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成功した失敗

1970年4月11日、アポロ13号で想定外の事態が勃発。それに対して宇宙飛行士と管制官達は、どのように問題処理にあたったのか。
その知られざる全容は、トム・ハンクス主演の映画「アポロ13」(1975年)に映画化された。
彼らは、冷静な判断力、総合力でその能力の高さを示したのだが、コンピュータも初期ましてAIなんて存在しない時代に、意外だったのが桁数の多い計算具として「計算尺」が使われていた点である。
アポロ13号は月面陸を目指し「嵐の海」フラ・マウロ高原に着陸する予定であった。
しかし、打ち上げから2日後、地球から月までの距離の約5分の4、32万kmのところで機械船の酸素タンクが爆発、電力を供給する「燃料電池」も使えなくなる絶体絶命の状況に陥る。
さらに打ち上げから6日後、電力と酸素の供給が低下し、アポロ宇宙船は機能を失いかける。
つまりアポロ13号は、月面着陸どころか「帰還」さえ危ぶまれる事態となった。
パイロットの3人はヒューストン管制センターからの指示で、月面着陸船アクエリアス号の方に避難する。いわばアクエリアス号を「救命ボート」とする「離れ技」で司令船オデッセイ号の電力や酸素や燃料を温存することにした。
それは、地球の大気圏に再突入するまでに、どうしても残しておかねばならなかったからだ。
だが「救命ボート」になるはずの月面着陸船でも、二酸化炭素濃度の上昇、電力不足が起きていた。
そこで、船内では残存電力を保つために、凍るような寒さの中、乗員同士支え合った。
一方、地上では管制官達だけでなく、宇宙船のメーカーからエンジニアが召集され対策が練られた。
また、発射直前に病気で搭乗しなかった宇宙飛行士が「飛行船シミュレータ装置」に乗り込んで、乗員の実際の動きをシュミレートしつつ、乗員に姿勢制御などのアドバイスを出した。
また、アポロ号が13号がコースを外れていることが判明。地球へ帰るためには「予定軌道」の修正が必要があったが、着陸船の姿勢制御エンジンを使ってそれをやりとげた。
その際、誘導コンピュータは電力を使用してしまうため起動できず、地球の姿だけを唯一の「目印」としての手動噴射によるものだった。
そして月をまわって、最後の山場「大気圏再突入」へと向かうが、「大気圏再突入」では、通常通信が約3分間途絶してしまうという。
つまり最も乗員の生死があやぶまれる時に通信が途切れるのである。
管制官達は、その「3分間」を固唾をのみつつ待ち続ける他はなかったが、3分間が経っても宇宙船からの返答はない。
時が凍っているかのようで、祈るような思いで状況を見守った。そして約4分後、ついに「交信」が入った。
管制センターにいた人々は大歓声を挙げ、抱き合い涙を流し合った。
その成功は、現場の管制官はもちろんスタッフ全員が、不屈の闘志でチーム一丸となって取り組むことができた点が大きい。
アポロ13号は月面着陸に失敗したものの、その救出劇に至る人々の対応は、月面着陸の成功に勝るとも劣らないものとされ、アポロ13号の帰還を「最も成功した失敗」と称されることとなった。
この「最も成功した失敗」には、いくつかのポイントがあった。
NASAの首脳陣がいかなる干渉もしなかったことが、この危機を上手く乗り越えることができた1つの要因ともいわれる。
2時間以内に酸素がなくなり宇宙船の電源が「0」になるという緊急事態に対応するため、フライトディレクターにミッションの全ての権限を与えた。
まずフライトディレクターは、推測を排して事実のみに基づくという方向性を示し、パニック状態のスタッフを冷静にさせた。
そして、(1)問題が発生したときには考える時間を稼げるような方向を選ぶ。
(2)もし状況が悪化したとしても選択肢が多く残る方向に動く、という原則を示す。
NASAでは、アイデアがあれば組織の誰にでもチャンスを与えるという組織風土があった。
そして前提として、フライトディレクターが、管制官一人ひとりの能力を掌握していることであった。
地球帰還中に発生した電力不足や二酸化炭素の増加に専門家に権限を一任して上手く解決することに成功する。
フライトディレクターは、この時の電源担当の管制官に26歳の担当官を割り当て、全ての電源管理の責任と権限を与えた。若い彼が全てのシステムに精通していることをよく知っていたからだ。
地上の方では、8時間交代の4組の管制官チームから1チームを「帰還計画立案チーム」としてシフトから外し専門チームとして取り組ませた。
そしてついに、限られた資源と時間その他あらゆるリミットの中で、乗員と管制センターの人々が能力をフルに出しつくした連携により、全員無事に地球に帰還することに成功できたのである。

