運命の結び目

戦災や自然災害などで死者の数が多いと、その夥しい数をマス(塊り)として捉えがちだが、一人一人が、"この時この場所にいた"というのは、個々の事情があってのこと、ということを忘れがちだ。
長崎の爆心地に立って、数多くの慰霊碑が立つのを見て歩くと、そのことを痛感する。
「朝鮮人犠牲者追悼碑」「建設労働者職人慰霊碑」「電気通信技術者慰霊碑」「国鉄原爆死没者慰霊碑」「長崎新聞少年慰霊碑」などが立ち並ぶ。
これだけの人々の運命が、ここで結束したのは、長崎が「軍都」であったことによるが、人々それぞれに微妙な「運命の分岐」が生じた。
爆心地に立つ平和記念像の右手の指を空に向けた、その場所には「長崎刑務所浦上刑務支所」があった。
長崎刑務所浦上支所は当然に全壊し、支所にいた副島はじめ看守、職員、職員家族、囚人81名が即死した。しかし、そこに運命のいたずらが作用した。
囚人約百名は三菱重工長崎造船所で働いていて難を逃れ、彼らは、長崎市衛生課の要請を受けて、5日間にわたって市民の死体収容作業に従事したという。
また、韓国慶尚南道の北のはずれにハプチョンという「韓国のヒロシマ村」と呼ばれる一寒村がある。
敗戦の時点で日本国内には236万5千人余の韓国人がおり、そのうち8万1千862人が広島県内に居住いたとされ、4万4千から7万の韓国人が被爆したとされ、その半数近くが帰国している。
そしてハプチョン郡内には、約5千人という異常に高い被爆者の数字を示している。
かくも多くのハプチョン出身者がどうして広島で被爆することになったのか。このころ広島において、日本製鋼所広島工場が設立され、呉海軍工廠では戦艦長門が竣工するなど軍都広島への道をと歩みはじめる時期でもあった。
1923年の関東大震災以降、関東在留の韓国人は関西方面から西へと避難したという動きもあり、同郷人どうしで1920年頃から広島に向かう人々の群れが起きている。
しかし、ハプチョンの人々にとって、そこが原子爆弾の投下目標となる地になるなど思いもよらぬことであったろう。
長崎の観光地として知られる「グラバー」邸は、幕末に武器を薩長に売り込んだイギリスの商人であるトーマス・グラバーの邸宅である。
グラバー家は本国イギリスでもともと造船業を営んでいたため造船技術の知識は豊富であった。
薩摩藩の五代友厚らと共同発起した船舶修理場からスタートして、1868年には小菅のソロバンドッグの建設を始めた。
翌年、政府がこれを買い上げ、1887年には三菱造船会社の所有となり、これが「三菱長崎造船所」のはじまりとなる。
グラバーと妻・ツルは長崎から、1893年頃東京に移り住むが、グラバー邸には息子・倉場富三郎とその妻・ワカが残った。
この夫婦は、二人とも、母が日本人のハーフである。倉場富三郎が71才の頃、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入する。
南山手のグラバー邸からは、軍事工場ともなっている三菱造船所がまる見えで、当然外国人である富三郎に対して厳しい監視の目が向けられた。
スパイ容疑をまねかないように、富三郎は諏訪神社の氏子として、戦勝祈願などに顔をだし 同じハーフの妻であったワカは愛国婦人会に加わって、出兵兵士の送迎、千人針、戦地への慰問袋などに協力した。
しかし、日本の敗戦色が強まる中、倉場(グラバー)一家に対する不信の目におびえたワカが自宅で急死。
その後、1945年8月9日午前11時2分、松山町上空490メートルで原子爆弾が炸裂した。
幸い爆心地から5キロ離れた南山手地区は被害は軽微であったものの、「死の商人」と評されるグラバー家のなんと皮肉なめぐり合わせ。
長崎の街にも、米英軍が占領軍として上陸するという噂が流れ様々な風聞が飛び交った。
そんな中、富三郎は今度は逆に日本への戦争協力の姿勢が占領軍に糾弾されるのではないかという不安にさいなまれていく。
終戦の年1945年8月26日午前4時頃、トーマス・グラバーの子倉場富三郎は洗濯物の紐を首に巻きつけ自殺。74歳9ヶ月の生涯であった。

福岡県には、小倉と久留米という二大軍都があるが、運命の分岐といえば、原爆投下の目標が当日の気象条件により、急遽小倉から長崎に変更になったことが大きい。
小倉も久留米も軍都であるがゆえに多彩な人々を呼び寄せ、意外な「ビッグネーム」が足跡を残している。
森鴎外は明治日本が生んだ大知識人だが、その鴎外が1899年6月に第12師団の「軍医部長」として、小倉(現・北九州市)へ着任し、2年9か月間、小倉に滞在している。
鴎外は少年の頃からドイツ語を勉強し、流暢にしゃべれたため、当時の軍医監にドイツ陸軍の軍陣医学の研究と、陸軍衛生制度の研究を期待された。
軍都・小倉に軍医が来るのは少しも不思議ではないが、エリート軍医の鴎外にしては、小倉は中央からは離れすぎてはいないか。なにしろ鴎外は、コレラ菌を発見したコッホ博士について学び、医学論文を書くなど充分な業績の持ち主だった。
