20年前、ハリウッド版「ゴジラ」(1998年)をみた時、これは「全然違う」と感じた。
それは、ゴジラが爬虫類に成り下がっていて、日本版ゴジラに漂う雰囲気が微塵も感じられなかったからだ。
それでは、ゴジラに漂う「雰囲気」とは何か。
最近、ゴジラ最新作のしぐさ(動作)が歌舞伎の野村萬斎の動きをコンピュターで再現したと知って、驚いた。そして納得することができた。
それは、TV番組の秘密戦隊「ゴレンジャー」が、歌舞伎の「白波五人男」をモデルに出来たと知った時と同じぐらいに意外ではあったが。
人間とゴジラの関係から思い浮かぶのは、動物を見る面白さは、人間と同じような動きをしつつも、どこか違うということ。両者が全くかけ離れた存在なら、気持ち悪いだけであろう。
メッセージの伝達方法において、動物は腹を見せるのが「降伏」で、毛づくろいは「親愛」を示すなど、どこか人間味さえ感じるが、人間の動作は動物よりもはるかに複雑で捉えがたい。
そんな動作(仕草)が、重要な意味をもつ(生死を分けた)映画があった。
1960年代のフランスでド・ゴール政権に不満を持つ秘密組織が、大統領暗殺を目論むが、ことごとく失敗に終わってしまう。
そこで最後の手段として、凄腕の殺し屋ジャッカルにド・ゴール暗殺を依頼する。
この計画をいち早く察知したフランス警察のルベル警部はジャッカル暗殺計画に立ち向かうが、ジャッカルの照準は着実にド・ゴールを追いつめていく。
この映画は実際にあった大統領暗殺計画を描いた、フレデリック・フォーサイスの傑作小説を映画化した「ジャッカルの日」(1973年)である。
狙う側と狙われる側、双方ともストイックかつ緊迫感をもって描かれていた。
ドキュメンタリータッチの演出もあいまって、観る者をひきこんでいくサスペンス映画の最高峰といえるが、その分クライマックスの「狙撃の場面」は不評が多いようだ。
大統領が予期せぬ動きをしたため、ジャッカルの放った弾丸がそれてしまうのだが、映画ではそれだけのことで、終わってしまう。
ところが、大統領が何故動きジャッカルが狙いを外したかにつき、原作を読むとその理由が書いてあった。
「照準器の十字の線の中点がこめかみに合わさった。やわらかくやさしく彼は引金をしぼった。次の瞬間、彼は信じられないという表情で、駅前広場を見下ろしていた。 炸焼弾が銃口から飛び出す前に、大統領は、ついと頭を傾けたのだ。ジャッカルが茫然として眺めていると、大統領は、前にいる退役軍人の両頬に、おごそかに接吻した。大統領は長身なので、祝福の接吻を与えるためには、ちょっと前かがみにならなければいけないのだ」。
この接吻は、フランスその他のラテン系民族の習慣なのだが、アングロ・サクソンであるジャッカルには、そうした習慣はなかったのだ。
そうしたドゴ-ルの「しぐさ」の意味について、映画では充分に伝わらないのが惜しかった。
「サイン」と「シグナル」の違いが気になってネットで調べたら、人間が出すのがサイン(合図)で、機械が出すのがシグナル(信号)、という素っ気ない説明があった。
しかしサインとシグナルの違いは、「受信側」によって定まる部分が大きいのではなかろうか。
「サイン」は特定の人間だけわかるようパーソナルに発せられたもの、つまり特定の人間だけが読み取れる「何か」である。
それに対して「シグナル」は、誰にでも認識されるように発せられるものである。
したがって、同じものをみたり聞いたりしても、受け取り方がそれぞれに違うなら「サイン」といえる。
アイルランド移民であったケネディ大統領の父親は、靴磨きの少年から「株はどうなりますかね、旦那」と聞かれた時、靴磨きまでが株に手を伸ばしていることに「異常のサイン」を感じ取り、株の暴落前に売り抜けることができた。
また、憎たらしいほど強いといわれた横綱の北の海は、自分への声援が大きくなって、相撲取りをやめる決意をしたという。
歴史上で思い浮かぶのは、ルイ15世の愛人ポンパドール夫人が「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」といったこと。
つまり、夫人は「フランス革命」による自身の「滅び」を正しく予言する。
なにより、夫人自身が散々浪費散財したことが大きいが、日常の生活の中で様々な「滅び」のサインを感じ取っていたに違いない。
一方、ルイ15世の孫ルイ16世の方はといえばフランス革命の勃発事件たる「バスチューユ襲撃」が起こった当日、日記に「何もなかった」と書くくらい能天気だった。
