ざわつく「改憲案」

最近の自民党改憲案の中に「家族は尊重すべき」というものがある。しかし、この文言は至極当然なことだけに、かえって心がざわつく。
安倍首相がカンヌ国際映画祭の最高賞受賞につき、ついに賛辞をおくることがなかった「万引き家族」のことも思い浮かぶ。
少子化や幼児虐待、親が死んでいることを隠しての年金受け取りなど、日本人は家族をもっと大切にすべきということは、誰もが意識していることだ。
そこで、国民は家族をもっと大切にしようという「道徳的戒め」にも思えないこともない。
ところが、憲法という最高法規に「すべき」こととしてそれが書かれると、公法である以上国民全体の在り様をシバルことになる。
ところで自民党の「憲法改正草案」(2012年4月)の中で「家族」に関する記述は次のようなものである。
(前文)日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
(第24条) 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」。
このように「家族が助けあわねばならない」となると、従来の「教育、納税、勤労」に加えて助け合うことが「もうひとつの義務」になるのか、それも人の心の内面にまで踏みこむこんでの義務化ということになる。
1968年栃木県でやむにやまれぬ事情で父親を殺した娘に対し、通常の殺人に対し「重罰」が課せられんとした時、「尊属殺重罰規定」は「法の下の平等」に反するという訴えがなされた。
そして1973年「尊属殺人重罰規定」は法の下の平等に反し、「憲法違反」であるという司法判断がくだされた。
ちなみに、これが最高裁が違憲立法審査権を行使した最初の事案となったが、人間にとって、旧約聖書の「カインとアベル」にみるとうり、家族ほどその感情がもつれるものはない。
家族を大切に出来る人もいるし、出来ない人もいる、したくても出来ない状況の人もいる。
子供に満足に食事を提供できない家族に対して「子供食堂」さえもできている状況もある。
そこに、「家族を尊重すべき」とか「家族は助け合うべき」という一文が加わるだけでも、いま議論されている様々な問題(立法化)の方向性にも微妙に影響を与えることになるかもしれない。
そもそも、「家族を尊重すべき」という憲法案の中に「保守=伝統遵守」の匂いがある。
彼らが「家族」というのは、きっと「あるべき家族像」を想定しているだろう。
すると「家族の多様性」をもとめる法律の立法化につきどのような姿勢をとるのか、今から見える気がする。
具体的には、「夫婦別姓」「同性パートナー」「婚外子」などに立法化もしくは司法の判断を含む「法の適用」のことである。
少なくとも、現在の日本国憲法の婚姻(24条)の規定では、「両性の本質的合意」が重要だから、「同性パートナー」は想定されていない。
「家族を大切にすべき」という時、多様な家族の在り方というよりも、昔ながらの家族を指す方向性が意図されるならば、司法判断などを通じて、国家によりある種の「家族像」を押しつけられることにはならないか。
こうした点については、明治時代の「民法典論争」を思い浮かべる。
フランスから招いたボアソナードの民法案が個を重視しすぎており、日本の家族から一体感を奪うため日本の国情に合わないと東大教授などが反対したのである。
その一体感とは、江戸時代から続く「家制度」をさすが、日本の家族制度に大きな影響を与えた儒学思想は、古代中国で孔子や孟子に始まった道徳と政治をめぐる考え方である。
後に体系化され、特に明・清朝で体制を支える学問となり、江戸時代の日本にも多大な影響を与えた。
あえて要約すれば、仁(思いやり)、義(人として行うべき道)、礼(行動の指針となる規範)などの徳目を君臣間や家族内で重視する。
江戸幕府は儒学を「正学」とした。そのため日本人はいまだ儒教の影響から逃れることができない。
それはちょうど、仏教の「檀家制度」がいまだに我々の生活を縛っているのに似ている。
儒教では家の存続を重視しているため、女性を子を産む性として偏重する傾向がある。
それは、最近の自民党の議員の発言「同性パートナーは生産的ではない」とか、極端なことをいえば「優生思想」にも繋がりかねない。
近年、国会議員の女性議員にたいする男性議員の「子供を産んだのか」などというヤジにその「毒気」の一端が感じられる。
また、女性国会議員の比率がいまだに先進国の中でも極端に少ないのも、儒教的な毒と無関係とはいえないであろう。
そして儒教社会では「農→工→商」の身分差があるが、「士」に関していえば日本では武士を意味するが、中国や韓国では「官吏」を意味する。
そしてイマダに「官尊民卑」という意識が根強く残っており、職業に対する貴賤意識も強い。
