2016年本屋大賞を受賞した宮下奈都の小説の映画化したのが「羊と鋼の森」。ヒツジとハガネという柔・剛の組み合わせが、なかなかのタイトル。
そういえば中国で、現代の改革開放路線を定着させたのが鄧小平について「真綿に針を包み込んだような人物」と評されていたのを思い起こした。
さて、映画「羊と鋼」のなかで、調律師の「このピアノの中にはいい羊がいますね」という言葉があった。
ピアノは鍵盤を叩くと、内部にあるハンマーが弦を叩いて、音が鳴る。音色を決定する重要な要素は、ハンマーにかぶせる羊毛のフェルトなのだ。
「このピアノの中にはいい羊がいる」というのは、ピアノの中に「鋼」を鳴らす「羊」がいるということ。
そのイメージが、「森」のイメージと結びついたということである。
さて、ピアノのハンマーに使う「フェルト」に調べたところ、一番適しているのは「メリノ種」という種類の羊で,主にオーストラリアで生産される羊毛であるという。
羊たちは牧場で草を食べながら、毎年春まで丸々と毛を伸ばすというが、この「羊と鋼の森」の話に触発されて、他の楽器に想像の羽をのばしてみた。
例えば、絃と弓で音を奏でるバイオリンはどうであろうか。
「絃」にはバイオリン弦、ビオラ弦、チェロ弦と色々あるが、それらの原点たる絃を「ガット弦」という。
「弦」本来のスタイルを継承し、古くから、あらゆる弦楽器の弦として広く使われてきた。
このガット絃は、なんと「羊の腸」から強い繊維を取り出して乾燥させ、よじり合わせたものである。
バイオリンにも「羊」が住んでいるということだが、現在ではそれを[芯材]として、糸状の金属を巻き付けたもの(巻線)までを総称して「ガット弦」という。
しなやかさが特徴で、音が豊かで柔らかく、あたたかみがある。
他の素材の弦にはない独特の音質に惚れ込んで愛用している人も少なくない。
ガット弦は、古くから「高級弦」として使われるが、温度や湿度の影響を受けやすく、伸びやすいためチューニングが困難で寿命も短く、値段も比較的高価格である。
今日のヴァイオリンの絃は、「羊の腸」から作られたものではなくスチール絃やナイロン弦が主なものだという。
さて、バイオリンの世界では、「ストラディバリウス」と呼ばれる楽器が名器として知られている。
これは、イタリアのアントニオ・ストラディバリが製作したもので、その音色には使用されている木材が大きな役割を果たしているとされている。
バイオリンの史上最高の名器「ストラディバリウス」で使用されている木材は、イタリア北部の森。森の木々はスプルースという木で、バイオリンの表板をつくるのに使われる。
中央ヨーロッパで1645年から1715年の間厳しい気候が続いた際のもので、この頃の樹木は成長が遅かったため木目が均一であるという特徴をもっている。
次にバイオリンを奏でる「弓」だが、意外にも馬毛でできていて、食肉用に飼育される馬は、弓にとって最高だという。
適度な弾力と強さが備わっていて、牧草を食べる放牧馬に比べ、性能が数段違うらしい。
ピアノが「羊と鋼の森」ならば、バイオリンは、「羊と馬とが愛睦まじく戯れる森」である。
京都の石清水八幡宮といえば、源氏から「武神」として信仰が篤く、源氏の広がりとともに当社から各地に「八幡宮」が勧請された。
源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鶴岡八幡宮が代表だが、石清水八幡宮ではアメリカの発明王・エジソンの絵馬というものが飾られている。
それでは、エジソンと源氏ユカリの神社と、どんな関わりがあるのか。
そのヒントは、京阪八幡駅の広場中央の「竹」とエジソンの「白熱電球」のオブジェにある。
さて、トーマス・エジソンが発明したものの中で、最も普及度が高いモノとして「白熱電球」をあげることができる。
この白熱電球において最大の問題は、実際に光で輝く素材を何にするかということであった。
いくら電気が光を生むとしても、この素材が長く「光」を発光し続けなければ、「電球」としての役割を担えないからである。
そしてこの素材を「フィラメント」というが、「フィラメント」とはラテン語で糸を意味する「filum」に由来し、細い線から成る細かい糸状の構造を指す。
1878年にエジソンは、「エジソン電灯会社」(後のGE)を設立し、「白熱電球」の研究に取り組んだ。
そして1879年32歳の時、エジソンは「綿糸」に煤(すす)とタールを塗って炭素させたフィラメントを使って、45時間輝く白熱電灯の製作に成功したのである。
しかしエジソンは最低600時間は続かないと、商品化するのはムリであると考えたので、耐久時間が45時間では、「電球」として実用化するには短すぎる。
ところが、たまたま研究室にあった「扇子の竹」でフィラメントを作ったところ200時間も電球が灯ったのである。