2016年夏公開の映画「ハドソン川の奇跡」は、150名余りの人々を救ったパイロットの実話に基づくストーリー。
パイロットは、バード・ストライクで制御不能となった飛行機をハドソン川に不時着させ、一時は「英雄」と称された。
しかし、航空機事故調査委員会で、一転して空港に「帰還可能」な段階での不時着は誤った判断であり、逆に大勢の乗客の命を危険にさらしたと、追求されることになる。
コンピュータのシュミレーションによれば、別の空港に安全に飛行機を誘導できたはずというのが、調査委員会が導いた結果だった。
しかし、そこにはコンピュータには表れない「ヒューマン・ファクター」が存在していた。
人命が守られればすべて良しというわけではなく、それが「ベストの選択」だったのか検証に耐えねばならない。
スポーツの勝負においても、今後のために検証が必要な場合もありそうだ。
それは、2018年サッカー・ワールドカップ・ロシア大会、日本チームが、決勝T進出を決めたポーランド戦の勝ち進むための「敗退行為」のこと。
選手達は、自らの戦意をあえて抑えて、「他の試合」の結果に自らの命運を委ねた。
西野朗監督は後半37分に長谷部誠選手を投入し、パスを回してスコアを維持することなどをチームに徹底した。
試合がそのまま終われば、日本とセネガルは勝ち点で並び、警告の総数で下回る日本が決勝へ進む状況だったからだ。
国際サッカー連盟(FIFA)と日本サッカー協会(JFA)は、最後まで全力プレーで戦うべしとし、負けを意図することがフェアプレーに反することを明確にしている。
日本の「敗退行為」は、明らかにその精神に反るものであった。
負けているチームがわざとパス回しをする違和感は、スタジアム会場内ブーイングに表れていた。
そして、西野監督は「本意ではなかった」と述べ、選手に謝罪した。
長谷部選手は「真実は結果の中にある」と話したが、選手の中にも異論はあった。
なにしろ、パス回しでスコアを維持する作戦はリスクを冒さずに運任せの「賭け」の面があった。
ただ、世論は賛成派が目立った。なんといっても「賭け」の結果、決勝Tに進むことができたからである。
つまり「勝てば官軍」ということだが、この場合、試合に負けて賭けに勝った。
西野監督は、こうした作戦を踏むことも選手の成長の一つのプロセスともいったが、 JFAサッカー行動規範には「どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、最後まで全力を尽くしてプレーする」と書かれている。
また、中高生のサッカー少年にどう映ったのか。それを、どう総括し「スポーツマンシップ」を伝えるかは、指導者が悩むところではなかろうか。
その後味の悪さを、決勝T1回戦のベルギー戦で敗れたとはいえ、歴史に残る好試合が打ち消すこととなった。
その意味で、日本サッカーチームの敗戦行為も、「成功した失敗」ともいえようか。

船乗りの世界には、「シーマンシップ」というものがあるという。
要約すると 「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂」 ということらしい。
シーマンシップを好んで多用するのはヨットマンだが、その場合「精神論」としてではなく、船を安全に航海させる上での「知識・技術」論として語られているようだ。
ヨットの上では一人の怠慢や不注意が全員の存亡にかかわるので、「精神論」だけで片付くような問題ではないといえる。
例えば一人一人が、結び(ボーラインノット)や巻き結び(クラブヒッチ)と同じように、全ての船乗りとして体得していないといけない。
日本では「五分前集合」などが精神神論として語られるが、これは帆船の長い歴史から生まれたものあるらしい。
船では全て5分前に次の行動の準備を終わらせておくのは、技術的要請なのである。
そして、自分にあった船を選ぶのも、その船で自分の腕で乗り越えられる天候を選ぶのも、全てが「シーマンシップ」なのである。
もちろん「シーマンシップ」には、「精神的」なものも多分に含まれている。
たとえば、船乗りはたとえ敵であろうと、溺れている者には手を差し伸べるというものである。
実際レース中のヨットで先行艇が事故でマストが折れ浸水でもしていれば それを見つけた後続艇は 競技の順位を投げ捨て、救助にあたるというものである。
世界選手権で、優勝を目前にした艇が、他のヨットの救助に向かったという「美談」も聞いたことがある。
ところで、「シーマンシップ」を見事に描いた映画が「白い嵐」(1996年公開)である。
青少年の心身鍛練のためのヨットスクールの物語で、1年かけて大型帆船で訓練をする海洋訓練学校である。
このスクールに所属する生徒達は不良だったり、家庭問題から高所恐怖症になったり、父親の重圧で精神を病んだりいろいろな問題を抱えている。
指導者であり船長でもある人物が、その生徒達を徹底したスパルタ式で鍛えて行く。