さらには、「家族は大切にすべき」という言葉の裏には、自民党は高校の無償化や高速道路の無料化、子ども手当(児童手当)の削減を想定しての案かもしれない。
つまり国は、「家族を大切にする」という道徳を前面に出して、これ以上社会保障にたよることはできないという布石にも聞こえる。

かつて、大日本帝国憲法下で、軍隊は「国家中の国家」たる特別の存在であった。 ただ、統帥権に関わる「軍令」事項(主に作戦や指揮内容)と、「軍政」事項(主に予算や規模)の区分は難しいものがあった。
昭和期の軍部では軍部独裁を推し進めるためにこの統帥権を濫用し、「それは統帥権の干犯である!」として政府側が干渉することを許さなかった。
そのことが、1930年のロンドン海軍軍縮条約で表面化した。
さて現在の日本国憲法では、政府は自衛隊を完全に行政機構の一部に取り込んで位置づける解釈をしてきた。
象徴的なのは、防衛省と自衛隊との関係である。
行政機関の観点から捉えられる「防衛省」は、部隊組織の面からみると「自衛隊」となると、通常説明されている。
防衛省は、財務省や文部科学省といった他の一般の省庁と横並びで理解される組織であり、国家行政組織法にしたがって組織が編成されている。
自衛隊は、「防衛設置法及び自衛隊法」が根拠となっており、部隊は防衛省の組織の一部をなしている。
防衛設置法と自衛隊法は、組織に関する行政組織法であり、また自衛隊法は実施にかかる内容を定める行政作用法である。
平たく言うと、政府は防衛省・自衛隊法を「通常の役所です」と説明してきたのである。
防衛行政もまた、通常の行政法の基本原則が妥当する領域であり、自衛隊について他の行政機関と大きく異なった扱いをすることには限度があるということだ。
憲法に規定がなかったために特別な作用を行う「特殊な機関」としては位置づけなかったところがポイントである。
この点を会計検査委員を例にとればよくわかる。会計検査院は、憲法上の機関として憲法90条に定められている。
「会計検査院の組織及び権限は、法律でころを定める」とあり、これをうけて会計検査院法第一条は、「会計検査院は、内閣に対して独立の地位を有する」と定めている。
国有地が森友学園に、ゴミの撤去費用として約8億円が値引きされて売却された問題で、改憲検査院が値引きの根拠となったゴミの推計量について、「十分な根拠が確認できない」という報告書をまとめた。
このような働きが出来るのも、会計検査院が憲法上に規定された「特別な役所」だからである。
それと同様に、自衛隊を憲法上の機関とすることは、大きな問題なのだ。
これまでのように法律で作りだされた同一の行政組織が見方によっては防衛省にもなり自衛隊にもなるといった説明は限界を迎えることになる。
自衛隊は、一般の行政組織には回収できない特殊性があるからこそ、憲法上の機関とされたのである。
その特殊性とは、自衛隊が「自己完結性が高く、上意下達の徹底した組織であり、高い規律が求められ、対外的な関係で実力を行使する組織である」ことがあげられる。
同じく実力を用いる組織である警察とは、組織の論理が大きく異なっている。
戦争などの緊急事態において行動する組織は、構成員一人一人が判断するのではなく、「一個の意思」が貫徹するのでなければ、実効的に動かせない。それがかつて大日本帝国憲法下で天皇が有した「統帥権」という作用にほかならない。
自衛隊を憲法上の機関とする上は、かかる作用にかかる憲法上の規定を必要とする。
重大なことは自衛隊法7条により、「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権有する」と定め、これまで政府は憲法72条の「内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督権を有する」の確認規定と理解してきた。
しかしかかる解釈は、憲法上の機関たる自衛隊の指揮監督権については維持しえない。
なんといっても「内閣を代表して」などどいう文言は、悠長すぎる。
また主任の防衛大臣がいかなる権限をもち、内閣総理大臣との関係も浮上しよう。
さらには自衛隊が「特殊性」を発揮するためには、軍事法廷が必要かという問題もでてくる。
裁判所が内閣総理大臣(もしくは内閣)の判断の正当性が事後にもチェックする仕組みが必要であり、裁判所が”抽象的”な違憲審査を可能とする仕組み、すなわち「憲法裁判所」なるものも議論していかなければならない。
別の角度をいれると「集団的自衛権」をもつ自衛隊をそこに記入することによって、憲法前文の「戦争を放棄し国際紛争を解決する手段としての武器を放棄する」といういわば世界観をも変質させるということにもなるのである。

憲法には国の成り立ちを担う、歴史なり、価値観が反映されている憲法が多い。
