「日本」売り

近年、欧米に日中を加えたインフラ輸出競争、東南アジアやアフリカなどに対する、高速道路、地下鉄、高速鉄道などのインフラ輸出競争が激しい。
しかし、現地の人にとってそれが真に必要なものか、誰が必要なのか、貧困者の生活向上に資するもなのか。
大企業や政治家を儲けさせるための直接投資(技術移転)ではなく、貧困に苦しむ民衆の生活を向上させ真に役立つ技術とは、そうしたインフラに体化した技術とは異質なものではなかろうか。
例えば、水質浄化施設やトイレ施設など、地域の伝統や歴史を犠牲にせず、人々の生活に馴染むものなら、よいインフラといえる。
かつて日本人は自然をたくみに取り入れていれたアイデアや知恵にあふれていたのに、それを忘れて原発や高速道路のインフラ競争に走るのは、日本で生じた諸々の「闇や影」をも、他国に輸出するようなものだ。
それとは対照的に、中村哲をリーダーとする「ペシャワール会」のアフガニスタンの農村復興の活動がある。そのなかで日本の「水車」が生かされている。
朝倉の水車は、2017年の大雨による水害で利用不能となっていたが、ようやく再稼働となった。
このような電気もエンジンも使わない水車を約250年前の江戸時代に作り上げた先人の努力や工夫には脱帽というほかはない。
水車は、線香用の杉の葉の粉砕や澱粉工場の動力、製茶、製紙等さまざまな用途に使われていた。
朝倉の水車群は堀川用水と呼ばれる潅漑用の水路に沿って設置されている。
今から約250年前の宝暦(1760年代)にはすでに水車があったらしいと言われているが、ここの水車群の中で最も有名な「菱野三連水車」は寛政元年(1789年)にそれまで二連の水車だったものが一基増設され「三連」になったという記録がある。
市によると、1789年には存在していたという記録があり、現役の大規模水車としては日本最古。
1990年に堀川用水とともに国史跡に指定された。山田堰や水車の技術はアフガニスタンで広大な砂漠を農地につくりかえる「緑の大地計画」のモデルにもなっている。
また、タイには山岳民族あるいは高地民、山地民と呼ばれる少数民族が北部山間部を中心に住んでいる。
カレン、リス、ラフ、アカ、ヤオ、モンなど大別して10種の民族が現在では約100万人といわれている。
もともとタイの住民ではない後住民族がほとんどで、この100年間に山伝いに、あるいは川を越えて、政治的、経済的な事情により、ミャンマー、ラオスから入ってきた人々である。
それぞれに民族の不幸を背負ってこの地にやってきたのであろうが、興味深いのはそれぞれ独自の伝統文化・言語を持ち、特にその民族衣装はそれぞれに特徴があり、意外に華やかであることだ。
しかし、中にはアヘンの原料であるケシを栽培して生計を立ててきた人々もいたが、現在ではケシの栽培も、森林伐採と山焼きによる耕作地の開拓も禁止されている。
多くは、不安定な収入で、貧しい家庭も多く国籍を持たない人が3割をしめ、タイ語が不自由な人も多いため、かろうじて生計を立てている感じである。
まだ村に学校のないところもあり、小さい頃から親元を離れ、民族の伝統文化を受け継ぐ機会を持たない子供たちや、ふもとで仕事を転々として、自分を見失う若者も増え、山岳民族としてのこれからの生き方が問われる。
そんなタイ北部の山岳少数民族で「村の救世主」としてあがめられている日本人がいる。
チェンライの山の中にあるルアムジャイ村を変えた和歌山県で農業法人に勤める大浦靖生氏である。
今から10数年前、青年海外協力隊でタイ北部の山岳地帯の貧しい村を訪れた大浦氏は、現地の村人が3度の食事もろくにとれずに、若い働き手は村の外に出て出稼ぎに行かなくてはいけないことを知った。
ところがある日、村に梅の木があるのを発見した。
村では日本と違い梅を食べる習慣がなく、梅の実はそのまま放置しているだけであった。
大浦氏は、自分が日本から持って行った梅干しを村人に食べさせて、それを作ることを激しく勧めた。
初めて食べた梅干し、村人はショッパさと酸っぱさに驚く。
こんなものを作ってお金になるナド全く信じなかった。
それでも大浦氏は一生懸命村人を説き伏せ、「梅干し」の作り方を一生懸命教えた。
そして青年海外協力隊の期限がきて、大浦氏は日本に帰国した。
村には電話もなく、大浦氏は村がその後どうなったか、全く知るら便(よすが)さえなかった。
ところが、村で作った「梅干し」は、タイの首都バンコクなどのスーパーで日本人向けの商品の梅干しの中で、1番人気の商品にまでなっていた。
梅干しを作った収入で、貧しい村の建物の屋根は茅葺きから瓦葺きになり、テレビやバイクやパソコンまで買えるほどに、村の暮らしは豊かになっていたのである。
最近、民放テレビ局の尽力で、ルアムジャイ村の村長と梅干作りのリーダーが和歌山にやってきて、大浦氏と感動の再開を果たしている。
