されたのだ。
この「補償論」は、すべての戦争で成り立つものではない。
現在の局地戦争の多くは、徴兵ではなく志願兵によるものだ。また、兵器の高度化は、兵士の相対的な重要性を下げた。
だから富裕層だけが負担を逃れている、ということにはならない。実際、近年ではイラク戦争やアフガン戦争の期間中、ブッシュ大統領は富裕税率を下げたのであった。
所得の不平等が強いというだけでは、政府は、われわれは、富裕税率を上げようとはしない。もしそれを上げたいのならば、人々の公正感に強く作用する新たなロジックが必要だと著者らはいう。
税制は、つくづく人間の価値観の映し鏡なのだと思い知らされる。