博多駅前の「発見」

東京駅をでて皇居に向かうと、日比谷側の側面に「第一生命ビル」と書いた建物がある。
あれが終戦後マッカーサーがGHQ本部をおいた「第一生命ビル」かとすぐに気付くが、皇居にも首相官邸にも近く、確かにこの場所には利便性がある。
実は我が地元の博多駅から大博通りを博多湾側に向かうと祇園近くに「第一生命ビル」がある。
そこに、「加藤司書(かとうししょ)」という人物の歌碑があるが、加藤は福岡の「勤王派」の代表的人物として弾圧の末、この場所で切腹している。
さて、この加藤司書の歌はどのように作られたのか。1863年3月、宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿も京を追放され、福岡の太宰府の「延寿王院」で藩が預ることになった。
翌年7月、蛤御門の戦いで長州は敗退するが、幕府は長州を討つために、広島に各藩の藩兵を参集する。
藩主・黒田長溥(くろだ ながひろ)は「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という考えを元に、加藤に「建白書」を持たせ、徳川総督に提出している。
そして加藤司書と西郷隆盛が「参謀会議」を止戦へと導き、長州の恭順を条件に解兵が実現した。
この時に詠んだ歌が、第一生命ビルの歌碑「皇御国(すめらみくに)の武士はいかなる事をか勤むべき ただ身ににもてる赤心を君と親とに尽くすまで」である。
その後、福岡藩は、五卿を預かる微妙な立場から幕府の意向を過度に「忖度」したのか、1865年に「勤王派」の弾圧をはじめる。
世に言う「乙丑(いっちゅう)の獄」で、加藤司書はじめ野村望東尼など140数名もの維新で活躍が期待される有為な人材がことごとく断罪・流刑された。
さて、皇居前の第一生命ビルといい、福岡の勤王派の加藤の歌碑が、第一生命の「敷地内」にあることから、この民間保険会社は皇室と何か関係があるのではないかという疑念が湧きおこった。
結論をいえば、皇室と第一生命との間にはいかなる関係も見出すことはできなかったものの、この探索のおかげで「矢野恒太(やのつねた)」という興味深い人物を知ることになった。
矢野恒太は、1883年、岡山県医学校に入学した。そこは九州の学生が多く、高鍋の石井十次がいた。
年長の矢野は人望があり級長に選ばれ、石井は勉強熱心なクラスのリーダーだった。
学制変更で国立の第三高等中学医学部になり、矢野は四年生の時、学生同士が勉強する岡山医学会の結成を提案、第一号の会員になった。
この学校を24歳で卒業、恩師の紹介で大阪の「日本生命保険医」になった。
しかし、1892年に経営陣との対立から退社し、図書館に通い、保険制度と経済学の勉強に熱中。さらに勉学を深めるために渡欧し、ドイツの相互保険会社などで2年間保険実務を研修する。
帰国後、農商務省の嘱託職員として「保険業法」の起草に参画し、その後「農商務省保険課長」に就任している。
そこも3年で退職、1902年念願だった日本初の相互保険会社「第一生命」の設立に至った。
第一生命は大正に入り全国展開し五大生命保険会社の一角を占め、昭和になると保有契約高で業界二位となり、矢野は1946年まで三十一年間、社長、会長を務め保険業界のリーダーとして活躍した。
特に矢野が取り組んだのは結核対策で、結核は当時、年間8万人が死亡する「国民病」と呼ばれていた。
1913年、北里柴三郎が日本結核予防協会を設立、矢野は理事に就任した。
さらに矢野は1935年、財団法人保生会を設立、結核療養所の建設、早期発見、治療、相談などの事業に乗り出した。
1939年、官民あげての「結核予防会」が設立され、矢野は完成した結核療養所など保生会の全財産を寄付し予防会理事に就任する。
保険業界の先頭をきって結核対策に乗り出した矢野であったが、このころには財界でも一目置かれる経営者になっていた。
特質すべきことは「第一相互貯蓄銀行」(協和銀行を経て現在のりそな銀行)を設立したこと。
矢野は、医者・経済人であるばかりか、趣味人でもあり教育者であった。
我々に馴染みなのは、日本国民に数字により実態を理解することを普及させるため、年刊の統計解説書である「日本国勢図会」を刊行している。
この本は、1927年初版以来、終戦前後を除き継続発刊されている。
また、故郷への思いと同時に、「精神教育」の必要性を感じ、私財を投じて岡山市竹原に「三徳塾」を設立した。この「三徳塾」は、後に岡山県へ寄付され、現在の「岡山県立青少年農林文化センター三徳園」となっている。
竹原といえば、池田勇人首相やマッサンこと竹鶴政孝の出身地なので、彼らも「三徳塾」の影響とは無縁ではないかもしれない。
そして「論語」にわずかな解説をつけて「ポケット論語」を出版し、体験談をもとに書いた「芸者論」と共にベストセラーとなった。
「三徳塾」跡地に立つ顕彰碑には、「名利に恬淡、直言清行、数理に長じ文筆に達し」とある。

現在の博多駅から北西方向に徒歩5分ほどの「出来町公園」は、旧博多駅があったところで、最近「九州鉄道発祥之地」として整備されている。
そこにある鉄道の両輪のついた「モニュメント」には、福岡県令「安場保和(やすば やすかず)」の名前が刻んである。