当日のハンティングの収穫の多さぐらいにしか、気持ちが動かない人間になっていたのだろう。
ちなみにポンパドール夫人の「洪水は我が後に」という言葉は、聖書の創世記にある「ノアの箱舟」物語の連想があったに違いない。
聖書には、「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と記してある。
ところで、「世の滅び」ではなく「人間の死」を直接的に伝えるものに「死に装束」というものがあるが、これが文化論的に興味深い。
なぜなら死者は、様々な「サイン」を身にまとうからだ。一番わかりやすいのが額につける「三角巾」であるが、それ以外にも死者にまつわるサインは色々ある。
欧米では死化粧をするくらいだから肉体を重視する。お棺も家具のように立派である。これはキリスト教の復活信仰に基づくものであろう。
日本では、戦没者の遺骨拾いなどでもわかるとおり骨に対する崇拝感があるが、棺は簡素なものである。これは霊魂が事物(骨)にやどるというアニミズム的世界観の表れである。
ただ神社を思わせる霊柩車は日本独自のものであり、一つの文化でもある。
日本人は、もともと仏教とは違う「あの世」感をもっており、この世もあの世もそう違わない生活をしていると考えていた。
天国も地獄もなく、あの世は天の彼方にあり、そこでは先にあの世へきた御先祖様が待っている。
ただ、この世とあの世は、何もかもあべこべで、風習もあべこべである。
この世の人が右前に着物を着るとしたら、あの世の人は左前に着物を着る。
この世の人が、お茶に水をうめるとしたら、あの世の人は水にお茶をうめるのである。
北枕で寝るなとか、靴下(足袋)をはいたまま寝るなとか、親から注意された のも結局は、死人の真似をすると縁起が悪い、ということでしょう。
昔、豪華客船から暗い海に飛び込んだのは誰かと探している時、靴をそろえてあったところから日本人と判明した、という話もある。
あの世へはちゃんと靴をそろえないと渡れないという日本人の意識が、解明のカギとなったのである。
そういえば我が高校時代、ポ-ル・マッカートニーは死んだのではないか、との噂が広がったことがある。
理由はビートルズのアルバム「アビーロード」のジャケット。ビートルズの4人が道路を渡っている写真だが、ポ-ル・マッカートニーだけが裸足(はだし)で道路を歩いている。裸足が「死のサイン」と受けとめられたからかもしれない。
最近、テレビでふたつの「しぐさ」の意味が解明されていて、なかなか興味深いものがあった。
まず、「あっかんべー」とは何かというと、立教大学のある教授によると「あっかんべー」は、赤い目を見せる事だという。
たしかに、目瞼結膜(がんけんけつまく)は、毛細血管が集まっているので赤く見える。
ではなぜ、「赤目」が「あっかんべー」になり、さらには赤目を見せるせることが「いやだ」という拒絶の意味になったのか。
教授によれば、1800年頃の江戸時代の絵「山姥と金太郎 髪結いあかんべい」では、母親に髪を結ってもらう少年が、あっかんべーをしていて、まぶたを下げて、舌を出している。
さらに遡ると、博多の櫛田神社は、安土桃山時代に豊臣秀吉が造った社殿が今も残っているが、その中の風神が、なんと「あっかんべー」をしているのだ。
雷神が雨・風を降らし災いをもたらそうと風神に呼びかけをしているのだが、風神が「いやだよ」という意味で「あっかんべー」をしている。
平安時代の説話集「大鏡」の一文に「めかこうして稚児をおどせ」とあり、「めかこう」とは「目が赤い」つまり「赤目」の意味である。その赤目で「子供を脅す」というのだ。
赤目を見せて、相手を脅すという伝説が今でも残っている場所が奈良市にある、約1300続く世界文化遺産のお寺「元興寺」。
このお寺の別名を「鬼寺」というが、奈良時代、この地に鬼が出没して、お寺の法師が鬼を退治したと言い伝えが残っている。
その退治した方法が、法師が恐ろしい形相をして、悪いものを追い払うために、目をむいて「あっかんべー」をする。その言い伝えが、「あっかんべー」のルーツだという。
ちなみに舌・ベロを出すのは、あっかんべーの「べー」が「べろ」のべーと勘違いされて、舌を出すようになったという。
「しぐさ」のもうひとつは、親が子供とよくやる「こちょこちょ遊び」である。
皮膚感覚の第一人者の大学教授によれば、「くすぐったい」のは、人間の天敵から身を守るための重要な防衛本能だという。
教授によれば、人間の天敵は「虫」。 虫は最も多くの人間を殺している天敵だと言い、そのナンバー・ワンは「蚊」なのだという。