エジソンは材質を「竹」にしぼり、20人の調査員を「竹採集」のため世界に派遣して、1200種類もの竹で実験したという。
その助手の一人が1880年に「竹」を求めて来日し、東京で助手と会見した伊藤博文首相・山県有朋外相らが、京都なら良質の竹が入手できるであろうことを助言したのである。
石清水八幡宮のある八幡男山の山中には、今でも広大な美しい竹林が広がっている。
材質が硬いが 割れやすく 加工しやすいため「竹細工製品」などに使われてきた。
また、温度による膨張や伸縮度が低いため、モノサシにも最適の材料であり、尺八にも真竹が使われている。
そしてエジソンの助手が見つけ採取したのが、この石清水八幡宮境内からとった「真竹」のなのだ。
白熱電球の改良の際に、この竹で作ったフィラメントを使ったところ、電球はナント2450時間も灯り続けたという。
その後1894年に電球のフィラメントは、セルローズのフィラメントに取って代わるが、京都八幡の真竹は10数年にわたり「エジソン電灯」会社に輸出され、さらに八幡の竹を用いた白熱電球が毎年世界各国に輸出されたのである。
そのことを記念して、京都・石清水八幡宮の境内にエジソンの記念碑があり、2月11日には「エジソン生誕祭」も行われている。
京都市の中心部、小倉百人一首の編者で有名な歌人・藤原定家がかまえた屋敷の跡に立つ「白鳳堂(はくほうどう)」は、現代的なアートギャラリーのような場所になっているという。
屋内には1千点超の筆が整然と陳列され、その筆先は丸みがあったり扇形だったりと様々。大きさや材質も1本ごとに異なる。
これはどう見ても絵筆ではない。「白鳳堂」はメーキャップに使う「化粧筆」を手がける店である。
白鳳堂の創業は1974年。家業が洋画筆メーカーだった社長が立ち上げ、陶器や漆器の「絵付け用」の筆づくりを始めた。
ところが町の毛筆生産は先細り、画筆も中国での生産に切り替わるなどして減少傾向にあった。
絵付け筆の市場自体も小さく、経営は苦しかった。そこで白鳳堂は「化粧用コンパクト」に収まる筆に手を広げた。
そうして美容にこだわる人びとを魅了する化粧筆は、「広島県熊野町」から発信されている。
江戸時代から伝わる筆づくりは「熊野筆」で知られ、山あいの小さな町は筆の都として栄えた。
熊野筆一本の穂首には種類も長さも異なる10種類以上の動物の毛が使われている。
それぞれの筆の個性を創り出すレシピに合わせ、毛を均一に混ぜる「練り混ぜ」作業を熊野筆の職人は繰り返し行ている。
そして、これらの動物の毛の殆どは外国から輸入している。
例えば、中国の江南地方に棲息する山羊(やまひつじ)の毛で、体のどの部分の毛も、それぞれに異なる特徴があり、筆の原料として使用されている。
特に、両前足の間(胸)から首、喉にかけての毛は、「細光鋒」「粗光鋒」と呼ばれ先の透明に見える部分が長いほど良質な毛として、「羊毛筆」には欠かせないもの。
他の部分の毛も太筆・細筆を問わず筆の原料として使われている。
馬毛の場合、北アメリカ・カナダ産のものが、品質が良く、安定している。
馬は、栗毛・白毛・青毛の三種類の毛色があり、体の殆どの部分が、筆の原料として使われる。
特に、「尾脇毛」と呼ばれる尻尾の付け根に生えている毛は、弾力があり、毛先が鋭く尖っていて、剛亳筆や兼毛筆によく使われる。
胴の毛は、柔らかく光沢があって、先が細く滑らかですので、太筆の衣毛、細筆の芯や衣毛に使われ、栗毛馬の腹の毛は、薄茶色で柔らかく、腹毛と呼んで衣毛に使われているし、尻尾や鬣(たてがみ)は、太筆の根元に力毛として使いという。
かつて白鳳堂の化粧筆も、洋画を描く筆を転用しただけで、平らな筆先ばかりであった。
そこで、誰もが思い通りに素早く、美しく、簡単にメイクができるような筆を求め続けた。
そして昔ながらの手作業を大事にするとともに、均一な商品を量産できる態勢を確立した。
筆先の形を整えるため使われてきた木型の内側を改良し、熟練職人でなくても短時間で繊細な丸みを出せるようにし、独自製法として「特許」も取得した。
さらには、肌の温度に反応してなじみやすくなる化粧品に合った筆など、最新の美容技術に対応する筆を開発中という。
そして今や「HAKUHODO」ブランドは海外でも人気が高まり、その販路は今や世界に広がっている。
「氷上のチェス」とも呼ばれているカーリングは15世紀にスコットランドで発祥したとされている。
スコットランドではそれ以降も野外で盛んに行われていたようだが、スポーツとしてのルールは19世紀はじめにカナダで確立した。
カナダにはスコットランドランドからの移民が多く暮らしているからだ。
ソチの冬季オリンピックをはじめ国際大会で使用されているカーリング・ストーンは1個約20kg。
1チームが8個を使用するので競技を行うためには16個が必要だ。
これを持ち運ぶのは容易ではないので、競技会場で用意されたものを用いている。
