素材を求めて

2016年本屋大賞を受賞した宮下奈都の小説の映画化したのが「羊と鋼の森」。ヒツジとハガネという柔・剛の組み合わせが、なかなかのタイトル。
そういえば中国で、現代の改革開放路線を定着させたのが鄧小平について「真綿に針を包み込んだような人物」と評されていたのを思い起こした。
さて、映画「羊と鋼」のなかで、調律師の「このピアノの中にはいい羊がいますね」という言葉があった。
ピアノは鍵盤を叩くと、内部にあるハンマーが弦を叩いて、音が鳴る。音色を決定する重要な要素は、ハンマーにかぶせる羊毛のフェルトなのだ。
「このピアノの中にはいい羊がいる」というのは、ピアノの中に「鋼」を鳴らす「羊」がいるということ。
そのイメージが、「森」のイメージと結びついたということである。
さて、ピアノのハンマーに使う「フェルト」に調べたところ、一番適しているのは「メリノ種」という種類の羊で,主にオーストラリアで生産される羊毛であるという。
羊たちは牧場で草を食べながら、毎年春まで丸々と毛を伸ばすというが、この「羊と鋼の森」の話に触発されて、他の楽器に想像の羽をのばしてみた。
例えば、絃と弓で音を奏でるバイオリンはどうであろうか。
「絃」にはバイオリン弦、ビオラ弦、チェロ弦と色々あるが、それらの原点たる絃を「ガット弦」という。
「弦」本来のスタイルを継承し、古くから、あらゆる弦楽器の弦として広く使われてきた。
このガット絃は、なんと「羊の腸」から強い繊維を取り出して乾燥させ、よじり合わせたものである。
バイオリンにも「羊」が住んでいるということだが、現在ではそれを[芯材]として、糸状の金属を巻き付けたもの(巻線)までを総称して「ガット弦」という。
しなやかさが特徴で、音が豊かで柔らかく、あたたかみがある。
他の素材の弦にはない独特の音質に惚れ込んで愛用している人も少なくない。
ガット弦は、古くから「高級弦」として使われるが、温度や湿度の影響を受けやすく、伸びやすいためチューニングが困難で寿命も短く、値段も比較的高価格である。
今日のヴァイオリンの絃は、「羊の腸」から作られたものではなくスチール絃やナイロン弦が主なものだという。
さて、バイオリンの世界では、「ストラディバリウス」と呼ばれる楽器が名器として知られている。
これは、イタリアのアントニオ・ストラディバリが製作したもので、その音色には使用されている木材が大きな役割を果たしているとされている。
バイオリンの史上最高の名器「ストラディバリウス」で使用されている木材は、イタリア北部の森。森の木々はスプルースという木で、バイオリンの表板をつくるのに使われる。
中央ヨーロッパで1645年から1715年の間厳しい気候が続いた際のもので、この頃の樹木は成長が遅かったため木目が均一であるという特徴をもっている。
次にバイオリンを奏でる「弓」だが、意外にも馬毛でできていて、食肉用に飼育される馬は、弓にとって最高だという。
適度な弾力と強さが備わっていて、牧草を食べる放牧馬に比べ、性能が数段違うらしい。
ピアノが「羊と鋼の森」ならば、バイオリンは、「羊と馬とが愛睦まじく戯れる森」である。

京都の石清水八幡宮といえば、源氏から「武神」として信仰が篤く、源氏の広がりとともに当社から各地に「八幡宮」が勧請された。
源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鶴岡八幡宮が代表だが、石清水八幡宮ではアメリカの発明王・エジソンの絵馬というものが飾られている。
それでは、エジソンと源氏ユカリの神社と、どんな関わりがあるのか。
そのヒントは、京阪八幡駅の広場中央の「竹」とエジソンの「白熱電球」のオブジェにある。
さて、トーマス・エジソンが発明したものの中で、最も普及度が高いモノとして「白熱電球」をあげることができる。
この白熱電球において最大の問題は、実際に光で輝く素材を何にするかということであった。
