ハリウッド美容

たまたま見かけた「全国高等学校定時制通信制生徒生活体験発表大会」のポスター。その開催場所および協賛名に、自然と目線が留まった。
まずは、六本木ヒルズの中の「ハリウッド プラザ」という開催場所。協賛の組織名の中にも「ハリウッド美容室」(メイ・ウシヤマ学園)とある。
この「生活体験発表大会」は、定時制通信制生徒達が、学校生活を通して得た貴重な体験を発表し、多くの人々に感動と励ましを与えることを目的とする。
ただ、六本木やハリウッドといった華やいだ地名とは、幾分馴染みにくい気がした。
それでは、どうしてこの場所が定通生の「生活体験発表」の場所となったのか。
ポスターにある「ハリウッド美容室」の話は後述するとして、協賛組織の中で他にも気になったのが「石澤奨学会」と「ネグロス奨学会」である。
石澤善重郎は、1899年に新潟県の雪深い里に生まれた。苦学力行の人であり、1920年 勤労を続けながら工学院を卒業する。
石油業界で仕事に就き、1939年 東燃(株)取締役。1942 日本石油(株)取締役となっている。
1958年 キグナス石油精製を設立。1981年 享年81。つまり石油業界一筋の人。
石澤は、有為な人材となる素質をもちながらも、経済的負担に苦しみ、 初志を貫徹できない青少年の少なくないことを憂いていた。
「若いときの苦労は買ってでもやれ」とは、昔からよく云われてきた言葉だが、山間僻地に生れた人や、孤島の漁村に生れた人又は裏街のかたすみに生れた人などに、「苦労は買ってでもやれ」などという言葉は、酷な言葉であろう。
石澤は厳しい道を歩んだ自身の経験を省みて、援助の手を差しのべるために「石澤奨学会」を設立した。
公益財団法人「石澤奨学会」は故・石澤善重郎が、素質をもち勉学に志す勤労青少年が、学ぶ機会を失わないように、 学費を援助しようという目的で1970年に設立したものである。
「石澤奨学会」設立当初は、「高等学校定時制課程」に在学する生徒に限るものであったが、定時制高校から進学した大学生・短大生にも範囲を拡げたのである。
前述のポスターの、協賛にもうひとつ「ネグロス奨学会」というものがあるが、石澤善重郎の財産の寄附先である「ネグロス電工株式会社」の社名から採ったものである。
「ネグロス」の由来はフィリピンの島の一つであるネグロス島より付けたもので、ここは創立者・菅谷政夫が太平洋戦争で多くの戦友と生死を共に戦い戦友の多くを失った生涯忘れる事の出来ない又忘れてはならない島であった。
菅谷政夫はネグロス島より戦友のおかげで九死に一生を得て復員した。復員後、亡き戦友に報いる為に「利他の精神」を経営の基本として会社を興したのである。
「ネグロス奨学会」の趣意は、「ネグロス電工株式会社」の経営理念「社会へ奉仕還元」を創業の精神に則り具現化したものである。
「石澤奨学会」を設立した石澤善重郎は、新潟の雪国から実業界で成功をおさめ政治家となった田中角栄を髣髴とさせる。
石澤が創立したキグナス石油精製は、理研の傘下にある企業であるが、田中は新潟から15歳で出てきて最初に向かったのが、理化学研究所の総帥の大河内正敏の邸宅で、当初書生として住みこみを期待した。
新潟の柏崎は「理研通り」と呼ばれる道路まで通じ、工員達が雪の日も工場に通へ出稼ぎから解放される有難さを実感していた。
大河内家への住み込みはならなかったが、以後専門誌の記者、貿易商の下働きなどの仕事を転々とし、昼間は工事現場で働き、夜は神田中猿楽町の中央工学校の土木科に通う生活を始めた。
そして一級建築士の資格をとり、19歳にして神田錦町に「共栄建築事務所」の看板を掲げた。
そして田中は、理研から水槽鉄塔の設計を皮切りに、大河内の特命で群馬県沼田のコランダム工場の買収も手がけている。
1936年、田中は理研工場の移転工事を請け負い、朝鮮に渡った。
戦況悪化により工事は中断したものの、田中は残金をカバンに詰めて帰国した。その金は「金権政治」といわれる田中の「原資」となったのである。
また、「ネグロス奨学会」の菅谷政夫は、フィリピンのルソン島の守備隊をしていたダイエーの創業者の中内功と重なる。
中内功は、ルソン島リンガエン湾の守備に就くも、玉砕命令が下された直後に、山下奉文司令官によるゲリラ戦の命令により辛うじて生き延びる。
ゲリラ戦では、敵から手榴弾の攻撃を受け死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。
1945年8月に投降しマニラの捕虜収容所を経て、11月に奇跡的に神戸の生家に生還するまで、後の人生観、ダイエーの企業理念にも影響を与えた。
「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。
田中角栄にせよ中内功にしろ、奨学金どころか学歴もなくコネもなく自らの力で道を開いた人であった。