この安場保和がどんな人物で、いかなる経緯で「福岡県令」になるかについては、その人脈の起点を遠く岩手県水沢にもとめなければならない。
ところで、岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)には、「三偉人」とよばれる人物がいる。
江戸蘭学者・高野長英、満鉄総裁・後藤新平、海軍大将・斎藤実の三人である。ちなみに、偉人ではないが小沢一郎も水沢出身である。
1870年ごろ、熊本細川藩から岩倉遣外使節団に参加した安場が帰国後、「胆沢県(岩手県)大参事」として在勤中、県庁の給仕に後藤新平や斉藤実らがいた。
後藤は、1857年仙台藩支藩の水沢藩の藩医の子として生まれ、後藤家は蘭学者・高野長英の「分家筋」にあたる。
質素ながらも学識高い武家に生まれた後藤は、遠縁の高野長英の存在を心に抱きながら、幼少時から漢学を学んでいる。
後藤は、斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務し、15歳で上京、東京太政官少史のもとで雑用役になった。
安場保和の目にもとまり、17歳で福島県の須賀川医学校にはいっている。
後藤にとって医学は、親族の高野長英への弾圧もあり複雑な思いもあったが、1876年安場が愛知県令となり、それに従い愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となっている。
後藤は24歳で学校長兼病院長となるなど目覚ましい昇進をした。
暴漢に襲われ後藤の治療をうけた板垣は、「医者にしておくには惜しい」といったという。その言葉どうり後藤は内務省衛生局に入り官の世界とも繋がりを深め、この頃、安場保和の娘と結婚する。
ちなみに後藤と安場家の妻との間にできた娘は岡山選出の衆議院議員・鶴見祐輔に嫁ぎ、そこに生まれたのが鶴見俊輔である。
さて、後藤新平の幅広い人物交流のなかで欠かすことのできない人物がいる。
明治・大正・昭和を通じて「政界の黒幕」と呼ばれた杉山茂丸(しげまる)である。
生涯官職につかず「壮士」ともよばれた杉山は、後藤より7歳年下になる。
杉山茂丸は山県有朋、井上馨らの「参謀役」を務め、「大風呂敷」と言われた点で共通する後藤と杉山に人的交流が生じたのは自然であり、後藤が42歳で「台湾総督府」民政長官になった時、杉山は35歳の若さであった。
そして、台湾統治、満鉄経営などの施策は、杉山が立案、後藤が実行者だとする見方さえある。
1864年福岡藩の武士の家に生まれた杉山茂丸は、若きころから政治に目覚め、伊藤博文暗殺を企てるも、本人に説得されて断念したこともある。
この杉山は、郷里・福岡の発展のために鉄道が必要だと訴え、東北における鉄道敷設計画の実績がある安場保和に注目、安場が福岡県令(知事)となるように働きかけた。
実際、安場が県令になることによって、九州鉄道をはじめ門司港整備などの北九州開発が推し進められていったのである。
九州における鉄道の開通は、博多~千歳川(久留米)間で、1872年「新橋~横浜間」開通に遅れること17年の1889年であった。
この安場保和は、面白い系譜の人でもある。東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺である。
その泉岳寺の裏手は、肥後熊本藩54万石の細川家下屋敷のあった場所で、「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板が立っている。
藩主・細川綱利は、義士に対し並々ならぬ肩入れがあったようで、自ら二度も義士の「助命嘆願」の訴えを行い、預かった17名全員を自藩に召し抱える腹積もりでいた。
しかし元禄16年2月4日、幕命を帯びた使者による切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた綱利は、「軽き者の介錯では義士たちに対して無礼である」として、17人の切腹人に対し、17名の介錯人を選定した。
大石内蔵助に対しては重臣の「安場一平」をあて、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。
明治時代に愛知県や福岡県の知事を務めた「安場保和」のご先祖こそ安場一平である。

博多駅前「博多口」のバス停留所が並んだ場所の周辺には、福岡国際マラソンンの優勝者の「足跡プリント」つまり足型がある。
歴代の優勝者の足跡の前に、「日本マラソンの父」といわれる「金栗四三(かなぐりしそう)」の言葉「体力、気力、努力」を刻んだ石碑があるが、道行く人々にはその石碑の存在は、なかなか目に留まらぬようだ。
石碑は大通りを挟んで朝日新聞社の向かいに位置するが、現在マラソンは、「福岡国際マラソン」という名前で呼ばれるが、マラソンが始まったころは、朝日新聞社がマラソンを後援していたので「朝日国際マラソン」と呼ばれていた時代があった。
平和台球戯場をスタートして、博多湾の北側にある雁の巣(がんのす)折り返しのコースで競われていた。
金栗四三は、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たした。