いくら電気が光を生むとしても、この素材が長く「光」を発光し続けなければ、「電球」としての役割を担えないからである。
そしてこの素材を「フィラメント」というが、「フィラメント」とはラテン語で糸を意味する「filum」に由来し、細い線から成る細かい糸状の構造を指す。
1878年にエジソンは、「エジソン電灯会社」(後のGE)を設立し、「白熱電球」の研究に取り組んだ。
そして1879年32歳の時、エジソンは「綿糸」に煤(すす)とタールを塗って炭素させたフィラメントを使って、45時間輝く白熱電灯の製作に成功したのである。
しかしエジソンは最低600時間は続かないと、商品化するのはムリであると考えたので、耐久時間が45時間では、「電球」として実用化するには短すぎる。
ところが、たまたま研究室にあった「扇子の竹」でフィラメントを作ったところ200時間も電球が灯ったのである。
エジソンは材質を「竹」にしぼり、20人の調査員を「竹採集」のため世界に派遣して、1200種類もの竹で実験したという。
その助手の一人が1880年に「竹」を求めて来日し、東京で助手と会見した伊藤博文首相・山県有朋外相らが、京都なら良質の竹が入手できるであろうことを助言したのである。
石清水八幡宮のある八幡男山の山中には、今でも広大な美しい竹林が広がっている。
材質が硬いが 割れやすく 加工しやすいため「竹細工製品」などに使われてきた。
また、温度による膨張や伸縮度が低いため、モノサシにも最適の材料であり、尺八にも真竹が使われている。
そしてエジソンの助手が見つけ採取したのが、この石清水八幡宮境内からとった「真竹」のなのだ。
白熱電球の改良の際に、この竹で作ったフィラメントを使ったところ、電球はナント2450時間も灯り続けたという。
その後1894年に電球のフィラメントは、セルローズのフィラメントに取って代わるが、京都八幡の真竹は10数年にわたり「エジソン電灯」会社に輸出され、さらに八幡の竹を用いた白熱電球が毎年世界各国に輸出されたのである。
そのことを記念して、京都・石清水八幡宮の境内にエジソンの記念碑があり、2月11日には「エジソン生誕祭」も行われている。

京都市の中心部、小倉百人一首の編者で有名な歌人・藤原定家がかまえた屋敷の跡に立つ「白鳳堂(はくほうどう)」は、現代的なアートギャラリーのような場所になっているという。
屋内には1千点超の筆が整然と陳列され、その筆先は丸みがあったり扇形だったりと様々。大きさや材質も1本ごとに異なる。
これはどう見ても絵筆ではない。「白鳳堂」はメーキャップに使う「化粧筆」を手がける店である。
白鳳堂の創業は1974年。家業が洋画筆メーカーだった社長が立ち上げ、陶器や漆器の「絵付け用」の筆づくりを始めた。
ところが町の毛筆生産は先細り、画筆も中国での生産に切り替わるなどして減少傾向にあった。
絵付け筆の市場自体も小さく、経営は苦しかった。そこで白鳳堂は「化粧用コンパクト」に収まる筆に手を広げた。
そうして美容にこだわる人びとを魅了する化粧筆は、「広島県熊野町」から発信されている。
江戸時代から伝わる筆づくりは「熊野筆」で知られ、山あいの小さな町は筆の都として栄えた。
熊野筆一本の穂首には種類も長さも異なる10種類以上の動物の毛が使われている。
それぞれの筆の個性を創り出すレシピに合わせ、毛を均一に混ぜる「練り混ぜ」作業を熊野筆の職人は繰り返し行ている。
そして、これらの動物の毛の殆どは外国から輸入している。
例えば、中国の江南地方に棲息する山羊(やまひつじ)の毛で、体のどの部分の毛も、それぞれに異なる特徴があり、筆の原料として使用されている。
特に、両前足の間(胸)から首、喉にかけての毛は、「細光鋒」「粗光鋒」と呼ばれ先の透明に見える部分が長いほど良質な毛として、「羊毛筆」には欠かせないもの。
他の部分の毛も太筆・細筆を問わず筆の原料として使われている。
馬毛の場合、北アメリカ・カナダ産のものが、品質が良く、安定している。