日本にハリウッド流のヘアメイクや美容を持ち込んだ牛山清人が開いたのが「ハリウッド美容室」である。
この美容室が、「定時制通信制生徒生活体験発表大会」の協賛組織に名を連ねるのは、創業者の牛山清人が教育者の子であったことや、創業者の妻もまた山口県防府から出てきた苦学の人であったことが関係しているだろう。
また「ハリウッド・ビューティー・グループ」の現社長の牛山大が、豊かな教育観をもっていることと関係しているかもしれない。
その牛山社長の理念のひとつが、「家族の歴史」を伝えたいということである。
さて、大正時代に、チャップリンと並び称されるほどのハリウッドスターとなった早川雪洲は、アメリカで川上音二郎の姪で画家の養女となっていた青木鶴子と知り合い結婚することになる。
雪洲の立派な自宅は「宮殿」とよばれれ、西海岸の名物となっていた。
そして世界中から弟子入り志願者は数知れず、一切断ったが一人だけ許された人物がいる。
それがハリー牛山という青年で、門前に座り込み、願いがかなわないなら切腹すると、本当に刀を出したものだから、雪洲も鶴子も驚いた。
そして、弟子入りがかない「第二の雪洲」ともちあげ、ロサンゼルスの新聞は彼を応援した。
当時の同僚に、ポーランド系移民のマクシミリアン・ファロッツィ(マックス・ファクター)という男がいた。ロシアのボリショイ・バレエのビューティーアドバイザーであった。
そんな彼が後に起こした会社が「マックス・ファクター」である。
ファクターはアメリカに渡った後、ハリウッド映画の黎明期に美容アドバイザーとして活躍し、生み出した数々のメークアップ製品は映画スターに愛用され、広く知られるようになった。
1909年、ハリウッドに、化粧品・演劇用品店「マックス・ファクター」を開店。マスカラやリップブラシなど今では馴染み深い化粧品の多くは、マックス・ファクターによって生み出されたものである。
ファクターはいつも片言の英語で「Make up(もっと表情を)!」と繰り返していた口癖が、それが化粧を表す「メーキャップ」という言葉になった。
清人はハリウッドで俳優として活動し、早川雪洲やチャールズ・チャップリンのアシスタントを務めた。しかし当時のハリウッド映画では東洋人の役が少なく、チャプリンに「ウシヤマは手先が器用だから、メイクの仕事をしてみたら」と勧められたことが、転身のきっかけとなったという。
降って湧いたような話だったが、牛山の脳裏に、髪を短くしてパーマをかけて軽やかに闊歩する女性の姿が浮かんだ。
その頃、日本の髪型といえば長い髪を引っ張り挙げて結う日本髪で、大変手間がかかるうえ、頭皮の健康にとっても不健康なものだった。
進路変更したハリー牛山は、牛山春子という女性とアメリカで結婚し、1924年に使命感に燃えて帰国するが、そのタイミングも絶妙であった。
折りしも日本は、アメリカ映画を手本にしたモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)の時代であった。牛山は1925年に 神田三崎町に美容室を開店し、美容師養成・化粧品の製造開始し、 日本に初めてパーマネント技術と機械を導入する。
1925年、メイ牛山(牛山春子)は日本で初めての美容室「ハリウッド・ビューティ・サロン」を創立し、「美は命の輝き」というコンセプトのもと、効率や生産性以上に、美意識や感性の教育を何より大切にしていった。
翌年には 軽井沢に美容室を開店し、新しい美容法を広め1927年に 銀座7丁目に「ハリウッド美容室」を開店する。
アメリカでパーマ技術を学んだメイ牛山(牛山春子)のヘアメイクは、パーマネントが日本全体に普及していく時期とも重なり、牛山の店は大当たりして女優や上流階級の婦人や令嬢「御用達」のサロンと化していく。
著名な美容家となった初代メイ牛山だが、なんらかの事情でハリー牛山と離婚して店をやめ、ロサンゼルスに行ってしまう。
ハリー牛山こと牛山清人、メイ・ウシヤマが築いた「ハリウッド・ビューティ・グループ」は、映画の都ハリウッドにおける最先端のトータル・ビューティを日本に広めたパイオニアである。
また、メイ牛山(2代目)は1911年山口県防府市生まれ、18歳で上京しハリー牛山が設立した「ハリウッド美容講習所」に入り、初代メイ牛山に師事し美容家として頭角をあらわし、1935年には銀座の店を任されている。
この女性(牛山マサコ)は、1939年に17歳年上のハリー(牛山清人)と結婚し、「メイ牛山(二代目)」名乗ることになったのである。
結婚以来「メイ・ウシヤマ」の名前で欧米の最新技術を取り入れながら日本の美容界を作り上げる一翼を担うことになるが、彼女こそは「メイ・ウシヤマ学園」のメイ・ウシヤマである。
、 メイ・ウシヤマはニューヨークではローマの休日等を担当したエディ・センズに「メイク」を、レオン・アメンドラーに「ヘア」を師事している。
