物々透視から見える

今、「もの」情報が視覚化しつつある。あるショップでは、携帯を商品にかざせば商品情報が表示されるという。
そのうち、原産地や製造過程の「動画」まで表示されても不思議ではない。仮に、そんな商品動画が見られるとするなら、モノとモノとの裏側に出会うことなき人々の「めぐりあわせ」や、面白い「共通性」などが浮上したりするのではなかろうか。
そうした視点でものごとを見ることを、ここでは「物々透視」とよんでみたい。
例えば、甲子園の高校野球で選手達の先導者として入場行進をするプラカードをもつセーラー服の女子高生達の姿。
ごくありふれたシーンだが、入場式でのプラカードを考えた人は、オリンピックの陸上競技における日本女子初のメダリストとなった女性。
一方、セーラー服を考案したアメリカ人女性は、女子生徒にも動きやすくバスケットが楽しめるようにという思いからであった。
プラカードとセーラー服の「物々透視」からみえるのは、考案した二人の女性の共通する思いである。
現在、日本ではサッカーやマラソンなどで女性アスリートの活躍が目立つが、日本にはかつて、女性が体育競技をすること自体、ある種の「偏見」と戦ねばならない時代があった。
人見絹枝(ひとみきぬえ)は、1928年初めて女子競技が認められたアムステルダムオリンピックに出場した。
女子800m走に出場した人見は、最後まで競り合った末に、見事「銀メダル」に輝いた。
オリンピックで初めて日本人女性がメダルを獲ったものの、日本では冷たい視線が待ち受けていた。
日本ではいまだ、女性が短いズボンを履いて素肌を出して、男の様に走るなど、もってのほかというような風潮があった。
それでも人見は、未来の後輩達・女子陸上選手達を守ろうと頑張りぬいた。
人見はその後も数々の大会に出場する傍ら、選手の育成や公演を行い、若い選手達を連れて海外遠征を行なうため懸命に働いた。
そして1931年、疲労がたまり体調を崩し、肺炎となりわずか24歳でこの世を去った。
短い生涯の中で、人見のスポーツ界における貢献は、オリンピックにおけるメダル獲得だけではなく、スポーツの世界に女性を参加させるべく、数々のアイデアを提案したことである。
現在、高校野球で当たり前のように目にするプラカードを持っての入場や、吹奏楽演奏、勝利者チームの校歌斉唱などは、人見の発案によるものである。
さて、現在の福岡女学院は1885年福岡市呉服町に「英和女学校」として生徒数二十数名で発足した。
その後、天神校舎・平尾校舎を経て現在地の福岡市南区日佐に1960年に移転した。
1915年にアメリカからエリザベス・リー校長が9代目の校長として着任した。
以後、途中帰国を含め計11年間、福岡の地にとどまり、中央区平尾(現在の九電体育館あたり)への校舎移転やメイ・クイーン祭(五月の女王)などの学園祭創設など、多くの足跡を残した。
新任のリー校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボールやバレーボールを指導した。
ところがこれが思わぬ不評を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマで、これでバレーやバスケットをやると、どうしても汚れてしまう。
「この間洗濯したばかりなのに、もうこんなに汚れてしまって!」ぐらいならまだしも、「すそを乱して飛び跳ねるているようでは、嫁のもらいてがなくなる」といった苦情まで寄せられた。
生徒達の表情はスポーツを通して日増しに明るくなるのに反比例して、悪評は日毎に増していった。
頭を抱えたリー校長は、着物とハカマに変わる「新しい制服」はないかと探し始めた。
いろいろ洋服屋をねたり、雑誌をめくったりしたが、なかなかいい制服は見つからない。
思案のあげく、リー校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日したおりにトランクに入れてきた「水兵(セーラー)服」を思い出した。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋のところに行き、リー校長持参の水兵服をモデルに試着品を作らせた。
そして保護者にも披露しつつ試作すること8回、ようやくリー校長の「GOサイン」が出て、生徒150人分を3ヶ月がかりで縫い上げた。
そして、このセーラー服姿は、街行く人々の注目を集めた。
やがて函館のミッションスクールからの照会があり、洋服屋の主人は北海道に1ヶ月の出張となる。
さらに東洋英和(東京)・プ-ル(大阪)・九州女学院(熊本)・西南女学院(小倉)などから続々とサンプルの依頼が届き、洋服屋主人はセーラー服づくりに東奔西走の日々を送ることになる。
エリザベス・リー校長が心血を注いだセーラー服のは全国の先駆けとなった。
物々透視してみると、毎年の高校野球の甲子園球場入場式において、出会ったこともない人見絹枝とエリザベスリーの思いが、重なりあうのがわかる。

明治の時代、料理と洗濯の世界において、それぞれ「フランス料理」と「ドライ・クリーニング」とりいれた出会ったこととてもない二人は、皇室御用という点で接点をもち、二人の店はともに発展し今も場所を変えながら存続している。
築地精養軒の発展の基礎をつくりあげた秋山徳蔵と日本橋に白洋舎を創立した五十嵐健治である。
さて、「宮中晩餐会」の模様がテレビで一瞬中継されることがあり、壮麗なシャンデリアや、食卓を飾る美しい食器を垣間見ることができるのだが、一体どんな料理が出ているのだろうか、と思う。
明治維新後、長崎、神戸、横浜が次々に開港するとそこの外国人居留地に役人や商社の人が使用するホテルも少しずつ建っていった。