1人の青年が落とした「種」がこんなにも大きくなっていようとは。

日本人とっての「あたりまえのこと」が世界で価値を生んでいる。
例えば、各地にある派出所、宅配やコンビニ、健診車、学習塾など、モノとサービスを「パッケージ」したものを売り込むことなどである。
それはとりもなおさず「日本式」を売りこむことだ。
今、中国では「スーパー銭湯」で人気となっている。
中国の家庭ではシャワーだけの浴室が一般的で、入浴施設も多くは水質や衛生面に問題がある。
そこで、日本から進出したスーパー銭湯のきれいなお湯の湯船にゆったりつかれるため人気になっている。
チベットではもともと医療機関が少なく、日本の病院が設計・開発した特別な「健診車」が活躍している。
健診車はバス車両の中に身長・体重に始まり、視力や聴力、そして心電図やエコーまで数多くの検査を効率よく受けられるよう日本製の検査機器を「装備」したものである。
時に、首都ラサから300キロ離れた中学校の先生の健診をするために出動したりしている。
運営しているのはチベットの中心地ラサの病院だが、日本の病院がパートナーとなって、送られて来たデータの分析・診断し、健康指導まで行っているという。
ベトナムでは、給食サービスで「食中毒」がたびたび発生し、調理現場の「衛生管理」が問題となっている。
そんなベトナムで、日本の大手給食サービス会社が、この日系企業の社員食堂の運営を受託している。
新たなメニューをふやし栄養のバランスも抜群で、味もさることながらソレ以上に高い評価を受けているのが、日本式の厳しい「衛生管理」である。
またベトナムでは、小学生の間でも「肥満「が増え社会化している。
日本の「味の素」は、進出して20年以上になるが日本の「食育」を参考にした栄養バランスに配慮した「給食メニュー」のレシピを作った。
そして、ホーチミン市内すべての公立小学校に無償で配布し、子どものころから食習慣を改善する取り組みに一役かっている。
そのレシピにウマ味調味料やマヨネーズを使い、小さい頃から「味の素」製品の味に慣れ親しんでもらうというネライもある。
また、インフラの面でも日本人が重視してきた「安全」「清潔」「快適」を実現するシステムを輸出しようという動きが加速している。
新興国では人口増加を受けて地下鉄などの整備が急がれている。
ベトナム・ハノイ市で2015年にも開業する都市鉄道で、運営や維持管理を支援してほしいという要望があった。
鉄道が整備されていないベトナムのような新興国は鉄道の運行会社そのものが存在しない。
運賃や運行計画、保守、運転士の教育まで、日本の鉄道会社が当然のように担う業務を一から教え込んでいく必要がある。
また分刻みどころか秒キザミに近い列車運行の正確性には「スジ屋」といわれる人々の存在がある。
JRや東京メトロのように、複数の路線が乗り入れる首都圏をはじめとする広大な鉄道網、一括したシステムで管理できる運行ノウハウは、これから路線拡張が見込まれる新興国で真価を発揮することだろう。
インドネシアのスラバヤ市では、「タカクラ」と呼ばれる家庭の生ゴミを堆肥にする技術がある。
タカクラとは、北九州市内の企業の技術者、高倉弘二氏が開発した「高倉式コンポスト」をさしている。
高倉氏はスラバヤの家庭を一軒一軒訪ね歩き、コンポストの技術を助言して回った。
高倉氏の熱意は地元住民の絶大な信頼をつかみ、今では「高倉式」はスラバヤ市内の3万世帯に普及している。
その結果、スラバヤでは生ゴミの量が大幅に減るとともに、市民の環境意識も向上したと言われている。
また北九州市は13年前からスラバヤ市の職員を研修生として受け入れる人材交流を続けていている。
北九州市で研修を受けたスラバヤ市職員は21人にのぼり、このなかには、当時美化局長だった現在のスラバヤ市長も含まれているという。
こうしたことは、「官民連携」で深刻だった公害を官民一体で克服したという「強み」があったためだ。
もう1つの強みは、30年以上にわたって環境面での国際協力を続けてきた実績で、公害を克服する過程で、市内企業には様々な環境技術やノウハウが生まれたという。
そして「健康問題」は自治体が入り口にあり、問題解決の努力を続けたために日本的生活インフラのノウハウは地方自治体に、コソ蓄積されているので、ソレを生かさぬテはないということだ。
北九州市は今、スラバヤでゴミ処理だけでなく、省エネに水道事業、それに都市交通の4つの分野にわたる生活インフラの「パッケージ輸出」を進めようとしている。
北九州市が独自に開発した「高度浄水処理装置」は、ベトナム・ハイフォンに導入された。
「日本式」の安全・安心で快適な生活インフラを「街ごと」移転しようという「壮大な試み」ともみえる。

インドに行った日本人は、右を見ても左を見ても、日本で見慣れたスズキの「S」のマークのついた車を見て驚かされる。
そこに一人の日本人の奮闘がある。