多くの生徒達は長期航海に際し、あまりに厳しい船長に対して、やっていけないと不安と不信感を抱いていた。しかし、トラブルと波乱続きの大海原を経験していくうちに、船長の厳しさの本当の意味を理解していく。
そして、最初はお荷物でしかなかった少年の間にはもめごとや喧嘩などが表面化するが、次第に船長を尊敬を抱くようになり、船を動かすという共通の目的の下、バラバラであった彼らにも団結心が芽生えてゆく。
さらに次第に海に対する意識と認識が変わり、立派な航海士として育っていくにつれ、船長はその優しさの一面をのぞかせるようになっていく。
ところが帰還時におもいもよらない嵐に出くわす。
「白い嵐(ホワイト・スコール)」と呼ばれる伝説の嵐で、船長の指示に従いながら、生徒達は必死で船をコントロールしていく。
それは、すべてを引き裂くように襲い掛かる嵐で、映画の画面上で見るのさえもつらいほどであった。
しかし彼らの必死の奮闘も虚しく、やがて船は横転して沈んでいく。
結局、船長の妻と4人の生徒が死亡した。
「白い嵐」は当時としては原因不明の予期できない気象現象であったが、船長の責任が問われるべく「海難審判」が行われた。
少年4人を死なせてしまったことで船長は「監督責任」を問われれたのだが、生還した少年たちが船長の指示がいかに的確であったかを訴え、傷心の「船長」を必死に守ろうとする。
その少年たちの態度が、どんなにか彼らの心を成長させたかということを物語っていた。
この映画が1961年に実際に起きた「海難事故」に基づくものであることを知れば、その感動は増すことであろう。
さて、2018年7月、少年ら13人が閉じ込められたタイ北部チェンライ郊外のタムルアン洞窟で、救出作戦最終日の10日、少年たちが慕う25歳のサッカーコーチも無事、洞窟から出てきた。
上述の「白い嵐」と幾分似た状況にあったのがタイの洞窟に10日間閉じ込められたサッカーのコーチと少年13人との関係。
タイでは、唯一の大人であるコーチは教え子を「危険」に巻き込んでしまったため、インターネットでは「なぜ雨期に」と疑問の声が上がった。
しかし、タイではコーチを責める世論は強くない。
コーチは25歳のエーカポンさん。そのフェイスブックには、親善試合、サイクリング、洞窟探検や川遊び。教え子との絆を物語る写真が並んでいる。
そして少年たちは、「自分そっちのけで面倒を見てくれた」。「どんなことでも一緒にやってみようと励ましてくれた」とコーチをかばった。
コーチのエーカポンさんは幼くして両親を亡くし、孤児として寺で10年ほど暮らしたたという。
成人後、夜市で小物を売ってしのぎながらサッカーコーチの職を得た。
少年たちとはスポーツ以外でも交流し、卒業を祝うために学校に足を運び、家族行事も手伝った。
エーカポンさんと少年たちは、この洞窟にはに2年以上前から通っていた。
懐中電灯を頼りに裸足で洞窟内を巡り、迷うこともあったが、だいぶ慣れていたという。
ところが、6月23日に洞窟に入ると、水に阻まれて出られなくなるという「想定外の事態」に見舞われた。
だが、洞窟の奥5キロで発見されると、エーカポンさんが食料を分けたり、大声を出さないように指示したりして、体力を温存させていたことが救助隊を通じてわかった。
少年たちの両親らは救助隊に託した手紙で「自分を責めないで」とエーカポンさんに伝えた。
それどころか、「子どもを預かる引率者の心構えについて、今回を教訓に議論されるべきだ」という人さえも表れた。
もう一つのポイントは、「救出作戦」の是非が問題となった。救援にあったのはタイ海軍特殊部隊の精鋭ダイバーだが、二人一組で一人の少年を誘導した。
それでも、一人のダイバーは命を失ったので、いかに過酷な救出作戦であったかがわかる。
チェンライ県やタイ海軍や警察は、困難とされた潜水での救出を決断したことについて、「洞窟内の酸素濃度が下がり、雨により水位の上昇が予想される中、待つことはできなかった」と説明した。
空気中の酸素濃度は約20%とされるが、救出活動を始める直前、少年らのいる場所の酸素濃度が15%程度にまで下がっていたという。
さらに、7月に入って続いていた好天が8日以降に崩れるという予報もあった。
外側から穴を掘って救い出す方法も検討されたが、崩落事故につながる可能性もあるため却下された。
県当局者は会見で、「時間との闘いだった。最善の状況を待って決断した」と話した。
13人の救出をめぐって、映画化やテレビ番組化、出版を狙う争奪戦が早くも過熱している。
また、ある出版社は「コーチが子どもたちに勇気やスタミナを与えたという「仏教の教え」に焦点を当てたい」と話している。
洞窟内でのコーチと子供たちとの信頼関係、救出方法の選択など、絶望に至ってもおかしくない失敗であったが、「希望」が人々を成功に導いた。