馬は、栗毛・白毛・青毛の三種類の毛色があり、体の殆どの部分が、筆の原料として使われる。
特に、「尾脇毛」と呼ばれる尻尾の付け根に生えている毛は、弾力があり、毛先が鋭く尖っていて、剛亳筆や兼毛筆によく使われる。
胴の毛は、柔らかく光沢があって、先が細く滑らかですので、太筆の衣毛、細筆の芯や衣毛に使われ、栗毛馬の腹の毛は、薄茶色で柔らかく、腹毛と呼んで衣毛に使われているし、尻尾や鬣(たてがみ)は、太筆の根元に力毛として使いという。
かつて白鳳堂の化粧筆も、洋画を描く筆を転用しただけで、平らな筆先ばかりであった。
そこで、誰もが思い通りに素早く、美しく、簡単にメイクができるような筆を求め続けた。
そして昔ながらの手作業を大事にするとともに、均一な商品を量産できる態勢を確立した。
筆先の形を整えるため使われてきた木型の内側を改良し、熟練職人でなくても短時間で繊細な丸みを出せるようにし、独自製法として「特許」も取得した。
さらには、肌の温度に反応してなじみやすくなる化粧品に合った筆など、最新の美容技術に対応する筆を開発中という。
そして今や「HAKUHODO」ブランドは海外でも人気が高まり、その販路は今や世界に広がっている。

「氷上のチェス」とも呼ばれているカーリングは15世紀にスコットランドで発祥したとされている。
スコットランドではそれ以降も野外で盛んに行われていたようだが、スポーツとしてのルールは19世紀はじめにカナダで確立した。
カナダにはスコットランドランドからの移民が多く暮らしているからだ。
ソチの冬季オリンピックをはじめ国際大会で使用されているカーリング・ストーンは1個約20kg。
1チームが8個を使用するので競技を行うためには16個が必要だ。
これを持ち運ぶのは容易ではないので、競技会場で用意されたものを用いている。
このカーリング・ストーンにはスコットランドのアルサクレイグ島特産の密度の高い「花崗岩」が主に用いられている。
周囲3kmほどの小さな島なので自然環境を守るため採掘は20年に一度しか行われないという。そのためカーリングストーンは1個が10万円と非常に高価だが、100年以上使用できるらしい。
個人的にカーリング・ストーンから連想するのは、日本の囲碁で使う「碁石」である。
囲碁は日本でいつ頃始まり、「碁石」が作られたのは、いつ頃からであろうか。
大宝律令の中に碁に関する項目があるから、実際にはさらに以前から伝わっていたと思われる。
奈良時代には盛んに打たれていた様で、正倉院に碁盤「木画紫檀棊局」が収められている。
また、平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、「枕草子」「源氏物語」などこの時代の代表的な文学作品にもしばしば碁の描写が登場する。
碁石の素材については、733年成立の「風土記」碁石に関する記述が見られ、「常陸国風土記」に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。
さらに「出雲国風土記」に、島根県の「玉結浜」の記載があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。
そして、自然石の碁石は江戸期まで使用された。
現在「黒」は、三重県熊野市で産する黒色頁岩が名品とされ、「白」は「ハマグリ」の貝殻を型抜きして磨いたものである。
碁石の材料となる「ハマグリ」の代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。
文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取され、上物として珍重されたが、現在では取り尽くされている。
そして現在一般に出回っているものは「メキシコ産」だという。

バレーボールおよびバスケットボールの世界シェアNO1は、いずれも広島にある会社で、オリンピックの「公式ボール」が製作されている。