鈴木修は大学卒業後、別の企業に勤めていただが、1958年、2代目社長の鈴木俊三の娘婿となるのと同時に、28歳の時にスズキに入社した。
静岡県の浜松には、地元の浜松工業学校の卒業生が、戦争からの復員後、ホンダに続けとばかり次々に会社設立をしており、スズキもその一つだった。
鈴木は、30歳の若さで新工場を建設するプロジェクトを任され苦労が続いた。
1978年に、社長に就任するものの、低価格の軽自動車は、高度成長が進むにつれて、本格的な乗用車が求められ、軽自動車の市場は低迷した。
ある日、かなり多くの人が「荷台のついた軽トラック」で通勤しているのに気がついた。
話を聞くと、社員の多くは休日に畑で野菜を作り、出荷する時に軽トラックを使うという。
そこで、乗用車として開発されていたアルトを、後部に荷物を置くスペースをもつ「商用車」として売り出すことにした。
「アルト」という名は、「秀でた」という意味のイタリア語。鈴木は発表会で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利なクルマ」と語って、会場を沸かせた。
当時、軽自動車は60万円以上だったのが、47万円としてそれで利益がでるよう徹底的にコストダウンをはかって、軽自動車市場を蘇らせた。
スズキの「低コスト化」は、鈴木自ら工場を隅々まで歩くことにより徹底された。
灯りが必要なら天窓を開けて、日の光を取り入れ、電動のコンベアがあれば、重力式の滑り台が使えないかと考えさせる。
また社員に「1部品につき1グラム軽く、1円コストを下げよう」をスローガンに、ムダを少なくして価値ある商品を安く消費者に届けるのをメーカーの使命だと言い聞かせた。
こうした「低コスト」化への真剣な取り組みが、「インド市場」で花開くことになる。
1982年、スズキはインドへの進出を決めるが、それは一つの広告との運命的出会いに始まる。
パキスタン出張中の社員が、飛行機の中で現地の新聞を読み、「インド政府が国民車構想のパートナーを募集」という記事を見つけた。
その報告を聞いた鈴木は、「すぐにインド政府に申し込んでこい」と指示した。
なにしろ日本では最後尾のメーカーともいえる状況なので、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」という気持ちからだった。
ところが募集は締め切りで断られたが、鈴木は「セールスは断られたときからだ勝負」と社員にはっぱをかけ、3度め訪問でようやく認められた。
しばらくして、インド政府の調査団がやってきた。彼らは、当然、他の日本メーカーとも話し合っていたが 真剣に話を聞いてくれた社長は、ミスター・スズキだけだったという。
実は、「日米自動車摩擦」が深刻化していて、日本の大手メーカーはインドのことまで考える余裕がなかったというのが真相なのだが。
そして「基本合意」で、インド側の責任者は日本的な経営で構わない。全面的に任せると言ったが、実際にできかけの工場に行って見ると、幹部用の個室が作ってある。
「事務所のレイアウトは日本流でやるはずだ。こんな個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは絶対認めない」と、できあがっていた壁をすべて取り払わせ、大部屋にした。
昼食も労働者たちと一緒の食堂でとるという鈴木に、インド人幹部たちは非常な抵抗を示した。
鈴木は率先垂範で、毎月インドに行っては、昼食は社員食堂に行って、従業員と一緒に並んで順番待ちをした。
冷ややかな目で見ていたインド人幹部たちだったが、半年もすると一緒に並ぶようになった。
幹部たちは「掃除などは、カーストの低い人の仕事だ」と言うが、スズキ流では、幹部も作業服を着て、掃除もやる。
言うことを聞かなかない幹部達に鈴木は怒って、「工場運営はスズキの主導でやることになっている。それができないなら、インドにおさらばして日本に引き揚げる」といってはばからなかった。
そのうち、幹部たちの仲裁によって、リーダー格の人々が作業服を着て、現場のラインに出て行くようになった。つまり「日本流」が浸透し始めたのである。
1983年12月、工場のオープニング・セレモニーには、インディラ・ガンディー首相も駆けつけた。首相は「スズキがインドに日本の労働文化を移植してくれた」と称賛した。
また、この日は首相の亡き次男の誕生日だった。次男は大の車好きで、「国民車構想」をぶちあげ、自ら工場建設を始めたのだった。
しかし、次男は飛行機事故で不慮の死を遂げていた。
その死による構想の中断が、スズキの社員がみつけたアノ「インド政府が国民車構想のパートナーを募集」の広告の背景にあったのだ。
そして、ガンディの次男設立の工場を引き継いだのが、スズキのプロジェクトだったのである。
アルトは、その意味でも「インドの国民車」として深く根付くことになる。