また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」を創案している。
金栗は、1891年、熊本県玉名郡春富村(現和水町)で造り酒屋に生まれた。
10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学。往復12キロの道のりを毎日走って通学した。
マラソンを始めたのは、東京高等師範の2年生の時からだが、その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによる。
1905年 玉名中学校(現玉名高校)に進学し、クラスでトップの優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていた。
1910年、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学し、校長の嘉納治五郎に見出される。
金栗は、日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。
当時の世界記録を27分も縮める大記録であった。
1912年、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなった。
金栗も日射病により、26、7キロ地点で棄権を余儀なくされる。スタートで出遅れた金栗は一度は最後尾になるが、その後疲れてきた他選手を追い抜き、17位まで順位を上げていった。
しかし、折り返し地点を過ぎてまもなく、急激な疲労に襲われた。
朦朧とする中26.7キロメートル地点でコースをはずれ、林の中に消えてしまう。
地元の人に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰ったため、正式な「棄権」の届出が本部に届いていなかった。
このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになった。
屈辱を抱いて帰国した金栗は、その雪辱を胸に抱きながら東京高等師範を卒業。研究科へ進んだ1914年、22歳の時に親戚の玉名郡小田村の池部家の養子となる話がまとまり、石貫村(現玉名市)の医者の娘と結婚する。
その後、東京府女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけていった。
ところが挽回を期した1916年第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のために中止、1920年第7回アントワープ大会では優勝を期待されながらも16位、
1924年第8回パリ大会ではすでに33才で、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で「棄権」している。
悲運のオリンピックランナーとして語り継がれている。
ところで、金栗が思ストックホルムムオリンピックにおい記録が出せなかったのは、シベリア鉄道での長期の移動と宿舎の劣悪な環境の中でコンディションの維持が出来なかったこと、夏の暑さに練習と経験不足、硬い舗装路面に足袋が破れヒザを痛める結果になったことなどが挙げられる。
当時は運動靴というものはまだ無く、地下足袋のような履き物で走った。オリンピック出場後、東京の足袋屋ハリマヤ黒坂親子に頼んで足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変わっていった。
ストックホルムで見た外国人が履くゴムを底に付けたシューズがヒントとなり、ゴム底の「金栗足袋」を開発し、多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走った。
金栗が3度のオリンピック出場で見た、世界のスポーツ競技の水準は想像以上であった。
とくに、女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘した。
1921年東京府女子師範学校に奉職すると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、1923年には関東女子体育 連盟を結成するなど、女子体育の振興に力をいれていく。
自らマラソンで全国を走破しつつ、チームで長距離を走るため、「駅伝」を発案し日本初の駅伝東海道五十三次駅伝や「箱根駅伝」を企画した。
スウェーデンの新聞(1962年7月31日発行)は、「1912年に行方不明になった日本人を発見した」と伝える。
ストックホルム大会での「棄権」の正式届は出ておらず、世界でもっとも遅いマラソンランナーとなった金栗だが、取材にきた外国人記者に対して「その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」とユーモアを交えて語った。
2019年のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は、金栗四三をモデルとした痛快ドラマである。
博多駅前の金栗四三の石碑を前に、福岡国際マラソンの歴代優勝者の名と共に、「消えざる日本人」の名を確認したい。