そのボール製作の源流を探ると、とても意外なことに砂鉄と木炭を使った日本古来の「たたら製鉄」にたどり着く。
ところでバレーボールは、ゴムのシートを成形機に入れて袋を作り、高圧の空気や硫黄で加工する。
糸で袋の周りを巻いて強度と反発力をつけ、最後に人工皮革や牛革などの天然皮革を貼っていくのが基本的な作り方である。
バレーボールシェア日本一の会社「ミカサ」の歴史をたどれば次のとおり。
1895年、地元出身の増田増太郎が英語を学ぼうとハワイに渡った。 勤務先のホテルで足音のしないゴム底靴に驚き、ゴム製造の技術を知る。
帰国後の1903年にゴム草履(ぞうり)の製造を始め、17年にミカサの前身となる増田ゴム工業所を設立した。
第1次世界大戦でドイツなどでの生産が停滞。広島はそれを埋める「特需」に沸いた。
戦後、原爆で焦土と化した広島で、増田ゴムと名前を変えた現在のミカサは進駐軍の指導で「運動用ゴムボール」の生産から再出発した。
では、戦後まもない日本でそれほど多くのゴムの供給がどうしてあったのだろう。
実はその秘密は、広島の安芸太田町の「加計(かけ)」という地域にとれる「砂鉄」にある。
北広島町内では古代から江戸時代にかけての製鉄場跡が約200ヵ所見つかっており、盛んに製鉄が行われていたことがうかがえる。
「加計」は出雲と並ぶ中国地方の「たたら製鉄」の中心地だった。
江戸時代の広島藩主・浅野家はこの砂鉄を原料に下級武士の手内職として「針つくり」を広めた。 その結果、長崎や京都への出荷で栄え、「広島針」は全国に知られた。
時代は下り昭和の初め、広島県のメーカーは中国やタイに大量の針を輸出していた。
行きはたくさんの針を積む一方で、帰りの船は空っぽ。これではもったいないとアジア各地で採取できる安い「生ゴム」を持ち帰ったところ、広島のゴム産業が伸びたのである。
例えば、軍手の通気性の良さとゴム手袋の滑りにくさを兼ね備えた「ゴム張り手袋」は、40年以上のロングセラーとなっている。
さてオリンピックの公式ボールとして採用された「ミカサ」のバレーボールだが、協会より「長くラリー」が続くものという要請を受け、従来12枚で貼っていたゴムを、指のひっかりが少ない8枚とし、レシーブに有利なものとした。
女子バレーボール監督の眞鍋政義は、ミカサの工場を訪問して、職人たちの話を聞き、新しい「ボールの特性」を研究した。
そして、主流だったジャンピングサーブよりも、「無回転ボール」の方が、相手のレシーブミスを誘発しやすいことを見出した。
ロンドンオリンピック、日本女子バレーの「銅メダル」の背後に、広島針とゴムの歴史があった。

オリンピックでの感動は、選手から選手に渡される「繋ぎ」の強さにあるように思う。
それは、銀メダルの快挙に沸いた男子400メートルリレーで渡されたような目に見える「バトン」ではなく、心のタスキのようなもの。
そして「心のタスキ」は選手間ばかりではなく、舞台裏の職人たちから、オリンピックに出場出来なかった選手たちの間にも、共有されていた。
1964年10月1日、東京オリンピック。雲ひとつない晴天の日、聖火最終ランナー・坂井義則により点火された灯火は、大会最終日の10月24日まで燃え続けた。
坂井義則は広島出身の早稲田大学の陸上選手。その大役に選ばれた理由は、原爆投下の日を誕生日とした偶然で、オリンピックが平和の祭典であるというメッセージをこめたものだった。
ちなみに。坂井は大学卒業後、フジテレビに入社するが、アナウンサー・故逸見正孝と同期である。
実は、この「聖火台」が作られたのは、1962年に公開された吉永さゆり主演の映画の舞台となった「キューポラのある街」である。
埼玉県の川口市は、火鉢などの鋳物を製造する街として知られ、その巨大な煙突のような溶鉱炉をキューポラという。
そして、この「聖火台」の製造において、職人である親から子へ「心のたすき」が渡されていた。
当時、オリンピックをテレビで見るものにとって、その苦闘を知る由もなかった。
