記憶の最強軍団

北九州のスペースワールドが2017年をもって閉園なるが、その前身は近代日本の支柱ともなった「八幡製鉄所」である。
それを記念する溶鉱炉は園内に保全されてあったが、その形骸さえも失われるとなれば、時代の遺産を失ってしまう気がする。
そんな思いとともに、最後の「残り火」が燃え上がるような「異常な強さ」を示したラグビー軍団の雄姿が蘇ってきた。
1973年に八幡製鉄は「新日鉄」として生まれかわり、フィールドを縦横に駆け巡って鮮烈な記憶を留めた「新日鉄釜石チーム」である。
「新日鉄釜石」は、岩手釜石を本拠地として、ラグビーの日本選手権で1979年から85年まで7連覇を達成した。
当時、新日鉄釜石は、学生チャンピオン・チームを問題にしなかったが、「全日本選手権」で対戦した学生チ-ムの監督が語った言葉を思い出す。
「我々にはかなわない。あの人たち(釜石チーム)は、生活のすべてがラグビーと一つになっている」と。
例えば学生が、勉学を部活に切り替えて練習するようなものではなく、生活そのもののリズムの中にラグビーが収まっているということであろう。
国民栄誉賞の羽生名人の言葉「将棋が生活のリズムのひとつとなっている」と一致する。
振り返れば、新日鉄の鬼神のような突進に、「鉄冷え」といわれた町に住む人々の思いが乗り移っていたかのようだった。
その一方で、廃坑となった福島県・常磐炭鉱は「ハワイアンセンター」として生まれ変わり、女性たちによって「フラガール」が誕生して、その公演は東北から全国展開していく。

スポーツの歴史を俯瞰してみると、「最強チーム」が生まれる時というのは、その本拠地が「逆境/苦境」のただ中で、地域の人々の気持ちが乗り移った時ではなかろうか。
記憶に新しいのは、2013年、震災の傷もさめやらぬ東北で、故・星野仙一監督率いる東北楽天イーグルスが日本シリーズで、巨人を破り優勝した。
無敗でシーズンを終えた田中将大は、その容貌から「鬼瓦」とニックネームがついたが、それは勝ちを続ける気迫そのものをも表していた。
星野仙一監督の楽天優勝時のコメント。「最高! 東北の子どもたち、全国の子どもたちに、そして被災者のみなさんに、これだけ勇気を与えてくれた選手を褒めてやってください」。
また、1956年から58年にかけて、福岡の西鉄ライオンズが読売巨人軍を倒し、日本シリーズ3連覇を達成した時期は、エネルギー転換により「総資本対総労働」対決といわれた三池争議が激化していく時であった。
中央から進出した資本と地域で暮らす労働者の闘争は「西鉄対巨人」とも重なり、西鉄を勝利に導いた稲生和久投手が「神様・仏様・稲生様」と称えられた。
、 そして、この福岡の熱い思いを次に引き次いだかに思えたのが、驚きの1960年の大洋ホェールズ(現横浜DeNA)の日本シリーズ初制覇である。
もし、勝負の鬼つまり「鬼神」が誕生した場所を「聖地」と呼ぶとするならば、山口県下関の下関中央病院あたりは、知る人ぞ知る「聖地」といえるかもしれない。
1960年の大洋ホェールズは、前年まで6年連続最下位だった大洋は、前年まで西鉄の監督を務め、西鉄を4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いている三原脩を新監督として迎えた。
チームは、前年までと同様に貧打に苦しんだが、守りの野球に徹した三原監督が投手陣をやり繰りし、接戦を次々と勝利していった。
開幕6連敗を喫した序盤は5月終了時点で借金3と苦戦したが、6月1日の対巨人戦で鈴木隆がセ・リーグ記録の8者連続奪三振を記録してからチームは波に乗った。
最終的には2位の巨人に4.5ゲーム差をつけて、初のリーグ優勝を果たしたばかりか、日本シリーズでは、大毎(現ロッテ)を相手に、全て1点差勝利の4連勝で初の日本一を決めた。
貧打の大洋を日本一に輝かせた三原監督の手腕は、「三原マジック」と称された。