このカーリング・ストーンにはスコットランドのアルサクレイグ島特産の密度の高い「花崗岩」が主に用いられている。
周囲3kmほどの小さな島なので自然環境を守るため採掘は20年に一度しか行われないという。そのためカーリングストーンは1個が10万円と非常に高価だが、100年以上使用できるらしい。
個人的にカーリング・ストーンから連想するのは、日本の囲碁で使う「碁石」である。
囲碁は日本でいつ頃始まり、「碁石」が作られたのは、いつ頃からであろうか。
大宝律令の中に碁に関する項目があるから、実際にはさらに以前から伝わっていたと思われる。
奈良時代には盛んに打たれていた様で、正倉院に碁盤「木画紫檀棊局」が収められている。
また、平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、「枕草子」「源氏物語」などこの時代の代表的な文学作品にもしばしば碁の描写が登場する。
碁石の素材については、733年成立の「風土記」碁石に関する記述が見られ、「常陸国風土記」に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。
さらに「出雲国風土記」に、島根県の「玉結浜」の記載があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。
そして、自然石の碁石は江戸期まで使用された。
現在「黒」は、三重県熊野市で産する黒色頁岩が名品とされ、「白」は「ハマグリ」の貝殻を型抜きして磨いたものである。
碁石の材料となる「ハマグリ」の代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。
文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取され、上物として珍重されたが、現在では取り尽くされている。
そして現在一般に出回っているものは「メキシコ産」だという。
バレーボールおよびバスケットボールの世界シェアNO1は、いずれも広島にある会社で、オリンピックの「公式ボール」が製作されている。
そのボール製作の源流を探ると、とても意外なことに砂鉄と木炭を使った日本古来の「たたら製鉄」にたどり着く。
ところでバレーボールは、ゴムのシートを成形機に入れて袋を作り、高圧の空気や硫黄で加工する。
糸で袋の周りを巻いて強度と反発力をつけ、最後に人工皮革や牛革などの天然皮革を貼っていくのが基本的な作り方である。
バレーボールシェア日本一の会社「ミカサ」の歴史をたどれば次のとおり。
1895年、地元出身の増田増太郎が英語を学ぼうとハワイに渡った。 勤務先のホテルで足音のしないゴム底靴に驚き、ゴム製造の技術を知る。
帰国後の1903年にゴム草履(ぞうり)の製造を始め、17年にミカサの前身となる増田ゴム工業所を設立した。
第1次世界大戦でドイツなどでの生産が停滞。広島はそれを埋める「特需」に沸いた。
戦後、原爆で焦土と化した広島で、増田ゴムと名前を変えた現在のミカサは進駐軍の指導で「運動用ゴムボール」の生産から再出発した。
では、戦後まもない日本でそれほど多くのゴムの供給がどうしてあったのだろう。
実はその秘密は、広島の安芸太田町の「加計(かけ)」という地域にとれる「砂鉄」にある。
北広島町内では古代から江戸時代にかけての製鉄場跡が約200ヵ所見つかっており、盛んに製鉄が行われていたことがうかがえる。
「加計」は出雲と並ぶ中国地方の「たたら製鉄」の中心地だった。
江戸時代の広島藩主・浅野家はこの砂鉄を原料に下級武士の手内職として「針つくり」を広めた。
その結果、長崎や京都への出荷で栄え、「広島針」は全国に知られた。
時代は下り昭和の初め、広島県のメーカーは中国やタイに大量の針を輸出していた。
行きはたくさんの針を積む一方で、帰りの船は空っぽ。これではもったいないとアジア各地で採取できる安い「生ゴム」を持ち帰ったところ、広島のゴム産業が伸びたのである。
例えば、軍手の通気性の良さとゴム手袋の滑りにくさを兼ね備えた「ゴム張り手袋」は、40年以上のロングセラーとなっている。
さてオリンピックの公式ボールとして採用された「ミカサ」のバレーボールだが、協会より「長くラリー」が続くものという要請を受け、従来12枚で貼っていたゴムを、指のひっかりが少ない8枚とし、レシーブに有利なものとした。
女子バレーボール監督の眞鍋政義は、ミカサの工場を訪問して、職人たちの話を聞き、新しい「ボールの特性」を研究した。
そして、主流だったジャンピングサーブよりも、「無回転ボール」の方が、相手のレシーブミスを誘発しやすいことを見出した。
ロンドンオリンピック、日本女子バレーの「銅メダル」の背後に、広島針とゴムの歴史があった。