川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助のもとに聖火台の製作依頼がきたのは、アジア競技大会まであと半年という切羽詰まったタイミングだった。
アジア競技会とは、1958年5月に開催された第3回アジア競技大会のことである。
川口鋳物師の心意気を見せようと、萬之助は、期限が迫る中、採算を度外視して引き受けた。
聖火台の製作期間は3カ月。作業は昼夜を問わず行われ、2カ月後には鋳型を作り上げ、1958年2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」を迎えた。
「湯」とは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした約1400度の鋳鉄。液状になった鋳鉄を鋳型に流し込む作業が「湯入れ」だ。
強度を均一にするため、注ぐ「湯」の温度管理には繊細な注意が求められる。
しかし、この作業が始まってまもなく、鋳型が爆発、湯入れは失敗に終わる。精根尽き果てた萬之助、8日後、帰らぬ人となった。享年68であった。
その壮絶な死は、息子の文吾には知らされなかった。
完成までに残された期間はわずか1カ月。父の死を知れば重責を引き継いだ文吾にどんな影響があるかと心配した家族の決断だった。
やがて葬儀の日、文吾は初めてそのことを知る。
父を見送る文吾は「弔い合戦」と決意を固め、プレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業に没頭した。
やがて迎えた湯入れの日、そしてついに成功した。ゆるやかに冷やされ、はずされた型枠の中からは、父子の魂が創り上げた見事な聖火台が姿を現した。
この聖火台は、アジア競技大会で聖火が点火され、6年後の東京オリンピックの開会式で、全世界が注目する中、開会式で聖火を燃え上がらせた。
聖火台には「鈴萬」の文字が刻まれていた。

貿易統計に関することですと、スポーツ用品の輸出・輸入のことになりますが、近年、 貿易額が増加しているスポーツ用品の一つに「卓球用具」がある。
卓球は世界的にも競技人口が多く、国際卓球連盟に加盟する世界各国・地域の協会数は222 に及び、スポーツ競技の中で最多となっています。
ちなみに日本国内でbrは、年齢、性別を問わず楽しめるスポーツとして、競技人口は年々増えています。
卓球用具の貿易額は、輸出額・輸入額共に増加しており、昨年(2015 年)は輸出額・ 輸入額共に前年比で3 割以上増加し、過去最大となりました。
卓球ラバー「Q3」をミズノと共同開発した「住友理工株式会社」。
私たちが快適に車に乗るためのゴムをつくっている世界No.1会社です。
1493年に天然ゴムが発見され、その後合成ゴムが開発されました。
ゴムといえば、「伸びる、はねる」というイメージがありますが、伸びないものやはねないものもあります。
ゴムのことを学んだ後は、噂の世界No.1シェアの防振ゴムについての説明をしていただきました。
防振ゴムといってもたくさん種類があります。一言でいうと振動を抑えるゴムです! 私たちが、エンジンの振動を感じることなく車を運転できているのは、この防振ゴムのおかげです。図1は、特に高級車に使用される高機能な防振ゴムの紹介です。
実は今回、ゴムのプロフェッショナルが集まる住友理工とミズノは、卓球ラバーを共同開発しました。
ミズノのスポーツ品開発で培ったノウハウと住友理工のゴムの知見とを生かして、今回、日本製卓球ラバーが誕生しました!
その名も「Q3」!キュースリーって読みます。「Q=Question」を意味します。良いラバーとは何か、最先端のラバーとは何なのか、求められるラバーとは何なのか問いかけた卓球ラバーです。是非一度チェックしてみてください!

各ゴム製品は、用途に合わせてゴムの特徴を活かし、作られているとのだと改めて発見しました!