この大洋ホェールズは後の横浜ベイスターズ、現在のDeNAであるが、もともとの本拠地が山口県下関であったことを知る人は案外と少ない。
関門海峡を挟んだ下関と門司は戦前、大陸への玄関口としても栄え、社会人野球では下関市の「大洋漁業」、北九州では「門司鉄道管理局」(現JR九州)や「八幡製鉄」(現新日鉄住金八幡)などがしのぎを削っていた。
戦後はプロ野球の人気も急上昇し、1948年7月には福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)に新球場「豊楽園球場」が、現在のJR小倉駅北側にあたりに誕生した。
プロ野球は、この球場で48年から57年までセ、パ両リーグで計70試合が開催されている。
1951年に西鉄ライオンズが球団合併で誕生すると、福岡市の平和台球場だけでなく、豊楽園球場での公式戦開催の機運がさらに高まり、西鉄戦は6試合が開催。翌52年には12試合(平和台球場は18試合)が開催され、準本拠地的な存在となった。
セ・パに分かれて直接戦うことはなかった両者、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)には炭鉱で人々が多くいたが、大洋ホェールズのファンには捕鯨の遠洋漁業で生きる人々の夢が託されていた。
とはいえ今日、福岡の炭鉱景気同様に、下関のクジラ景気も今や遠い昔の話である。
下関には戦前から社会人の「林兼(はやしかね)商店」野球部が活躍した。
この1924年創業の林兼商店こそが大洋漁業のルーツで、ユニホームの左袖に付いた球団名「(は)」は、林兼商店にちなんだ大洋漁業の社章で、開幕直後にはチーム名を「大洋ホェールズ」に変更し、この名前は長く親しまれた。
個人的な話だが、幼少の頃にプロ野球チームで最初に覚えたのが「大洋」で、「太陽」という言葉を連想させたからであろう。
幼な心に、太陽が「黒づくめ」のユニホームというのは不思議に思えたが、今にして思えばあれは「ホェール」つまり「クジラ」をイメージしたユニホームだった。そしてあの黒いユニホーム姿の男たちは、下関球場で戦っていたのである。
林兼商店は戦後の45年に「大洋漁業(現マルハニチロ)」へと社名を変更し、49年11月にプロ野球「まるは球団」を下関市に設立。直後に2リーグ制が発表され、セ・リーグに加盟し、本拠地は下関市となった。
当時の大洋漁業社長は「鯨1頭分余分に捕れば、選手の補強なんか大したことない」と話していたという。当時は捕鯨で多大な収益があり、球団設立に要した約6000万円の巨額の費用も問題なく賄えたようだ。
この新球団が主に使用したのが、49年11月に完成した下関球場で、西鉄ライオンズのかつてのエース池永正明は下関商業出身で、この球場が平和台球場とともに、「青春の球場」となっている。
1950年は開幕2戦目の3月11日に松竹の岩本義行が、中日戦でセ・リーグ第1号本塁打となる満塁弾を下関球場で放った。
下関から東京へ本社を移していた大洋漁業だが、同社の発祥の地である下関を重視。本拠地移転後も下関球場では年間数試合の公式戦やオープン戦を開催した。また、50年代には米メジャーの球団などを招いた日米野球も人気を呼んだ。
このように大洋以外の球団も試合を行ったが、球場の経営は振るわず、11月に3200万円で市に身売りし、「下関市営球場」へと変わった。
当時の下関市の人口は約20万人で、地方都市には興行的に限界があった。
フグやウニなどとともに下関の名物と称されたホェールズだったが、ナイター施設のなかった当時の平日の動員力は約2000人程度しかなかった。
4年の洋松ロビンスを経て、再び大洋ホェールズとなった55年に本拠地を川崎市の川崎球場に移転。下関球場はあるじをなくした。