そして、そこで働く日本人料理人は、西洋料理の技術を着々と身に付けていた。
しかし、訪れた外国の要人を泊めるホテルや、彼らをもてなす「西洋料理店」は東京にはいまだなかった。
それを国恥として、当時岩倉具視の側近であった人物が、洋食店とホテル経営に乗り出すことになった。
そして、1872年に我が国初の西洋料理店「築地精養軒」を創設したのである。
築地精養軒創設の後、上野公園の開設とともに上野精養軒も開かれ、両精養軒では、開業当時から、フランス人を料理顧問におくなど、本格的なフランス料理への取り組みをはじめていた。
そしてその精養軒の黄金時代を築いた鈴本敏雄の弟子にあたるのが秋山徳蔵である。
1888年、秋山徳蔵は 福井県武生の比較的裕福な家庭の次男として生まれた。
秋吉は東京から来た軍用の料理人と知り合い、洋食をはじめて食べさせてもらう体験をした。
そして、その味が忘れられず、東京へ上京し西洋料理の道をひたすら究めようときめた。
秋山は精養軒はじめいくつかの名店で修行した後に、1909年に料理の修行のために21才で渡欧した。
当時、料理のために留学する日本人など皆無だったといってよい。
秋山は言葉のハンディにかかわらず頭角を現し、フランスでシェフと呼ばれるところまでになる。
そして、大使館より「天皇ために料理をつくらないか」という話があり、1913年に帰国して、宮内庁内での料理人としての歩みを始めることになる。
秋山は弱冠25才で宮内省大膳寮に就職し、1917年には初代主厨長となり、大正・昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大礼の賜宴、宮中の調理を主宰した。
そしていつしか、人々は秋山のことを「天皇の料理番」とよんだのである。
現在のクリーニング・チェ-ン白洋舎の社長は五十嵐丈夫氏で、この五十嵐丈夫の父親が白洋舎を創設した五十嵐健治である。
作家の三浦綾子が100通を越える手紙のやりとりを元に小説「夕あり朝あり」(1987年)を書いたことにより、彼の生涯がはじめて知られた。
五十嵐は新潟県に生れたが、高等小学校卒業後に丁稚や小僧を転々とし、日清戦争に際し17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して中国へ従軍した。
三国干渉に憤慨しロシアへの復讐を誓い北海道からシベリアへの渡航を企てるが、だまされて原始林で重労働を強いられるタコ部屋へ入れられた
脱走して小樽まで逃げた時、旅商人からキリスト教のことを聞き、市中の井戸で受洗したという。
上京して、三越(当時は三井呉服店)の店員として「宮内省の御用」を務めるが、そのことが彼の人生を大きく変えることになる。
宮内省をはじめ、宮様、三井家など上流階級の顧客を紹介してもらえた。
五十嵐は三越を通じて学者を紹介してもらい、当時の日本では未完成だったベンゾールを溶剤にして石鹸に似た物質を入れると、水溶性の汚れがよく落ちることに気づいた。
三越で10年間働き、29歳の時に独立し1906年に白洋舎を創立した。
独力で日本で初めて水を使わぬ洗濯法つまりドライクリ-ニングの開発に成功した。
五十嵐は洗濯という仕事が人々への奉仕であり、罪を洗い清めるキリスト教の精神につながると考え、洗濯業を「天職」にしようと決心したという。
1920年白洋舎を株式会社に改組した時、その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」をあげている。
また本社の近くや多摩川工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員にキリスト教の福音を伝えた。
五十嵐は1972年に亡くなったが、その2年後に秋山が亡くなっている。
秋山が料理に出す際のテーブルクロス、シェフの服などは当然に、五十嵐の白洋舎でドライクリーニングされ純白になって戻ってきたのであろう。
西洋料理とテーブルクロスを「物々透視」してみると、互いに名前も経歴知らぬ秋山と五十嵐の人生が、「天皇御用達」という一点でクロスしていていたことがわかる。

鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。
幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家であった。
鉄川家がいつ頃から建設業にかわったのかは正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が青方得雄寺を建立した事実が同寺の棟札に記録されている。
明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に装飾としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。
15年ほど前に個人的に愛知県の「明治村」を訪れたことがある。
そこで、寺院建築と教会堂建築の「習合」形式の初期の建造物・「大明寺聖パウロ教会」をみることができた。鉄川家が最初に携わった初期の教会堂建築とはそのようなものであったであろう。
鉄川家のもう一つの「転機」は、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことにあった。
これをきっかけに鉄川組は神父から西洋建築の手ホドキを受けて田平教会のリブヴォルト天井の建築方法などを学んだという。