・原竹の乾燥  数週間から数ヵ月間の天日干しの後、室内でじっくり乾燥させる ・生地組み  どのような竿の長さ・調子(しなり)にするのか竹のクセを見極めながら、  竹の組み合わせを決める。 ・火入れ  原竹を炭火であぶり、矯め木(ためぎ)という道具で竹のクセを矯正するとともに、  竹の繊維を引き締め、反発力を高める。竿作りの中で最も重要で根気の必要な工程 ・中抜き  竹竿の内側に細い竿をしまえるようにキリでふしを抜く ・絹糸巻き  竿の継ぎ目を丈夫にし、割れを防ぐために絹糸を巻く ・漆塗り  継ぎ目の強度をより高めるため、絹糸を巻いた部分に漆を塗り込み、  ひと晩乾かしてから漆部分をペーパーで研ぎだす。この工程を何度も繰り返し、  継ぎ目から水分が浸透するのを防ぐ ・握り  竿師の特徴が最もあらわれる握りには、蒔絵や螺細(らでん)などの伝統的手法で  装飾を施し、芸術的な竿へと仕上げていく ・穂先削り  どの方向からの力にも耐えられるよう、角材状に割った4本の真竹を張り合わせ、  刃とやすりで細く削り込む ・胴漆塗り  漆を指先で丹念に塗り込んだ後に拭き上げる。色艶が出るまで何度も繰り返す 「ちょうどその頃、家族で1年間、北海道の山奥で暮らすことになったのも大きかったです。山奥の小学校に来る調律師さんがすごく面白い人だった、という直接的な経験もあれば、例えば森の中を歩いていたら〝あっ、海みたいな音がする〞と。そのことを主人公に感じさせることで、彼の音楽的素養のひとつにすることができた。普通に生活しているだけでも、何を見ても、この小説に繋がっていく。書きたいことがどんどん湧いてくる、作家として幸運な体験をしたんです。その状態のままやり切れたっていう満足感で十分、幸せだったんですよ。こんなにたくさんの方に読んでいただけるなんて、嬉しい誤算でした」
僕は時間を持て余していた。するべきことが思いつかなかった。したいこともない。このままなんとか高校を卒業して、なんとか就職口を見つけて、生きていければいい。そう思っていた〉
北海道の高校に通う「僕」――外村が、高校2年の2学期に、ピアノの世界と出会うシーンから物語は始まる。教師から学内の案内をするよう頼まれた相手は、調律師という聞き慣れない肩書きを持っていた。br<>その男性――板鳥さんが、体育館のピアノを鳴らすと〈森の匂いがした。(中略)問題は、近くに森などないことだ〉。爽やかな衝撃に貫かれた「僕」は、弟子入りを志願し、調律師となることを志す。
他の人にとってはどうってことないようなことも、その人にとっては人生を変えられるぐらいの衝撃がある。人生が変わる瞬間って、意外とそういうものなんじゃないでしょうか」
2年制の専門学校を卒業した外村は、板鳥さんが働く江藤楽器に就職する。板鳥さんと出会うまでピアノを弾いたこともなければ、クラシック音楽の専門知識もない。この道を進むという思いは強固だが、自分を疑う瞬間は幾度となく訪れる。
自分は特別なものを持っているわけじゃないって気持ちは、私も外村くんと同じです。ただ、自分に才能があるのかとかセンスがあるのかとか、このままこの場所でやり続けていいのかってことって、若い人の方が怖がるんじゃないでしょうか。
私は初めて小説を書いた時が36歳だったので、才能とかそんなこと気にしてる場合じゃなかった(笑)。書きたいから書くんだって気持ちだったんですよね。今も結局、つらいことや怖いなと思うことがあるけれども、最後は好きだから書くってところに戻ってくる。外村くんも、迷うことがあっても、そこに戻っていける人なんじゃないかなって」
外村にとって板鳥さんは憧れの存在、心の師匠だが、売れっ子ゆえに多忙。教育係についてくれたのは、明るい性格の柳だ。もうひとりの先輩・秋野は、元ピアニストで独特の空気の持ち主。3人の先輩調律師の存在が、外村を刺激する。この関係性が、心地いい。
「ずっと前から、師弟関係が書きたかったんです。私には恩師と呼べる人がいないので、小説の中で書いて味わってみたかった。ただ、それだと縦の繋がりだけなんですよね。調律を依頼してくる〝双子〞を思い付いた時に、世界が横に広がって、物語が立体的になっていったんです」