川崎球場から横浜スタジアムに本拠地を移した1978年から横浜大洋ホェールズ、93年から横浜ベイスターズのチーム名を使用した。DeNAによる球団買収に伴い、2012年から現在の横浜DeNAベイスターズとなっている。
1979年に加入して現役最終年の84年まで大洋でプレーした基満男は「オープン戦で下関に行くと、フグをごちそうになったのが一番の思い出。伊藤博文ゆかりの春帆楼でチーム全員でな。さすが大洋漁業のお膝元と実感したよ。本当にわがチームという感じ。港が目の前で朝一番に船の汽笛で起こされたけどね」と往時をしのぶ。
85年を最後に老朽化のために解体。跡地には「下関市立市民病院」が立っている。88年に完成した新球場は下関北運動公園内にあり、1990年3月11日には近鉄の超大物ルーキー野茂英雄が、大洋とのオープン戦で「プロ初勝利」をマークしている。

近頃、スカイツリータワーに昇る機会があって探したのが、かつて南千住にあった「東京球場」という野球場があったあたり。それは、隅田川の川面にも映し出された強烈なナイター照明で、人々から「光の球場」と呼ばれていた。
東京球場は1962年、当時大映映画社長で「大毎オリオンズ」のオーナーであった永田雅一の発案により28億円の巨費を投じて建設された。その年から大毎オリオンズ(現在のロッテ・マリーンズ)のホーム球場となった。
サンフランシスコの「キャンドルスティックパーク」をモデルにしており、内野スタンドは2階建てで、1階と2階の間にはゴンドラ席が設けられた。
毎日オリオンズは、1969年球団名を「ロッテ・オリオンズ」と名前を変え、その翌年には「パリーグの覇者」となり、ホーム球場建設に応えた。
このロッテ・オリオンズの時代、小山・木樽・成田の三投手、打撃では有藤の活躍はいまだに記憶に残る。
永田社長の巨人に負けたくないという思いが、その威容を東京の下町・南千住に輝かせる「下町の太陽」ともなった。
オールスターゲームや日本シリーズの舞台となったが、斜陽の一途を辿る映画産業のため会社は経営難に陥り、球場は年に解体された。
さて、スカイツイリータワーのすぐ近くに、もうひとつ「野球関連遺跡」がある。それが、「隅田公園少年野球場」で、そこに立つ説明書きには、墨田区教育委員会によって、次のように書かれている。
「この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に"少年に明日への希望を"スローガンとして、 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、 中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。昭和61年3月」。
王が育ったこの地域は、東京大空襲において最も多くの被災者を出した地域であった。

兵庫県尼崎は、大阪の約30キロほど西方に位置する。数多くの名選手を生んでいる。
甲子園球場も真近なこの地が野球熱が高いというのは確かだが、競技熱が高いからといって名選手が多くでるとはかぎらない。兵庫県尼崎が、いかにプロ野球における「名選手」を数多く生んでいるかは、この町で実際に育った「綺羅星」のような存在をみれば一目瞭然であろう。
村山実(阪神)・江夏豊(阪神)・福本豊(阪急)・ 羽田耕一(近鉄)・伊良部秀輝(ロッテ)・ 松本匡史(巨人)・池山隆寛(ヤクルト)らである。
尼崎でこれほどの名選手が育つのは、甲子園球場が近いということから「野球」に対する情熱が高く、「育成システム」が充実してい名門高校や大学へのルートが確立しているからなのかもしれない。
しかしそれ以上に、野球が人々に与える「夢」の温度の高さがあり、人生を野球に賭けようという、「アマガサキ・ドリーム」なるものがあったのではなかろうか。
そのことを思わせるのは、尼崎産業高出身のミスタータイガース・村山実や江夏豊である。