1906年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業「鉄川組」を創業したとされている。
与助は家業をひきついで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきた。
その工事数はカトリック教会に限っても50を越えその施工範囲は長崎県を主として佐賀県、福岡県、熊本県にも及んでいる。
そして長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など今もそれぞれの地方の観光資源となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も鉄川組によって最終的に完成された。
特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にさらに大きな技術的な飛躍を与えた。
浦上教会の完成後、鉄川与助は福岡県大刀洗町の今村教会の設計と建設をはじめ最数的に双頭の教会を完成させた。
今村教会にみられる二頭の教会は日本では数少なく、鉄川与助の技術が西洋キリスト教建築の水準に到達したことを示している。
鉄川与助はその人生の大半を教会堂建築にささげ1976年97歳でなくなった。
さて、教会堂といえば賛美歌の伴奏をするためのオルガンやピアノが必ずといっていいほど一台は置かれている。
そして、日本国産オルガン製作は意外な展開から生まれた。1851年山葉寅楠(やまはとらくす)は紀州で生まれた。
徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
1871年単身長崎へ赴き、英国人技師のもとで時計づくりの勉強を始め、その後は医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に医療機器についての学んだ。
1884年、医療器械の「修理工」として静岡県浜松に移り住み、医療器械の修理、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をたてた。
或る時、浜松尋常小学校で外国産のオルガンの修理工を探していた時、校長は山葉のうわさを聞き彼に修理を依頼したのである。
校長の依頼を受けて修理に出向いた山葉は、ほどなく故障箇所をつきとめるとおもむろにオルガンの構造を模写しはじめた。
実は山葉の脳裏にオルガンの国産のビジョンが広がっていったのである。
音楽の都・浜松の種は、この時に播かれたといってもよいかもしれない。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの試作を開始した。
試行錯誤2ヵ月で国産オルガン第1号が完成し、学校に試作品を持ち込んだが、残念ながらその評価は極めて低かった。
そこで、山葉と河合の二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で専門家に教えを請うことにした。
当時はまだ鉄道未開通で二人は東京まで実に250kmを天秤棒でオルガンをかついで運び、「天下の嶮」とよばれた箱根の難所も超えて、それを記念する碑が箱根の峠に立つ。
二人は、音楽取調所の伊沢修二学長の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
そして山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも国産第2号オルガンをつくり、伊沢修二は、この第2号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると太鼓判を押した。
山葉はその後単身アメリカに渡り、「ピアノの国産化」にも成功している。
さて、鉄川が建設した多くの教会堂には賛美歌とともに、ヤマハ製(山葉)のオルガンやピアノの音色が響いているにちがいない。
「教会堂」と「オルガン」の物々透視から見えるのは、鉄川与助と山葉寅楠の共通する「国産化」への執念である。

わたくし鉛筆は奇跡の複雑な組み合わせである。つまり樹木、亜鉛、銅、グラファイトなどを組み合わせたものである。
だが自然の中に現れる奇跡だけがわたしを作ってるのではない。
もっと驚くべき奇跡がわたしの身に起こっているのだ。それは人間たちのクリエイティブなエネルギーの集約ということである。
何百万ものちっさなノウハウが、人間たちの必要と欲望に応じて、自然に、自然発生的に、誰の指図も受けずに(!) 、集約されているのだ。
神だけが樹木をつくれるというなら、神だけがわたしをつくれると言ってもいいはずだ。
人間が指図して何百万ものノウハウを集めてわたしという存在をつくる、ということはできない。これは人間が無数の分子を集めて一本の樹木をつくることができないのと同じである。
それは日本の女優第一号・川上貞奴(さだやっこ)の立場と似ていた。
1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で「女形」が死亡する事態が生じた。
興行主から女の役は女性がするべきで「女形」は認められないと拒否されたため、急遽代役を務めたのが、日本初の「女優誕生」となったのである。
その貞奴が「自分ができなければ、女性が俳役になる道は開けない」と語っていたが、人見も同じように「自分が成績を残さなければ、女性選手の道はない」といっていたという。
「ナデシコ」第一号となった そして、女学生が動きやすいように「セーラー服」が生まれたのは、水平が着た服「セイラー」をモデルにしたものだ。