蚊に殺される人間はなんと年間83万人いるという。ジカ熱、マラリアなど蚊が媒介する病気で命を奪われているそうだ。
しかし「蚊」は「かゆい」というイメージで、「くすぐったい」という感覚はない。
実は、「くすぐったい」という感覚は、蚊のような害虫が「皮膚に止まった時に感じる不快な感覚」なのだそうだ。
実際に腕を半分ぐらい入れて、たまらずすぐ出したのだが、第一声は「くすぐったい」というものだった。
教授によれば、「くすぐったい」というのは「血を吸われる危機を察知する不快さ」を示すものなのだそうだ。
くすぐったいと身をよじる。たとえ笑っていたとしても、れっきとした「防衛反応」だと言う。
また、体の部位によっては、くすぐったいところとそうでない所がある。
くすぐったいのは、おもに皮膚の表面近くを動脈が通り自律神経が集中している場所。
耳・首筋・わきの下・手の甲・膝の裏・足など。このように敏感なのは「体の急所」だという。
くすぐったいは、「不快な感覚」を脳で感じているということに外ならない。
それでは、自分でくすぐるとあまり「くすぐったくない」のはなぜかというと、この違いは、予測できるかできないか生じるという。
親子でじゃれあってする「こちょこちょ」の遊びは、そうした「皮膚感覚」を磨いているということ。つまり「防衛本能」を強化していることに他ならない。
1993年 ワールドサッカーアジア予選で、日本がワールドカップ出場を逃した試合は、「ドーハの悲劇」といわれた。
イラクが「引き分け」に持ち込めば、日本は出場できない。日本が試合で頑張るのは当然なのだが、出場の可能性のないイラクがなんでそんなに頑張るのか。
後で聞いた話によれば、イラク選手は、負けたら「鞭打ち」まっていたという。
今時、そんな罰があるのかと驚いていたら、その後のニュースで、イランや北部アフリカなどのイスラム教国では未だに「石打ちの刑」が行われているという話を聞いた。
半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が石を投げ死に至らしめる。
残酷なのは、罪人が即死しないよう、握り拳から頭ほどの大きさの石を投げつけるという。
こんなこといまだにやっているのかと驚きあきれたが、イエスの時代にはそれが普通に行われていたのである。
聖書は、その出来事を次のように伝えている。
律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
「ヨハネの福音書」8章が伝えるこの出来事の顛末だが、罪なき者はいるかと問われ、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行ったというのも、含蓄のある言葉ではある。
イエスの「あなたがたの中で罪のないものが 石をなげつけよ」という言葉には、それだけの権威があったに違いない。なにしろ、人々はそこから一人残らず立ち去ったのだから。
しかしそれ以上に気になるのは、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」という箇所である。
パリサイ人や律法学者が問い続けている真ん中で、身をかがめて地面に何かを書くことを二度まで行っているのだから、全体の文脈の中で「地面に文字を書く」ということがいかに重要なのかがわかる。
それでは、イエスは、地面に何を書いたのか。そしてそのことで、人々に何を伝えようとしたのか。
新約聖書を旧約聖書をつき合わせてみると、「謎」が氷解することがある。
実は、イエスが”指”で地面にものを書くということに対応する箇所が旧約聖書にある。
、
それは他でもない、神が石の板に刻んだ十戒をモーセに与える箇所である。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、”神の指”で書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト31)とある。
「十戒」のなかの第七戒は「汝 姦淫するなかれ」であるが、イエスがここで地面に書かれた文字が、モーセの「十戒」であるならば、「地面に文字を書く」という仕草は、この戒律を与えたものこそがイエスであること。さらには「イエスが神」であることのサインなのである。
ただ、このような解釈は聖書に近すぎて、ヨーロッパ版・キリスト教の神観念「父と子と聖霊」とを分ける「三位一体説」からは、出そうもない解釈である。