原っぱで布製グラブとボールで三角ベースに熱中した下坂部小時代から住友工、そして阪神タイガースに入団し、読売ジャイアンツへの対抗心をむき出してして、長島茂雄とは数々の名勝負を演じた。
その村山を継いでエースとなった江夏豊は、尼崎ブルーカラーの街ならではの「ハングリー精神」を体現したような存在だった。
江夏によれば母子家庭であったために、少年時代より新聞配達、八百屋、自転車宅配などをして家計を支えたという。
母親の苦労は知っていたから、せめて借家住まいから家の一軒でも建てることができたらいいという思いからだったという。
さて、個人的な話だが、1983年(昭和58年)「第65回全国高校野球選手権大会/3回戦久留米商業高校-市立尼崎高校」がとても強く記憶に残っている。
市立尼崎高校の4番打者・池山隆寛は全国的といえるほど評判の打者ではなく、むしろ我が地元の福岡県代表の久留米商業に山田武史という「大会屈指の好投手」が注目を集めた。
ところが試合開始より、市立尼崎高校のサウスポーの宮永投手の「巧投」が光っていた。この試合の結果は次のとおりである。
市 尼 崎 (兵 庫) 2 0 0 1 0 0 1 0 0 | 4
久留米商 (福 岡) 0 0 0 0 0 0 0 3 2 | 5
試合は8回表までは完全な市尼ペースであった。8、9回の久商の攻撃で打ち取った当りがポテンヒットになってまともな安打はあまり出なかったような記憶がある。
エースの山田武史を擁する久留米商業は、この3回戦にサヨナラで勝利し「ベスト4」に進出した。
山田は高校卒業後、本田技研熊本を経て1986年ドラフト外で巨人入団した。
1990年6月、ダイエーに移籍したが、故障に悩まされて活躍できなかった。
一方、プロ野球で三振をおそれず振り回すため、「ブンブン丸」という愛称で呼ばれた池山隆寛は、中学時代その長打力から私立高校からの誘いがあったが、地元の市立尼崎高校を甲子園に出させたい思いから進学を決定したという。こういう高校生がでるところが「アマガサキ ドリーム」ということか。
そして実際に、市立尼崎高校は甲子園に出場するのだから、スゴイ。
ヤクルトからドラフト2位指名で入団し、1988年から5年連続で30本塁打、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成している。
引退後はヤクルトの一軍・二軍の打撃コーチをつとめたが、2012年から2015年まで駿河台大学の客員教授となっている。
テレビで池山の選手時代につけていたノートを見たが、「ブンブン丸」のイメージとは裏腹に、実に几帳面な人であることがわかった。
さて、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災により、尼崎も大きな被害をうけた。尼崎の経済は震災後、極度の不況に陥り、生活保護費をはじめとする扶助費の増大、震災復興事業による公債費増大などで財政難が深刻化した。
追い打ちをかけるように、JR福知山線の塚口・尼崎駅間において、犠牲者107人という大規模列車脱線事故が発生し、市内の工場の石綿(アスベスト)被害が全国的な問題となった。
福知山線での列車事故は、日本におけるボランティアの機運を高める一因ともなった。 そして尼崎市は、公害や震災の試練をくぐり抜けた街として、市ならではの「官民協働」の働きが注目を集めている。
そんな苦境の中、星野仙一監督率いる2003年の阪神タイガースは、地域復興の「願い」と一体となって、異常に高い勝率でセリーグの覇者となっている。

以上、三池争議の西鉄ライオンズ優勝、東北大震災の楽天イーグルス優勝、鉄冷えの新日鉄釜石ラグビーチーム、斜陽産業の大洋ホェールズや大毎オリオンズ、阪神神戸大震災の阪神タイガース優勝など、地域の苦境や逆境がもたらす人々の強い熱い思いが「鬼神」のごとき最強チームを生んできたことを確認できる。