その一方、陸軍医学部の先輩の論文を医学雑誌で批判するなど、役人の世界にしては「出る杭」的存在だったようだ。
それでも飽き足らないように、1884年から5年の「ドイツ留学」を下敷きに、ベルリンを舞台にした「舞姫」(1890年)「うたかたの記」「文づかひ」といった「ヨーロッパ三部作」を書き一躍、文壇の寵児となる。
のみならずプライベートでは、帰国後すぐに海軍中将男爵の長女登志子と結婚したが1年8か月で離婚し、その上「舞姫」のモデルとも言われるドイツ人女性が鴎外を追って来日して物議をかもした。
というわけで、「一等軍医正」の鴎外が、「少将担当官」の軍医監で小倉に着任することになる。
この時、鴎外37歳。身分的な体面は一応保たれていたかにみえるが、実質は「左遷」であった。
だが鴎外にとって、この「左遷生活」は悪いことばかりとは限らなかった。
当時の兵役において、「軍医部長」の重要な任務は、新兵の採否を決める徴兵検査の立ち会いであった。
鴎外は、その立ち会いや軍務で各地を訪ねるたびに、歴史遺跡を訪ねることを楽しみにしていたという。
こうした史跡での見聞や集めた史料は、「栗山大膳」(福岡)や「阿部一族」(熊本)といった歴史小説に結実していく。
また鴎外は1890年にいわば上官の娘である前妻と離別して、以後13年間独身生活を送る。しかし小倉を去る3か月前の1902年1月に、母の勧めで再婚している。
鴎外は結婚当時41歳、20近くも歳のはなれた美しい妻をもらって、とても喜んだようだ。
その後鴎外は、軍務に精励し、師団の幹部ともよく同調して、かつて鴎外の進路を妨げたとされている先任者が、過去の意をひるがえして鴎外を指名し「第一師団軍医部長」の肩書きを得て、新夫人を伴って東京に戻ってくる。
以後、文学面でも満々の抱負を抱きつつ、中央における軍医として栄達の道を歩むことになる。

大正から昭和にかけて、財閥のカネをめぐる「疑獄事件」とそれにまつわる抗争は、人々の「政党政治」への期待を打ち砕いた。
そしていつの頃か、軍を中心とする「国家改造」による高度国防国家が構想され、期待されるようになる。
ところが軍部の中には、「統制派」と「皇道派」という二つのグループが存在した。
後に226事件を引き起こす皇道派・青年将校達は、自分達の故郷である農村の悲惨と天皇の周辺で栄達を極める重臣達とを重ね合わせ、天皇の本当の御心はそうした重臣らによって歪曲せられていると思うものが多くいた。
当初、青年将校らは荒木貞夫陸相の政治力と人間性に期待が集まり「皇道派」が優勢であった。
しかし荒木の露骨な皇道派人事や極端な精神主義から、皇道派から離れる者もあり、かわって理知的で軍の秩序を重んじる永田鉄山を中心とした「統制派」が勢力を伸ばしていった。
さらに、永田鉄山が皇道派の青年将校に殺害されるや、軍務を疎かにして「下克上的風潮」を生み出している皇道派に批判が集まり、皇軍派はしだいに孤立化し、統制派が優位を占めるようになる。
2・26事件は、そうした劣勢にあった皇道派が行動をおこし自分達の真情を天皇に訴え、天皇の心をつかんでが、一機に勢力を挽回しようと企んだものだった。
つまり彼らは、とてもナイーブに「天皇親政」をもとめて行動を起こした若者達だった。
しかし2・26事件の経過で青年将校達を一層「悲劇的」にしたのは、皇道派の中核を握る軍人達が、一旦は青年将校の立場を支持し「理解」するような態度を示したことである。
皇道派の幹部達は、「天皇の裁断」によっては、自らの劣勢を回復できるという期待の下、青年将校の決起に同調しさえしたのだ。
この時、皇道派のリーダー的存在が荒木貞夫と並んで真崎甚三郎であった。
彼らは「君達の真情は理解した、その心を天皇もきっと受け止めてくださるだろう」などという言葉を青年将校らに伝えている。
青年将校らは、このことに望みをいだき「天皇の裁断」をひたすら待ったのであった。
しかし赤坂の山王ホテルにたてこもる彼らに対する天皇からの返答は、非情というより「悲劇的」という他はなかった。
天皇自ら「近衛兵団をひきいてこの乱を鎮圧せん」というほどに激しく、彼らを「反乱軍」と位置づけたのである。
天皇への「至上の思い」を抱いていた青年将校らはすっかり「行き場」を失い、鎮圧軍にあっさりと降伏す他はなかった。
つまり、皇道派・青年将校達の真情と意図は天皇に全く顧みることなく、「天皇の怒り」を招いただけで終結をむかえたのである。
そしてまもなく彼らとそのイデオローグ北一輝は、反乱軍の首謀者とともに、現在の渋谷NHKのある場所にあった刑場の露と化す。
その後日本は、「反対勢力」がいなくなった統制派により「軍国主義一色」に染まっていく。
このように、2・26事件の背景には、皇道派と統制派の「派閥抗争」があったが、実は皇道派の頭目・「真崎甚三郎」が、久留米で「俘虜収容所長」だった時期があったことである。
ところで、久留米の地は古代より、九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えられた。