どこまでか共通の、国民が同意できる価値観を書き込むかというところは、憲法上なんら否定されるべきものではない。
実際、憲法より上位の精神から、憲法自体を見つめなおす国というのもある。
それは、神と人との関係から、国家権力の在りかたを見るということでもある。
例えば、イスラムには、「宗教裁判所」があり、宗教法が有り、それに従って生きていく、その上で、「世俗」の憲法がある。
人間は生まれながらに社会的な存在、誰からも完全に孤立した状態で生きていくことはできず、他の人と利害が一致しない場合や、ある人の権利が他の人によって侵害された場合には摩擦がおきる。
この理由から、イスラームの法やその他の啓典の宗教では裁判官を設けることが「宗教的義務」であり、人間の生活に必要なことであるとする。
「実にわれは明証を授けて使徒たちを遣わし,またかれらと一緒に,啓典と(正邪の)秤を下した。それは人びとが正義を行うためである」。(クルアーン57章25節)
イスラームとは、神が預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)の時代から審判の日まで人間に信仰するよう与えた宗教であり、この宗教では、司法システムとその責任を負う者たちへの大きな関心が払われてきた。
正統カリフ時代には、国家の長が裁判官を任命し、その裁判官が採決し、司法制度の独立を守り、政と法を分離し、カリフまでもが、裁判官の裁決の対象であった。
ところで今、自民党を中心に「憲法裁判所」の設置案が浮上しているが、「憲法裁判所」とはいかなるものか。
その前に、司法の在り方に「司法積極主義」と「司法消極主義」というものがある。
「司法消極主義」とは、「立法府・行政府という政策決定者の決断は最大限度の「謙譲と敬意」をもって扱うべきだとする立場で、立憲民主主義における民主主義の側面を重視して、主権者たる国民を最もよく代表する議会こそが、人権をはじめとする憲法的価値を実現するに最も適合した機関であるから、議会が自ら明白な誤りを犯したと思われるときを除いて、違憲立法審査権を行使すべきではないとする。
一方、 「司法積極主義」とは、政策決定者の決断に積極的に介入し、憲法の趣旨を貫徹させようとする立場である。
立憲民主主義における立憲制の側面に高い評価を与えて、多数決による議会の決定をもってしても制限・侵害しえぬ『高次の』憲法的価値が存在することを承認し、しかも憲法はかかる憲法的諸価値の実現ないし保障の任務を裁判所に与えたのであるから、裁判所は必要と思われる場合に違憲審査権の行使をためらうべきではない」とする立場。
日本の裁判所は、法律などが憲法に反しているかどうかの判断を「具体的事件」の裁判をつうじておこなう仕組みで、その最終判断は最高裁判所がおこなうことになっている。それが「違憲立法審査権」(81条)である。
つまり、具体的事件で「違憲の疑いあり」と訴えがなされない限りは、司法は動かない。
その一方で、憲法裁判所というのは、司法積極主義に立ち、ドイツなどヨーロッパの一部の国にある制度である。
わが国の最高裁判所とはちがって、法律が憲法に適合しているかどうかを直接に判断する役割を果たす制度である。
ただ、日本で戦後、違憲もしくは違憲状態と判決が下されたのはわすか10件そこそこで、そのことを司法消極主義と結びつけるのは違う。
最大の理由は、裁判官の人事権を内閣がもつという憲法規定によるもので、裁判所は政権与党たる自民党の政策に関して違憲判決が実質出せない仕組みになっているからだ。
いまだ記憶に新しいのは、外務省の国家安全保障局を中心に「集団的自衛権容認」の解釈改憲の準備がなされ、それを受けて閣議決定がなされた。
あくまでも「解釈改憲」なので国会にかける必要はないのだが、「集団自衛権容認」に対しては専門の学者から多くの「違憲の疑義」が寄せられた。
そうした疑義を払拭するために憲法裁判所が設けられるとするならば、それは憲法裁判所の趣旨と真反対の結果を生むものでしかない。
もしも、「憲法裁判所」が、政権与党の政策に積極的に「合法」の護符を与え続ける存在ならば、「屋上屋を重ねる」ようなものでしかないということだ。
ところでイスラムやユダヤのような一神教の国に比べて、日本のような多神教の国では普遍的な価値の共有が難しい。
日本国憲法の前文に、多くの外国人労働者を必要とする現在の日本の情勢の中で、「日本的美しさ」や「和の精神」などを憲法に書きこむことは、果たしてどのような影響があるか。
知らず知らず「排除」を生まないか。ちょうどサッカーのワールドカップ予選で、日本のゴールポストの裏側に「外国人立ち入るべからず」という横断幕が掲げられたような。
ともあれ「家族を大切に」とか、「自衛隊」の明記など、憲法へのほんの「一言」がもたらす社会へ影響力の大きさにつき、意識を向けていたいものだ。