その後、日本でも酵素の働きを最初に化粧品に取り入れるなど化粧品の開発も行った。
ところで牛山にとっての恩人・早川雪洲・青木鶴子夫妻は、東京神楽坂に居をかまえていたが・早川雪洲の方は国際派俳優としてフランスへ行ったきり戻ってこない。
しかも鶴子は、早川が二人の愛人に生ませた一男二女を引き取る羽目になり、鶴子は神頼みをする時には赤城神社に御参りしたという。
何しろ、アメリカ育ちの鶴子に働き口はなく、恩返しにと顧問料という名目で生活費を渡したのがハリー牛山であった。
早川が日本に帰国したのは、日本を出てから13年後の1949年で、羽田空港の出迎えで初めて家族全員が顔を合わせたことがある。
早川雪洲の成功の陰に、博多の芸人一座が育てた青木鶴子の存在があったことは知っていたが、その青木を陰に陽に支えたハリー牛山という、もうひとつの存在があったのである。
ハリー牛山はそのようなかたちで、早川夫妻の恩に報いたことになる。
実はハリー牛山は、長野県諏訪の出身でもともと教育者の血をひいていたこともあって、銀座に講習所を同時にスタートさせ「パーマネント術」の講義を担当した。
1991年、創業者の牛山清人が他界し、 メイ・ウシヤマが会長になり、息子の牛山精一が社長に就任する。 現在の社長・牛山大(うしやまだい)は3代目。
六本木にあった三世代の家族が一緒に囲む食卓は、ビジネスや政治、経済、先端の流行や文化まで幅広い会話が飛び交っていた。
自分も議論に加えてくれ、幼い時から一人の個人として扱われたことで、大人としての自覚も早くに育まれたという。
そうして大きく社会を俯瞰する視点を得た牛山大は、中学1年で「自分は環境問題と地域貢献の専門家になる」という目標を立てる。
東海大学海洋学部気候変動専攻卒業後、アメリカで環境デザインを学び、ブルックリン・チルドレンミュージアム、国連などで社会貢献型のデザインディレクションを担当した。
ブルックリンで結婚し、仕事、プライベートともに充実した日々を満喫していた。
大きな転機となったのは、2001年にニューヨークで起きた9・11テロ。
いわば目の前で、ヒルズや都庁のようなモニュメンタルな建物が消えてなくなった。その衝撃は自分の人生観、哲学観を根底から変えるに十分であった。
"モノ"は一瞬でなくなる。残すべきもの、大切なものはもっと他にあると思うようになったという。
六本木ヒルズでの新しいサロン・社屋のオープンが近かったことから、帰国のタイミングに合わせて、本格的に美容の事業へ参画することにした。
そして、モノではなく「大切なこと」を社員に伝える努力をしている。
美容が世界共通で貧困層の女性の社会支援になることもわかった。
人間はかならず伸びる髪を切るし、人生の節目の儀式では美粧が重要な役割を果たす。
美容の技術さえ習得すれば、はさみ一本で自立でき途上国の女性の社会支援にもなりうる。
現在でもハリウッド・グループでは、カンボジアや中国の女性支援を美容を通じて行っている。
サロンのテラスでは、美容に関係する植物をオーガニックで育てている。
創業から一貫して国内生産を続け、動物実験ゼロという姿勢を保ち続けていることも、「自分が学んできた環境問題と重なり、非常に誇らしく、またやりがいを感じているという。
牛山大社長は、「子供の教育」に対しても、信念をおもちである。
子育てで大切にしていることの1つはリアルな体験。
たとえば幼稚園で「太鼓のオモチャで遊んできた」とら聞いたら職人さんが実際に和太鼓を作っている様子を見せてもらい、話を聞いて実際に叩かせてもらう。
車を車検にだしても、わざわざ子ども連れて行き、子どもと一緒に整備士がエンジン開けたりするのを見せて、社会のつながりを体験するようにしている。
どんな物にもサービスにも、人の手が加わり手間ひまがかかっていることを知る。
そうして社会と自分とのつながりを意識させたいというか考えのようである。
ちなみに現社長の「本籍地」、つまり創業者夫妻住居があったのは、六本木ヒルズ内で待ち合わせの場所として利用される巨大クモの彫刻の辺りなのだそうだ。
思い出すのは、ヒルズ計画がいよいよスタートする時、90歳を超えた祖母に、庭がなくなって淋しくないかと問うと、変化を楽しめるようでないとダメといわれ、さすがだなと尊敬の念を抱いたという。
六本木ヒルズといえばヒルズ族。IT長者や売れっ子アーティストなどの超富裕者のみが入居することが許される場所というイメージがある。
また、ヒルズ内の「毛利庭園」などにみるとおり大名屋敷のあったところだ。
しかし意外にも牛山家三代の美容に関わったファミリーの歴史が刻まれていた。
コネもツテもなくアメリカからスタートした牛山家が、美容の一大拠点を築いた六本木ヒルズのその場所において、「全国高等学校定時制通信制生徒生活体験発表大会」が開かれることが、若者への激励と感動を増し加えるのではなかろうか。