高良大社付近には社を取り囲む形で神籠石があり、南北朝時には毘沙門嶽(現つつじ公園)に懐良親王の九州征西府が置かれ、その空堀の跡が残っている。
近代久留米が「軍都」としての性格を強めた背景には、このような「地政学的要因」が存在するからに他ならない。
久留米には1897年に歩兵第48連隊と第24旅団司令部がおかれ、1907年には第18師団がおかれ、旧帝国陸軍の中枢となった。
大正時代に日独戦争(第1次大戦)における主力部隊となった久留米には最大の俘虜収容所が設けられ、ドイツ俘虜の存在が多大の影響を与えたのは、前述のとおりである。
久留米は陸軍軍人の出世コースであり、真崎甚三郎ばかりではなく東條英機も久留米に住み、東條の子供は日吉小学校に通っていた。
さらには、「司馬遼太郎」も久留米の戦車部隊に配属されている。
現在も久留米に「陸上自衛隊幹部候補生学校」が置かれているのは、こうした歴史と背景があるからである。
実は前述の真崎甚三郎は久留米と縁遠い人物ではない。久留米に隣接した佐賀県出身で、佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年12月に卒業後、士官候補生を経て翌年9月に陸軍士官学校に入学している。
実は、福岡県久留米と真崎の故郷・佐賀の「親密さ」を物語る格好の史跡がある。
久留米藩は1868年、高良山の麓にある茶臼山(現山川町)に招魂所を設け、1853年以来、勤王のために死んだ真木和泉守保臣以下38名の志士を合祀した。
ここに陸軍墓地が併設され、「佐賀の役」で政府軍側の戦死者63名、「西南の役」の戦死者190名の墓が建てられた。
また、この山川招魂社の入口の石段を登ってすぐのところには「爆弾三勇士」の碑がある。
「爆弾三勇士」とは、1932年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死したという一世を風靡した「軍国美談」の主人公達である。
第一次世界大戦では、1914年10月31日、日本は青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃した。
この時、青島戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成された。
この戦いで5千名弱のドイツ兵俘虜が久留米、坂東、松山、大阪、習志野などへ送られた。
この中でも、映画「バルトの楽園」で描かれた徳島坂東の俘虜収容所が最も知られている。
徳島県の坂東俘虜収容所では、1918年6月1日、日本で最初にベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏したことで有名だが、そこでは人道的配慮がなされ、地元の人々との交流など心温まる面があった。
徳島の地をドイツ人の俘虜に「楽園」(がくえん)の地として提供したのは、戊辰戦争で「敗軍の惨めさ」を味わいつくした会津出身の坂東収容所長・松江豊寿であった。
一方、久留米俘虜収容所は、最大時で1315名の俘虜を収容したが、久留米俘虜収容所のドイツ人俘虜たちは徳島坂東での「第九」演奏に先立つ1917年3月4日にベートーベンの「第五」(運命)を演奏している。
また1905年9月の筑後川水泳大会には、十数名の俘虜も参加し、地元民との交流も行われた。
実は、この時のドイツ人俘虜との交流経験が、今日の久留米市の発展の礎となっているといっても過言ではない。
ドイツ人俘虜を迎え入れた久留米にとって重要な意味をもつのは、何といっても「技術交流」であった。
久留米の日本足袋製造会社がドイツ人将校俘虜のパウル・ヒルシュベルゲンから車のタイヤの製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、後にブリジストン・タイヤになったからである。
そして、ドイツ人俘虜の技術者は、先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えたのである。
「20銭均一アサヒ足袋」には、注文が殺到した。
石橋正二郎は、将来発展するのは自動車タイヤであることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れ、タイヤの国産化をめざす決意をする。それはドイツ人が伝えたゴムの製造法により確立したものであった。
実は久留米競輪場の敷地全体が久留米の陸軍墓地の跡で、その一角にドイツ人俘虜の墓もいくつかまとめて存在している。
ところで、久留米の焼き鳥屋にいって驚くのは、客が注文する言葉に、ドイツ語が飛び交うことである。
例えば、「ダルム」とはドイツ語で大腸、「ヘルツ」とは心臓を意味する。
これは、久留米市には1928年に九州初の医療専門学校が開校した関係で医学生が多く、彼らが医療用語のドイツ語を使って注文したのが由来だという。
しかし、医学部はどこにでもあり、久留米でそれが定着したのは、ドイツ人俘虜の存在が大きいのではなかろうか。