 双子とは、姉の和音と妹の由仁、双子の高校生のこと。外村が学ぶのは、先輩たちからだけじゃない。ピアノの調律を依頼してくる、顧客からも多くのものを学んでいるのだ。例えば、調律の方向性を「やわらかい音で」とリクエストされた時、「やわらかさ」をどのように捉え、どう音色に反映するか? ピアノの調律は、言葉の営みでもあるのだ。
「取材で調律師の方に何人かお話を聞いた時、みなさんすごく具体的で、地に足のついた言葉を使われることに驚きました。〝感覚です〞とか〝センスに頼ります〞みたいなことを言わないんですよね。ただ、だからといって〝ここを何ミリずらす〞とか、そういう描写をしてもあまり面白くない(笑)。そこで行われていることを、小説としてどう表せばいいのか。そこが一番悩みましたし、こだわりたかったところでした」
板鳥さんの〈この仕事に、正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい〉という言葉は、〝正しい音ってどんなものですか?〞という私の質問に対して、調律師の方が実際におっしゃった言葉でした。他にも〝調律師になるために必要なものって何ですか?〞と伺ったら、〝根気です〞とおっしゃっる方がいたんです。そんなわけないでしょう、と一瞬思ったんです(笑)。でも、その方はきっと自分に必要なものを既に備えている、だから根気なんじゃないかな、と。そういった言葉を拾って小説の中に溶け込ませていくことで、調律師という人々の営みを少しでも表せたらと思いました」
「調律師のお話だけど、小説という仕事と重なる部分も多いなぁとは感じていたんです。でも、本を出した後に、全く思いもしない職種の方に〝自分の仕事と重なる〞って言ってもらう機会が少なくなかったんですね。その道のプロとして最高の仕事を追求する、という面で、私の想像以上に開かれた小説になっていたんです。学生の方からの感想も多かったんですよ。〝自分の道はきっとどこかにあると信じられるようになりました〞って……。作家冥利に尽きますね」
物語の終盤、3人の先輩調律師からアドバイスをもらうばかりだった外村が、自ら「調律とは何か?」について言葉を発するシーンがある。その先で、美しく豊かで、清々しい場所へと辿り着いたことが確信できる、素敵な一文が登場する。調律師が一音一音にこだわるように、作家が一語一語にこだわり磨き上げ、辿り着いたその一文を、冒頭から丁寧に読み進めていって出合ってほしい。そうすれば、読み手の心も清々しく調律されるから。 「最後に、奇跡の瞬間を描きたいと思っていました。でも、ファンタジーだとは感じない、もしかしたら現実で自分の身にも起こり得るかもしれない、というギリギリのところを探ったつもりです。振り返ってみて今思うのは、外村くんに起きている奇跡の瞬間って、私も36歳で初めて小説を書いた時に、自分の身にも起こったことじゃないのかな」
この一作が特別な輝きを発し、多くの読者に受け入れられたのはきっと、必然だったのだ。 「もし本屋大賞が取れなかったとしても、読者の方に受け入れられていなかったとしても、私にとって本当に大切な小説です、と言い切れたと思うんです」

そして驚くべきは、スイスの研究者が細菌を利用し、このような「木目が均質な木材」を作り出すことに成功したそうだ。
この特殊な菌類は木材の細胞構造を変化させ密度を低下させ、均質性を向上させるという。
最も長く菌類に晒した木材を使用したものがすぐれ、クラシック音楽における「革命」であるとみる音楽家もいるそうだ。
狸の毛は、毛先が鋭く弾力があり、毛が長いことから、主に太筆の命毛として使われ、鹿は、毛は太くて硬く、先は鋭く尖っている。
毛の根元が空洞になっていて、墨の含みがよいのが特徴である。
兎兎の毛には、紫亳と呼ばれる先が黒色の毛と、野兎の毛の2種類がある。 いずれも、先が鋭く尖って弾力があり、細筆の命毛に使う。
猫この毛は通常玉毛(たまけ)と呼ばれ、点付筆・面相筆や細筆に使い、細い線を書く筆に使う。